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春を待つキミに。 10 サイド*佐倉
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彼女の横顔はいやというほど見てきた。
強がりの横顔。
泣き出しそうな横顔。
アイツを想う横顔。
だから口に出さずとも、自然と心が見えてしまう…なんて。
それは、自意識過剰なんだろうか。
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はぁ…、と。
俺の目の前で、今日、何度目になるのか分からないため息が零れた。
細い指でパラパラと捲る書類なんて、読んでいるのか、なぞっているだけなのか分からないほど、ぼんやりとしている。
ため息の拍子に、彼女のトレードマークともいえるサラサラの黒髪が肩から流れ落ちた。
その滑らかさに思わず手を伸ばして触れたくなる気持ちを押し込めて、俺は手元から顔を上げた。
「…日下部、それ。何度目?」
「…え?」
「ため息。そんなについてると、幸せが逃げるよ」
皮肉混じりに笑って言ったら、軽く睨まれた。
「何のため息?」
「───別に…」
理由なんてない、と短く告げると、優等生の顔に戻って書類に視線を返す。
学園祭二日目。
俺と日下部は旧校舎の四階会議室に設けられた、『学園祭運営委員会本部』にいた。
来賓を誘導する当日の接客係として、午前の仕事を終えた俺は、昼食を準備しているからどうぞと運営委員に促され、いかにも学祭の出店の残り物みたいな昼飯をご馳走になったところだった。
生徒が作ったものなので、味はそこそこ。
でも腹は満たされた。
他にもいた接客係も空腹が満たされると、学祭の続きを楽しむ為に銘々に散っていった。
ちょうど交代の時刻を迎える前の本部には、俺と日下部のふたりだけが取り残される。
学祭に使われていない旧校舎は、窓の外の騒がしさとは打って変って静かだった。
「さっきの三年に、告られた?」
黒目がちな瞳が大きく見開かれた。
マスカラいらずの長い睫毛が、瞬きのたびに小さく揺れる。
仕事を終えて本部に戻って来た時、日下部は席を外していた。
残っていた同じ学年の女子が、「日下部さん、また呼び出しだって!すごいよね〜!」と、ボリュームも落とさず噂をしていたのを小耳に挟んだ。
戻り際に茶髪にピアスの、場に不釣合いな生徒とすれ違った記憶が頭を掠めた。
「軽音部の三年だよな、あの人。昨日、歌ってた。結構、格好がよかったけど」
「ああいうチャラチャラした男、嫌いなの」
「昨日は生徒会の副会長?」
「…私、今、誰とも付き合う気ないから」
不機嫌さを隠そうともせず、ツンとそっぽを向いた。
「“難攻不落な日下部さん”」
「…は?」
「みんな言ってる」
不機嫌そうなため息が零れて、日下部がキッと俺を睨みつけた。
「そんな事、誰も言ってないでしょ?昔、私が言ったことをそのまま使うのやめてよ」
「覚えてたんだ」
俺の事なんて、どうでもいいと思ってたのに。
「どうしてそんなに不機嫌なんだよ。
好きって言われて、嬉しくないヤツなんていないだろ」
よっぽどでなければ、悪い気はしない。
「…嬉しくなんて、ないよ。
見ず知らずの人に好きって言われて、断ったらひどいヤツとか、お高くとまってる、とか。手のひらを返したように詰られて…。
それぐらいの中傷には慣れてるから、まだいいけど。女だからって、弱い立場に追い込まれる事だって、あるんだから…」
書類を掴んだ華奢な掌が、ぎゅっと握りしめられた。
思い出したくもない記憶が彼女の中で、フラッシュバックされているのだろう。
「昨日だって…」
唇が、悔しそうに噛み締められた。
じっと前を見据える黒の瞳が、微かに潤んだように見えた。
「…何でも、ない…」
言いかけた言葉を飲み込んで。それ以上、その続きが紡がれることはなかった。
何を言おうとしたのかは、俺にもわかった。
言葉を続けることが出来なかった理由も。
昨日の学園祭初日。
日下部に誘いを断られた男が逆上して、体育倉庫に彼女を閉じ込めた。
ちょうど巡回をしていた教師が、すぐに気付いたから大事には至らなかったけれど、危うく襲われそうになった、と噂で聞いた。
犯行に及んだのは、外部から遊びに来ていた大学生。
昼間っからアルコールを口にして、テンションが上がっていたらしい。
未遂だったにしても、彼女の心が深く傷つけられたことには変わりなかった。
以前にも、同じような事件があった。
あれは中学最初の夏の新人戦間際。
本人を前にしておおっぴらに話すことはなかったけれど、学校中、みんなが知っていた。
それを助けたのが、蒼吾だということも。
背番号をもらったはずのアイツが、夏の大会にベンチ入りできなかったのは、正当防衛とはいえ、上級生をボコボコに伸してしまったことが原因だった。
そのすぐ後だ。
日下部が髪をばっさり短くしてしまったのは。
一年が三年をのしてしまったという噂は瞬く間に広がり、告白ぐらいはしたとしても、誰も日下部に手を出そうとはしなかった。
彼女の側には常にアイツがいた。
隣にいることがあまりにも自然すぎて、実はふたりは付き合ってるんだという噂が流れたりもしたけど、その事実はなかった。
成長期を迎えて急に馬鹿でかくなった蒼吾に、睨みを効かされ、それでも日下部にちょっかいを出そうというヤツなんていなかった。
それでいて本人は、守っている自覚はないのだから。
大した男だよ、まったく。
あれから日下部は、随分と髪が伸びた。
蒼吾への気持ちも変わってないのだろう。
「自分だって、散々女の子泣かせてるくせに」
「…それ。聞きようによったらヤバイから、やめてくれる?」
笑って返すと、フッと彼女の表情も和らいだ。
「軽いのは嫌。本気ならなおさら辛い。気持ちが届かない辛さは、十分に知ってるから…。
それに、たくさんの人に好きって言われたって、自分の一番振り向いてほしい人が私のことを見てくれないんじゃ、意味なんてないでしょう?」
日下部の言葉は、痛いほど胸の奥に響いた。
窓の向こうを見つめる彼女の瞳には、透き通るほどの空の蒼が映し出される。
その瞳に俺が入り込む隙間なんて、どこにもないのだろう。
「蒼吾と、何かあった?」
日下部がそういう顔をする時は、必ず気持ちの向こうにアイツがいる時。
日下部にこんな顔をさせるヤツなんて、アイツ以外、俺は知らない。
ほんの一瞬、大きく見開かれた瞳が穏やかに細められた。
「…するどいなぁ、佐倉は。私、佐倉のそういうところ、ちょっと苦手かも」
「どうも」
「褒めてないって…」
笑ったつもりなんだろうけど、泣き笑いにしか見えない。
「知ってた?私、本当は蒼吾にはとっくに振られてるの。一度ならず二度までも。もう、万に一つの可能性もないの。
望みがないってわかっていても、ずっとアイツを追い続けて、それでもいいって…かまわないからって、友達でいてくれる蒼吾に依存して、甘えて…頼ってた。こんな気持ち、間違ってるって分かってて…でも、諦めきれなかった。たぶん、アイツは私を切るよ」
「まさか…。ありえないだろ、それ」
ハッと乾いた笑みが漏れた俺に、瞬きひとつせず、意思の強い目で見返した。
あまりにもその瞳が真剣すぎて、何も返せなくなる。
「冷たいとか、残酷とか。そういうのじゃないの。
期待に答えられないのなら、それでも一線を越えようとしてくるなら、関係を断ち切る。もっと深く傷つけてしまう前に。…蒼吾ってそういうヤツ。
現にあの日から、ずっと避けられてる。一度も、話してないんだ…」
彼女が口にした“あの日”には、心当たりがあった。
泣き疲れた顔で、日下部がましろちゃんを待っていた夕暮れの放課後。
あの日以外、見つからない。
次の日、ましろちゃんが泣いた。
顔をクシャクシャにしてしゃくりあげるように泣いていた彼女を、俺はたまらず抱きしめてしまった。
ましろちゃんの向こうに見えた日下部を。
ひとりで泣いていたであろう君を。
彼女ごと抱きしめてしまった。
それがましろちゃんに期待を持たせ、結果的に傷つける事だとわかっていたのに、その衝動を抑えることができなかった。
ましろちゃんは何も言わなかった。
だけど、あの日。
3人に何かがあったのは確かだった。
微妙なバランスで保っていた関係が、わずかにずれて狂いだしている。
「それで日下部は、平気なのか?」
「…大丈夫。私は強いから───」
そう言って、日下部が顔を上げた。
「書類、やってしまお?もうすぐ、ましろが迎えに来ちゃう。
佐倉もそれ、来賓者リスト。できあがったら行っていいから」
腕時計に視線を泳がせて、日下部は肩をすくめた。
笑っているのに、笑っていない。
相変わらず、なんて不器用なんだろう。
気がつけば俺は、彼女の手をきつく掴んでいた。
「日下部のそれは、強さじゃない。強がりだろ…?」
大丈夫、だなんて。
そんな泣きそうな顔をして、どの口が言ってんだよ。
人に頼ったり甘えたりするのが下手で。
全部自分で抱え込んで、人の前で泣くこともできなくて。
他人に遠慮して、気持ちを押し殺して素直になれない。
不器用なのは、蒼吾でもましろちゃんでもない。
日下部自身だ───。
掴んだ手を引き寄せたら、思ったよりも簡単に捕まった。
日下部は俺より小さくて、腕の中に閉じ込めるなんて容易い。
「…佐…倉……?」
戸惑いを隠せない呟きが零れて、彼女の顔が強張った。
「俺を、利用していいよ」
抱きしめられた意味と、呟かれた言葉を急速に噛み砕いて、理解して。
体の細さからは考えられないくらいの強さで、俺の胸を押し返す。
もちろん俺だって、そんな抵抗で手放すわけもない。
抱きしめた腕に力を込めた。
「…や、っ。佐倉…っ、どうして───」
肩をよじったり、胸を叩いたり。
何とか俺の腕の中から逃げ出そうと、彼女は悪あがきを繰り返すけれど、どうやったって逃げられやしない。
戸惑いと困惑の瞳で見上げた日下部の頬を、両手で包んで逃がさなかった。
扉の向こうに気配を感じた。
視界の隅に映る壁掛けの鳩時計は、ましろちゃんとの約束の時間。
抱きしめた日下部の小さな肩の向こうに、ふたつの影が見えた。
それが誰なのか気付いていた。
だけど日下部を手放そうなんて考えは、微塵も起こらない。
たとえ、それが。
彼女を傷つけることになったとしても。
こんな関係。
もう、どうにでもなればいい。
傷つく事を怖がってばかりじゃ、俺たちはずっと立ち止まったままだ。
小学生の、十の頃のまんま。
俺たち誰も、前に進めてないんだ。
進めるはずなんてない。
こんな関係、誰かが壊さなきゃ駄目なんだ───。
「どう、して…っ、佐倉っ……。ましろが、来ちゃ、う……ッ」
わずかな悲鳴と一緒に、泣き声も全部飲み込む。
唇に触れたら、日下部の体が小さく震えた。
バサバサッと、腕に抱えていた書類が滑り落ちる音が鼓膜を揺らす。
それは俺達の関係を壊す不快な音。
口付けた彼女の向こうに見えたのは、ましろちゃんと、蒼吾───。
俺達の微妙な関係が壊れた瞬間。
もう。これで、いいんだ。
>>To Be Continued