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Last Season 魔法のコトバ -9-
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心穏やかに大きく息を吐いて、胸にキャンバスを抱きしめた。
気持ちを伝えた後の気分は清々しく、窓の向こうの青空のように澄み切っていた。
もう一度、深く息をして頑張ろうと心に決めて足早に廊下の角を曲がったら。
大きな人影がそこに立ち尽くしていた。
「…よぉ」
いつものスポーツバッグを斜めがけにして、壁に背中を預けたまま蒼吾くんが私を見下ろした。
ビク、と私の体が強張った。
「…夏木くん…。どうしたの?こんなところで…」
野球部が切り上げるにしてはちょっと早い時間だ。
「…顧問が用があるからってさ、早めに切り上げ。園田、頑張ってるかなと思ってさ。ちょっと寄ってみたらお前、いなくて」
真っ直ぐな瞳が食い入るように私を見つめた。
「ずっとこっちにいたのか?」
「ううん。用があってこっちに来てたの」
「…絵、まだやんの?」
「うん…」
「そっか」
片手に握りしめていたペットボトルをぱしんと手に打ちつけた。
残り少なくなったスポーツ飲料がちゃぷんと音を立てた。
なんだろう。
いつものように言葉が続かない。
言葉の間合いがひどく不自然で息苦しく感じる。
奇妙な緊張感に小さく手が震えた。
手に持ったペットボトルを手持ち無沙汰に何度か手に打ちつけて、蒼吾くんは窓の外の景色に視線を泳がせる。
怒ってないけれど、ひどく不機嫌そうな横顔。
いつも笑っているでっかい口元が、きゅっと真っ直ぐに結ばれている。
それは言葉を発することはなく、ただただ、きつく結んだまま窓の外の景色を瞳に映す。
沈黙が妙に息苦しく感じた。
「それ、さ」
堪りかねて蒼吾くんが口を開いた。
「佐倉に、もらったの?」
胸に抱えている小さなパネルを指差さした。
真っ直ぐな視線が、私の握りしめたそれをじっと見据える。
…あ…。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
それはそのまま鼓動を加速させて、じわりと嫌な汗を流れさせる。
蒼吾くんのひどく不機嫌な理由が頭をよぎった。
もしかして───。
「話、聞いてた…?」
ぱしん。
ペットボトルを打ち付ける手が止まった。
聞いてないよって。
その答えを心のどこかで期待していたのかもしれない。
でもその言葉が、蒼吾くんの口から発せられることはなかった。
「聞くつもりなかったんだけど。…聞こえた」
苦虫を噛み潰したような表情で蒼吾くんが告げる。
「ごめん。俺…そういうの黙ってられないタチだからさ。聞いてないフリして平気でなんて…いられねぇから」
グッと気持ちを拳に握りしめて唇を噛み締めた。
その顔がひどく傷ついているように見えて、ドクリと胸が突き上げた。
どうしよう…っ。
私はすがるようにパネルをギュッと握りしめて蒼吾くんを見上げた。
空気がガラスのように張り詰めていて、少しでも扱いを間違えると一瞬で弾けて壊れそうだ。
頭の中でいろんな思考が渦巻いてぐちゃぐちゃになった。
何かを言おうと思うのに声にならない。
ごめんねって伝えたい。
でも、何に対して───?
「…夏木、くん…」
やっとの事で名前を紡ぎだすけれど後が続かない。
何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして。
蒼吾くんが手にしていたペットボトルがちゃぷんと小さく音を立てた。
視線がそらされる。
蒼吾くんの隣がひどく居心地が悪い気がして、息が詰まりそうだった。
「…くそっ!」
突然。
短く叫んで蒼吾くんが頭を掻いた。
がががって何かを振り切るように。
「───最初からわかってたんだ。お前が佐倉を好きなこと。
でも実際、それを口にするところを目の当りにしたら…さすがの俺でも、へこむ」
喉の奥につっかえていた言葉を吐き出すように言葉を続ける。
「…別に…お前を困らせようとか思って言ってんじゃねぇよ。ただ、すげぇショックだったつーか」
乱暴に視線を外して、胸につっかえるような気持ち悪さを全部押し流すかのように、手にしていたスポーツ飲料をググっと飲み干した。
見上げた視線の先で喉仏が上下するのが、やけにリアルに見えた。
「俺がお前の事諦めきれないように、お前だって佐倉への気持ち、そんなに簡単じゃねぇよな。もう、ずっとだもんな。小学校ん時からずっと…」
「…え…」
「って。俺、何言ってんだっ」
首の後ろに手をやって乱暴に頭を掻いた。
蒼吾くんがイラついているのが手に取るように分かる。
私の顔を見ようともしない。
どんなに視線を投げかけても、あの真っ直ぐな瞳に私が映ることがなかった。
「あ〜〜っ!もうっ。なしなし!今の、ナシなっ。
自分でも情けねぇぐらいテンパってる」
「夏…」
「悪ぃ。俺、今日はもう帰るわ」
深いため息と共に言葉が吐き出されて、顔も見ようともせず蒼吾くんが背中を向けた。
邪魔して悪かったな、そう告げて。
「じゃぁな」
背を向けたまま手を上げる。
「夏木くん…っ」
呼び止める声に耳も貸してくれない。
勝手だ。
まだ何ひとつ伝えてもいないのに、勝手に勘違いをして背を向ける。
くやしいって思った。
冷たい態度は痛いぐらいの蒼吾くんの本音。
それがわかっているのに、上手に受け止めることのできないもどかしさが悔しくて堪らない。
「待ってよ…っ」
それがひどく遠くに見えて涙で滲んだ。
「ちょっと、待ってってば…っ」
蒼吾くんがいなくなってしまうのは、絶対に嫌なのに───。
「───蒼吾くん…っ!」
気がついたら、大声で叫んでた。
じんと空気が震えた。
それに共鳴するかのように、ビク、と体を一瞬震わせて蒼吾くんの体が止まった。
「待って…っ。待ってってば…!話、ちゃんと聞いてよ…っ」
じわりと振り返った顔が大きく目を見開いて、食い入るように私を見つめた。
「…違うからっ。
佐倉くんに気持ちを伝えたのは今、佐倉くんが好きとかそんなのじゃなくて…っ」
涙で視界が霞む。
必死だった。
「小学校の時から佐倉くんの事が好きとかじゃなくて…っ」
思考回路がぐちゃぐちゃで、自分でも何を言っているのかわからない。
何を伝えたらいいのかわからない。
とにかく必死で。
言葉をうまく紡ぐ余裕なんてなかった。
「蒼吾くんがいたからちゃんとけじめ、つけたくて。だから私───」
「ちょ、待て。ストップ!」
ずいっと掌を目の前にかざして、言葉が遮られた。
「な。…今なんて言った?」
「え?」
一瞬、何の事だか分からなくて。
何秒か経ってから恐ろしくぼんやりと聞き返した。
「今、俺の事、名前で呼ばなかったか…?」
───あ…。
無意識だった。
必死で。とにかく必死で。
蒼吾くんの背中を見たら苦しいほどに涙が出て。
蒼吾くんに背を向けられるのが辛くて、苦しくて。
気がつけば必死だった。
自分が口走った言葉さえ分からないくらいに。
私は口元を覆った。
顔が紅潮していくのが分かる。
恐る恐る顔を上げて蒼吾くんを覗き見た。
そうしたら、同じように口元に手を当てて俯いてる姿が目に飛び込んできた。
え?…なんで───?
「…夏木くん?」
「あ、いや…」
耳まで真っ赤だ。
「見んなよ」
「え?」
「マジ嬉しくって……。俺、たぶん…ひでー顔、だろ───?」
コトバの意味を理解して、今度は私の方が俯いてしまった。
蒼吾くんの予想外の反応にどうしたらいいのかわからなくなって。
俯いたまま視線を泳がせた。
堪らなく胸の奥がきゅっとなって、気持ちが溢れてしまわないように唇を噛み締める。
ぱこん、って。
かかとを踏んだ上靴の音が鼓膜を揺らして、それがすぐ側で歩みを止めた。
「…園田さ。小学校ん時、お前だけ俺のこと苗字で呼んでたろ?覚えてる?」
遠くに行ってしまったはずの蒼吾くんの声が、すぐ側で聞こえた。
「あれ、結構ショックでさ。みんな俺のこと名前で呼ぶのに、何で園田だけ…好きなヤツだけ名前で呼んでくれないんだってずっとイラついてた。他のヤツなんてどーでもいいのに」
失笑混じりに続ける。
「隣の席になった時に密かに期待してたんだけどさ、呼んでくれねぇし。その後はあの事件だろ?期待は見事に崩れ去ったよ。
だから、すげぇびっくりした…。あまりにも驚きすぎて、怒ってたの吹っ飛んだ…。俺って単純だよな」
笑うなら笑えよって、蒼吾くんが距離を寄せる。
「でも。それぐらい嬉しかったんだよ」
そう言って蒼吾くんが俯いた私を下から覗き込むようにして見つめた。
「悪ぃ。も一回、言ってくんない?」
思ったよりも至近距離で目が合って。
びくと。肩をすくませた。
私だって───。
あの時、みんなが呼んでるみたいに名前で呼んでみたかった。
「蒼吾」って呼んでる凪ちゃんやクラスメイト達が羨ましくてしょうがなかった。
ほんとうはいつも心の中でそう呼んでいたのに。
それを唇に乗せる勇気がなくて。
何度も噛み締められた言葉はとっくに限界を通り越して、もうゆるゆるなのに。
そんなの今さら。
このタイミングで言うのは、反則すぎる。
じわりと涙が滲む。
最近、涙腺がゆるくてゆるくてしょうがない。
「…泣くほどいやかよ?」
ため息と共にがっかりした声が落とされた。
慌てて首を横に振るけれど、蒼吾くんは勘違いをしたまま。
「ま、いいや」
そう言って笑う。
「…ごめんな。さっきの。八つ当たり。ちょっと目ぇ覚めた。
お前が佐倉を好きなのは最初からわかってたのにさ。今さらアイツに嫉妬してもしょうがねぇのに」
バツが悪そうに頭を掻いて、そのまま顔を上げて私をじっと見つめた。
視線が絡み合うように溶けた。
「続き、聞かせてよ。さっきの。
お前が小学校の時、好きだったやつって、誰?」
…あ……。
「あの時から佐倉のこと、好きだったんじゃねーの?」
その言葉に静かに首を横に振った。
それは違うから。
あの時、好きだったのは佐倉くんじゃないから。
「じゃ、誰?」
「……」
「…もしかして、安部?」
ずるり、って。
ずっこけそうになった。
「違う…っ」
千切れんばかりに首を横に振る。
「……じゃぁ、もしかしてさ───」
その先を言わない。
言葉の続きを待ってる。
私の口からそれを聞くことを。
鼓動が急激に加速した。
じっと見つめる真っ直ぐな眼差しに耐え切れなくなって、一瞬、顔を伏せたら風がゆるりと動いた。
伸ばした大きな掌に私の体が捕まえられて。
え、と声を出す前にそのまま強い力で引き寄せられた。
抱きしめられるかと、錯覚するほどに距離を寄せる。
カラン、と。空になったペットボトルが廊下に転がった。
「園田」
蒼吾くんが優しく私の名前を呟く。
この声がひどく好きだと思った。
優しく包み込んでくれるような低くて心地の良い声。
いつも教室の中でひと際でっかく聞こえる彼の笑い声とは違う、トーンを落とした優しく穏やかな声。
ずんと。心の奥深いところに響いて優しく鼓膜を揺らす。
それだけでも心がさらわれそうになる。
「園田?」
もう一度、蒼吾くんが私の名前を呼ぶ。
「顔、上げろって。ちゃんとこっち見ろよ」
すぐ頭の上から声が落とされて、じわりと上目使いに見上げる。
驚くほど至近距離で目が合って、一瞬、息が止まるかと思った。
「続き、聞かせて?」
硬質だけれど深く優しい声が鼓膜を揺らした。
蒼吾くんとの距離はほんのわずかな空間しかなくて、ふわっと、風に流れて彼の匂いが鼻をくすぐる。
苦しくて、切なくて。
それに耐え切れなくなって私は唇を開く。
気持ちが溢れて、もう。限界だと思った。
「…私───」
バタバタと耳障りな足音が聞こえた。
それと同時に、気持ちを言葉に紡ぎかけた私の声をでっかい声がかき消した。
「蒼吾ーーーっ!!忘れも…の……」
角から守口くんが飛び出した。
手に持った携帯を振り上げたそのままんまの姿勢で、体が硬直した。
「あ…。へ……?」
ぎょっと見開かれたどんぐり眼が、私と蒼吾くんを交互に見比べた。
「…俺、ヤバイ……ところに、出くわした…?」
ひどく気まずそうな顔でそろりと視線を泳がせて。
「退散するからさ、続けて───?」
思い切り大股で後ずさった。
「…っーー!!涼っ!!」
ドタドタと走り去る足音と共にギャーと悲鳴に近い声が上がって、それは廊下の向こうに消えた。
さすが運動部。
その姿はあっという間にみえなくなってしまった。
「ぶっ殺すっ」
蒼吾くんは物騒なことを呟いてマジ切れ。
私はへなへなと体の力が抜けてその場に座り込んでしまった。
心臓に悪い。
絶対、寿命が縮んだ…。
がっくりとうな垂れた体が床に沈みそう。
まだ何も伝えていないのに、ひどく脱力感。
「大丈夫か、お前」
蒼吾くんが笑って、そのまま腰を落として私の顔を覗き込む。
「仕切りなおし…ってわけには行かねぇよな?」
そう言って失笑した。
「…ったく。何だよアイツ。タイミング悪すぎだっつーの。絶対、わざとだ」
ブツクサと文句を呟いて立ち上がろうとした蒼吾くんの制服。
それを思わずがしと掴んだ。
「おわっ…!」
びく、と肩をすくませて。
蒼吾くんが驚いたように私を見下ろした。
「園田…?」
このままうやむやにするのはイヤ。
あの絵が完成したら、気持ちを伝えられる気がする。
ちゃんと蒼吾くんと向き合いたい。
だから。
「お願い。返事、もう少し…待ってて」
私は真っ直ぐに蒼吾くんを見上げた。
「それって…。少しは期待してもいいのか?」
その言葉に私は深く頷く。
「ずっと好きだったんだ。そんなの、いくらでも待つよ」
ふっと微笑して、蒼吾くんが言った。
ずっとっていう言葉の重みは痛いほどわかるから。
蒼吾くんの気持ちは、痛いほどに私の心に届いているから。
真っ直ぐな眼差しの彼の向こう。
校舎に落ちた夕日が眩しくて思わず目を閉じたら、涙が溢れた。
蒼吾くんが笑った。
To Be Continued