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魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-12-
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Last Season  魔法のコトバ -12-

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4時間目のチャイムが鳴るのと同時に私は駆け出した。
そのまま迷いもなく屋上へと続く階段を登る。
ドアノブに手をかけてそれを開けた瞬間、眩しい光が目を覆って思わず瞼を閉じた。
そのままドアを開け放って、光に逆らってそっと目を開ける。
抜けるような空の青と、光を吸った白い雲が眩しい。
ようやくそれに慣れて視線を泳がすと、屋上の遥か向こうに目的の人を見つけた。
でっかい体をコンクリートの地面の上に投げ出して、顔の上には光を遮るようにスポーツ雑誌。
風に流れて穏やかな寝息が聞こえてくる。


なんて呑気に寝てるんだろう。
彼の寝顔を覗き込みながら、私はそっと耳を澄ませる。
昼休みを迎えて次第に校内がざわめいてくる。
空を縫って微かに流れてくる雑音の中、聞こえてくるのは蒼吾くんの穏やかな寝息。
なんだか起こすのがもったいなくて、膝を抱えてそれを覗き込んだ。


「……園田」


「え…?」


間抜けな声を上げて聞き返した瞬間、お腹の上に置かれていた大きな手のひらが、がっと私の腕を捕まえた。


「ひゃぁぁぁっ」


突拍子もない声を上げて、思わずその場に尻餅をついた。
痺れるような衝撃が体を駆け上がる。


「…ったぁ…いっ」



痛みに思い切り顔が歪む。





「やっぱ園田か。すっげぇ声」
小さく肩を揺らしながら、顔の上に乗せた雑誌をずらして蒼吾くんが私を見上げた。
意地悪そうに口の端をにやりと持ち上げて笑う。

「もう…っ」

起きてるんだったら言ってよ。
ほんとにびっくりしたんだから。
私は打った腰元をさすりながら拗ねたように頬を膨らませた。




「私じゃなかったらどうするの?」
「わかってたよ、園田だって」
「……なんで?」
「足音が優しいから。起こさないようにゆっくり近寄ってくれたろ? 涼や日下部じゃ、ありえねぇ。容赦ねぇからな」
アイツらの俺に対する扱い、結構ひでーよ?って。
苦笑いする蒼吾くんの言葉に何となく想像がついて、思わず笑ってしまった。





「もしかして探した?」
「たぶん、ここだと思ってた」
「…そっか」

柔らかく言葉を落として、大きく空を仰ぎ見る。
穏やかに流れる春の風が光を吸った白い雲をさらう。
こんな天気のいい日は、蒼吾くんはたいていここにいる。
青い蒼い空の下に。



「あ…飛行機雲─────」


仰いだ空の彼方に一筋の白い軌跡。
青い空の海を泳ぐのはとても気持ちが良さそう。





「佐倉くん、もう空の上かなぁ…」
ぼんやりと呟いた言葉に。
「どーだろな」
蒼吾くんは見上げた視線で飛行機を追って、眩しそうに目を細めた。







今日、凪ちゃんは学校に来なかった。
先生は風邪だって言ってたけれど。本当の理由を知っているのは私と蒼吾くんだけ。
「委員長のくせに、サボるなんていい度胸じゃん」
嫌味な言葉とは裏腹に、見上げる横顔は穏やかに優しい色を滲ませる。
素直じゃないんだ。


ふと。
制服のポケットに入れた携帯が震えて着信を知らせる。
「…凪ちゃんからだ」
開けたメールの内容に思わず笑みが零れる。
「…何、ニヤニヤしてんだよ」
不審そうに眉を寄せて蒼吾くんが私を覗き込んだ。
嬉しいざわめきが胸の奥で音を立てて納まってくれない。





「あのね…」

それを蒼吾くんにも知ってほしくて、そっと耳打ちした。

「…げっ。マジで?」


告げた言葉に小さく驚いて。
「アイツ、やっぱ食えねぇヤツ」
悪態をつくように笑った。
「でも、ま。いいんじゃねぇの?俺は好かんけど、アイツは日下部を大事にするよ。絶対─────」
「うん」
蒼吾くんの言葉を噛み締めるように、私はどこまでも青を続かせる空を見上げた。
きっとこの広い空の下で、凪ちゃんも同じように空を見上げてるのだろう。
青に溶ける飛行機の軌跡をどこまでも追って。





「それ、ケータイ。番号、教えてよ」
戸惑い気味に首を傾げると、蒼吾くんはふわりと視線をこちらへ向け直して言った。
「俺、園田の携番もメアドも知らねぇ」
「あ…」
私もだ。
長く同じ時間を過ごしてきた気がするのに、お互いの携帯の番号さえ知らなかったなんておかしくって笑っちゃう。
蒼吾くんを見上げると、顔の横で携帯を軽く振りながら笑ってた。
鮮やかな藍(アオ)の携帯がキラリと光を跳ね返す。





「赤外線ってやれる?」
「ん…。たぶん」
どうやってやるんだっけ?
電子機器にひどく疎い私は、それを探して闇雲にボタンを探った。




「う…わっ……ぷっ…」

春の突風が屋上を駆け抜けた。
風に煽られて、私の長い髪が大きく空にさらわれる。
セーラーカラーまで背中から捲れ上がるものだから、私は慌てふためいてそれを手で押さえつけた。
隣でプッって吹き出す声がした。



「…なに?」
今、笑わなかった?
「それ。ライオンのたてがみみてぇ」
くくっとおもしろおかしそうに肩を揺らす。
「もうっ」
笑いごとじゃないんだからね。
エスキモーとかライオンとか。
もうちょっとマシなたとえってないの?
的を得ているところが妙に勘に触るんですけど。
貞子、とか言われないだけマシなのかな。
蒼吾くんの発言に頬を膨らませながら、それでも止まない春一番に背を向けて風に攫われる髪を押さえつけた。
「押さえててやろうか?」
笑いを含んだ声が近づいて、そっと髪の一束が掬い上げられた。
視界が明るくなって、ホッと息を吐き出す。





「いつから伸ばしてんの?昔、もっと短かったよな」
「4年生の時ぐらい…からかな」


私の髪は極端に伸びるのが遅い。
時々、毛先を揃える程度。




「そろそろ切っちゃおうかな」
ふと漏らした言葉に。
「え。なんで?もったいねーじゃん」
蒼吾くんが拗ねたように唇を尖らせて。
「だってこれ、出会った時のまんまだろ?」
無邪気な笑顔を浮かべて私を覗き込んだ。



トクン、と。胸が跳ねて。鼓動が急速に加速した。
ひどく近くで蒼吾くんが覗き込んでいることに気付いて、じっと見つめるそれに耐え切れなくなった私は逃げるように携帯に視線を返した。
風に乗って流れてくる微かな彼の匂いに。
昨日、優しく抱きしめてくれた感触と体温が鮮明に思い出された。
慣れない甘い沈黙から逃れるように携帯のボタンを探って、そこに目的の項目を見つけたことで安堵の息を漏らして顔を上げた。




「赤外線受信、あった─────」





そう言って顔を上げた瞬間。
風が止まった。
え、と思った時には驚くほど近くで蒼吾くんと視線が絡まって。
そのまま。
とんって、唇が触れた。
あまりにも急だったから、私は身構えるよりも前に、何が起こったのかわからなくて、目を何度もパチパチと瞬かせた。











「……え…?」


全ての動作を一瞬忘れて。
その一言を漏らすことでやっと自分の身に起こった出来事を理解した。
甘く痺れるような感触が唇に残る。
間近で覗き込んだ顔がじっと私を見つめた。
鼓動がものすごい速さで走り出す。
顔が一気に紅潮して恥ずかしくて俯きたいのに、絡まった視線が外せない。
鼓動の音が空を伝って、蒼吾くんに届きそうだって思った。






「思い出した。初めてキスした時のこと」


私を見つめた顔が、ふっと表情を緩めた。
「顔をくしゅくしゅにしてさ、目に涙をいっぱい溜めて見上げる園田の顔が強烈に焼き付いてて。俺、ちょっとトラウマなんだけど…」
力ない苦笑とともに、蒼吾くんが本音を吐き出す。
「日下部は“気持ちのこもってないキスなんてカウントされないわよっ!”とか叫ぶし。俺、めちゃくちゃ気持ちこもってたんだけど…。好きなやつの唇を他の男に奪われるぐらいなら俺が!─────って。今思えばめちゃくちゃガキだよなぁ」
俺、サイテーって。
髪をクシャっと掴んで息を吐いた。
「守ってやる方法なんて他にもいくらでもあったのに」
でも。
気付いたら止まらなくなってたんだって、照れたような顔で蒼吾くんが教えてくれた。
「あんな人前で衝動だけみたいなキス。嫌だったよな。ごめんな…」


私は首を横に振る。
ちぎれてしまうんじゃないかって思うぐらいに。
そうしないと涙が溢れて零れてしまいそうだったから。

蒼吾くんの精一杯な行動の意味を。
私はずっと勘違いしていたままだった。
こんなにも蒼吾くんは気持ちに正直に接してくれていたのに。






涙ぐんでしまった私を見て、蒼吾くんが優しく頭を撫でた。
「園田、最近泣きすぎ」
「いいの。嬉しい涙は、いいの…」
小さく呟く私に、そっか、って嬉しそうに笑って。
また頭を撫でた。




「な。あれってやっぱカウントされてねぇの?」
「されて…ない」
「〜…っ、だよなぁ〜」
鼻を啜り上げながら答える私の言葉に、がっくりと肩を落とす。
「わかっちゃいたけどさ、やっぱ本人の口から聞くとかなりへこむ」
「…トラウマ?」
「トラウマ。…って、お前が言うなよ〜」
怒ったように私の頭を小突いて困ったように笑うと。
その目がふと、真剣さを灯した。
私を真っ直ぐに見つめて、気持ちを覗き込むように柔らかく微笑んだ唇が。





「…な。も一回してもい?」

優しく聞いた。





ふたりをとり巻く空気が溶け合って。
再び合わさった視線の間で、空の静けさがそっと鳴る。
鼓膜を揺らし続けるその音を伝って、蒼吾くんの想いが聞こえるようで。
照れ隠しみたいにして、そのまま俯いた。
だって。
断る理由なんてどこにもないもの。



真っ赤になって、私が頷くのと同時に。
返事を待つ時間さえ惜しむように手が伸ばされた。
ビク、と。ほんの一瞬。
体を揺らした私の緊張を包み込むかのように、蒼吾くんがそっと頬を包み込む。
おでこに。
頬に。瞼に。
優しいキスを落とす。
温かく包み込んでくれる手のひらは、何度も豆がつぶれて分厚くて。
ごつごつしていてちょっぴり痛いけれど。
それでも私の全てを包み込んでくれる優しい手。
その確かな感触と体温にひどく安心して。
恥ずかしくて。くすぐったくて。
目を閉じた。








「─────園田」


低く深い声が優しく鼓膜を揺らして。


「こっからはちゃんとカウントして─────」


息が触れるほどの距離で呟いた唇が、そっと触れた。







初めてキスした時みたいに乱暴じゃなくて。
優しさも何もない、衝動だけのキスなんかじゃなくて。
優しくて。愛おしくて。
蒼吾くんの想いが唇から伝わってくるような優しいキス。
愛おしむように触れてきた唇は、触れて、吐息の合間に離れて。
自然に角度を変えた。
手を伸ばして蒼吾くんの大きな背中に触れる。
頬を優しく包み込んでいた手が私の髪にもぐって、きゅ、と指先に力が入る。
蒼吾くんのキスは、初めて触れたあの日よりも。
ずっと優しくて愛おしかった。


ゆっくりと唇が離れて。
名残惜しむように視線を絡めた。
真っ直ぐに見つめてくる瞳は、出会った頃からちっとも変わることはなく。
ひたすらすぎるほどに前へ。
その真っ直ぐさに私は惹かれ、心を攫われた。
心のザワメキは気持ちを伝えてしまったら終わりではなくて。
これからもずっと続いていくものだと深く感じた。

伸ばされた腕に強く抱きしめられて。
蒼吾くんがそっと耳元で囁いた。






───── ずっと一緒にいような ─────


それは私の心を優しく揺らす柔らかい温かさ。






それはまるで私が描いた蒼い空のように。
どこまでも蒼い空と白い雲の狭間に溶けた─────。






**あとがき**

どこまでも果てしない空の青が好きです。
空の青に惹かれます。昔から。
そういう青を背負った爽やかで真っ直ぐなキャラが書きたかった。
それが蒼吾です。
そういうのが読んでくださっている皆様に少しでも伝わっていると幸せです。


終わっちゃったんだな、と。
書き終えた達成感よりも、むしろ寂しい気持ちの方が大きくて。
なんだかぽっかりと胸の奥に穴があいたようなそんな感覚。
まほコトを書いてきた一年近く、私の生活の中心はましろたちでしたから。
連載中、何度スランプに陥って挫折しかけたことか(笑)
特にましろは書き手泣かせの主人公で、気持ちがおりてこないことが度々。
何度もイライラさせられました。
それでも読んでくださった皆さまに支持していただいて、どのキャラも好きだと応援していただけて。
私を含めてみんな幸せ者だなぁと喜びを実感しています。


お気づきの方もたくさんいらっしゃるとは思いますが。
小説のタイトルはスピッツのシングル曲から引用させていただきました。
何気なく借りてきたシングルCDの中から見つけたひとつの曲。
それがとても素敵で、こんな歌の似合うような爽やかでどこか切ない、胸の奥がきゅっとなるようなおはなしが書きたかった。
連載中は何度も何度も聴きました。
何度聞いても、胸にじんときます。

まほコト。
ましろと蒼吾の物語はこれで完結です。
この先、ましろと蒼吾はいろんなことにぶつかったり悩んだりしながらも、ふたりで手をつないで歩んでいくんだろうな〜と思います。まだまだ書き足りないような気もしますが、その後の恋の行方は読者の皆さまのご想像にお任せいたします。
しばらく夏の間。
ブログの方はお休みになります。
休養を取って充電が完了したら、次の話を。と考えています。
本編の中で何気に垣間見れた凪と佐倉のもうひとつの恋の行方は、番外編として書いていけたらなと思っていますので、まだまだお付き合いくださると嬉しいです。




最後に。
第一読者であり、いつも私のわがままを聞いてくれてイメージ通りのイラストを描いて盛り上げてくれた妹はづき。
忙しいにも関わらず最後の最後まで、素敵な絵を描き上げてくれた彼女に感謝です。ありがとう!!そして次回もよろしく(笑)
そして何よりも読者さま。
温かいコメントに支えられてここまで書き終えることができました。今でもコメントは大切に大切に、何度も読み返させてもらっています。読者さまの声はほんとありがたい。感謝の気持ちでいっぱいです。


それでは。
最後までご拝読、ありがとうございました!
よろしければ感想、足跡など何でも残していただけると、とても幸せです。



ご縁があれば、また、夏の終わりに。





Presented by りくそらた
*『魔法のコトバ*』 2007.07.27



*END*





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続編*全力少年へ→

魔法のコトバ*  Last Season  comments(68) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-11-
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Last Season  魔法のコトバ -11-

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卒業式を迎えた早朝、エントランスホールに絵が飾られた。
登校してきた生徒たちが立ち止まり、その絵を目にして小さな歓声や吐息を漏らす。
何気ない日常のざわめきのなかでふと足を止める。
それを見ているとなにか愛しいような想いが込み上げてきて、瞳に浮ぶ熱いものをそっと手でぬぐった。
窓の向こうに咲く景色のようにキャンバスの蒼が視界に溶けていく。

「よく頑張ったわね」

隣で一緒にそれを眺めていた顧問の清水先生が、感嘆の声を漏らした。
柔らかい表情で私に笑いかけながら、まるで子どもにするかのように頭を撫でてくれる。
それが妙にくすぐったくて嬉しくって笑っていたら。
「よくやったぞーっ!」
って。
いつからそこにいたのか、担任の新垣先生に背後から抱きしめられた。
卒業式前に感極まって男泣きをする先生に苦笑いをしていたら、隣にいた凪ちゃんが。
「先生、それ。セクハラ」
って綺麗な顔を思い切りしかめた。



三月一日。
この日の凪ちゃんはこれでもかっていうぐらい、三年生に呼び出された。
朝から告白ラッシュ。
第二ボタンならぬ制服のスカーフをねだる上級生。
それを全部、丁寧に断ってた。
スカーフが欲しいって、それって女々しくない?
って凪ちゃんに聞いたら「私もそんな男、嫌だ」って。
こっそり耳打ちして、ふたりで顔を見合わせて笑った。

式を終えて花道を作って上級生を送り出しても、卒業式の余韻はなかなか醒めない。
清々しい中にも妙に、もの悲しい雰囲気が漂う。
卒業生達は最後のHRが終わってもなかなか帰ろうとしなくて。
思い出の詰まった学校を離れるのは惜しいようだった。


先輩への最後の挨拶に美術室へ顔を出したら。
大きな花束が私を迎えてくれた。
白と黄色と桃色の大きな花束。
早春の風に乗せて春の匂いが鼻腔をくすぐる。
「よく頑張ったね」「素敵な思い出をありがとう」って。
美術部の先輩達から。
嬉しくって思わず涙ぐんでしまった私をいつもの指定席に座りながら佐倉くんが笑ってた。
彼がそこにいるのも今日で最後なんだなって思うと、いっそう、涙が止まらなくなった。
それを卒業式のせいにして、私は花束に顔を埋めるようにして泣いた。



賑やかだった美術室は三年生を見送るとひどく静かに思えた。
「まだ帰らないの?」
と問う二年の先輩にまだ残ることを伝えると。
「仲いいな、一年。実はデキてるんじゃないの〜?」
と私と佐倉くんの顔を見比べながら疑いの眼差しで見つめられて、少し焦った。
「違いますから!」
と何度否定しても煽るような冷やかしは変わらなくて、何だかどうでもよくなってしまって仕舞いには諦めた。
自分達の気持ちがしっかりしていれば、真実はちゃんと見えてくるはずだから。
「校内だからほどほどに〜」
とニヤニヤしながら部屋を出て行く先輩たちに苦笑いしながら、そっと扉を閉めた。
普段なら何気ない日常の風景がひどく淋しく感じる。
主のいなくなった空間はこんなにも淋しいものなのだろうか。



「蒼吾には会った?」
ふと佐倉くんに聞かれた。
ううんと、ゆっくり首を横に振る。

「部の打ち上げの幹事になったとかで、随分と忙しそうだったから…」

ここ二、三日。
幹事を任された蒼吾くんは、会場の段取りとか部の買出しとか。
せわしなく動き回っていてゆっくり話す機会がなかった。

「打ち上げね、女子ソフト部と合同なんだって」
「何で?」
「野球部って女の子がいないからじゃないかな?」
「だからってさ、ソフト部って…」

佐倉くんが苦笑した。
彼が言いたいことは分かる。
うちの女子ソフト部って、サバサバした体格のいい女の子ばかりだから。
運動部は大変だなって。
佐倉くんが笑う。

その点、文化部は楽。
卒業式の後に軽食をつまみながらお茶会程度の打ち上げ。
話をして写真を撮っていつの間にか解散。
ひどくあっさりしてる。


「陸上部もね、男女合同だって」
「そうなんだ?」
「…いいの?」
「いいのって、何が?」
佐倉くんが笑う。

ひとつだけ開いた窓の隣。
ロッカーの上に浅く腰かけてそっと窓の外を見遣る横顔。
凛としたその横顔が向かうキャンバスはもうない。
綺麗に片付けられた準備室の空間に寂しさがじっと静寂を鳴らした。






「いつ、発つの?」

横顔にそっと呼びかけた。

「明日。昼の便」
「……そっか」
ずっと知ってたけれど、はっきりそれを聞くと、その分寂しさが募る。





「さて、と。私…行くね?」
「うん」
「佐倉くんは?」
「俺はもう少しここにいる」
「……そっか」


佐倉くんの気持ちはひたすらすぎるほどに、窓の向こう。
春を待つように彼女を待ってる。






「佐倉くん」
「うん?」
「きっと春は来るよ」
「え…?」

佐倉くんがじっと私を見上げた。
答えを待つみたいにしてじっと私を見つめる彼に。

「またね」

って笑って背を向けた。
さよなら。って言葉はあまり好きじゃない。






「ましろちゃん」
「うん?」
「頑張れ」
「え?」

「───── 行くんだろう?」

その言葉の意味が何かわかった。


まいっちゃうな。
佐倉くんは最後までお見通しだ。
彼にはやっぱり敵わない。












頬を撫でる早春の風が気持ちがいい。
春を両手に抱えて早足でそこへ向かう。
約束は何もしていない。
でもなぜか、蒼吾くんがそこにいるような気がした。
渡り廊下を駆け抜けてエントランスへと足を踏み入れる。
静寂を鳴らす校内に反響する足音が響く。
小さく肩を揺らして弾んだ呼吸をゆっくりと整えた。

キャンバスが飾られてあるホールまで歩みを進めると。
それを見上げる大きな背中が足音に気付いて、顔を上げた。






「おっせーよ」


不機嫌そうな顔が振り返った。


「…なんてな。うそ。ほんとに来た」


ほんの少し驚きの色を滲ませて優しく目を細める。


「俺がここにいるの、わかった?」

「うん」

約束はしていないけれど。何も言っていなかったけれど。
蒼吾くんはここにいる。
そんな気がしてた。





「魔法みてぇだな」
「……魔法?」
あまりにも突拍子のないことを呟くから、おかしくて笑ってしまう。
「こういうのって以心伝心っていうんだよ」
「…イシンデンシン? そういえば、そんな歌、あったよな」
なんだっけ? と、真面目に眉を寄せる。
「あ。オレンジレンジじゃん。俺、あれ結構好き」
音の記憶を手繰り寄せて、軽く口ずさむ。
蒼吾くんがこんな風に歌うのって初めて聞いた。
鼻歌混じりに口ずさむ低音のメロディが鼓膜を揺らして気持ちがいい。





「知ってる?」

風に乗る歌声がふと途切れて、嬉しそうに聞いた。
私はそれに静かに首を横に振る。



「だよな? 園田ってイメージじゃねーもん」
「でも、いい曲」
「だろ?」
やたらと得意げに呟いて。
「今度、貸してやるよ」
蒼吾くんが嬉しそうに笑った。




「それ、なんで花束?」
卒業生でもねぇのに、と花に埋もれた私を笑う。
「絵、頑張ったからもらったの」
「よかったじゃん」
「うん」
私も笑う。
蒼吾くんが笑うたびに、高鳴る鼓動の音が蒼吾くんに聞こえてしまいそうで、すごくドキドキした。










何気ない会話を交わして。笑って。
ふと。
それが途切れた。
ひとつ高いところから見下ろす三年生の靴箱はガランとしていて。
どこか物悲しい。
見上げた窓の向こう、雲の隙間から射し込み始めた光が暖かい。
空の蒼を吸い込んだ光が眩しくて、思わず目を細めた。





「─────すげぇ青」


ふと、蒼吾くんが呟いた。
瞳にキャンバスの蒼を映した横顔で。





「俺、青って一番好きな色」

「うん。知ってる」

「……知ってんの? すげーじゃん」


一瞬、丸くした目を嬉しそうに細めて、私に笑いかけた。
こんなときにそういう顔、反則だ。
ますます気持ちを加速させる。





「やっぱすげーな、園田。すげーよ、お前……」


空を仰ぐようにその絵を見上げて、気持ちよさそうに蒼吾くんが笑う。
まるで自分のことのように誇らしげに胸を張って。




「描けないって言ってたのがうそみたいじゃん。あんな短期間でこんな絵を描いちまうお前って……やっぱすごい」





何度深呼吸しても緊張は解けることを知らなくて。
胸の奥が小さく何度も波打つ。
あまりにも沢山すぎる緊張を押し込めたら、気持ちが溢れて零れそうになって、ゆっくり深く息を吸い込んだ。





「夏木くん」


「んー?」



呑気に返す横顔にそっと呼びかけた。






「前に聞いたことあったよね? 私の初恋っていつ…って」
「…ああ」
「小学生の時だったよ。すごく好きだった、その人のこと」
「それは……佐倉、じゃなくて?」

落とされた言葉に静かに首を振って、真っ直ぐに蒼吾くんを見つめた。






いつも真っ直ぐで、何事にも諦めなくて。
がむしゃらに頑張るその姿は、どこまでも真っ直ぐで大きい。
私にないものをたくさん持ってるその笑顔は、青い空に浮ぶ太陽のように眩しくて、大好きだった。
笑ってくれるたびに私に勇気をくれた。








「────私、夏木くんが好き。……蒼吾くんのことが、好きだよ」




いつも逃げていた私に、真っ直ぐ前を向くことの大切さを教えてくれた。
いつも下を向いていた私に、空を見上げる素晴らしさを教えてくれた。
見上げた空はいつも綺麗ではないけれど。
それでも抜けるような青い空は心を洗ってくれる。







「蒼吾くんが、好き────」



私がえがいた空は果てを知らないどこまでも蒼。
蒼吾くんを想わせるのはいつも蒼の色だったから。
キャンバスの蒼に想いを乗せて。
気持ちが彼に届けばいい────。










目をまん丸にして私を見下ろしてた蒼吾くんが。
はっ、って。
小さく笑った。






「マジ、で?」




その言葉に大きく頷く。

ほんとうは。
立っていられないくらいに足が震えて。
その場から逃げ出してしまいたくなるくらいに怖いけれど。
それでもちゃんと前を向く。
その大切さを蒼吾くんが教えてくれた。
彼の言葉と笑顔はいつも勇気をくれて背中を押してくれる。



「前に言ったよね…? 私の目に映る世界がもう一度見てみたいって。だから描いたよ。蒼吾くんがいたから、描けたんだよ。だから……」




──── これからも、ずっと。一緒にいてくれる? ────




言い終わらないうちに私の体が、ぐんって引かれた。
頬に蒼吾くんの制服のシャツが強く当たって、髪に厚い手のひらが触れた。
そのまま指が髪にもぐって頭から引き寄せるように抱きしめて頬を寄せる。
蒼吾くんが気持ち全部で、私を抱きしめた。





「そんなの…当たり前だろ…? 手離さねぇよ。もう────」








パサ、と。
思わず落としてしまった花束が春の匂いを漂わせて、鼻腔をくすぐる。
蒼吾くんの匂いと体温を確かに感じて心の奥がきゅってなった。
抱きしめられるままに体の横に降ろしていた手をそっと蒼吾くんの背中に回す。
一瞬それが、驚きの色を見せたけれど。
そのまま全てを包み込むようにまた、抱き寄せた。
愛しさの色を滲ませて蒼吾くんがそっと耳元で呟いた。





「園田がこうやって俺の腕の中にいるのが、嘘みてえ。すげぇ……嬉しい────」





To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(7) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-10-
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Last Season  魔法のコトバ -10-

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その日。
私が毎日登っていた脚立は畳まれて、色を溶いたバケツも虹色の絵の具も、色が溢れたパレットも。
元あるべき場所に還った。
教室の一番後ろに立った私は、頬の端を緩めてそれを見上げる。






「できた…ぁ」


大きく息を吸い込んでそれを吐いた。


絵が出来上がったのは卒業式を翌日に迎えた午後。
夕日の色が教室を染める黄昏の時間だった。
主線もデッサンもない自分の描く想いをすべてキャンバスに馳せて描いた絵。
それがようやく完成した。
トン、と壁に背中を預けたらずるずるとその場に力なく座り込んだ。
ひとつの事を全力でやり遂げた達成感と安堵。
何ともいえない充実した気持ちが、胸の奥でさわさわと音を立てた。








「─────すごい迫力…」


ふいに声が落とされた。
聞き覚えのある声に振り返ると、黒目がちの大きな瞳が柔らかく微笑みながら教室の入り口に立っていた。
目が合うとそれがいっそう細められて優しい笑みを湛える。
「絵、完成したんだ。おめでとう」
凪ちゃんが眩しそうに目を細めながら絵を見上げた。
「すごいね。よくこれだけのものをひとりで頑張ったよ、ましろ」
まるで自分の事のように満足そうに見上げる。

だって。
ひとりじゃなかったから。
勇気と自信をくれて背中を押してくれる人がいたから。
蒼吾くんがいたから最後まで頑張れたの。





「これ。出来上がりを見たのって、私が最初?」
「そうだよ」
「よかったの? 私なんかで」
「うん。一番に凪ちゃんに見てもらいたかったから」
「そっか…」

微笑しながら凪ちゃんが私の隣に腰を降ろした。
綺麗な足を投げ出してそっと壁に体を預ける。
半分だけ開いた窓の向こうから吹き込んだ風が、凪ちゃんのくせのないサラサラの髪を攫う。
艶めいた唇を柔らかく結んで絵を見上げる凪ちゃんの横顔はとてもきれいで。
思わず言葉を失くす。
この絵を見ながら、何を思っているの?

絵が完成したら伝えたい気持ちは、蒼吾くんにだけじゃない。
凪ちゃんにもほんとうの気持ちを、きちんと伝えようと心に決めていたから。




「凪ちゃん」

「んー?」


絵を瞳に映したまま凪ちゃんが頷き返した。







「私……凪ちゃんに言われたあの日から、ちゃんと考えたよ。夏木くんのこと─────」



いっぱいいっぱい考えた。
少しずつ緩やかに流れていった気持ちは、いつの間にか大きくなって、気がつけばかけがえのない特別な存在になってた。
蒼吾くんの姿を目に映すだけで、涙が溢れそうになるのも。
蒼吾くんが笑ってくれるたびに、嬉しくて堪らない気持ちも。
蒼吾くんのことを考えるだけで、胸の奥がきゅってなるような切なくて苦しい感覚も。
全部が『恋』と呼ばれるものだ。
その心のざわめきが何ていうものなのか、私はわかってしまった。
それに気付いた時には、とっくに始まってた。
もう、気持ちに嘘はつけない。


いまさら蒼吾くんが好きだなんて、勝手なのかもしれない。
また、凪ちゃんを傷つけてしまうかもしれない。
また、あんな顔をさせてしまうのかもしれない。
だけど。
凪ちゃんの言葉には、いつも嘘がなかったから。
彼女が大好きだからこそ。
私もちゃんと本音で向き合いたい。







「凪ちゃん、私ね」


すぅ、と深く深く呼吸をする。











「私、夏木くんのことが好き─────」




それが私の出した答え。










一瞬、動作が止まった。
一点を見つめていた凛とした黒く大きな瞳がますます大きく見えた。
その表情にぐらりと決心が揺らぎかけたけれど、もう気持ちに嘘はつけない。




「……ごめんね、凪ちゃん」




それでも私、蒼吾くんが好きなの。





私の言葉にゆっくりとこちらを振り返った凪ちゃんが、じっとこちらを見据える。
大きな瞳に自分が映っているのが確認できるぐらいに視線を絡まらせて。
でもそれは次第に表情を柔らかくして。
「バカだなぁ、ましろは」
私の頭を小さく小突いた。
「なんで謝んのよ?」
困ったように笑う。






「ましろが出来上がった絵を一番最初に私に見て欲しいって言ったとき、なんでだろうって思った。でも教室に入って初めてこの絵と真正面から向かい合ったとき、わかっちゃった。ましろの気持ち、ちゃんと届いてるよ?
ましろが今、どれだけ蒼吾のことを好きなのか…すごくわかる」





ふわりと甘い笑顔を浮かべて私に笑いかけた凪ちゃんが、真っ直ぐ前を指差した。












「だってこれ、蒼吾のアオだ」





眩しそうにキャンバスを指差した。







そこに描かれた絵は。
眩しいくらいの青い碧い蒼い空。
バックネットの向こうに瞳に溶けるほどの眩しいアオをそこに描きだした。








空色のシャープペン。
藍色の自転車。
制服の下にいつも着ているTシャツの青の色。
あの日、青空に打ち上げたボールの消え行くさまと空の蒼。

蒼吾くんを連想させるのはいつもアオだ。
どこまでも澄んで果てしない空のようなアオ─────。





「知ってたよ、私。
ましろが小学生の頃、蒼吾のことを好きだったの。だからましろに、もう一度あの時の気持ちを思い出して欲しかった。
だって、ふたりはあの時からお互い惹かれ合ってたのに、周りの心無い扱いであんな事になっちゃって…。それが元に戻っただけだよ」
結果オーライ?って、いたずらっぽく笑う。
「アイツに言った?好きだって」
首を横に振る。
「絵が完成してから気持ちを伝えようと思ってる…」
「そっか。きっと喜ぶよ。アイツ、昔からましろひとすじだから」
「うん。…知ってる」


頬を染めて膝に顔を埋めた。
蒼吾くんの気持ちは痛いぐらいに心の奥に響いているから…。




ふいによしよしと頭を撫でられた。
撫でてくれる心地の良さにじわりと胸の奥から熱いものが込み上げてきて鼻をすすり上げた。



「…凪ちゃんは?」
「うん?」
「まだ、やっぱり蒼吾くんのこと…好き?」

「ん〜。私は…」

ただ前を真っ直ぐに見つめて困ったように笑う。
「好きだよ。蒼吾のこと。でもそれは友達として。もう、好きじゃない」
その瞳に淋しそうな色を滲ませて、キャンバスをじっと見遣る。
好きじゃない、という言葉の裏側にはどんな意味があるのだろう。
キャンバスの向こうに誰を見てるのだろう。
凪ちゃんの次の言葉を待っていたけれど、それ以上、言葉を発する事はなかった。
彼女の凛とした横顔がひどく淋しそうに見えた。

一瞬、佐倉くんの顔が脳裏を掠めた。
私が蒼吾くんに惹かれたように、佐倉くんには万に一つの可能性もないの?
可能性はゼロなの?





「凪ちゃん」


「うん?」


「佐倉くん。明後日、東京に行っちゃうって」




何気なく告げた私の言葉に、凪ちゃんの顔が強張った。
知ってる、と一言だけつぶやいて。
たまりかねたように顔をゆがめたその姿に。
私はただ驚いた。





「凪ちゃん…もしかして─────」



佐倉くんのことを? いつから?



見る間に凪ちゃんの目に涙が浮んで、溢れて零れた。
今度は凪ちゃんが顔を埋める番だった。



「ごめん、ましろ。…ごめんね…。私、あれから佐倉とはいろいろあって……」


ちっとも気付かなかった。
こんな凪ちゃん初めてだ。
いつも背筋をピンと伸ばして凛と前を見据えるその姿は私の憧れで。
ずっと凪ちゃんみたいになりたいと思ってた。
涙が溢れて言葉を紡げなくなるほどまでに自分を押さえ込んで。
それでもなお、虚勢を張って自分は大丈夫だって顔を上げて前を向く。
バカなのは凪ちゃんの方だよ。




「凪ちゃん、ずるいよ。
私には遠慮するなって言うくせに、自分はいつもギリギリまで我慢して」
「ましろ…」
「佐倉くんだって凪ちゃんひとすじだよ」
きっと凪ちゃんを待ってる。
「ちゃんと気持ちを伝えて?言葉にしなきゃ、気持ちは伝わらないんだよ?
まだ遅くはないから。佐倉くんはまだここにいるから」

だから。

「頑張ろ?」


一緒に。







To Be Continued

魔法のコトバ*  Last Season  comments(6) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-9-
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Last Season  魔法のコトバ -9-

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心穏やかに大きく息を吐いて、胸にキャンバスを抱きしめた。
気持ちを伝えた後の気分は清々しく、窓の向こうの青空のように澄み切っていた。
もう一度、深く息をして頑張ろうと心に決めて足早に廊下の角を曲がったら。
大きな人影がそこに立ち尽くしていた。


「…よぉ」

いつものスポーツバッグを斜めがけにして、壁に背中を預けたまま蒼吾くんが私を見下ろした。
ビク、と私の体が強張った。


「…夏木くん…。どうしたの?こんなところで…」


野球部が切り上げるにしてはちょっと早い時間だ。
「…顧問が用があるからってさ、早めに切り上げ。園田、頑張ってるかなと思ってさ。ちょっと寄ってみたらお前、いなくて」
真っ直ぐな瞳が食い入るように私を見つめた。
「ずっとこっちにいたのか?」
「ううん。用があってこっちに来てたの」
「…絵、まだやんの?」
「うん…」
「そっか」
片手に握りしめていたペットボトルをぱしんと手に打ちつけた。
残り少なくなったスポーツ飲料がちゃぷんと音を立てた。



なんだろう。
いつものように言葉が続かない。
言葉の間合いがひどく不自然で息苦しく感じる。
奇妙な緊張感に小さく手が震えた。

手に持ったペットボトルを手持ち無沙汰に何度か手に打ちつけて、蒼吾くんは窓の外の景色に視線を泳がせる。
怒ってないけれど、ひどく不機嫌そうな横顔。
いつも笑っているでっかい口元が、きゅっと真っ直ぐに結ばれている。
それは言葉を発することはなく、ただただ、きつく結んだまま窓の外の景色を瞳に映す。
沈黙が妙に息苦しく感じた。




「それ、さ」


堪りかねて蒼吾くんが口を開いた。
「佐倉に、もらったの?」
胸に抱えている小さなパネルを指差さした。
真っ直ぐな視線が、私の握りしめたそれをじっと見据える。




…あ…。



心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
それはそのまま鼓動を加速させて、じわりと嫌な汗を流れさせる。
蒼吾くんのひどく不機嫌な理由が頭をよぎった。



もしかして───。




「話、聞いてた…?」



ぱしん。
ペットボトルを打ち付ける手が止まった。



聞いてないよって。
その答えを心のどこかで期待していたのかもしれない。
でもその言葉が、蒼吾くんの口から発せられることはなかった。

「聞くつもりなかったんだけど。…聞こえた」

苦虫を噛み潰したような表情で蒼吾くんが告げる。
「ごめん。俺…そういうの黙ってられないタチだからさ。聞いてないフリして平気でなんて…いられねぇから」
グッと気持ちを拳に握りしめて唇を噛み締めた。
その顔がひどく傷ついているように見えて、ドクリと胸が突き上げた。


どうしよう…っ。


私はすがるようにパネルをギュッと握りしめて蒼吾くんを見上げた。
空気がガラスのように張り詰めていて、少しでも扱いを間違えると一瞬で弾けて壊れそうだ。
頭の中でいろんな思考が渦巻いてぐちゃぐちゃになった。
何かを言おうと思うのに声にならない。
ごめんねって伝えたい。



でも、何に対して───?




「…夏木、くん…」



やっとの事で名前を紡ぎだすけれど後が続かない。
何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして。


蒼吾くんが手にしていたペットボトルがちゃぷんと小さく音を立てた。
視線がそらされる。
蒼吾くんの隣がひどく居心地が悪い気がして、息が詰まりそうだった。



「…くそっ!」


突然。
短く叫んで蒼吾くんが頭を掻いた。
がががって何かを振り切るように。

「───最初からわかってたんだ。お前が佐倉を好きなこと。
でも実際、それを口にするところを目の当りにしたら…さすがの俺でも、へこむ」
喉の奥につっかえていた言葉を吐き出すように言葉を続ける。
「…別に…お前を困らせようとか思って言ってんじゃねぇよ。ただ、すげぇショックだったつーか」
乱暴に視線を外して、胸につっかえるような気持ち悪さを全部押し流すかのように、手にしていたスポーツ飲料をググっと飲み干した。
見上げた視線の先で喉仏が上下するのが、やけにリアルに見えた。


「俺がお前の事諦めきれないように、お前だって佐倉への気持ち、そんなに簡単じゃねぇよな。もう、ずっとだもんな。小学校ん時からずっと…」
「…え…」
「って。俺、何言ってんだっ」

首の後ろに手をやって乱暴に頭を掻いた。
蒼吾くんがイラついているのが手に取るように分かる。
私の顔を見ようともしない。
どんなに視線を投げかけても、あの真っ直ぐな瞳に私が映ることがなかった。




「あ〜〜っ!もうっ。なしなし!今の、ナシなっ。
自分でも情けねぇぐらいテンパってる」
「夏…」
「悪ぃ。俺、今日はもう帰るわ」

深いため息と共に言葉が吐き出されて、顔も見ようともせず蒼吾くんが背中を向けた。
邪魔して悪かったな、そう告げて。



「じゃぁな」
背を向けたまま手を上げる。
「夏木くん…っ」
呼び止める声に耳も貸してくれない。





勝手だ。
まだ何ひとつ伝えてもいないのに、勝手に勘違いをして背を向ける。
くやしいって思った。
冷たい態度は痛いぐらいの蒼吾くんの本音。
それがわかっているのに、上手に受け止めることのできないもどかしさが悔しくて堪らない。





「待ってよ…っ」
それがひどく遠くに見えて涙で滲んだ。
「ちょっと、待ってってば…っ」



蒼吾くんがいなくなってしまうのは、絶対に嫌なのに───。









「───蒼吾くん…っ!」





気がついたら、大声で叫んでた。
じんと空気が震えた。
それに共鳴するかのように、ビク、と体を一瞬震わせて蒼吾くんの体が止まった。



「待って…っ。待ってってば…!話、ちゃんと聞いてよ…っ」



じわりと振り返った顔が大きく目を見開いて、食い入るように私を見つめた。



「…違うからっ。
佐倉くんに気持ちを伝えたのは今、佐倉くんが好きとかそんなのじゃなくて…っ」
涙で視界が霞む。
必死だった。
「小学校の時から佐倉くんの事が好きとかじゃなくて…っ」
思考回路がぐちゃぐちゃで、自分でも何を言っているのかわからない。
何を伝えたらいいのかわからない。
とにかく必死で。
言葉をうまく紡ぐ余裕なんてなかった。

「蒼吾くんがいたからちゃんとけじめ、つけたくて。だから私───」

「ちょ、待て。ストップ!」





ずいっと掌を目の前にかざして、言葉が遮られた。








「な。…今なんて言った?」






「え?」

一瞬、何の事だか分からなくて。
何秒か経ってから恐ろしくぼんやりと聞き返した。







「今、俺の事、名前で呼ばなかったか…?」






───あ…。





無意識だった。
必死で。とにかく必死で。
蒼吾くんの背中を見たら苦しいほどに涙が出て。
蒼吾くんに背を向けられるのが辛くて、苦しくて。
気がつけば必死だった。
自分が口走った言葉さえ分からないくらいに。


私は口元を覆った。
顔が紅潮していくのが分かる。


恐る恐る顔を上げて蒼吾くんを覗き見た。
そうしたら、同じように口元に手を当てて俯いてる姿が目に飛び込んできた。





え?…なんで───?





「…夏木くん?」


「あ、いや…」


耳まで真っ赤だ。


「見んなよ」

「え?」

「マジ嬉しくって……。俺、たぶん…ひでー顔、だろ───?」


コトバの意味を理解して、今度は私の方が俯いてしまった。
蒼吾くんの予想外の反応にどうしたらいいのかわからなくなって。
俯いたまま視線を泳がせた。
堪らなく胸の奥がきゅっとなって、気持ちが溢れてしまわないように唇を噛み締める。
ぱこん、って。
かかとを踏んだ上靴の音が鼓膜を揺らして、それがすぐ側で歩みを止めた。



「…園田さ。小学校ん時、お前だけ俺のこと苗字で呼んでたろ?覚えてる?」
遠くに行ってしまったはずの蒼吾くんの声が、すぐ側で聞こえた。
「あれ、結構ショックでさ。みんな俺のこと名前で呼ぶのに、何で園田だけ…好きなヤツだけ名前で呼んでくれないんだってずっとイラついてた。他のヤツなんてどーでもいいのに」
失笑混じりに続ける。

「隣の席になった時に密かに期待してたんだけどさ、呼んでくれねぇし。その後はあの事件だろ?期待は見事に崩れ去ったよ。
だから、すげぇびっくりした…。あまりにも驚きすぎて、怒ってたの吹っ飛んだ…。俺って単純だよな」
笑うなら笑えよって、蒼吾くんが距離を寄せる。

「でも。それぐらい嬉しかったんだよ」
そう言って蒼吾くんが俯いた私を下から覗き込むようにして見つめた。
「悪ぃ。も一回、言ってくんない?」
思ったよりも至近距離で目が合って。
びくと。肩をすくませた。




私だって───。


あの時、みんなが呼んでるみたいに名前で呼んでみたかった。
「蒼吾」って呼んでる凪ちゃんやクラスメイト達が羨ましくてしょうがなかった。
ほんとうはいつも心の中でそう呼んでいたのに。
それを唇に乗せる勇気がなくて。
何度も噛み締められた言葉はとっくに限界を通り越して、もうゆるゆるなのに。
そんなの今さら。
このタイミングで言うのは、反則すぎる。

じわりと涙が滲む。
最近、涙腺がゆるくてゆるくてしょうがない。



「…泣くほどいやかよ?」


ため息と共にがっかりした声が落とされた。
慌てて首を横に振るけれど、蒼吾くんは勘違いをしたまま。
「ま、いいや」
そう言って笑う。





「…ごめんな。さっきの。八つ当たり。ちょっと目ぇ覚めた。
お前が佐倉を好きなのは最初からわかってたのにさ。今さらアイツに嫉妬してもしょうがねぇのに」
バツが悪そうに頭を掻いて、そのまま顔を上げて私をじっと見つめた。
視線が絡み合うように溶けた。

「続き、聞かせてよ。さっきの。
お前が小学校の時、好きだったやつって、誰?」


…あ……。


「あの時から佐倉のこと、好きだったんじゃねーの?」


その言葉に静かに首を横に振った。
それは違うから。
あの時、好きだったのは佐倉くんじゃないから。



「じゃ、誰?」



「……」



「…もしかして、安部?」


ずるり、って。
ずっこけそうになった。


「違う…っ」



千切れんばかりに首を横に振る。



「……じゃぁ、もしかしてさ───」




その先を言わない。
言葉の続きを待ってる。
私の口からそれを聞くことを。



鼓動が急激に加速した。
じっと見つめる真っ直ぐな眼差しに耐え切れなくなって、一瞬、顔を伏せたら風がゆるりと動いた。
伸ばした大きな掌に私の体が捕まえられて。
え、と声を出す前にそのまま強い力で引き寄せられた。
抱きしめられるかと、錯覚するほどに距離を寄せる。
カラン、と。空になったペットボトルが廊下に転がった。



「園田」


蒼吾くんが優しく私の名前を呟く。
この声がひどく好きだと思った。
優しく包み込んでくれるような低くて心地の良い声。
いつも教室の中でひと際でっかく聞こえる彼の笑い声とは違う、トーンを落とした優しく穏やかな声。
ずんと。心の奥深いところに響いて優しく鼓膜を揺らす。
それだけでも心がさらわれそうになる。



「園田?」


もう一度、蒼吾くんが私の名前を呼ぶ。



「顔、上げろって。ちゃんとこっち見ろよ」


すぐ頭の上から声が落とされて、じわりと上目使いに見上げる。
驚くほど至近距離で目が合って、一瞬、息が止まるかと思った。





「続き、聞かせて?」



硬質だけれど深く優しい声が鼓膜を揺らした。
蒼吾くんとの距離はほんのわずかな空間しかなくて、ふわっと、風に流れて彼の匂いが鼻をくすぐる。
苦しくて、切なくて。
それに耐え切れなくなって私は唇を開く。
気持ちが溢れて、もう。限界だと思った。








「…私───」





バタバタと耳障りな足音が聞こえた。
それと同時に、気持ちを言葉に紡ぎかけた私の声をでっかい声がかき消した。


「蒼吾ーーーっ!!忘れも…の……」


角から守口くんが飛び出した。
手に持った携帯を振り上げたそのままんまの姿勢で、体が硬直した。



「あ…。へ……?」



ぎょっと見開かれたどんぐり眼が、私と蒼吾くんを交互に見比べた。



「…俺、ヤバイ……ところに、出くわした…?」


ひどく気まずそうな顔でそろりと視線を泳がせて。



「退散するからさ、続けて───?」


思い切り大股で後ずさった。





「…っーー!!涼っ!!」


ドタドタと走り去る足音と共にギャーと悲鳴に近い声が上がって、それは廊下の向こうに消えた。
さすが運動部。
その姿はあっという間にみえなくなってしまった。



「ぶっ殺すっ」



蒼吾くんは物騒なことを呟いてマジ切れ。
私はへなへなと体の力が抜けてその場に座り込んでしまった。
心臓に悪い。
絶対、寿命が縮んだ…。
がっくりとうな垂れた体が床に沈みそう。
まだ何も伝えていないのに、ひどく脱力感。


「大丈夫か、お前」


蒼吾くんが笑って、そのまま腰を落として私の顔を覗き込む。


「仕切りなおし…ってわけには行かねぇよな?」


そう言って失笑した。


「…ったく。何だよアイツ。タイミング悪すぎだっつーの。絶対、わざとだ」



ブツクサと文句を呟いて立ち上がろうとした蒼吾くんの制服。
それを思わずがしと掴んだ。



「おわっ…!」



びく、と肩をすくませて。
蒼吾くんが驚いたように私を見下ろした。



「園田…?」





このままうやむやにするのはイヤ。
あの絵が完成したら、気持ちを伝えられる気がする。
ちゃんと蒼吾くんと向き合いたい。
だから。



「お願い。返事、もう少し…待ってて」



私は真っ直ぐに蒼吾くんを見上げた。



「それって…。少しは期待してもいいのか?」





その言葉に私は深く頷く。




「ずっと好きだったんだ。そんなの、いくらでも待つよ」



ふっと微笑して、蒼吾くんが言った。



ずっとっていう言葉の重みは痛いほどわかるから。
蒼吾くんの気持ちは、痛いほどに私の心に届いているから。



真っ直ぐな眼差しの彼の向こう。
校舎に落ちた夕日が眩しくて思わず目を閉じたら、涙が溢れた。



蒼吾くんが笑った。







To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(8) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-8-
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Last Season  魔法のコトバ -8-

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まるで周りがみえなくなったみたいに、私はひたすらキャンバスに向かった。
そこには下絵になる線も、デッサンを記したスケッチブックもないけれど。
ただひたすらに色を乗せて心に描いた世界を映し出す。
何度も躊躇したようなまどろっこしい線も道標も。
もういらない。
下絵は私の頭の中にある。
思い描くままに色を乗せて気持ちを込めて、夢心地に描き続ける。
描くことが楽しくてたまらなかった。
無我夢中でそれを表現して。
ただ夢中に色を乗せた。
朝日が昇る時間に家を出て学校へ向かい、昼休みも返上して描いた。
放課後は陽が落ちるまでキャンバスと向き合い、闇の色が溶ける前には筆を置く。
どんなに描いても描いても描き足りないぐらい、ひたすらそれに向かう。
こんな気持ちは初めてだった。



脚立の天辺に座り、目的の場所に目的の色を乗せ終えて息を吐いたら、カタン、って。
後ろで小さく音がした。

「…あ…」

脚立から降りて音のした方を覗くと、部屋の入り口にそっとミスドの紙袋が置かれてあった。
頑張って”とひと言、メモが添えられて。









カタカタカタと。
乾いた音をさせて古い木戸を開くと、それに気付いた彼が顔を上げた。

「あれ?」
私を見つけた顔がゆるりと微笑を浮かべる。
「もしかして…邪魔しちゃったかな?」
佐倉くんが小さく肩をすくめた。



「ちょうど休憩しようと思ってたから。…隣、いい?」
「どうぞ」
にっこり笑って差し出された椅子に腰を降ろして、手に提げていたドーナツの袋と買ってきた缶コーヒーをロッカーの上に置いた。
「これ。ありがとう」
「俺だってよくわかったね」
「うん」
わかるよ。

“頑張って”と、添えられた右上がりの綺麗な楷書は。
女の子が書くような丸っこい文字じゃなくて。
読めないような乱暴な殴り書きでもなくて。
書いた人の性格が滲み出るような整った綺麗な文字。
凪ちゃんでも蒼吾くんでもないのなら、心当たりはひとりしかいない。


「声、掛けてくれればよかったのに」
「すごく集中してたみたいだったから。邪魔しちゃ悪いと思ってね」
筆に乗せた色をキャンバスに描き終えると、一旦、筆を置いた。
絵の具がバケツの水に溶かれて秋色に変わる。
…綺麗…って。
そのさまをぼんやりと眺めていたら。

「うまくいってる?」

ふと問われた。
「エントランスホールの絵。うまくいってる?」
もう一度、優しく聞いた。
「…うまく描けてるかどうかはわからないけど…。
楽しんで描いてる。今は絵のことしか考えられないくらい集中してる自分にびっくりしてるほど」
私は笑った。
「よかった」
それを聞いて心底安心したように、佐倉くんが柔らかい笑みを浮かべた。

「…よかった?」

どうして?
私は首を傾げた。


「一時期、すごく落ち込んでたみたいだったからさ。あのまま浮上できないんじゃないかって、心配してた」
あ…。
気付いてくれてたんだ。
「声を掛けようかどうか迷ってたんだけど。結局、踏みとどまった」
「どうして?」


疑問を投げかけた私に。
佐倉くんの端正な顔がじっと私を見つめた後。
ふっ、と。柔らかく笑った。

「今それは、俺の役目じゃないだろ?」


「…え?」


「よかったな。吹っ切れて。今、清々しい顔してる」


その言葉の意味をようやく理解した鈍い私は。

「…うん」

と頬を染めて頷いた。
佐倉くんの口からそんな言葉を聞くなんて、何だか意外だったから。
少しびっくりした。


「絵も少し変わった」
「前の絵、バケツの水をひっくり返して駄目にしちゃったんだ…」
「そうなんだ?
でも…題材がどうとかじゃなくてさ、根本的なものが変わったよ。前は透明感重視って感じだったのが、今は深みと迫力が増してる」
いいね、あれ。
その言葉に自然に笑って返せた。


佐倉くんの隣に座って、何気なく景色を瞳に映す。
壁の本棚いっぱいの美術書や参考資料。絵の具のついた木の棚。
不規則に重ねられたスケッチブックと窓辺のキャンバスは、彼が歩んできた軌跡。
私が買ってきた缶コーヒーを口にしながら、ひとつだけ開いた窓の向こうにぼんやりと視線を送る佐倉くんの横顔。
それをそっと覗き見る。


不思議…。
佐倉くんとはもう、こんな時間は過ごせないって思っていたのに。


まるで真綿に包まれているような穏やかで心地のいい空間。
何かを話すわけじゃないけれど、ただ隣に座って、絵を描いて。
時々、言葉を交わして…。
また描きかけの絵に動作を返す。
この何気なく流れていく時間の心地よさが、私はやっぱり好きだって思った。
たぶん。
時間の動線が彼と私はよく似てる。


「何?」
ふと佐倉くんが聞いた。
「なんか、嬉しそうにしてる」
なんで?って私を覗き込む佐倉くんの方がよっぽど楽しそう。
「…あのね。私。佐倉くんと一緒にいるとすごく安心できるなって思ってたの。時間がゆっくり流れているみたいで、楽でいられる」
感じたままを素直に口にした。
そしたら隣で、佐倉くんが小さく声を立てて笑った。


「なに?どうして、笑うの?」
「いや。別に」
「なんか意味深っぽい」
「そ?深い意味はないんだけどさ」
佐倉くんが座ってた椅子から腰を上げて、私の方へ向き直った。
「俺も。ましろちゃんと一緒にいると安心するよ。居心地が良くてホッとする」

「…え?」

「ましろちゃんっていう気持ちが安らぐ存在に、癒されてたのかも」


私を見て優しく、優しく笑う。
少し涙が滲みそうになって唇をきゅっと結ぼうとしたら。
でもな、って。
真剣みを帯びた表情で佐倉くんが言葉を続けた。



「日下部といる時は違うんだ。
近くにいるって思うだけで、背筋が伸びてしゃんとする。体全部でアイツを意識して心が震える。穏やかでなんていられない。
ましろちゃんも今、そうじゃないの?蒼吾といる時」

そう言って、佐倉くんは壁に立て掛けてあったパネルの束から一枚、小さなパネルを選んで差し出した。




「…これ…───」





弾かれたように顔を上げた。
正面からがっちり視線が噛み合った。
「ましろちゃんにプレゼント」
そう言って笑う。
「…人物画は、描かないって言ってたのに───」

佐倉くんが描く人は、ただひとり。
最初から最後まで、凪ちゃんひとりだったはずなのに。



「それでも描いてみたいって思わせる表情をしてたから。
いい顔してるよ。今の、蒼吾と一緒にいる時のましろちゃん」



いつの間に描いたんだろう。
佐倉くんが描いた絵は、蒼吾くんと一緒にいる笑ってる私。
すごく嬉しくて、幸せで。そんな笑顔。

私、蒼吾くんといる時こんな顔してるの…?




「さて、と。やりますか」
うーんと背伸びをして、佐倉くんが私を見た。
「ましろちゃん、どうする?まだやるの?」
「あ…。うん…」
しばらく絵に心を奪われていたままだった私は、佐倉くんの言葉に弾かれたように顔を上げた。

「私も…もう少し頑張ってくる。まだ陽はあるし」
「陽?」
「夏木くんが“へこんでる時の暗闇はよくない。カビる!”って」
「カビる?」
一瞬、意味が分からず何度か瞬きを繰り返した後。
「確かにアイツだったらカビるかもな」
そう言って笑った。


「じゃぁ、頑張って」
「またね」


手を振ってそっと部屋を後にする。
扉を閉めようと手をやって、何気なく視線を返した時。
佐倉くんのいつもの横顔が視界に映り込んだ。
優しく穏やかな表情が凛とした真剣さを湛えてキャンバスに向かう。

トクン、と。
胸が小さく音を立てた。

でもそれはとても穏やかで。
込み上げてくるような切なさとか。
胸の奥がきゅっと狭くなって、泣きたくなるような心のざわめきはもうなかった。
あんなにも佐倉くんのことを好きだと思ったのに…。




ああ…そっか。


想いがここにあるからだ。
伝えられなかった想いがまだここに残っているから、踏み出す勇気がなかった。
凛とした横顔とキャンバスに向かう真剣な眼差し。
溢れそうな気持ちをひた隠しにしてそればかり見てた。
ずっと、佐倉くんの特別なひとになりたかった。
彼の瞳が他の誰かを見つめていても。
私だけを見つめてほしかった。

でもそれを。
私は一度だって言葉にして、佐倉くんに伝えた事がなかった。







「佐倉くん」


そっと背中に呼びかけた。







「私ね。佐倉くんのこと…好き」





ピクリと。
キャンパスに置いた筆が止まった。




「そうやって絵を描いてる時の横顔が、大好きだった」






ずっと。ずっと口に出来なかった想いのかけら。
言葉にできなかった気持ちが。伝えられなかった言葉が。
ここに想いを残した。
私がずっと踏み出せなかったのは、佐倉くんにそれをきちんと伝えてなかったからだ。
言葉にしなきゃ気付いてもらえないのに。
言葉にしなきゃ伝わるはずがないのに。

凪ちゃんも。蒼吾くんも。佐倉くんも。
届かなくてもちゃんと伝えたのに。
私はやっぱり意気地なしだったんだ。



「今までありがとう」


ちゃんと言えた。

下を向かずに、泣かずに。笑って。
もう弱虫は返上したから。



「ましろちゃん…少し変わった?」
「うん」
「俯くことが減った」
「うん」
「でも…ごめん。俺、日下部のことが好きだから」


「…うん。知ってる」


その答えをちゃんと聞きたかった。
佐倉くんの口から。




「ましろちゃん、ありがとう」




佐倉くんが笑った。






To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(7) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-7-
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Last Season  魔法のコトバ -7-

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「絵。駄目になっちまったな」
ポツリ、と声が落とされた。

どれぐらいそうしていたのかわからない。
どれぐらいの時間が経過したのかもわからない。
優しく背中を撫でてくれる大きな掌が心地よくて。
抱きしめてくれる確かな体温にひどく安心して。
気がつけば穏やかな気持ちで、その腕の中に包まれていた。
そこだけ時間から切り取ったような静寂な空間の中に、ふたりだけがぽつんと浮んでいるような。そんな錯覚に陥る。


───静か…。

ポチャン、と。
水道の蛇口から滴る雫の音が、やけに鮮明に聞こえた。



「もう平気か?」


すぐ耳元で囁かれた。
嗚咽と共に浅く短く繰り返された呼吸は。
いつの間にか落ち着きを取り戻し、ようやく深く息をすることができた。
もう大丈夫。
そう思えたから頷いた。


「そっか」


よかったって。
短く呟いて体をそっと離された。
これ以上抱いてるとやばそうだから。って。

見上げた私の視線を途切れさせて。
その意味を理解したらまた体温が上がった。
居心地が悪そうに視線を泳がせて下を向いたら、パチンと電気が灯る音がした。
あまりの眩しさに思わず目を瞑り、それに慣れるのに数十秒かかった。
ようやく目が慣れてじわりと瞼を開けると、それがひどく重いことに気付く。



「…ひっでー顔」
蒼吾くんが笑った。
「それに…。ひっでー部屋…」
そして呆れたように部屋を見渡した。

水浸しのシートの上に腐敗したように変色したキャンバス。
投げつけてバラバラになった絵の具のチューブ。
色が溢れたパレットに、転がった刷毛や筆。
床一面に広げられた無数のデッサンに美術書。
蛍光灯の青白い光に照らし出された光景は、あまりにもひどかった。

「もしかして…あれ、投げた?」

散乱した絵の具を蒼吾くんが指差した。

「…う、ん…」

今さらながら、自分のした事が恥ずかしくなって俯く私に。

「園田にも、そんな激しい一面があるんだな。想像つかねぇけど」
ちょっと見たかったかも、って。
嫌味っぽく口の端を持ち上げて笑う。


「さて、と。
これを片すのは大変そうだけど…。とりあえずやるか!」
気合を入れるように軽く膝を叩いて立ち上がると、床に座り込んだままの私に手を差し伸べた。
「あまり遅くまで描くなよ?特に凹んでる時の暗闇はよくない。描くなら陽のあるうちに描け!カビる!!」
「…なにそれ…」
偉そうに踏ん反り返る蒼吾くんがおかしくて、私は笑った。
「さっさと片付けて帰るぞ。送ってやるから」
いつまでも座り込んでいる私の腕を掴んで、力強く引っ張り上げた。




「…ごめんね」
黙々と作業を続ける蒼吾くんの背中に呟いた。
「制服。濡れちゃったね」
そっと指差した私に、ああって笑う。
「これくらいいいよ。すぐ乾く」
乾くって…。冬なのに。
その前に風邪引いちゃいそうだよ。

「なぁ。園田」
「うん」
「さっきの話。佐倉が東京に行くってやつ。あれ、ほんとか?」
シートの上の水を拭き終えた布をきつく絞りながら、蒼吾くんが聞いた。

「…うん。お父さんがあっちにいるから…戻るんだって。ほら。佐倉くんって、もともとあっちの人でしょ?四年生の秋に転校してきたから」
「あ〜…。そうだっけ。そういえばアイツ、俺らとちょっとイントネーションが違うよな?標準語クサイし」
「そっかな…」
そんなの気にしたこともなかった。
だけど。思い返してみれば確かに、彼は言葉がとても綺麗なんだ。
それは彼の持ち味なのかもしれないけど。

「そっか。アイツ、東京戻るのか」
「知らなかった?」
「知らねぇよ、そんな話。俺、アイツとは友達でも何でもねーし」
「…なにそれ」
「アイツは昔から気に食わん」
「どうして?」
「どうして…って。それをお前が聞くか?」
近くにあった美術書を持ち上げた蒼吾くんがふくれっ面で、私を振り返った。
「アイツがお前のことを特別扱いすんのも、お前のことだけ名前で呼ぶのも、ずっと気に入らねーんだよ」
ぶっきら棒な物言いは蒼吾くんの照れ隠し。
子どもみたいに拗ねて残りの美術書を拾い集める。
「でも…。アイツはやっぱりお前にとって、まだ、でっかい存在なんだな。悔しいけど…」

私は。
佐倉くんがいなくなってしまうという事実に。
居場所を取り上げられた子どものように拗ねて、混乱して、自分を見失った。
足もとが危ういまま急に目隠しをされたような感覚に陥って、簡単に崩れた。


でもね。

それを蒼吾くんがひっぱり上げてくれたんだよ?
呼吸もままならないくらいに苦しくて、虚しくて。いくらもがいても出口さえ見つけられないような空間からいとも簡単に。
いつもひとつ先にいて、振り返って手を差し伸べてくれる。
蒼吾くんのそばなら深く深く息ができる。
どこまでも高みに登って行ける。
そんな気がしてならない。



「これ…───」

集めた美術書を隅に寄せていた蒼吾くんの手が何かを見つけた。
「佐倉くんの絵だよ。ちょっと借りてたの…。すごいよね」
積み上げられた美術書の横にそっと置かれた小さなキャンバス。
私が初めて目にした彼の絵。
柔らかいタッチの筆使いと彼独特な色彩が大好きで、一枚だけこっそり借りてきていたもの。

「…なんで?」
「え?」
「俺、美術とか芸術の分野ってよくわかんねーから偉そうなことは言えないけど。絵ってさ、自分の目に映るものを感じたままに描きだせばいいんじゃねーの?
そりゃ佐倉の絵はすげーかもしれないよ。素人の俺から見たってアイツの技術がすげーのはわかる。
でもだからってそれを真似る必要はねーし、比べる必要もない。だって園田と佐倉は違う人間だろ?園田は園田の感じたままを描けばいいじゃん?別にプロじゃないんだしさ。そんなに気負う必要なんてねぇよ」
「……………」
「初めて園田の絵を見た時さ、すげぇって思った。技術とかうまさとかじゃなくて、何ていうか…。絵に込めた気持ちがすげぇなって。
正直、勝てる気がしなかったよ。お前の佐倉を想う気持ちにも、そこまですごい絵を描かせる佐倉っていう存在にも。
そういう絵が描ける園田にだからこそ、頼んだんじゃねぇの?佐倉の代わりなんかじゃなくて、お前自身に」
何か言おうと思うのに、声にならない。
思考が頭の中で渦巻いてぐちゃぐちゃだ。

「引き受けちまったもんはどうしようもないんだから、できる限りやってみるしかないだろ。今が辛くても頑張った分、答えが返ってくるからさ。努力は無駄にはならねーよ。
ほら、見てみろ」
そう言って大きな掌をかざした。
それは豆がつぶれて皮が剥けて。それを何度も繰り返したゴツゴツと分厚い掌。
蒼吾くんの努力の証。


「できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかなんだよ。やる前から諦めてたんじゃ、目的地には絶対辿りつけないだろ?
絵、やれよ。もう一度、頑張れ。諦めたらそこで終わりだぞ?次なんてないんだ」
大きな体を折り曲げて足元にあった何かを拾い上げると、それを私に握らせた。


「ましろって名前…すげーおまえらしいよ。真っ白で汚れてなくて。
時々、他の色に負けて染まってしまう時もあるけどさ、本質はやっぱり白だよ。濃い色だって淡く優しい色に変えてしまう。
園田にはそんな力があるよ、マジで───」


そっと開けた手のひらには一本の絵の具のチューブ。
スノーホワイト。
涙に滲んで白の色が溶けた。


「もう一度、俺に見せてよ。園田の目に映る世界を」

私の心を優しく包みこんでくれた蒼吾くんのコトバは。
どこまでも優しく果てしない空の蒼のような気がして。
心に沁みた。











「いってきまーす」

いつもより早く家を飛び出して外の空気を吸い込むと、マフラーをもう一度きつく巻きなおした。
凛と張った空気が背筋をピンと伸ばしてくれる。
冬の空だというのに。
その日見上げた空はどこまでも果てしなく青くて。
ただ、ただ、目に沁みる。

「冬の空でもこんなに晴れることってあるんだ…」

吐き出した言葉が、白い息と共に空に溶けた。
庭先に植えられたスノードロップは、すっかり満開の時期を終え、来年の冬へ備える。
道路の脇にひっそりと揺れるタンポポの蕾が、春の足音を連れてくる。
明けない夜がないように、冬だっていつか終わりを告げる。
頬を撫でる風はまだ冷たいけれど、確実に春は近づいている。
私はずっと張り詰めたように下を向いていたから。
ほんの小さな周りの変化に、ちっとも気付かなかった。



下を向くな。顔を上げろ。

蒼吾くんのコトバはがつんと心に響いた。
ずっと下を向いてた私の顔を上げさせた。
久しぶりに見上げた空は、びっくりするぐらい青くて。眩しくて。
心を奮わせる。









「あぁぁーーーっ!!どうしたの、これ!?」
顧問の清水先生が悲鳴混じりの声を上げた。
「バケツの水を、ひっくり返しちゃったんです…」
こうなるまでの自分の間抜けな経緯を先生に話した。
感情のままに絵の具の箱をぶつけたことは話さなかったけど。
これ以上、先生を困らせたくない。

「こうなっちゃったものは、もうどうしようもないけど…」

どうしようかしら、と頬に手を当てて大きなため息を落とす。
もう卒業式まで半月もないから。


「先生」
「ええ」
「私…描き直したいんです」
「そうね…。これを復元するのは無理そうだから、描き直してもらうしか…」
「いえ。違うんです。最初からすべてやり直したいんです。デッサンを起すところから」
「今から!?」
弾かれたように私を振り返った。
「はい」

私は強く強く、ただひたすらに先生を見つめた。
掲げた想いはもう決して揺るがない。
もう決めたの。
蒼吾くんが背中を押してくれたあの日に。
どうしても描きたいものが、確かに私に見えた。


しばらくじっと私を見つめて、それを感じ取ってくれたのか、先生が深く息を落とした。
「でも。もう時間はあまり残ってないのよ?大丈夫?途中でやっぱり描けないなんてできないわよ」
「やれます。どうしても描きたい絵があるんです」

どうしても伝えたい人がいる。
伝えたい想いがあるから…。

「…そう。それなら頑張りなさい」

先生、信じてるから。と、優しく微笑んだ。



───「もう一度、俺に見せてよ。園田の目に映る世界を」───




この絵が出来たら想いを彼に伝えよう。
全部、全部。
これをやり遂げたら。
私はそう心に決めた。






To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(7) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-6-
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Last Season  魔法のコトバ -6-

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「どうしたんだよ、これ──────」
驚きを隠せない声が空から降ってきた。
薄く開いた扉の向こうに蒼吾くんが立っていて。
「やばいだろ…っ!」
硬質な声が鼓膜を揺らして、座り込んだ私のすぐ横を風が抜けた。
斜めがけにしていたでっかいスポーツバッグを乱暴に放り投げて、手洗い場にかけてあったタオルや雑巾をかき集める。
制服の裾が濡れるのなんて全く目に入らないかのように、無心に座り込む大きな蒼吾くんの背中。
それをまるで他人事のように呆然と見つめる自分が、ひどく虚しく思えた。



「何やってんだよっ、園田っ!! 絵がダメになるぞっ! 早く!」


焦りと苛立ちを込めた声が投げつけられた。
振り返ることもせずに、ただ水を拭き取る作業だけに神経を集中させている。



だって。
もうそれは、濡れていてもそうでなくても駄目な絵なのに。
もう、どうしようもないのに。
そんなの今さらやったって虚しいだけだから。
私は首を横に振った。



「もう…どうにもならないよ…」
「そんなのやってみなきゃわかんねーだろっ? ぐちぐち言ってる暇があるんならこっちきて手ぇ動かせ!」

ほら早く! と、タオルが投げ込まれた。

「…もう、いいから……」

小声過ぎて蒼吾くんの耳に届かず消えた言葉に、虚しくまた振り返った。

「早く!」







どうしてそんなに一所懸命なの?
床に膝を付いた制服のズボンやブレザーの裾がひどく濡れている。
それに目もくれず蒼吾くんは必死だった。
もう、どうでもいいのに。
こんな弱虫でうじうじした私なんて、放っておけばいいのに。





「もう…いいからっ!!」


気がつけばとんでもないくらいに大きな声が出ていた。
空気がじんと揺れた。





「………園田? どうしたんだよ…」


初めて私の異変に気付いて、蒼吾くんが手を止めて顔を上げた。
困惑の瞳が私の視線を絡め取る。


こんなときになんで蒼吾くんなんだろう。
この人にはいつも弱いところばかり見せてしまう。
いいところなんて見せられた試しがない。
それでも蒼吾くんは私が好きだって言ってくれる。
どうしてかわからない。
こんなに弱くて惨めな私が、それに応えられる資格なんてないのに。




「…もう…、もう、いいの……っ」



「いいって、なにが?」


全ての動作をピタリと止めたまま、痛いぐらいに真っ直ぐに見据えて私に問う。


「最近のお前、変だぞ?」

お前らしくない、って。
またその疑問を投げかける。


「大事な絵がこんな事になっちまって、テンパってるのはわかる。でも早くしねーと本当に取り返しがつかねぇことになる──────」
「違う…、違うから……っ」
「なにが?」
「…もう描かない」
「は?」
「もう絵なんて、描きたくない…。描けないよ……っ」

情けないくらいの本音が腹の底から搾り出された。


「…なんで私なんだろうって、ずっと思ってた…。佐倉くんの絵の方が遥かにすごくて、才能に溢れてるのに……っ。なんで、なんで……っ」


一度、堰を切って溢れ出してしまったそれは留まることを知らないかのように吐き出されていく。

「こんなことになったってならなくったって、こんな絵、もうどうしようもないんだよ…。
自分らしいって何? どうやれば気持ちがこもった絵が描けるの?
私が教えて欲しいくらいなのに、みんなは私らしくやればいいからってそればかり。
私って何? どういうのが私なの!? 私なんてただの弱虫で、卑屈になってて、ひとりでは何も答えを見出せなくて……。そんな私が自分らしい、いい絵なんてかけるはずがないじゃない…っ!!」




止め処なくぶつける暴言に、何がなんだか分からないみたいにして私を見やる蒼吾くんから顔を背けた。
呆れてる。
嫌われたかもしれない。
それがわかっているのに、止まらなかった。


「佐倉くんが東京に行かなきゃ、こんな話、私には来なかった…。佐倉くんの代わりなんてできっこないよ…っ。
…こんな絵…引き受けるんじゃなかった…っ」


目的地は遥か遠く。
それは確かに見えてるのに、たどりつけない歯痒さといったらない。
涙が溢れた。
あんなに涸れるほどまで泣いたのに、涙はどこから沸いてくるのだろう。
私の弱さがそれになって溢れてくるようで、悔しくてきゅっと唇を噛んだ。








「──────お前、サイテーだよ。それ」


心の底から呆れたようにでっかいため息が落とされた。


「自分でやるって引き受けたんだろ? それなら最後まで責任持ってやれよ。途中で投げ出すな」


心の一番深いところに重石のような何かを落とされたように感じた。
蒼吾くんはひどく呆れてる。
今までに聞いた事のないような低くて淡々とした声が、鼓膜の奥を強く揺らした。
ザッとブルーシートを踏みしめる乾いた音がした。


「佐倉の代わりなんて誰が言ったんだよ? 佐倉と比べてんのは自分だろ?」


敷き詰めたシートを踏みしめて、その足を私の前で止める。
どこまでも真っ直ぐに見通すような瞳が私を見下ろすから、息が詰まりそうになって私は下を向いた。
ただ押し黙るように私の言葉を待って。待って。
それでも返ってこない現実に、苦虫をかみ潰したような顔で蒼吾くんが告げた。



「前にも言ったよな、オレ。園田はずるい。いつも逃げて、下を向いてばっかりで、って。
それを待ってるやつのことを一度でも考えたことがあるか? ちゃんと周りが見えてるか? 足元ばっか見てると大事なものも見落としてしまうぞ」


怒ってない、だけど、優しくもない。
淡々とした声が近くに聞こえて、ぼやけた視界に彼の薄汚れた上靴が見えた。
濡れた膝を折り曲げて私の前に座り込む。
差し出された大きな手のひらが視界に溶けて、両手で私の頬を包み込んだ。
急に強く顔を上げられた。
正面からジッと私を見据えて、その瞳に自分が映っているのが確認できるほどに私を見つめる。

すぅ、と。大きく息を吸い込んだ蒼吾くんが、力強く叫んだ。



「しゃんとしろって! 顔を上げろ! 自信持てって──────!!
お前、自分で思ってるほど弱くねぇよ。強いよ、お前。
小学校でいじめられてた時も、腹が痛くても貧血で倒れても、お前ほとんど学校休まなかっただろ?
安部をチクった時も。あんなに嫌なことされたのにオレやアイツを責めなかった。
佐倉のスケッチブックを見たときだって、お前、泣かずに笑ってたじゃん。触れたら糸が切れて今にも泣き出しそうな顔してんのに、平気だって笑う。すげーって思った。強いって、思った」


あまりに蒼吾くんの目が真剣さを湛えて私を見つめるから、捕らわれているみたいに、それから逸らせなかった。
穏やかなトーンで優しく言葉が落とされた。


「オレ、ちゃんと見てたから。そういうお前。
小さくて、ちょっとでも吹けば簡単に飛ばされそうなぐらい危ういのに、ちゃんと芯は強い。ずっと見てたから──────」


優しい空気が私を包み込むように鳴っている気がした。
柔らかく穏やかな声で呟くそれは、確かな優しさで私を包み込む。


「ダメだって思うなら、いつだって頼ってくれていい。手を伸ばせ。頼りねぇかもしれねぇけど、オレ、ちゃんとお前を支えてやるから。
だからもう、そうやってひとりで泣くな」



瞼の上に影が落ちて蒼吾くんの気配を感じた瞬間、全てを包み込むようにその腕に抱きしめられた。
背中に触れた熱い腕が強く抱いた。




「園田にないのは実力じゃない。自信と勇気だ。できないって諦めて下を向いてしまう前に、自分の出来ることを探せ。
お前ならできるから…。頑張れ─────!」





優しく抱きしめてくれる腕は広くて温かくて。
卑屈になって凍り付いていた私の気持ちを柔らかく溶かしてくれる。
その感触の確かさと、体温にひどく安心して、涙が溢れた。
溢れて、溢れて。
止まらなくなった。



蒼吾くんのコトバはいつも魔法だ。
がつん、って。
私の一番深いところに響いてくる。
飾らない、どこまでも強く真っ直ぐな気持ちをそのままコトバに乗せて、私に投げかけてくる。
時にはそれにひどく傷つくこともあるけれど。
心の一番奥に、簡単に入り込んで心を強く揺さぶる。




言葉をうまく紡ぐことができなくて。呼吸さえもうまくままならなくて。
全部の不安を吐き出すみたいなため息の後に、止め処ないほどの涙が溢れた。
今まで溜め込んでいた不安や嫉妬。
当たり前のようにあった存在がなくなってしまう戸惑い。
ひとりでは抱えきれなくなった周囲の期待とプレッシャー。
全部が弾けて、溢れた。





「…う……ぁぁああ……っ……っ」




全てを吐き出すように声を上げて、ただ。ひたすらに泣いた。




しゃくり上げるように嗚咽を漏らして震える体を。
蒼吾くんはまた、強く。強く。
抱きしめてくれた。












To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(7) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-5-
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Last Season  魔法のコトバ -5-

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どれぐらい泣いたのだろう。
とっくに陽の落ちた準備室は薄ら暗かった。
灯りがないだけで部屋が随分と寒く思えて、羽織ったカーデガンの前をそっと掻き寄せた。
ずずっと鼻を啜り上げて、膝に埋めた頭を起すとぐらりと揺れた。
体中から水分が蒸発したかのように喉がカラカラだった。
絵の具をもらったら、今日はもう帰ろう。
そう決めて立ち上がろうと膝に力を入れた。
ふと窓辺に視線を泳がすと、存在を主張するかのように三脚に置かれたままのキャンバスが視界に溶けた。
その隣には束になっているパネル。
私がしばらくここに顔を出さなかった間に、佐倉くんの絵は数を増していた。


今、佐倉くんはどんな絵を描くのかな───。


覗き見たのは、ほんの好奇心だった。




それはたくさんの色彩の溢れた絵。
赤。紅。橙。朱色。桜。蜜柑。カナリア。
たくさんの暖の色が溢れていて、そっと触れたくなるような熱を持った色。
ただ暖かで優しかった。
佐倉くんの想いが迫り来て胸を熱く焦がす。
なんて迫力があるの?
私にはない天性の才能。
独特の色使いや、自由で思い切りのいい筆運び。
繊細に絡まった感性。

夕暮れの美術室───それは私が描いている絵と同じ構図。
けれど全く違うもの。
溢れんばかりに窓から差し込む夕暮れの色に、教室が溶けてしまいそう。
佐倉くんがずっと見てきた、ずっと過ごしてきた空間がそこに再現されていた。
この絵が佐倉くんそのもの。
準備室という空間とそこで過ごしてきた時間が、愛しくてたまらない。
そこからいつも見ていた窓の向こうのかの人が、愛おしくてたまらない。
彼の気持ちがひしひしと伝わってくる。
たぶんこれがここで描ける最後の絵。
彼の持てる全てを色に込めて、今まで歩んできた軌跡と共に一枚の絵に託した。
私には描けない気がした。
こんな絵、とうてい描けっこない。






気がついたら部屋を飛び出していて、そこから逃げた。
足がもつれそうになるくらいに走って走って、会議室まで飛び込んで乱暴に扉を閉めた。
溢れる涙を堪えながら唇を噛んで上を見上げると、ぼやけた視界に描きかけのキャンバスが飛び込んだ。
ただ大きいだけの、深みも迫力もない絵。
見上げたそれは大きいのに、ちっとも存在を感じられない。
薄っぺらくて厚みも迫力もない。
ただ上辺だけを見て、デッサンして、色を乗せた。
先生が言っていたのは当たっている。
だから悔しかった。辛かった。
佐倉くんの絵を見て初めて分かった。
先生が言った意味が。
私にも見える。
この絵が「自分のない死んだ絵」なんだって───。




もうこの場から逃げ出したくて。
早くここから抜け出したくて。
ろくに確認もしないで足元のバケツを持ち上げた。

もう帰ろう。
もう絵なんて描けっこない。

ちゃぷんとバケツの水が跳ねた。
フッと影が動いた気がして私は弾かれたように振り返った。
あ───!と思って手を伸ばした時は、遅かった。
ズッと床が鳴って大きなパネルが傾いた。
それはそのまま鈍い音を立てて床滑りして、ガタンッと派手な音を立てて水平に横たわった。
それを阻止しようと伸ばした手だけが虚しく宙を切る。
何も考えずに伸ばしたその手に、バケツを握りしめていることなんてすっかり忘れて。




「う、そ…っ」




転がったキャンバスの上に、見事にその濁った水をぶちまけた。
溶解度をとっくに通り越した黒に近い絵の具の水が、どんどん絵を侵食していく。
「うそ…やだっ……やだっ……っ」
その辺にあったボロ布をかき集めて必死で水を吸い取るけれど、黒の波紋が絵に広がるばかり。
拭けば拭くほどそれはひどくなって。
絵が。自分が駄目になるような気がした。
キャンバスの白が穢されていく。
それはまるで自分自身の心のようにドロドロと渦巻いた気持ちが、綺麗で純真な部分を侵食していくような奇妙な光景だった。



気がついたら。
水を拭き取る手が止まっていた。
呆然と侵食されていく絵を見下ろす。
もう、どうでもいい。







これは私だ。




───『絵は、描く人の心を映すから』

いつか佐倉くんが言った言葉が頭の中で木霊する。





ひどくて。惨めで。情けなくて。
嫉妬じみたドロドロとした感情が心を支配していく。
私そのものだ。
蒼吾くんはいつもがむしゃらに頑張っているのに。
レギュラーになれるかもしれないって、嬉しそうに笑った彼に。
心から素直に、おめでとうって言ってあげられなかった。
それさえ眩しくて、羨ましくてたまらない。
自分はちっとも進歩がなくて、頑張れなくて、弱虫のままなのに───。
なんだか、蒼吾くんに置いていかれるような気がした。



「…もう、絵なんて…っ!!」



描けるはずがない。
そんな器じゃないって、最初から断ればよかった。
弱虫な私にはできっこない。
そんなの最初からわかってたはずなのに───。



脇腹がキリキリ痛んで吐き気が私を襲った。
悔しくて、悔しくて。
拾い上げた絵の具の箱を思い切りそれにぶつけた。
ベコッってキャンバスが凹む鈍い音がして、絵の具がバラバラと床に散ばった。






「…っ、く…っ…うう……っっ」





涙が止まらない。
人の才能を羨ましがって、嫉妬して。
そんな自分が嫌で堪らないのに、一度卑屈になってしまった心はそう簡単にそこから抜け出せない。
自分がみえない。
渦巻くようなドロドロとした気持ちに心が支配されていく。
キャンバスはまるで私だ。
白が穢されていく───。









キィと小さく音を立てて風が動いた気がした。





「…園田───?」










To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(6) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-4-
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Last Season  魔法のコトバ -4-

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デッサンの最終締め切り。
ギリギリまで頑張ってはみたけれど、結局、納得のいくものは描けなかった。
「じゃあ、この絵で行こうかしら?」
先生が選んだのは美術室を描いた風景画。
キャンバスを立て掛けた夕暮れの美術室に、ふわりとカーテンが揺らめくそんな空間。

「園田さんはどれで行きたいの?」
どれもピンと来ない。
「それで…いいです…」
曖昧に笑って答えた私に、先生はちょっぴり寂しそうにため息を零した。
「別に“いいもの”を期待してるんじゃないの。あなたらしい絵を描いてくれればそれでいいから」
ちゃんと自分に納得できてる?
先生が聞いた。

私らしいってなんだろう。
その答えが見つかっていないのに、自分らしい絵なんて描けるはずがない。
周りが評価してくれた春の絵。
あの時はただ、がむしゃらに佐倉くんへの想いをぶつけた。
行き場を無くした気持ちは、絵の上でしか想いをぶつけることが出来なくて。
溢れた想いが荒れ狂って白い紙の上に恋の色を描いた。
何かを忘れたくて、眠れないほどに絵に没頭した。

気持ちばかりが焦ってしまうのに、時間は待ってくれない。
無常にも刻々と時を刻んでゆく。
佐倉くんがいなくなってしまうタイムリミットは、もうそこまできているのに、私はただ、絵を描くことしかできない。
去り行く彼に、何をしてあげられるのだろう…。
「あと少しだから…頑張ってね」
優しく肩を叩いてくれた先生に私はただ、困ったように笑うことしかできなかった。












ふと新しい色をパレットに乗せようと筆を置いて、絵の具のチューブに手を伸ばす。
欲しかった藍の色は使い切ってしまっていて、チューブはすっかり空になっていた。
ため息をひとつ落として制服の上から着用していたエプロンを取り外し、新しいチューブを取るために準備室へ向かった。
とっくに活動時間を追えた美術室の鍵は固く閉じられていて、私は仕方なく鍵を取りに職員室へ足を運んだ。
保管庫から目的の鍵を取り出して、使用ノートに自分の名前を記入する。
顧問の清水先生にもう少しだけ残る事を告げて行こうと、職員室へと続く扉に手を掛けかけた時。
ふと声が漏れた。


「園田はまだ頑張ってるんですか?」
自分の名前が上がったことに扉に触れかけた手が躊躇した。
「ええ。毎日、遅くまで頑張ってるみたいですよ」
若い女の先生の声。
しっとりと艶のある声で、それがすぐに顧問の清水先生だと分かる。
「アイツ、大丈夫ですかね?」
野太く低い声の男の先生は、担任の新垣先生。
曇りガラスの向こうにでっかい影が揺れた。

「園田は精神的に弱い面がありますから。最近、結構参ってるんじゃないかと思いましてね」
「新垣先生、よく見てらっしゃる」
清水先生が小さく声を立てて笑った。
ほんと。
ちょっとびっくりだよ、先生。

「頑張ってますよ、彼女」
「そうですか。それを聞いて安心しました。園田は精神的に参ると、すぐに腹痛を起したり貧血で倒れたりしますから…」

心底、安堵の声を漏らし、苦笑混じりにそう告げた新垣先生に、清水先生が躊躇いがちに言葉を続けた。

「───でも…」
「でも?」
「春の絵。あれは確かにすごかったんですけど、あれ以来、勢いがないというか」
「…ああ。学祭の。あれはすごかったですね。園田の隠れた才能を発見したというか。職員の中でもなかなか好評だった」
「確かに彼女の感性には目を見張るものがある。同じ一年の佐倉くんに、負けず劣らずだと思います。
でも今の彼女の絵には自分がない。絵に心がこもっていない。
ただ上辺だけを見て、デッサンして、色を乗せて。ただの機械的な絵。そんな気がしてしまって…」
「難しい年頃ですからね。この時期の子どもたちは」
「あの子は、すぐに精神面が絵や色になって現れる。
それが恋の色を浮かべた透明感溢れるものだったり、ひどく荒れて影を落としていたり。不安定です」

先生からため息が零れた。
それが深く、私の心を抉(えぐ)る。

「やはり、佐倉に任せた方がよかったんでは…」

その声に弾かれたように顔を上げた。
知らず涙が溢れる。


「そうですね。そう思った時期もありましたけど……。
私は彼女を信じます。やれば出来る子ですから。乗り越えられない何かがある時だからこそ、園田さんにはやって欲しい。ひとつの大きな課題をやり遂げる事によって、彼女の自信になればいい。そう思っています」

静かにそう告げた清水先生の声が、いつまでも私の鼓膜を揺らして離れなくなった。











誰もいない扉の鍵を開けて準備室に入ると、静かにそれを閉めた。
壁に背中を預けると力が抜けて、音もなく床に沈む。
唇をきつく噛み締めて上を見上げたら、天井がゆらりと滲んだ。
涙が溢れないようにいっそう唇を強く噛み締めても、とめどなく溢れるそれは止まることを知らない。


悔しいのか。悲しいのか。それさえもわからない。
一度卑屈になると、それがどんどんと深みに嵌っていく。
抜け出せなくなることはわかってる。
それが自分の弱い部分なのも。
詰(なじ)られたわけじゃない。
むしろ弱い自分にエールを送ってくれている、そんな言葉だったのに。
なのにどうしても心が弱っている時は、悪い言葉ばかりが耳に残って、脆(もろ)い私の心を簡単に抉ってしまう。


自分のない絵。自分のない作品。
自分のない私───。
いつか蒼吾くんが言った、他人に依存している自分。


ましろのしろは真っ白のしろだ。
自分がなくてどこまでも真っ白でぼやけている、そんな白。
大好きだった名前が、急に色あせて見えた。
もっと暖かみのある名前や、ちゃんと色のある名前だったらよかったのに。
蒼(あお)を名前に持つ蒼吾くんのように、私にも色があったら。
もっと違う自分になれたのかな。
蒼吾くんのように背筋をピンと伸ばして、颯爽と空を見上げて。
それに浮ぶでっかい太陽のように堂堂と胸を張って笑えたのかな。





悔しくて悔しくて。
かかえた膝に顔を埋めた。
抱え切れなくなったプレッシャーと自分への戸惑い。
背けたくなるほどに自分の弱さが嫌になる。
いろんな負の感情が一気に押し寄せて、私を押し潰す。



暗がりの中でひとり。
うずくまるようにして、私は泣いた。






To Be Continued

魔法のコトバ*  Last Season  comments(4) -
魔法のコトバ*  Last Season 魔法のコトバ-3-
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Last Season  魔法のコトバ -3-

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結局、私は。
背中を押されるまま、卒業制作を引き受けた。
「園田さんなら、引き受けてくれると思ったのよ。よかったわ〜」
嬉しそうに笑って、先生は絵を描く特別教室を設けてくれた。
旧校舎の一階奥。
美術室と正反対側にある会議室。
そこへブルーシートを敷き詰めて、大きなキャンバスが用意された。
人ふたりが両手を広げたぐらいの大きなサイズ。
正直言うと。
初めてキャンバスを目にした時、早まった事をしたかなって思えるぐらいにその大きさに圧倒された。
エントランスホールの絵と同じサイズなのに、絵がないだけけでこんなに大きく、存在がのしかかってくるなんて。
私は思わず息を飲んだ。


「テーマは“学び舎”。ようするに学校ね。
学校を題材としたものであれば、風景でも人物でも何でもいいから。とりあえず描きたいものを探してデッサンして、一度先生に見せてくれるかしら?」
「はい」
楽しみにしてるわね、そう言い残して廊下の向こうに消えた。
心なしか見送った背中が嬉しそうな気がした。

ひとりになるとひどく教室が広く思えた。
特別教室が多い旧校舎は、授業を終えてしまうとやけに静かだ。
遠くから吹奏楽部のラッパの音が微かに聞こえた。










描きたい題材を探して、探して。
私はひたすらにデッサンし続けた。
校庭。
夕暮れの教室。
屋上から見える景色。
体育館やエントランスホール。
バスケットコートにプール。
校舎。
黒板。
登下校の風景。

目に映るもののすべてを。
溢れるキモチのすべてを絵に描き出して。
デッサンして。考えて。
それでも気持ちに力が追いつかない。
時間が影のようにずっと、私を追いかけてくる気がした。



「園田さん、ホールの絵やるんだって?」
「一年なのにすごいね」
「頑張ってね!応援してる」
屈託ない笑顔で励ましてくれるクラスメイトに曖昧な笑みを返して、私はまたキャンバスのある会議室へ向かう。
右手には鞄よりもひと回り大きなスケッチブック。
三学期に入ってから二冊目になる。
ひたすら校内を歩き回って、描いて描いて描きまくったのに。
心に響く題材が見つからない。
描きたい何かが見えてこない。
ただ感じるのは、周囲の期待を込めた眼差しとそれに答えなきゃと気負うプレッシャー。
時折、それに押しつぶされそうになる。
締め切りは、佐倉くんがいなくなってしまうタイムリミット。
いいものを描かなきゃ。
佐倉くんと、この学校を去り行く先輩達へのはなむけに。
いいものを……。




ふと見上げたら空が張り詰めていた。
頬をさらう風が随分と冷たくて、マフラーをきつく巻きなおす。
それに顔を埋めて、すっかりかじかんでしまった手をそっと擦り合わせる。
はぁ、と息を吹きかけると、白い息が手のひらに落ちた。
「園田?」
聞き覚えのある声に、あ…と思って顔を上げると、心配そうに覗き込む眼差しと目が合った。
「何やってんの?」
ユニフォームの上にスタジャンを着込んで、薄っすらと汗をかいた顔で蒼吾くんが覗き込んできた。
マフラーをぐるぐる巻いて、分厚いダッフルコートを着込んでいても寒いのに、寒さなんて微塵も感じないかのように顔が赤く上気してる。
「座り込んだまま動かねぇからさ、凍ってんのかと思った」
目深にかぶっていた野球帽を脱いで、ガガッと髪を掻きあげると、意地悪っぽく口の端を持ち上げて笑った。
「部活中じゃないの?」
「ん。休憩中。グランド10週してきたとこ」
そのままドカッとベンチに腰を降ろした。
蒼吾くんの気配を身近に感じて、一瞬、身を縮こまらせた私を見て苦笑した。
「描くもの決まった?」
そう言って手元のスケッチブックを覗き込む。
「……まだ…」
私はまた、マフラーに埋もれるように下を向いた。
頬を撫でる風がひどく張り詰めている気がずるのに、なぜかそれが冷たく感じない。
きっと隣に蒼吾くんがいるから。

「そっか」

蒼吾くんが空を見上げた。
風が真っ白なページを攫い、パラパラと乾いた音を立てて捲れる。
二冊目になるスケッチブックは未だ真っ白なまま。


頑張らなきゃ。いい絵を描かなきゃ。
そう思うたびに。
「頑張って」「期待してるから」
そう言われるたびに、鉛筆持つ手が震えた。
期待を背負った鉛筆が鉛のように重く感じる。
周囲の期待というものに極端に弱い私の心が悲鳴を上げて、それをひた隠しにして蒼吾くんを追った。
どんな逆境にも強い、その姿を目に焼き付けたくて。
描くための勇気と力を分けて欲しくて。
気がついたらいつも蒼吾くんを追っていた。


「今度、春に練習試合があるんだけどさ」
黙ったまま何も言わない私に痺れを切らせてか、蒼吾くんが口を開いた。
「俺、レギュラー取れるかもしんねぇ」
「…ほんと?」
「たぶん、ほんと」
蒼吾くんが笑う。
「今までベンチ入りが精一杯だったけどさ、次はスターティングナインに選ばれる可能性があるから、頑張れって監督が」
「…すごいね。おめでとう」
私も笑った。

「だからさ、お前も頑張れ」
「…え…?」
「結構、遅くまで頑張ってるだろ?」
「………」
「園田の絵、すごかったからさ。お前らしい絵をまた描けばいいんだよ。頑張れ」
くしゃって、蒼吾くんの手が頭に触れた。
その体温を感じてトクンと心が揺れたけど、それを笑って返せなかった。


すごいって何が?
どんな絵がすごいの?
私らしいってなに?


私って…どんなの…?




物言いたげに見上げた私の気持ちに蒼吾くんが気付くはずもなく。
「あまり根を詰めんなよ?」
そう言って笑った。
何ともいえない感情の波が押し寄せて、涙が零れそうになって顔を伏せた。

私は蒼吾くんに、何て言って欲しかったんだろう。
蒼吾くんが私を好きだという気持ちに甘えて、過信して。
大丈夫だよって。
お前ならやれるって、抱きしめて欲しかったの?



「…園田?」
私の異変を感じ取って、蒼吾くんが表情を変えて私を覗き込んだ。
その肩越しに。
「コラァ!!夏木ーーっ!!女といちゃついてんじゃねーよっ。休憩、とっくに終わりだっ」
上級生からの罵声が飛んだ。
「すみませんっ!!今、行きますっ!!」
でっかく叫んで。
「…大丈夫か、お前…」
それでもまた私を覗き込む。
「大丈夫だから。行って?」
感情を押し殺して笑顔を浮かべて、バイバイって手を振ったら、また罵声が飛んだ。
それに短く返事をして名残惜しそうな表情を残しながら、グランドの向こうに消え行く背中を見送る。


「部活中にいちゃつくな!」
と守口くんに小突かれ、そんなんじゃねぇよ!とぶっきら棒に言い返す。
そのまま手渡されたミットとプロテクターを手早く装着すると、いつものようにキャッボールをはじめた。
冬の白く張り詰めた寒空にボールが弧を描く。
パシッってボールを受け止める音が、乾いた空に溶けた。




私の二冊目になるスケッチブックは、未だ真っ白なままだった。






To Be Continued
魔法のコトバ*  Last Season  comments(4) -
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