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悲しみの出口 10

座敷の隅で、私はふて腐れたようにグラスを口に運んだ。
飲んでるのはウーロン茶。
「…もう飲めましぇーん。ゆーるーしーてーえーーー」
すぐ隣で、机に突っ伏した金子くんが情けない声を上げる。
はあ。
どうしたもんでしょう、これ。
潰れてんのは、金子くんだけじゃない。
鈴もみっちゃんも、島くんも。意識はあっても、ろれつが回ってない。
足なんて立てたもんじゃないし。
どんだけ飲んだのよ。
もういい大人なんだからさ、自分の限界を知ろうよ。
早めに帰らなかったことを今さらながらに後悔する。





「───隣、いいか?」

ふいに声を掛けられて顔を上げたら、グラスを手にしたタケルと目が合った。
返事を聞く前に、空いた隣へと腰を降ろす。



「珍しく酔ってないんだ、お前。酒弱いのに……」
「ほどよく酔ってたのに、冷めたのよ」
元カレ呼んだなんていうから、てっきりともひろだと思って。
そうなんだよね。
みんなの記憶は卒業した当時のまま、私の元カレはタケル。
別れた後で、ともひろと付き合ったことは誰にも話してないから───。




「つかそれ、ウーロン茶? なんでそんなもん、飲んでんだよ?」
「みんな潰れてんのに、私まで潰れたら誰が介抱するのよ。まったく……」
「どうせそいつら、しばらくは起きないだろうから、あっちで飲みなおさない? もしとわも潰れたら、アイツら放っといても、お前だけは連れて帰ってやるから」
「えー…。タケルが?」
「なんだよ。その頼りないものを見るような目は」
「そのままの解釈よ」
「うわ。ひっでー」
ひどいのはどっちよ。
私がいるのに浮気しちゃったくせに。
そこは棚上げか。





ふたりしてカウンターに移動して、一杯だけと決めてグラスでビールをもらった。
タケルは柑橘系のサワー。
あー、やっぱまだビールはダメなんだ。

「ていうか、お前。こっちに帰ってきてるんだって? 何で言わなかったんだよー」
「何でって…報告する義務がないから。ケー番もメアド全部消去しちゃったし。ていうか梶くん? 何で私と別れたのか、そこんところ、綺麗さーっぱり忘れてませんか?」
嫌味を込めて言ってやったら、困ったように笑われた。
変わらないなあ。
童顔で幼い顔つきも、くるくる変わる表情も。
昔を思い出して、少し笑った。




「───ていうか。結婚ってなによ?」
「あ。聞いちゃった?」
「うん。まだ社会人一年生のくせに…大丈夫なの?」
「大丈夫かどうかはわかんねえけど…。そういう状況になったんだから、やるしかないだろ?」
「そういう状況?」
「………出来たんだよ。あかんぼ」
うっわー。
やっちゃったのか!

「すみませんねえ、ヘタクソで。ともひろだったら、間違っても失敗とかしなさそうだもんな」
「…どうしてそこで、ともひろの話が出てくるのよ? ていうかもう、しないで」
「……なんで?」
「で。産むの? 産んでもらうんだよね。結婚するんだから」
「今。キレイにオレの質問、流したろ? 傷つくんですが。……まあいいや。
計画性がない、無責任だって言われれば、もちろんそうなんだけど…。できてもいいなって思ってた上での妊娠だったからさ」
苦笑いを浮かべながらもタケルの横顔は、幸せそうだった。


「…タケルのご両親は何て?」
「もう、ボッコボコ。ほら、見ろよ。目の横んところのあざ。これひと月も前に殴られた痕なのに、まだ薄っすらだけど残ってんだぜ? どれだけすごかったのか、想像つくだろ」
真面目なお父さんと、肝っ玉母ちゃん。
さぞかし怒ったんだろうな。
「彼女の実家には、認めてもらえるまで通って、頭下げて、殴られて、追い返されて……ひたすらひと月、それを繰り返して、やっと認めてもらった。つっても、おれ自身をじゃなくて結婚を、だけどな。あとはもう、寧々を幸せにしてやることで認めてもらうしかないって思ってる」
「…そっか。頑張ったんだね。えらいえらい」
「バカにしてんのか?」
「してなんかないよ。ねえ、タケル」
「ん?」
「もしそれが私だったらさ、そこまでしてくれたの?」
「んー……。どうだろうな」
困ったように眉を寄せてタケルが笑う。
答えはNOか。



「…昔ね、私がタケルに結婚願望をほのめかしたとき、なんて言ったのか覚えてる? 『そういうことはまだ考えたことがない。今が幸せなんだから、それでいいじゃん』そう言ったのよ。
結構、ショックだったなー。今すぐじゃなくてもいから、いつかは───って、そういう返事が欲しかったのに、なんだか否定された形で。もしかして、その時から彼女と被ってた?」
「いや。あの頃は純粋にとわ一筋だったよ。けど……」
「けど?」
「あの当時のおれは大学上がりたてで、社会にもまだ出てなくて。自分の足で立ててもないのに、とわまで支えることはできないって思ったんだよ」
「でも寧々ちゃんの時は、即決したんでしょ? まだ社会に出たばかりで稼ぎも貯金も少ないのに、それでも支えようって思えた。できるかできないかじゃなくて、気持ちの問題。もし私と付き合ってる時に、赤ちゃんができたとしても、タケルは父親になることを選べなかったと思う。違う?」
困ったような笑みが、タケルの答えだった。
一生をかけて幸せにしてあげたいほどの大事な子に、タケルは出会えた。
そりゃ、私よりもその子を選ぶはずだよね。




「───タケル」
「ん?」
「おめでとう」


今なら言える。苦しくもなんともない。






きょとんと真ん丸く目を見開いて、こちらを凝視していたタケルが、くしゃり。
表情を緩めて、照れたように笑った。
あー。
私が好きになった笑顔は、いまだ健在だ。
こんな日が来るなんて、あの時の私は思いもしなかっただろう。





「…まさかとわからそんな言葉、聞けるなんて思わなかった」
「私の時にも、それぐらいの本気、見せて欲しかったけどね」
「本気だったよ、ちゃんと」
「今さらフォローのように言われてもな」
「説得力ない?」
「…うん」

ちびちび飲んでいたビールも底をついて、ウーロン茶に切り替える。
チーズの盛り合わせをつつきながらタケルが、昔を懐かしむように、話を続けた。








「あの頃のおれは浮ついてた。大学入って、サークル入って、合コンとかガンガンあって。
ちゃんと彼女が…とわがいるのに、『お前はこのまま、ひとりの女しか知らないままでいいのか』って、サークルの先輩に言われてさ、その気になっちゃって……」



「──────ちょっと、待って」

「なに?」
「今のところ。巻き戻して、復唱してよ」
「何だよ、急に」
「いいから早く!」


「? ちゃんと彼女が…とわがいるのに、『お前はこのまま、ひとりの女しか知らないままでいいのか』って、サークルの先輩に言われて──────」
「そこ! 誰が、言ったの?」
「は?」
「ひとりの女しか知らないままでいいのか、って」
「だーかーらー、サークルの先輩が……」







「ともひろ……じゃなくて?」


「は? なんのこと? なんでそこに、ともひろが出てくんだよ?」


「寧々ちゃんと出合った合コンは、ともひろに無理矢理、連れてかれたんじゃないの? 酔ったタケルを寧々ちゃんが介抱して、それで──────」






「そのガセ、どっからだよ…」


タケルが呆れたように言葉をもらした。
ちょっと待ってよ。
話が繋がらない。








「第一、根本から間違ってる。
行くわけないだろ、アイツが。進んで合コンなんて。付き合いで行くことがあったとしても、ほっといても女から言い寄ってくるような恵まれたやつが、わざわざ女あさりに合コンなんて行くか。
つうか、逆だよ。酔ったおれを介抱したんじゃなくて、潰れた彼女をおれが介抱して、そのまま───」
「そのまま、なにしたのよ?」
「……あ」
「そういうことなのね。お持ち帰りしちゃったんだ、アンタ。私という彼女がいながら」
「えーと……」
「あわよくばみたいな下心があっての行動なわけね? ていうか最初から、そのつもりで───」
握り合わせた拳の関節がぱきんと鳴る。
じり、と距離を詰めたら、タケルが情けない声を上げた。


「───ごめんっ、ごめんって!! そんな昔の話、今さら時効だろ? なっ? なっ??」
「な? じゃない! 物事に時効なんてないのよ。罪は罪だ! ───ねえ、タケル? 一発殴らせてもらってもいいかな? それで怒りはおさまるから───」
可愛く首を傾げながら言ってやったら、タケルが震え上がった。
「……ちょ、待って。マジたんまーっ!!」
待ってられるか!
私は思い切り、タケルのみぞおちに鉄拳を食らわせる。
あーすっきりした。
これできっちり許してあげるよ。
「…おまえ、男を拳でなぐるのやめろってー。普通、女なら平手が妥当だろ…っ」
心底痛そうにタケルが顔をしかめて、私を睨みつけた。
そんなの知るか。
殴られるようなことをしたタケルが悪いんだから。




「…つうか、それだよ。アイツに殴られた理由は。
飲み会の席でともひろとに二股してんのを相談したらさ、殴られた。
モテるし女切れたことないから、てっきりアイツもそういう修羅場くぐってんのかと思ってたのにさ。おれはあんなにも感情にストレートなともひろ、初めて見たよ。
つうか。何がどうなってそういう話になってるわけ? そのガセネタはどっからだよ?」


「……ともひろが言ったのよ。オレがそう言ってタケルをたきつけて、無理矢理合コンに連れてったって。わけわかんない。何でアンタみたいな馬鹿、庇ったのよ……」







「───や。逆だろ。おれを庇ったんじゃなくて……とわを守った。
たぶんアイツ、とわが少しでも傷つかなくてすむように、嘘をついたんじゃないかな。本当のことを話したら、とわがそれ以上に傷つくと思ったから。
だって嫌だろ? 付き合ってる男がさ、自分いるのに他の女に走ったなんて。人のせいにしとけば、なんぼか楽じゃん?」











──────あの当時の私は、心のどこかでともひろのことを憎んでた。
ともひろのせいでタケルとは駄目になったって。
その罪悪感から、ともひろは側にいてくれる。
ずっと思ってた。




ともひろと別れてから、どれだけ泣いたかな。
立ち直るまでに半年はかかった。
タケルの時にそんなにかからなかったのは、ともひろがいつも、側で支えてくれてたからだ。



────── 寂しかったらいつでも言って。添い寝ぐらいは、してやれるから ──────



どんなに忙しくても、週末には仕事を調整して、私の為に空けてくれた。
私が寂しくないように、眠るまでそばにいてくれて。
私が眠ってしまってから、溜まってた仕事を片付ける。
目がさめたらいつも、ともひろはデスクに向かっていて。
べつにそんなこと、たいしたことじゃないふうに笑うの。
オレがいるから。
そばにいてやるから。
ずっとずっと、そうやって側に寄り添って支えてくれてたのに。
私は。
その優しい嘘に、気づけなかった──────。











「とわ……」






気がついたら泣いてた。
ともひろの優しさが痛くて、切なくて。
今まで押さえ込んでいた感情が、一気に溢れて、暴走した。


スッとハンカチが差し出された。
遠慮なくそれを受け取って、涙溢れる瞳へと強く押し当てた。





「……アイツとはそれっきりだよ。仲間内の業務連絡ぐらいは回すけど…あれ以来、プライベートで会うことはない。そのくせ、とわと付き合うことはわざわざおれに報告してきやがって。
お前を裏切って傷つけたおれが、アイツはどうしても許せなかったんだろな」

ともひろの優しさに、涙が溢れてこぼれて、止らなかった。









「……なあ、とわ。今さらだけどさ、謝らせてよ」


───ゴメン、と。
タケルが深く、頭を下げた。








「おれ、あの時は自分勝手に都合よく思い込んでて……。とわは強い。泣かない。ひとりでもやっていける。
そんなわけないよなぁ。お前、ひとりで泣いたんだろ? 寂しくて、眠れなくて…ひとりの夜が辛くて、明け方まで映画を見てやり過ごしてた。そんなとわをともひろがそばで、支えてくれてたのも知ってる。
強がりと強さを履き違えんな、間違うな!って、アイツに怒鳴られたよ」


涙の止らない私の頭をタケルがぐしゃぐしゃって、撫でた。
子どもをなだめる親のような表情で、顔を覗き込まれた。








「うまくいってんだろ? ともひろと」


「………とっくに別れたわよ。バカ」









「───なんで……」




「……婚約者がいるんだもん。仕方ないじゃない」




「……婚約者? もしかして─── 『リオコ』?」











「………なんでタケルが知ってんのよ……」




「………」






タケルにしては珍しく真面目な顔で、口を噤んだ。
口元に手を当てて、難しい顔で何か考えこんでる。
なに?













「……たぶんアイツ、何か企んでるよ」



「企むって……なにを───」


「聞けよ、本人に」







聞くって何を。





私たちの関係はとっくに終わっていて、婚約者という名の新しい彼女がそばにいて。
その人との婚約日時も決まってる。
今さら聞いて、何がどうなる。







「とわ」
「……なに?」
「お前さ、さっきおれが結婚するんだつったとき、なんて言った?」
「なにって……おめでとう。幸せになってね、って──────」
「それと同じセリフ、ともひろにも言える?」





「…言えるわよ、それぐらい。───ッ、痛っ! 何すんのよ!!」


思い切り両耳を引っ張られた。
本当に痛い。








「お前、嘘下手だな。つうか、嘘つくときは、ちゃんと押さえてろ。動いてるぞ、耳」
「……っ」
バッと耳を手で覆ったけれど、もう遅い。
「不憫な癖だな、それ。分かりやすくていいけど。
おれだって、伊達にとわと4年も付き合ったわけじゃない。嘘つくときのクセぐらい、わかってる。覚えてるよ。だから嘘なんてつくな。まだ好きなんだろ? ともひろのこと」
ふざけた表情の消えた、真面目な顔で言われた。
もう、誤魔化しは聞かない。





「おれは4年付き合ったけど……アイツの想いはもっとだよ。親の決めた婚約者なんかに、簡単に気持ち、持ってかれるわけがない。アイツが変なこところで頑固なのはお前も知ってるだろ?」


「………」








「いつ別れたんだよ?」



「……2年前」










「……2年? ……はっ。マジで? 
2年──────か。言った通りじゃん。アイツちゃんと、やることやってんだな」


笑みを含んだ声で、タケルがごちるように呟く。
なに?
意味がわからない。







「───そろそろ動くよ、ともひろが。
アイツなりに水面下で何かやってる、企んでる。だってそうでもなきゃアイツ───」
話の途中で、タケルが意識的に言葉を切った。



「…なに? なんで途中でやめるのよ……」



「ここからは、第三者のおれが言うべきじゃないと思って。
聞けよ、とわ。アイツの本心を。おれじゃなくて、ちゃんとともひろ本人の口から。忘れないよ、おれを殴ったときのともひろの本音は。それをお前はちゃんと聞くべきだ」








タケルが真面目な顔で告げた。





「別れても笑って友達でいられるような恋なら、アイツは最初からしてない」








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とわの彼方に comments(12) -
悲しみの出口 9
仕事帰りに、駅前の居酒屋に立ち寄った。
こんな時は飲まなきゃやってらんない。
しっとりムーディなバーで飲むよりも、賑やかな居酒屋の方が居心地がいい。
とことん堕ちてしまうのをセーブできるからだ。
実際、好みは焼酎とかだしね。


「お兄さん、いつものねー」
若店長とは自然に顔見知り。
この世の中、女のおひとりさまは何かと物騒なのよ。
とことん酔いたいからこそ、気の知れた安心できる店が一番安全。




しかし、賑やかだなあ。
若い子が合コンでもやってんの?
奥の座敷は妙に騒がしく盛り上がってる。
「……ねえ、店長。奥、なんかやってるの?」
「ああ。いつもの常連さんね。高校時代の集まりとかで、毎月集まって飲んでるんだよ。見た感じ、花井ちゃんと同じ世代ぐらいじゃないかなー。───ハイ、焼酎のレモン割り」
「あ、ども」
さっきまで飲んでいたビールを焼酎に早々、切り替えた。
手っ取り早く酔いたい時には、これがいいのよ。
あまり強い方じゃないから、一杯で簡単にほろ酔い気分。
ちびちび飲みながら、オヤジみたいにほっけの開きをつついて。
賑やかに奇声の上がる騒がしい奥の座敷に、何気なく視線を泳がせた時だった。






「───あれ…? とわ?」

逆の方向から高い声が上がって、そちらに顔を向ける。


「うわ。めずらしー! なんで? なんでこんなとこにいるの!?」
「もしかしてこっち、帰ってきてるとか?」
高校時代の同級生、鈴とみっちゃんだった。
懐かしい再会に、目を大きく見開いて、頬を桜色に染める。
いや、もう出来上がってんのか。
頬どころか、顔も手の指先までも真っ赤だった。


「うん。春からこっちなの」
「春って、今年の?」
「んーと……2年前?」
「えーーっ!! そんな前から戻ってきてたの!?」
「なによ、ゆってよー。水臭いなあ、もうっ」
アルコールのせいか、いつもよりも数倍高いテンションに加えて、声もバカでかい。
派手派手しいオーバーリアクションに、カウンターの隣の席で飲んでいた仕事帰りのサラリーマンが、迷惑そうに顔をしかめた。
すみませんと愛想笑いで頭を下げて、席をふたつ隣に移動した。
人が出来上がってるのを見ると、こっちは冷静に酔いが冷めていっちゃうのが不思議。
ほどよく酔えてたのにな。


「……なに? ひとりで飲んでたの?」
「仕事でちょっといろいろあって……堕ちてます」
「じゃあなおさら、ひとりはダメじゃん! おいでよ、こっちー。集まってんの、3Bのメンバーだからさ。気が知れてるでしょ」
んー。
知れてるからこそ、一緒に飲みたくないんだけど。
苦笑いを返したところで、酔っ払いには伝わらない。


「ほらっ。行くよ!」
両サイドからがっつり腕を捕まれて、半分抱えられるように、席を立った。
あー、もう。なんだかね。
逃げられそうにない。
半強制的に拉致られる形で連れてかれる私を若店長がカウンター越しに笑った。
寂しさは笑って紛らわせ、そういうお節介な笑みだ。
もうっ。
他人事だと思って。
連れられたのは奥にある、一番広い座敷の部屋。
ああ。
あのうるさいグループは鈴たちだったのか。
そういやここ、学生時代もよく溜り場に使われてたっけ。
昼間はここがお好み焼きの店舗に変わるという記憶は、夜ばかりの利用のせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。
今まで何度も飲みに来てたのに。
知り合いに会わなかったのが、不思議なくらいだ。



笑い声の漏れる障子を勢いよく開けて、みっちゃんが声を張り上げた。
「おーい! ちゅうもーく!! すっごい久しぶりな子、連れてきたよーー」
「えー、誰誰?」
「うお。花井じゃん! なんだよお前、すっげえ久しぶりじゃね?」
「…ども。大変ご無沙汰しております……」
えへへ、と。
付き合いの悪さを愛想笑いで誤魔化して、頭を下げた。
ざっと見たところ集まってるのは、男女混合で12、3人。
島くんに金子くん。朝ちゃんもいるのか。
3Bのメンバーに加えて、AやCクラスの子も数人混じってる。
何気に部屋を見渡して、集まった面子をチェックした。


「とりあえず、空いてる席は……っと」
「中田、ここ! おれの隣、空いてっから。来いや、花井!!」
奥の席に座った金子くんが手を上げるのが見えた。
「あ、ホント。じゃあとわ、とりあえずあそこに座んなよ」
「えー…」
一番奥だよ。
入りづらい。
「遠慮すんなって!」
躊躇した私を見かねたのか、わざわざこっちまで出てきてくれた金子くんに腕を捕まれて、拉致られた。
壁際の席にそのまま押し込まれて、すとんと腰を降ろす。
みっちゃんめ。
私が逃げられないように、わざとに奥の席に押し込んだな。

「おう。花井、グラス」
金子くんがグラスを突きつけて、それに並々とビールを注いだ。
「まずは一杯、行っとけ!」
体育会系のごっつい体とは対照的な人懐っこい笑顔を浮かべた金子くんが、手酌で注いだビールを高く掲げた。
「新メンバー加入にバンザイー!!」
「それを言うなら、カンパイでしょっ」
「そうでしたー」
げらげらと笑い声が上がって、まだ空いてないグラスにビールを足された。
「ちょ、ちょっと…っ、注ぐならグラスを空けてからにしてよー」
「ちびちび飲んでるからだろー。お前、ビールの飲み方間違ってる!! 注がれたら一気に飲む。空いたら注ぐ。ひたすらそれの繰り返しだっ」
間違ってんのは、お前だ。
空けたら注ぐ。飲まないでいると一気コールが掛かるのは、体育会系の飲み会のノリ。
そういやこの人、ラグビー部だったっけ。
隣に座ったのは、まずったなあ。
ぬるいビールをちびちびやりながら、空いている席を物色。
なんだ。
入り口のあそこの席、空いてるじゃん。
適当に金子くんをかわしてから、後でこっそり移動しちゃおう。
出入り口なら、理由つけて逃げやすい。
ていうか、みんな出来上がってんなあ。
いつから飲んでるんだろ。


「なに、花井。帰省中なの?」
「それが違うの! 春からこっち、帰ってんだって。しかも2年前によ!?」
「えー。早く言えよ。水臭すぎんぞ!!」
「花井、付き合い悪すぎ。年末年始の集まりにも全然、顔出さないだろ」
「あー…ゴメンネ、仕事が忙しくって……」
「うそつけ。タケルと別れたから、顔出し辛いんだろー」
「……うっさいな。そんな今さらな話を持ち出してくんな」
「梶くんもとわと別れてから来てないし…。なんかね、社内恋愛して別れた後、気まずくなったOLと課長みたいだよねって、鈴と話してたんだよね?」
「ねーっ」
そんな風に思われたのか、私とタケルは。



「いつから顔、出してないんだっけ?」
「えーっと……2年前…? いや、3年前になるの、かな…?」
「マジで付き合い悪いよ、あんた」
「……ごめん」

居心地の悪さに身を小さく丸めて、ちびちびビールを口に運んだ。
こんなんじゃあ、全然酔えそうにない。




「そういえば……酒井くんも来なくなったよね?」
「3年前の春の集まりに来たっきりじゃない? 梶くんと一緒に来て、それっきり。確か……とわが急に来れなくなった日だったよね?」
ああ、あの日か。
仕事の飲み会とダブルブッキングしちゃってるのが、当日になってわかって。
結局こっちをキャンセルしちゃったんだよね。
仕事の付き合いは外せなかったから。


「…まあ、酒井くんは特別だよ。いろいろと忙しそうだもん」
「ちょっと世界、違うよね」
「うんうん。でもさ、久しぶりにあの端正な顔を拝みたくない?」
「あー、わかる!! あの綺麗な顔と、ひっくーい男らしい深い声で、名前とか呼んで欲しいーっ」
鈴とみっちゃんがともひろの話題で盛り上がってるのが、奥まで聞えてくる。
よかった。
あっちの席じゃなくて。


「でも、鈴って昔、酒井くんと付き合ってなかったっけ?」
「あー…うん。付き合ったっていっても、一週間だけね。体だけの関係よ」
「ぶ…っ!!」
「うわっ、金子。何やってんのよ、汚いなあ!!」
隣でビールを吹き出した金子くんに、鈴がしかめっ面をした。
私は慌てておしぼりを差し出す。
えー、大丈夫?
「中田が変なこというからだろっ!! 男いる前でオープンすぎんだよ!!」
「えー? 中学生じゃあるまいし、今さらぶったってしょうがないでしょ」
「けどなーっ、ふたりの顔を知ってっから、こっちは想像してしまうんだよっ。女子なら恥じらいを持てよ!」
「なに、古風なこと言ってんのよ。バッカじゃないの? つうか、想像すんな。妄想が逞しすぎんのよ」
金子くんは鈴のキッツーイひと言で撃沈。
そういえばこの人、昔鈴が好きだったって噂があったのを思い出す。
まだ好きなのか? ていうか、まだ告ってないの?
けな気というか……もうちょっと積極的になろうよ。
体格と行動がミスマッチなのは、ちょっとカワイイけど…。


「ていうか、何で別れたんだっけ? 勿体無い。今も続いてたら、玉の輿だったかもよ?」
「続かないわよ、あの人。だって………」
ちらり。
こっちを覗き見た鈴と、目が合った。
猫みたいにツンと吊り上った目が、何か言いいたげに、じっと見つめてくる。
「………なに?」
「ううん。なんでもない」
真面目な表情をくるりと変えて、鈴が声を上げた。
「もう、いいじゃん。今さらなこと!」
なんだったんだ、今の間は。あの表情は。
あんな意味深な顔で見つめられたら、ドキドキするじゃないの。


「ていうか。今さらなことを持ち出したのは、鈴じゃん。会いたいとか言い出してさー」
「だって本当にずっと来ないんだもん! 梶くんと、とわと、酒井くんと。示し合わせたようにさ」




「───あー…。あの時、タケルと酒井、揉めたからじゃね? 殴り合いになってさ。だからじゃねえの?」

鈴とみっちゃんの話で思い出したかのように、話に割り込んできたのは、島くん。
確か、タケルと同じサッカー部に所属してて、仲がよかった人。
私とはクラスメイトってこと以外、直接的な繋がりはなかったけど。


「えー、なにそれ。あたし知らないんだけど」
「中田は、酔いつぶれてたから知るわけないだろ」
「…そっか。あの時か」
「あんなに感情的な酒井、初めて見た。貴重だよ」
「……何でもめたの?」
「さあ? 原因はわかんねえけど、かなり険悪だったのはよく覚えてる。あれからだよ。ふたりが来なくなったのは」



そんな話、初耳だ。
ともひろからもタケルからも、聞いたことがない。
あんなに仲の良かったふたりが、殴り合い?
ていうか、ともひろがタケルを殴ったことが想像つかない。
心穏やかなタケルが、ともひろの何をそんなに怒らせて、あの冷静なともひろが手を上げるまでに至ったのか。





「えー。何だろう、気になるーっ!!」
「なるよねーっ」

鈴がみっちゃんと顔を見合わせる。
「もういいだろー、酒井の話はー」
鈴狙いの隣の金子くんはめちゃくちゃ不機嫌だ。
私も、金子くんの意見に賛成。
タケルもともひろも、私にしてみれば過去の男。
今さら思い出して、惨めになりたくない。






「そんなに気になんならさ、聞いてみればいいじゃん。本人に」

島くんが、ふとそんな言葉を漏らした。
開けていた携帯をぱくんと閉じて、入り口に目をやる。
何気ない動作だったのに、すごーく嫌な予感がして、私はちらり同じ方向に視線を送る。
島くんのケータイが、ヴーッと震えた。





「今、着いたって。アイツ、来るから」









え?




とんでもない言葉をなんでもないかのようにサラッと告げて。
「店長、生おかわり!」
空になったジョッキを高々と上げる島くんの腕を思わず鷲づかみにしてしまう。



「んだよ、花井。オレに迫ってんの?」
「バカ言わないで!! ていうか、来るって……誰が!?」
「えー? 花井の元彼。結婚するらしくてさ、今、こっち帰ってるみたいだから、呼んだんだよ」
私の立場なんて、どーでもいいみたいに告げられた。
ていうか、素面だったらいくら島くんでも、もうちょっと優しい配慮ができたと思う。
これだから酔っ払いは嫌いだ!!







「───ほら。噂をすれば何とやら。おーい! こっちーー!!」


島くんがよく通る声を張り上げた。
耳の奥がキンとする。













「ちょ、ちょっと、待ってよ!! 私、本当に会いたくない───!!」




仕事ならともかく、プライベートでなんか、無理!
何を話せばいいのよ、今さら!!






「私、用を思い出したから帰る───」

そそくさと立ち上がった私の足を鈴がつかまえた。









「……なに逃げてんのよ?」


にやり、わかったように笑われた。
私の心の動揺は、軽くお見通しだ。
ていうか、人の不幸を楽しんでるその笑顔。
鬼ーーっ!!!







「……なーにもめてんだよ、そこ。つうかもう、出来上がってんの?」

逃げようともがく私と、それを阻止する鈴とみっちゃんの団子になった塊の上に。
笑いを含んだ声が降ってきた。
他人事のような顔で、それを見て楽しんでいた島くんが声を上げる。









「───おう。遅いぞ。つうか、いいとこに来た。お前が来るつったら、逃げてんだよ」


「逃げる? 誰が? なんで?」









「なんでって……お前の元カノだからじゃね? 何とかしろよ、タケル───」







ふたりを突っぱねていた手が止まる。












「……え?」





思わず間抜けな顔で聞き返してしまった。



元カレって───。









「……タケル?」



「えっ……。とわ───?」






お互い見合わせた顔が、驚きに見開く。












「……ども」





どの面下げて私に会えた。
バカヤロウ。








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とわの彼方に comments(3) -
悲しみの出口 8

久しぶりに聞いた。
ともひろが、私を呼ぶ声を。

私、何か罰当たりなこと、したかな?
これが運命だっていうのなら、神様はあまりにも残酷すぎる。
こんな形の再会なんて、望んでなかった。









「あれ。酒井さんと、お知り合い?」
私の名前を呼んで立ち上がったともひろと、入り口で書類を落としたまま固まってしまった私を交互に見比べて。
事情なんて知らない瀬戸ちゃんが、のんきな声を上げた。

「ああ。そうです。彼女とは高校時代の同級生で…」
言葉の出ない私の代わりに、機転を利かせてフォローするのはさすがだ。
スッと私の前にかがみこんで、床に散らばった書類にともひろが腕を伸ばした。
ふわと空気が動いたと同時に、鼻腔を掠めた煙草の匂いに鼻の奥がツンとする。
ますます体が凍ったように動けなくなった。
「すみません。こちらで拾いますから。……花井さん!」
瀬戸ちゃんに小声で叱られた。
スタッフの失敗を客に手伝わせてどうすんの。
そういう声色だ。
「いいですよ、これくらい。───もう、落とすなよ」
手渡された書類を受け取るとき、微かに指先が触れた。
それだけで、意識した身体が熱くなってどうしようもなくなる。
堪らずぎゅっと目を閉じた。
落ち着け。落ち着け。仕事中に何やってんの、私は。


「…申し訳ありません。新しいものと交換してまいります」
ともひろだけど、相手はお客様。
床に散らばらせて汚してしまった資料を渡すわけにはいかない。
「いいわ、花井さん。私が行くから」
振り返るよりも早く、抱えた資料が手元から抜き取られた。
「───知り合いだったなんてね。言ってくれればよかったのに」
ニヤニヤ笑いながら、小声で囁いた瀬戸ちゃんが、にこやかな営業スマイルでともひろを振り返る。


「酒井さん」
「はい?」
「花井を知っているのなら、彼女が担当につく方が、いろいろとわがままも言いやすいでしょう? それにこの子も担当するのは初めてですから……酒井さんだと助かります」
にこり、笑顔が最上級のものになる。
「花井に担当を一任してもよろしいでしょうか?」
ぎょっとした。
とんでもない事を言い出す瀬戸ちゃんをすごい形相で振り返る。
やめてほしいと、目で訴えたところで伝わらない。
今朝、この話を断ったこと自体、彼女にはまだ、伝わってないのだ。
ちゃんとここで訂正しておかないと、チーフの耳に入れば、後から担当なんて降りられない!
慌てた私は、すがる思いで瀬戸ちゃんの袖口を引っ張った。

「瀬戸ちゃ……っ」
「ええ。そうしてもらえれば、こちらとしても助かります」

悲鳴交じりの言葉は、ともひろの声にあっさり打ち消されて、退路は絶たれた。
こっちのスマイルも営業用だ。
なにが、そうしてもらえれば助かる、だ。
私がともひろを忘れる為に、どれだけ泣いたのかも知らないくせに。



「では、そういうことで。───あとのことは任せるから。資料は後で持ってくるわね」
ニコリと笑いかけて部屋を出て行く瀬戸ちゃんに、泣いてすがりたかった。
彼女は、私の為にいいことをしたぐらいにしか思ってないのだろう。
バタン、と扉が閉まる音が、いつもより重く感じられた。
最悪だ───。
背中に感じるともひろの視線に胸がざわついて、顔が作れない。
ああ、もう。
今日は開き直って、与えられた仕事をこなすしかないのね。





「担当の花井です」
「ああ…。酒井です───って……なに、あらたまってんだよ、今さら…」

名刺を出しかけたともひろの手が止って、真っ直ぐに私を見つめた。
眼鏡越しに見えた瞳が、フッと緩まる。





「……元気だったか?」
「うん。……ともひろは?」
「見ての通りだよ」


視線が交わってしまったらもう、どうしようもなくなる。
さっきまでの営業用スマイルとは違う、親しい人だけに向けられる優しい眼差しに、私も少しだけ笑った。
契約が成立すれば、細かい打ち合わせはサロンの個室だ。
形はどうであれ、ふたりきり。
居心地の悪さを仕事だからと言い聞かせて、覚悟を決めた私は、ともひろの向かいに腰を降ろした。



「ええと……じゃあ、詳しい段取りと、当日までの流れを簡単に説明していくね。決め事はそのあと───」
「今日は頼まれて資料を取りに来ただけだから」
開きかけたノートPCを手で制された。
「もらったらすぐに帰るよ。オレが決めてもしょうがないことだし。詳しい打ち合わせには、リオコが来るから。よろしく頼むな」
リオコさんのことをまるで自分事のように頼むだなんていうから、胸の奥がツキンと苦しくなった。
ともひろはもう、ちゃんと新しい道を歩いてる。
私じゃない彼女と。



「資料の為に、わざわざこっちまで?」
「酒井に帰る用があったんだよ。そのついでにって、リオコに頼まれた」
「そっか……。リオコさんにね、会ったよ。すごく…綺麗な人だった」
「綺麗、ね。世間一般的な目からみると、そう見えんのかな」
「なによ。傍にいすぎて感覚が麻痺してんじゃないの?」
「…そうかもな」
「そうかもって…なによ、惚気?」
茶化すように笑いかけても、ともひろはそれに乗ってこなかった。
体の前で静かに手を組み合わせて、じっとこっちを見つめてくる。
「……髪、伸びたな…」
「うん」
「女らしくなってたから……驚いた」
「女らしくって…なによ。昔は違ったの?」
「そういう意味じゃない。綺麗になったってこと」
「………」
沈黙を作ったらダメだ。
ポーカーフェイスが持たない。
視線ひとつで、どんどん呼吸が苦しくなって、鼓動が加速していくのがわかる。
資料を取りに行ったはずの瀬戸ちゃんは、なかなか現れない。
何やってんだろ。
早く戻ってきて欲しいのに。
もたない間を誤魔化すように、お茶を淹れるために席を立った。
セットしてから数分も経たないうちに、コーヒーメーカーがコポコポと軽快な音を立てる。




「とわは?」
「うん?」
「いつからこっち? ここで仕事してるってことは、地元に戻ってきてるんだろ?」
「2年前の春からよ」
「2年前……?」
「そう。結構、長いでしょ?」

頬に落ちてきた長い髪を耳に掛けながら、私は笑った。
ドリップを終えたコーヒーをカップに注ぐと、珈琲独特のほろ苦い匂いが部屋中に立ち込めた。
トレイに乗せた後、ミルクとシュガーも…と手を伸ばしかけて、止る。
ともひろはいつもブラックだ。











「……オレのせい?」





沈黙がともひろの声で途切れた。
振り向くと、涼しげでくっきりとした強い眼差しが、真っ直ぐに私を見つめていた。












「仕事辞めたのも、こっちに戻ってきたのも。オレと別れたせいか?」











「……え?」





「お前、春からオレと住むようにしてただろ。だから───」





内心、激しくうろたえる。
ほんの少しの動揺も見逃さないように、まっすぐ強く見つめてくるともひろの視線に、私は慌てた。
心臓が潰れそうになる。



「……ともひろは関係ない。
地元に戻ったのは、親が帰って来いってうるさいからよ。仕事もね、もともとブライダルに少し興味があったの。だからプランナーの資格を取って頑張ってるんだよ。これでも、後輩やバイトの子に頼りにされてるんだから」
少し偉そうに言ってやったら、フッと表情を緩めてともひろが笑った。
「……なに?」
「いや」
「なによ」
「面倒見がいいのは、相変わらずなんだなと思って」
「?」
「……とわって、昔からそうだったよな。正義感が強くて厳しくて、あっさりドライかと思えば、妙にお節介で面倒見が良くて…。『花井先輩は怒らせたら鬼よりも怖いけど、下手な教師よりよっぽど頼りになる』って、部活の後輩達がよく言ってた」
「鬼よりも怖いって……。なによ、影でそんな風に言われてたの?」
ひどいなあ。
拗ねて唇をとがらせたら、ともひろが目を細めた。
眼鏡の奥に見えた瞳が、過去を懐かしむかのように優しく緩む。








「でもオレは、そういうとわが好きだったから……」



コーヒーカップを差し出した手が、動揺で微かに震えた。
カチャカチャと鳴らす音に伴う様に、精神状態も揺れ動く。
なにを今さら。バカなこと言わないでよ。
いつもは、軽く出てくるはずのそんな台詞が、喉の奥にひっかかって出てこない。
強がりな言葉をいくつも並べられるほど、強かにはなれなかった。
別れてから長くまいってた神経に、今さらな告白が深く染み渡る。


いつから好きでいてくれたの?
私がまだ意識してなかったときから、ずっとともひろの視線は私を追いかけていたの?
考えれば考えるほど、目尻に熱いものが浮かんでくるのがわかって、下を向いたまま強く唇を噛締めた。


奏多の言う通りだよ。
実家に戻って、偶然さえも避けていたのは、ともひろに会いたくなかったから。
顔を見ると、声を聞くと、やっぱりどうしてもだめになる。
あの時の気持ちが蘇る。
諦めたはずの想いが深く蘇って、目の前のその人に思わず手を伸ばしそうになるから。
おめでとうって言わないと。ちゃんと、祝福しなきゃ。
理性と本能が永延に戦っても、その言葉はどうしても出てこなかった。





「……なにやってんだろ、瀬戸ちゃんは。遅いな。ちょっと様子、見てくる───」


瀬戸ちゃんを理由にともひろから逃げようと立ち上がって背を向けたとき。
すぐ側で聞えた靴音に、硬直した。
背中に重なるような気配に、一瞬、呼吸が止る。





「とわ」

不意に腕をとられた。
私はびっくりして、何も考えずに驚きのまま振り返る。
失敗だった。うかつすぎた。
腕をとられるほどの距離の近さのことをちっとも考えてなかった。





「……っ!」


まともに間近で目が合って、ひどく胸が痛んだ。
動揺のあまりによろけそうになった体を、ともひろの力強い腕に支えられた。
ドクリ。
心が痛いぐらいに悲鳴を上げる。
思わずともひろの体を強く押しやった。
けれど私を支える腕は緩まらなくて、突っぱねれば突っぱねるほど、その力は強まる。
近すぎる距離が、苦しくて堪らなくて、胸が張り裂けそうに痛んだ。
瞳に張った涙の膜が、瞬きするとこぼれそうになるのを、懸命に唇を噛締めて我慢した。
涙の意味に気づけないほど、ともひろは鈍くない。





「…とわは……今、付き合ってるやつ、いるのか?」


ふと、そんなことを聞かれた。
触れ合った箇所から、ともひろの体温がじわじわと浸食してくる錯覚に陥る。
感情に流されてしまわないように、ぎゅっと強く手の平を握る。



「……いるわよ。私にだって、付き合ってる男のひとりやふたり……」
私を見つめたまま、ともひろが軽く笑う。
「あ。今、バカにした? 負け惜しみで、嘘ついたとでも思ってるんでしょ?」
「べつに思っちゃいないよ。ちゃんといるんだろ、大事なやつが。……こういうところに、しるしをつけられる特別な存在が───」



私の方へと伸びてきた手に、ビクと体が跳ねて、反射的にきつく目を瞑った。
顔の横を掠めた大きな手の平が、髪に触れた。
掻き分けられる。
そのまま私の首筋に触れて、指で素肌を軽く撫でられた。
肌から伝わってくる指の感触がリアルに過去を思い出させて、体の芯が熱くなる。
体が覚えてるから。
言葉も行動も、パターンも。
付き合ってた頃のともひろなら、この後どうするかの想像がつくから、どうしても次を期待してしまう。
もう、そういう存在が私の他にちゃんといることはわかっているのに。
寂しさで震える心が、強がりとは裏腹に、抱きしめて欲しいって叫ぶ。
なんて私は、浅ましいんだろう。






「……いつまでもひとりでいるわけ、ないよな。それじゃあ…あまりにも寂しすぎる」


一瞬だけ首筋を撫でたその手は、力なく体の横へと降ろされた。
もう他の男が触れた痕は見たくない。
そんな風に、私の襟元を正す。隠す。
ああ。
奏多の牽制ってこういうことなのね。
寂しそうに目を伏せたともひろに、馬鹿みたいに胸が痛んだ。
















「……資料、もらってくるから……」





そこから逃げるように部屋を飛び出した私は、その足でロッカールームに駆け込だ。
張り裂けそうな胸の痛みに、私はしばらくそこで、うずくまるように、泣いた。









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とわの彼方に comments(5) -
悲しみの出口 7


奏多の言葉と行動は、いつも私を振り回す。


「……これだと少しはマシかな」
鏡の前で制服の襟元を直した。
彼の言うとおり、シャツのボタンをひとつ上まできちんと留めた。
だけど、制服のブラウスはもともとが開襟シャツ。
下手したら角度的に見えちゃうのはもう、気をつけるしかない。
問題の首の後ろは───服ではちょっと誤魔化しが効かない。
何が牽制よ。
意味がわからない。
仕事中、いつもはひとつに束ねてある髪を後ろ側だけ降ろして、サイドはすっきり束ねた。
これで何とかなりそう。


ロッカールームに貼られた今日のシフトの中に、奏多の名前がないことにホッとする。
あの子の人の心を見透かすような目が怖い。
私の弱い部分も黒い部分も全て、あの子は簡単に見抜いてしまう。
あのとき奏多につけられた鬱血は、いまだ鮮やかに消えることがない。
そうとう、きつく吸われたらしい。
声楽をかじったことがあると聞いていたから、肺活量があるのか。
バカなことばかり考えても、気持ちは晴れなかった。
たぶんもう、誤魔化しは効かない。











奏多の告白からから2日経った午後のことだった。

「───あ、花井さん! ちょうどよかった!」
忙しいランチタイムを終えた私は、遅めの昼食を取りロッカールームに戻ろうとした時。
仲良しの瀬戸ちゃんに呼び止められた。
「今、手、空いてる? 受付の方、手が足りなくて回ってほしいんだけど…」
「お客様?」
「そう。新規の。レストランを借りたくて来られてるみたいなんだけど…麻生さん達、ちょうどランチに出てて。私もこの後、担当のお客様が控えてるから時間の都合がつかないの。もしよかったら花井さん、対応してくれないかな?」
「うん。いいよ」
「よかったー! 助かる」
「ロビーにいらっしゃるの?」
「うん。今はその人しかいないから、行けばわかると思う。じゃあ、よろしくね!」
すまなそうに手を合わせて、瀬戸ちゃんは駆けるようにバックヤードを出て行った。
そうとう、急いでるらしい。
お昼、食べ損ねちゃいそうだけど……仕方ない。
出し掛けたお弁当をもう一度ロッカーにしまって、私はロビーに戻った。






店にはお客様用の入り口がふたつある。
ひとつはレストラン専用の入り口。
もうひとつはブライダルやパーティの受付窓口。
そちらはホテルのロビーのような造りになっていて、契約までの簡単な受付はそちらで行われるようになっている。
ロビーに回ったら、お客様らしき女の人がひとりソファに腰掛けて、本を読んでいるのが目に入る。
他にそれらしき人は見当たらない。
あの人か。



「お待たせして申し訳ありません。お伺いいたします」
声を掛けると、読んでいた本から顔を上げて、お客様がこちらを見上げた。
わ…。
すごく綺麗な人。
長い栗色の髪が視界の隅で揺れた。
「こちらこそ。約束もしてないのに、突然お伺いしてすみません」
笑顔をくれる彼女につられるように微笑み返して、私も向かいの席へと腰を降ろした。
「11月の第3日曜日に、レストランをお借りしたいのだけど……空いてますか?」
「確認いたしますので、少々お待ちください」
ノートPCを立ち上げてスケジュールを確認する。


「───午前中か夜の部でしたら空きがございますが。どういたしましょか?」
「そうですか。時間は相談してみないとわからないので……とりあえず、日にちだけ押さえられますか?」
「かしこまりました。……ブライダルですか?」
PC画面のスケジュールに仮予約を打ち込みながら、問いかける。
「挙式というわけではないけれど、婚約のお披露目パーティをと思っていて…」
「それはおめでとうございます。では、こちらにおふたりのお名前と、簡単な連絡先を預からせていただいてもよろしいですか?」
「はい……」
書類を書き込む時、耳に掛けた細く柔らかな髪がさらりと落ちて、憂いを誘う。
本当に綺麗な人。
溜息の出るような美人というのは、こういう人のことを指すのだろう。
清楚で華やかな空気を作り出す彼女に、思わず私は見惚れた。



「これで構いませんか?」
「はい。ありがとうございます。では、お預かりをして、とりあえず仮契約という形で日時をお取りしておきます」
「ええ」
「では最後に、お名前の確認だけ。えっと……桜庭理央子さま。お相手の方は、酒井 ともひろ様──────」












──────え?







弾かれたように顔を上げた。
息を飲んで、思わず食い入るように、目の前の彼女を見てしまう。










「……あの? どうかされました?」




綺麗な顔を曇らせたその人を認識したとたん、ドクリと心臓が嫌な音を立てた。



「あ……いえ、あの……失礼いたしました」










誤魔化すように視線を手元に戻して、書類を見直した。
もう一度心の中で、読み返した名前は、桜庭 理央子(サクラバ リオコ)。
漢字だったから、すぐには気づけなかった。









この人、『リオコ』さんだ──────。






キーボードを打つ手が微かに震えた。
書類に記されたともひろの住所も連絡先も間違いない。
どうしてこんなところで?
ともひろの地元だから?
動揺がはっきりと見て取れるぐらいに、手が震えて顔が青ざめる。
過呼吸になりそうなくらい、呼吸がおかしかった。




「あの……大丈夫ですか? 顔色がすぐれないみたいだけど……」
さりげない気遣いのできる人だった。
綺麗な顔を曇らせて私を覗き込むその顔は、社交辞令とかそういう上辺だけの感情ではなく、心からの気遣い。
たぶん、優しい人なんだと思う。
もっと嫌な人なら、憎むこともできたのに。


「あの……」
「はい?」
「どうしてこちらを選ばれたのですか?」
「え?」
「あ、いえ……。今後の参考に理由をお聞かせていただけたらと思いまして…」
取り繕うような言い訳に疑うこともせず、リオコさんが綺麗な顔で笑う。
「うーん。そうね…。彼の実家が近いのと、あとは……ホールの関係かしら。前に一度、仕事でここを利用させてもらったことがあるの。広い空間を彩るステンドグラスと、楽器の音が共鳴するように作られてる造りがとても好きで、すぐに候補として思い浮かんだの。式はもっと大きいところでなければ、人が入りきらないけれど…内輪だけの婚約パーティならちょうどいいでしょう?」

ほんの一瞬。
視線を送った彼女の薬指には、キラリと光る幸せの証。
私が手に入れられなかった眩しく輝く未来の象徴に、どうしようもなく胸が締め付けられた。
眩しさに堪らず目を伏せて、精一杯の強がりで笑顔を作って笑いかける。










「では、詳しい打ち合わせはまた後日ということで」
「はい。今度は彼と一緒に寄らせていただきます」






「───桜庭さん! あの……っ」




ともひろのことを『彼』と、嬉しそうに笑って立ち上がったリオコさんを思わず呼び止めた。






───幸せですか?





喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
聞いてどうすんの。
幸せそうな笑顔。未来を共有できる約束を目の当たりにしたくせに。
聞かなくてもわかるじゃない、そんなこと。
確認して何がしたいのよ、私は。






後のことはあまりよく覚えてない。
ただ事務的に機械的に仕事をこなして、当たり障りのない会話を交わしながら彼女を見送った私は、その足でロッカールームに駆け込んだ。
扉を閉めた途端、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
私、ちゃんと普通に対応できたかな。
笑えてた? 失礼はなかった?
考えれば考えるほど、思い出せない。混乱する。


「…書類、後で見直さなくちゃ……」

プランも日程も。全然、頭に入らなかった。
覚えているのは掻き毟られるような胸の痛みと、リオコさんの綺麗な笑い顔。
彼女の声と、笑顔が纏わり付く。
吐きそうだった。












ともひろの婚約者は、鈴が鳴るような声で笑う人だった。
立ち居振る舞いが上品で優雅で、穏やかな中にも凛とした輝きをもつ人。
ともひろに。酒井の名前に恥じない、家柄のある人。
隣に並んで釣りあうような、落ち着いた大人の女の人。
相応しいというのは、こういう女性のことをいうのだと思った。



「───桜庭理央子さん、か。こんな字、書くんだ……」
私達よりもふたつ年上。
「……年上女房なんだ。やるなー、ともひろも」
笑えなかった。
なにを今さら、こんなに傷ついてるんだろう。

確かに彼女だった。
ホテルで見た、髪の長い女性は。
春先に一度だけ、ともひろと歩く姿を見たのも彼女本人だ。
儚げな中にも凛とした強さがあって、ユリの花のような気高さと清らかさを持ち合わせた人。
溜息が出るほど綺麗な人だった。
女が匂い立つ、大人の女の人。
ともひろに……抱かれたりするのかな。
するよね、婚約者だもの。
ていうか、何を想像してんだ、私は。
ともひろの声とか、指とか、筋肉質な背中とか。
何度も消去と再生を繰り返して、思い出して、忘れられないままここまできた。
想いを残したまま手放した恋。
早く忘れたくて、この痛みから逃げたくて、ずっと気持ちに蓋をして抑え込んできた気持ちが今さらになって、ひどく疼く。
もう、2年経った。
忘れてもいい。
忘れなきゃいけない。











「おはようございまーす」
気だるさを残したまま、いつも通りにタイムカードを押す私に、チーフが声を掛けた。
「あ、花井さん。あなた今日からイベントの方だから」
「はい?」
「レストラン業務じゃなくて、ウエディングの方、回って。移動よ」
「……どうしてですか」
よりにもよって、こんな時に。
「プランナーの資格取れたんでしょう? 移動願い出てたみたいから、どうせなら早めにそっちに回ってもらおうと思って」
「でも、レストランの方が───」
「そっちは、バイトの子でも賄えるから大丈夫よ。それよりも、イベントの方に手が欲しいの。ブライダルシーズンで、ひとりでも手が多い方が助かるから。仕事は現場に入りながら覚えたのでいいわ」
「………」
「あら。何、浮かない顔ね? 普通ここは喜ぶところでしょう」
「ちょっと…急な移動で、びっくりしちゃって……」
自嘲気味な笑顔しか出てこない。
自分の運のなさをもう、笑うことしかできなかった。


「…先日来られた方がね、花井さんの対応がすごく丁寧でよかったからって喜んでいらっしゃって……。先ほど、本契約したいって連絡があったわ」
リオコさんだ───。
「今日、詳しい資料とパンフレットを貰いにくるそうだから」
「……はい」
「花井さん、担当してみる?」
「───え?」
「年が近くていろいろ話しやすいから、担当はぜひ花井さんにって先方が言ってきてるのよ。それもあっての急な移動なのだけど…。どう? やってみない?」


相手がリオコさんでなければ、喜ぶべき言葉とチャンスだと思う。
でも。
私が、ともひろとリオコさんの婚約のプロデュースをするの?
ふたりの幸せのお手伝いを…私が───?
以前、別れを告げたときの哀しさや悔しさが蘇ってくる。
私はぎゅっと目を閉じて、何度も首を横に振った。
それだけはどうしてもできない。
そんなの、無理に決まってる。




「もちろん、ひとりでやれって言ってるわけじゃないことはわかってるわよね? 他のスタッフが全力でサポートする。担当はお客様と店の仲介役のようなもの。サブには、瀬戸をつけるから。花井さん、仲がいいでしょう? それならやりやすいと───」
「すみません、チーフ。できません。私にはまだ……荷が重すぎます」

嫉妬と苦しさに押し潰されそうだった。
ふたりの幸せを願えない私が、いい演出なんて、できるはずがない。





「向こうから指名してくるなんてチャンス、なかなかないのよ?」
「……もっと経験を積ませてからにしてください。今回だけは、どうしても無理なんです。自信がありません。本当に本当に、申し訳ありません」
ただひたすら、謝ることしかできなかった。
自分の身勝手な態度と、ついていけない気持ちに涙さえ浮かぶ。
「困ったわね…。まあ……すぐには返事はできないだろうから、その話は保留ね。とりあえず、移動だけは決定だから」
「……はい」
「着替えてらっしゃい」
「失礼します」


部屋を出た途端、足がへたり込みそうになる。
じわり、涙が浮かびそうになるのを唇を噛締めることで、必死で紛らわせた。
この想いと、胸の痛みはいつまで続くの?
傷つくな。
泣くな、今さら。
ともひろを想って流す涙は、もう全部枯らしたはずなのに。
浮かんでは消えていく、あの人の声や笑顔に、鼻の奥がツンとして胸が張り裂けそうになる。
「…しっかりしなきゃ……」
気持ちを落ち着かせるために何度も息を吐いて、整えて。
気を取り直して着替えに行こうと、方向を変えた瞬間。
見知った人影を認めた体が、ビクと跳ねた。










「逃げるんだ」






いつからそこにいたのだろう。全く気付かなかった。







「……奏多、なんで───」










「まだ逃げるつもり? とわさんが断った担当って、酒井さんだろ?」



「…今の話…聞いてたの───?」



眉間には不機嫌に皺が寄っている。
声が普段より、一段と低く思えた。
アルトの低音に怒気が含まれた声色が鼓膜へとダイレクトに響く。


「昨日。イベントスケジュール、見せてもらったんだよ」





じりと無言で距離を寄せてくる奏多に、本能的に私は後ずさる。
あれから3日。
昨日と一昨日の演奏は、奏多のピアノじゃなかったから、あの告白の後初めて顔を合わせたことになる。
どういう顔して会えばいいのかわからなかったところで、この状況。
タイミングが悪すぎる。





「断んの? チャンスじゃないのか?」
「別に…わざわざその契約じゃなくても、他にチャンスなんていくらでも───」
「そっちのチャンスじゃない」
「───え?」
「俺が言ってんのは、酒井さんを吹っ切るチャンスじゃないのかって、言ってんだよ」
「………無理よ」
「なんで?」
「今さら。どんな顔して会えばいいのか、わかんないんだもの…」
「普通に対応すればいいだろ? 向こうは客。こっちは商売。それだけの関係でいいんじゃないのか?」
「普通って───」
どんなのだっけ?
友達でも恋人でもないともひろとの関係を、どう作ればいいのかわからない。
どんな顔で会えばいい?
向こうにその気がなくても、私の気持ちは?
整理しきれない心で燻る何かが、簡単にそれをさせてくれない。
どうしたらいいのか、考えれば考えるほど、胃のあたりが重くなる。





「もう吹っ切れた。未練もない。そう言ったくせに。あの言葉はやっぱり嘘か」
「……嘘じゃない」
「じゃあ、どうして逃げるんだよ? 実家に戻って、偶然さえも避けて。そこまでして、酒井さんに会いたくない理由はなんだよ? 惨めな過去を思い出したくないから? 顔も見たくないほど憎い? 違うだろ」
奏多が辛そうに顔を歪めるのが見えた。
「顔を見ると抑えられないから。思い出すから。気持ちが溢れて溢れて、どうしようもないからだ。
好きなくせに。まだ、酒井さんのこと、どうしようもないくらいに好きなくせに。人の物になった酒井さんを近くで見るのが辛い、だから───」
「やめてよ…っ」
気づけば叫んでいた。
叫んだはずの声が、震えて掠れて。
奏多の言葉が正しいって、態度で認めてる。







「だいたい……担当を引き受けるかどうかなんて、奏多には関係ないことでしょ」


皮肉交じりの強がりで、そう切り返すのが精一杯。
その言葉で、奏多をどれだけ傷つけるか考えもせずに。







「……関係、ない───?」


視界が一瞬真っ暗になった。
目の前に迫った大きな手に腕を捕られ壁へときつく体を押さえつけられた。
ふざけた空気なんて微塵もない、真面目な顔つきで、奏多が私を見下ろした。






「俺、何度も言ったよな。とわさんが好きだって。まだ信じられない?」




肩を強く押さえつける手のひらが、熱を伝えてくる。
嘘じゃない。
本気だってわかってるから、応えられないんじゃない。










「───あ、花井さん! よかった!! 探してたの…っと……」



突然の声に、ビクと体を震わせて、思わず奏多の腕を振り払う。
スタッフ専用の扉から顔を覗かせた瀬戸ちゃんが、ただならぬ雰囲気の私達に目を白黒させた。
さすがの奏多も場所をわきまえたのか、それ以上無理強いはしてこなかった。



「……ごめん。取り込み中、だった…?」
「違う。仕事の話でちょっともめてただけ」
「そう……?」
「なに? お客様?」
「うん。呼ばれてるから、ちょっと来てもらえない?」
「わかった」

城戸くんごめんね、と。
まるで私が奏多の所有物かのように断りを入れて、瀬戸ちゃんが私を扉の向こうへと連れてった。
扉が固く閉まったことを確認してから私の顔色を窺う。



「…いいの?」
「なにが?」
「城戸くん。すっごく納得のいかない顔してたから……。お邪魔だった?」
「そんなんじゃないって」


正直、瀬戸ちゃんが来てくれて助かった。
今までずっと見ないフリしてきた奏多の気持ち。
もう誤魔化しは、きかない。








「で。お客様って?」
手早く着替えを済ませてから、ロッカールームの前で待ってくれていた瀬戸ちゃんに確認を取る。
気持ち、ちゃんと切り替えなきゃ。
「ああ、うん。資料を取りにいらしてるから、花井さんを連れけって、チーフに言われてたのよね。───ハイ、これね」
瀬戸ちゃんが手にしていた書類の束を私に手渡した。
結構たくさんある。
落とさないように大事に抱えなおす。
「花井さん、アタリよ」
瀬戸ちゃんがニヤニヤ笑った。
「なに?」
「担当のお客様。若手のね、青年実業家風な男の人。これがね、人の物になるのが惜しいくらいの男前!! パリッとスーツを着こなして、赤い眼鏡が凛々しいイイ男なのよ!」






「……え?」












───赤い、眼鏡……?


汗が一筋。背中を流れた。









待って……。



あらためて瀬戸ちゃんの話を頭の中で整理してみる。
私を連れてけってチーフに頼まれた。
資料を取りにきた青年実業家。
チーフがあの後、部屋から出てきた形跡はなかったから、担当を断った話は、瀬戸ちゃんにはまだ、伝わってない。
てことは───。









「瀬戸ちゃん! ちょ、待───っ」

悲鳴のように呟いた声は、扉を叩くノックに打ち消された。






「お待たせして申し訳ありません」



扉を開けて、頭を下げる瀬戸ちゃんの隣で。
私は呆然と立ち尽くす。






応接室のソファで担当を待っていたその人が、顔を上げてこちらを振り返った瞬間。
眼鏡越しに見えた瞳が、大きく見開いた。














「………とわ?」




手にしていた資料が、バサバサッと不快な音を立てて床に落ちた。
低く私を呼ぶ声に。
ドクリと不規則な音を立てた心臓が、おかしいくらいに悲鳴を上げる。










お客様の名前ぐらい、先にちゃんと確認すればよかった。



書いてあるじゃない、酒井って。








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とわの彼方に comments(7) -
悲しみの出口 6
「───相原チーフ!!」
奏多を無理矢理送り出した後。
半ば、怒鳴り込むような形でサロンの扉を勢いよく開けた。
「いいんですか!? 卒後すぐの研修医に執刀をさせるようなまねをして!」
「……うちに研修医を入れたつもりはないけど?」
作業中のPCから視線だけを上げて、相原チーフはしれっと知らん顔。
利口な人だもの。私の言いたいことぐらい、わかってるくせに。
「たとえの話です。たとえ! どうして城戸くんを正式にうちの専属になんて、したんですか?」
「あら。何か問題ある?」
「だって、彼。学生ですよ!? 店の看板を背負うには、まだ荷が重すぎます」
「メインは今まで通り、五十嵐のままでいくわ。ちょうど坂田がね、年明けからしばらく海外へ定演で行くらしいのよ。それで、その間の坂田の穴をどう埋めようかと考えあぐねていたところに、城戸くんが来たでしょう? これはもうね、運命なのよ」
中指でずれた眼鏡を持ち上げて、チーフが微笑した。
うわ。
めったに見られない氷の微笑。
珍しくご機嫌な様子が窺える。



「……運命だなんて…そんな曖昧な言葉で片付けないでください」
「あら。意外と現実的なのね、花井さんは」

ロマンチストに欠けるわ、肩をすくめながら相原チーフが突っ立っている私に、ソファに座るように促した。
話が長くなるということ。
仕方なく向かい側に腰を降ろす。




「あなたが怒鳴り込んできたということは、城戸くんは承諾してくれたのね?」
「………」
「よかったわ」
私が何も、返事をしないことをOKと取ったらしい。
チーフが安堵の表情を見せる。


「当の城戸くんは? もう帰ったの?」
「…終電に間に合わなくなる前に、帰しました。この件に関しては、また後日、連絡くださいとの伝言です」
「そう。車で送ってあげればよかったのに」
「なんで私が……!!」
「なんで? だって、あなたが呼んで、あなたの為に城戸くんは弾いてくれたんでしょう? それぐらいしてあげても当然だわ。人付き合いなんてね、結局のところ等価交換で成り立ってる部分が大きいのよ。ビジネスに関しては特にね」
それをいうなら、もう払わされた。
キスという望まないカタチで、無理矢理奪われた。
だから送る義理なんてない。
ていうか、あんなのは等しくない。横暴だ。
思い出すとまた、涙が滲みそうになるのを唇を噛締めることで、必死で堪えた。
悔しさに膝の上に乗せた拳を静かに握り締める。




「───何かあったの?」
「……ありません」
「じゃあ別に、問題ないじゃない」


チーフは絶対に、奏多を引き込むつもりだ。
私だって。
さっきのキスがなければ、店にとっていい方向に考えられたかもしれない。
けれど今は無理だ。
思い出すたびに、ぞわぞわとした嫌悪感が首筋を駆け上がって、私は唇を奮わせる。


「たかがアルバイトぐらいで、1時間もの距離を未成年に通わせるなんて…。もっと身近で探した方が───」
「通勤距離については本人にも承諾を得たわ。
それに城戸くん、『無名のうちはひとつでも多く、奏でる場所を見つけて演奏したい。どこにどんなチャンスが転がってるかは、わからないから』ですって。若いのに感心ね」
物は言いようだわ。
思わず舌打ちしそうになって、思い留まる。
「長距離を通わせるのが申し訳ないっていうのなら、花井さんが送ってあげればいいじゃない。ちょうど夜の部の後は、こうやって終電ギリギリになるでしょう? だから───」
「ちょ、ちょっと待ってください!! そんなの無理です! 私にも都合ってものが……」
「───花井さん」
言葉が途中で遮られた。
「一応ね、お咎めなしだから」
「ハイ?」
「麻生さんが仕組んだこととはいえ、最終確認を怠った花井さんに、お咎めはなしだそうよ。これが条件」
「…どういうことですか?」
「行きは彼自身で来てくれるそうだから、帰りは送ってあげて。終電ギリギリでしょ。それこそ焦って事故られたら、困るから。勿論、その分の交通費は上乗せするし、タイムーカードの勤務時間も2時間プラスしてあげる。手の早い五十嵐を乗せてけって話じゃないんだから、悪い話じゃないでしょう?」
五十嵐さんの方が紳士的で、よっぽどマシだ。

「あとね、五十嵐の担当は外れて。その代わり、城戸くんについてもらうから。スケジュールはもう一度、城戸くんを入れて組みなおすわね」
「……」
「城戸くんを入れることに、同意できない?」

できない、と言ったところで、人事はもう絶対なくせに。
断れない条件を提示されて、私は従うしかできないじゃないの。
「…いいえ」
「そう。ならよかった」
自分で蒔いた種も処理できずに自分勝手なことを言ってるのは、重々わかってる。
でももう、奏多とは関わりたくない。
何もかも見透かすようなあの目と、時々見え隠れする奏多の感情の激しさに、いつか飲まれるんじゃないか。
怖くなる。
それにあの子を見るとどうしても、ともひろを思い出してしまう。
それが何より、辛かった。










奏多は公の場に出ることで、舞台度胸とピアノの腕をめきめきと上げて。
2年が経つ頃には、五十嵐さんの人気を抜いてトップに躍り出た。
奏多が演奏する日は、客足が途絶えず、その後のリピーターも多い。
そりゃあ、手放さないよね。
こんな才能、探したところで簡単に見つからない。
文句のないピアノの腕とセンスに加えて、ビジュアルの良さと、若さ。
奏多目当てに来るお客様は、圧倒的に女性が多く、宣伝にもなる。
専属といっても、カタチはアルバイト扱い。
安い賃金で、いいものを得られる経営者側としては、離すに惜しい存在。
店には確実にプラスになる。







「───城戸くんのピアノはいつ聴いても、甘く優しい音ね…」


お客様が零した言葉に、私はふと顔を上げて奏多を振り返る。
わがままで横暴なくせに、ピアノの音色は優しいだなんて、反則だ。
完全には、嫌いになれないじゃないの。
















「おつかれさまでした。先、上がりまーす」
仕事の後、私が奏多を家まで送っていくのは、当たり前になっていた。
この日も店が閉店した後、みんなよりもひと足早く出させてもらって、車へと乗り込む。
私の車は、芳香剤の匂いに混じって、少し奏多の匂いがする。






「昨日、どうだった?」
エンジンをかけると奏多が聞いてきた。
一瞬、何のことだか考えあぐねて、ハンドルを握ったまま、視線だけを奏多に送る。
「昔の同僚が、遊びに来てたんだろ?」
「ああ…」
梓のことか。
遊びに来ること、奏多に話したんだっけ。

「ご飯食べに行って、しこたま飲んで、朝まで話したよ。楽しかったーー」
梓とは、いくら話しても足りることがない。
話したいこと聞きたいことがお互い、次から次へと出てきて、あっという間に時間が過ぎてしまう。
沈黙さえも心地いいんだから不思議。
そういう友達は大事にしなきゃ。


「結婚するんだって。年内に籍を入れて、挙式は海外。素敵よね」
「羨ましいの?」
「んー…。羨ましくないって言ったら、嘘になるけど。恋人がいないんじゃ、仕方ないでしょ。まずは相手を見つけなきゃ」
「なに、その台詞。俺は蚊帳の外?」
「うん。年下はね、タイプじゃないの」
「サラッと傷つくこと言うね。年齢はどうしようもないのに」
奏多がフンと鼻で笑った。
「そういえば───プランナーの資格、取れたんだって? おめでと」
「…誰に聞いたの? 情報早いなぁ」
仕事しながら通ってたから長くかかったけど。
ようやく取れたのだ。
ウエディングプランナーの資格。
実際の現場は、資格よりも実践と経験ではあるけれど、やっぱりあるとないのじゃ心強さが違う。


「これでますます婚期が遅れるな」
「女の幸せイコール結婚じゃないし、結婚イコールゴールじゃありません!」
「行くとこなければ、貰ってやるよ」
鼻で笑われて、ムッと顔をしかめた。
「未成年がバカおっしゃい」
「男は18で結婚できるだろ。それに俺、ハタチになったよ」
「……いつ?」
「今日」
「本当に……?」
「何で嘘なんか言うんだよ。見る? 証拠」
おもむろに財布の中から取り出した学生証を、私に突きつけた。
4月7日。本当だ。
今日、奏多ってば誕生日なんだ。


「お祝いしなきゃね」
「してくれんの?」
「勿論。相原チーフに話しておくから、店で盛大にやりましょ」
「…んだよ。ふたりきりじゃねーんだ」
本気で拗ねてる横顔が、ちょっとかわいい。


「CD、換えてもいい?」
私の返事を聞く前に、奏多がファイリングしてあるCDフォルダーをダッシュボードから取り出した。
なによ、聞く前に開けてんじゃん。
「リクエスト、あれば聞くけど」
「なんでも。奏多が好きなのでいいよ」
「そう?」
綺麗な指が迷いながらファイルの上を往復して、そのうちの一枚をオーディオに差し込んだ。
なじみのある音が、スピーカーから流れる。
木村カエラだ。
「とわさんって女性シンガー専門? この中で男は、レミオロメンぐらいだろ」
「そういうわけじゃないけど……。同姓シンガーの方が聴き入りやすいのよね、いろいろ共感できる部分多くて」
「ドリカムは最近、聴かないの? 俺が乗り始めた頃は、いつも聴いてたろ。うっとおしいぐらいエンドレスで」
うっとおしいは余計だよ。
むっと顔をしかめて隣を睨みつけた。
奏多はいつも、ひと言多い。
「…あれ聴くと、堕ちるからさ。ドリカムは失恋ソングって、決めてるの。泣きたい時に、大音量エンドレスで聴いてバカみたいに泣く。それで少し楽になれるから」
「…それ。すげえ重いんだけど」
「何とでも言って。とことん落ち込んだ方が、早く立ち直れんのよ」
苦笑をこぼしながら、ブレーキペダルを踏んだ。
交差点でちょうど信号が赤に変わる。








「聴かなくなったってことは、吹っ切れたんだ。酒井さんのこと」








「……え?」




不意を付いて出てきた言葉に、思わず弾かれたように隣のシートを振り向いた。
奏多の口から出たともひろの名前に、ずくんと胸が変な音を立てる。
まともに視線が交わった。
まっすぐ見つめてくる視線の強さに、私は一瞬、言葉を失くす。
奏多はそう聞いたきり、ただじっと見つめてくるだけで、一言も発そうとしない。
左へと出したウインカーの音だけが、リアルに鼓膜を揺らして。
降りてくる沈黙は、決して心地のいいものではなかった。





「……なに、言ってんのよ…今さら。そんなの、とっくに吹っ切れてる」
心の内を探るような瞳に耐え切れなくなって、乱暴に視線を外したところで。
タイミングよく、信号が青へと変わる。
「未練もない?」
「ないわ」
小さな動揺を見透かされないように、ゆっくり言葉を吐いて、アクセルを踏み込んだ。
ふわ、と車内の空気が動いて、奏多が窓の外に視線を送るのが見えた。
「こっちのが近いよ」
右の道を指差す。
「うん。知ってる。でもこっちの方が車幅広くて、運転しやすいから」
「遠回りになるのに?」
「うん。あの道嫌いで───」
「酒井さんのマンションがあるから?」





思わず息を飲んだ。
どうしてそれを───。


「俺、知ってるよ。右へ行くと一方通行になって、どうしても避けて通れない道ができる。その道沿いにあるんだろ、酒井さんの住むマンション。この2年、渋滞してようが工事中だろうが、絶対とわさんはあの道を通ろうとしないから、酒井さん絡みで何かあると思って、調べたんだよ。案外、うちと近いんだね」
奏多が笑う。
「どうやって……」
「昔、とわさんがうちを調べたのと一緒。見たんだよ、社員名簿」
「………っ」
「偶然でも会いたくない? それとも会えない? やっぱりまだ、とわさんは酒井さんのことを───」
「ともひろとはもう、終わったの。今さら出してきて、話を蒸し返さないで」
「向こうは終わってないって、言ったら───?」




















「───え……? ……ッ、きゃあっ!!!」






今度こそ本当に、あからさま過ぎた。
動揺のあまり、飛び出して来た猫を見誤った私は、咄嗟の判断が出来なくて、思い切りブレーキペダルを踏み込む。
キキーーーッ、と。
不快なブレーキ音が響いたと同時に、ガクンと車体が大きく揺れて、身体が前へとつんのめる。
瞬間、ガンっと額をしこたまハンドルに強くぶつけた。
衝撃でエアバッグが開かなかっただけマシだ。
それぐらいの強い衝撃だった。





「ば…っ、かッ!! 何やってんだよっ!!」

奏多が私を怒鳴りつけた。
「だって、奏多が…っ、変なこと言うから……っ。バカ!!」
心臓がバクバク跳ねて、背筋が凍る。
動揺だけで言葉を紡ぐ私には、冷静さがなかった。
馬鹿は私じゃない。
今さら。
嘘か本当かも分からない空虚をつかむような言葉に、何をそんなに動揺してんのよ。
呼吸を深く吐くことで波打つ鼓動を落ち着かせて、状況を把握する為に辺りを窺う。


「…猫は?」
「ひいてない。無事。ビビッてあっちに逃げてった」
「そう。よかったぁ……」

ハンドルの上へとへたり込む。
勢いよくぶつけてしまったおでこが、今さらながらジンと熱く疼く。
後続車がいなかったのが、不幸中の幸い。
大きな事故にならなくて、本当によかった。
手足がまだ、ガクガクしてるのを何とか奮い立たせて。
時速10キロぐらいのスピードでのろのろ走って、近くに見えていた公園の駐車場に停めた。
バクバクいってる心臓を何とかしなきゃ、どうにも運転できそうにない。


「…自販機で何か、買ってこようか?」
「平気。ありがとう。奏多は……どこか、怪我してない?」
「何ともないよ。いっそ指でも怪我して、とわさんに一生責任負わせればよかったのに」
「冗談言わないで」
エンジンを止めて、シートベルトを外しても、まだ震えが止まらなかった。
小さく震える手を誤魔化すように顔の前で握り合わせて、唇を覆い隠す。
ああ、ヤバイ。
唇までガクガクなってるよ。
落ち着け、自分。
「大丈夫?」
「……うん。そのうち落ち着いてくると思うから、平気。
ごめん、奏多。今日はここでいいかな……?」
公園の坂を少し登ったところに、奏多の家はある。
歩いても10分はかからないはずだ。


「いいけど……。帰んのは、とわさんが落ち着くのを見届けてからにするよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だから帰って。少し休んだら、私も帰るから…」
ひとりにして欲しい。
いろんな動揺が一気に押し寄せて、ポーカーフェイスも限界にきてる。
余裕のない顔は、奏多に見せらんない。
見せたくない。

「雨、降りそうだし、今のうちに帰った方が───」
「強がるのもいいかげんにしたら?」

不意に腕を捕まれた。
驚きにハンドルから顔を上げたら間近でまともに目が合って、ドクリと痛いぐらいに心臓が跳ねた。
奏多がそのまま、私の震える手を包み込む。



「この震えは何? 事故の動揺? それとも、酒井さんの名前に動揺したの?」
「───猫の方に決まってるでしょ…」
「……どうだか。
関係は終わった。でも。とわさんの気持ちは、まだ、終わってないんじゃないの?」


あの目だ。
私の心を見透かす、感情を深く探る目。
微かに揺れる感情も嘘も決して見逃そうとしない。
鋭く意思の強いその瞳が、私を捕らえて離さない。
しばらく無言で見つめ合った後、フッと表情を緩めた。





「……もう、やめようよ。その話」

絡んだ手を外そうとしたけど、びくともしなかった。
身動きの取れない状況に、今度はじわりと嫌な汗が背筋に浮かぶのがわかる。
車のロック、かけたままだ。
じりと寄せてくる距離に、思わず息を飲んだ。



「───最初に約束したよね? 車で押し倒したりなんかしたら、二度と送らないって」
「したかな。忘れた」
「それって、都合がよすぎる───」
「とわさんの交わし方を、真似ただけだろ?」





強く腕を引っぱられた。
押されると思ってた私の体は逆の引力にいともあっさり捕まって、腕の中に簡単に捕まる。
コラム式の車のベンチシートは、境界が何もない。
こんな人気のない場所でエンジンを切ってしまったこと。
シートベルトを外してしまったこと。
ロックを解除してなかったこと。
今さらながら、自分の甘さを悔いた。
腰に回した腕に身体を捕られる。
軽自動車のくせに、無駄に広い空間が憎らしい。




「や、だ…っ。離してよ……ッ。力ずくでどうこうしようなんて、卑怯でしょ…っ」
「力ずくでどうにかなるんだったら、とっくにやってる。
押して駄目なら引いてみろみたいな心理で、今までずっと大人しくしてたけど───もういいだろ、いいかげん。2年も経った。
頑なに拒んで、気持ち守って、誰に義理立てしてんだよ。さっき言ったよな。酒井さんとは、もう終わった。未練もない。じゃあさっきの動揺はなんだよ?」
痛いところを突いてくる台詞にカッと頬が燃え上がる。
「あれは───奏多が今さらな話を突然、するから……っ」
密着した身体にじわりと汗が浮んだ。
奏多が、怖い。







「……やっぱりムカつく。
酒井さんは名前ひとつで、簡単にとわさんの素顔をさらけ出す。俺は2年掛かっても、見たことのない素直な反応。弱い部分。無防備な顔。とわさんはいつも、泣くか怒るか、仕事の顔しか俺には見せないのに。
女の顔はまだ、酒井さんにしか、見せられない───?」



耳元で息を吹きかけるかのように喋られて、ビクンと身体が跳ねた。
唇を動かされるたびに、ぞわぞわとした嫌悪感が首筋を駆け上がって、私は唇を震わせる。



「いいかげんにして…っ」
「それはこっちの台詞」
「……さっきのは───、私の反応を見る為に、カマをかけたのね───?」
ひどい。
「さあ? 事実はどうだろ。案外、待ってるのかもしれないけど?」
「2年も経つのよ? 何を今さら、待つことがあるのよ」
もう、連絡ひとつないのに。
「たとえ連絡が来たところで、もう戻れない。友達にも、恋人にも───」
いくら望んでも、関係は戻らない。
今までずっと、抑え込んで我慢していた感情が抑えられなくなる。
不覚にも涙が浮かんだ。





「そうだったら、俺には好都合だけど」

そっと、髪を取られた。
サラッと長く伸びたストレートの髪が、奏多の指の間を滑る。
髪に神経なんて通ってないのに、指が触れた瞬間、びくと身体が震えた。
全ての神経がそこに集中してるみたいに。


「伸びたよね。切らないの?」
肩でちょうど跳ねてしまうぐらいだった髪は、今は肩甲骨の少し下ぐらいまで伸びた。
この2年。
毛先を整える程度で、長さはほとんどいじってない。
「俺、とわさんの長い髪、嫌い。切りなよ。出会った頃みたく。肩にちょっとかかるぐらいの長さの方が、とわさんにはよく似合ってた」
「……バカ言わないで。どうして奏多の好みに、合わせなきゃいけないのよ…」
「長い髪───。これは酒井さんを想う長さ? 想う月日の分だけ長くなってくみたいで、俺はすごく嫌いだ」
「……っ」
繊細な指が髪にもぐった。
そのまま後頭部から引き寄せられて、ぐっと距離が縮まる。
咄嗟に唇を手で庇う。
───キス、されたくない。











「……とわさん」
「なに…」
「髪についてる」
「なにが?」
「埃。じっとしてて───」


そう言って伸ばされた奏多の繊細な指から、さらさらと私の髪が零れ落ちる。
反射的に目を瞑ってしまった私に、ぐっと大人びた雰囲気で笑いかける。




「取れたよ。つうか、何身構えてんの?」
そりゃ、身構えるよ。
何度、前科があると思ってるの。
言ったきり、奏多の表情はまたいつもの無愛想に戻って、外へと視線を向けた。







ポツリ。
雨が一粒、フロントガラスに落ちた。
音もなく降り始めた細い雨に、その匂いが微かに車内に香る。



「……降ってきたね。本当にとわさん、雨女なんだ」
「ひどくなる前に、もう帰ったら?」
「うん」
声だけが頷いて、抱きしめられた体は、離される気配が無い。
じわじわと浸透してくる危険のシグナルが頭に鳴り響いたまま、解除されない。
「確か傘が、後部シートの脇に置いてあるから───」
後部座席へと腰を浮かせた身体が、ぐるんと回転した。
その瞬間を待ってたかのように、身体はあっさりとシートへと倒されて、奏多の体が重くのしかかる。
私は。
自分の車の天井を、初めてまともに見た気がする。
片手で私の腕を押さえつけて自由を奪ったまま、奏多の手が開襟シャツの襟元に伸びた。
今日は着替える時間がなくて、店の制服の上にカーディガンを羽織ってるだけだ。





「俺、言ったのに。シャツのボタン、もひとつ上まで留めたらって」

シャツの合わせからもぐってきた指に、素肌を撫でられた。
背筋がゾクリと震えて、反射的に目を瞑った私の胸元に、奏多が強く吸い付く。






「───かな、た……ッ」


声がみっともなく、震えた。







「とわさんが、忠告を聞かないからこうなるんだよ。あんた、人の意見は素直に聞けないだろ」
「聞けるわよ。ちゃんと筋が通ってることなら」
「俺のこれは、筋が通ってない?」
「通ってるわけない…っ、や───ッ…!!」
もひとつ、強く吸いつかれる。
今度は左側だ。
赤くついたであろう痕をペロリと舌で舐められて。
胸元を這う柔く濡れた感触に、生理的な涙が浮かんで流れた。








「やだ…っ、奏多。もうやめてよ……っ」
「嫌だ。やめるつもり、ない」
「──ぅ…んッ」

今度は唇に、奏多のそれが降りた。









誰かとキスするなんて、2年ぶりだった。



嫌悪とはうらはらに、抗えない感覚が体を駆け巡る。
シートに強く抑えつけられたまま、何度も何度も、角度を変えて唇を吸われた。
頑なに奏多を拒む唇を舌がなぞって、こじ開けて、私のそれを捕まえる。
息をつぐことさえさせてくれなくて、荒い呼吸だけが狭い車内に満ちてく。
自分の口からこぼれる吐息に、くらくらした。
私の声も呼吸も、自由も全て奪って、奏多はキスを続ける。
意識と一緒に、理性が吹っ飛びそうだった。






どれくらいの時間、そうされていたのかは わからない。
意識が朦朧としすぎて、時間の感覚が麻痺する。
シートに縫い付けるように押さえ込んでいた手が離れても、私のその手が奏多の体を押し返すことはなかった。
優しいだけのキスが何度も降りてきて、舌が唇を往復していく。
上唇も下も、奏多の唇が啄ばんでいく。
ようやくキスから解放された頃にはもう。
抵抗する力なんて、これっぽっちも残ってなかった。
ただ静かに涙を流す私の体を奏多の腕がそっと包み込んで、抱き寄せる。
その腕は雨脚と共に強くなるばかりで、決して緩まることがなかった。
唇が優しく、耳朶に触れた。



「抵抗するのはもう、諦めたの?」
「……させてくれないくせに…っ」
「言い返せる元気はまだ残ってんだ。ろれつが回らないくらいにもっと、めちゃくちゃにしてやればよかった──」

そう言って、また唇が塞がれた。
私はこの子に、何回キスをされたんだろう。
ともひろとのキスが思い出せなくなるくらいに、何度も何度も甘く口づけられる。






「──────ねえ、とわさん。今度こそ、俺と付き合ってよ。2年経った。2年待ったよ、俺も。
ハタチになった。体も、法律的にも、もう子どもじゃない。そろそろ堪忍して、俺のものになってよ」
「ごめん…。無理だよ……。付き合えない……」
「俺だから付き合えない? それとも、酒井さん以外の男とは付き合いたくない? どっち───?」
私は何度も首を横に振った。
両方だ。



「……頑固だね。頑なだからこそ余計に、心を開かせたくなるんじゃないか。俺はとわさんがいれば、何もいらないのに───」
伸ばした手が乱れた胸元を整えて、ボタンが留められた。
「これからはちゃんと留めなよ。痕、しっかり残ってるから。これでもう、留めなくちゃいけないだろ?」
「…その為に……こんなこと、したの?」
「もちろんそれもあるけど……。ただ単純に俺が、とわさんに触れたかっただけ。とわさんの肌、甘くてすげえいい匂いがするから、誘われた」
「かな……ッ、あっ…!」
油断した。
今度は首の後ろにつけられた。
髪を降ろしてなきゃ、絶対に見つかるようなきわどい場所に。
何考えてんのよ!
今度こそ強く、奏多の体を押し返す。






「もう、明日からは送れないから。最初に約束したよね?」
「言うと思った。いいの? それがお咎めなしの条件だったんだろ?」
「でもそれは、かなたが未成年だったから。なったんでしょ? ハタチに」
「……言うんじゃなかった」



奏多はスッと、いつもの顔になって、悪態ついた。
「───こっちの痕は牽制。男よけ」
またしても私の体に触れようとするものだから、グッと体を引いて距離を置く。
ロックも解除した。

「牽制? 浮いた話も色のある噂も、何もない私にそれは無意味でしょう?」
しつこく諦めないのは、奏多ぐらい。
五十嵐さんは、奏多が店に入ったとたん、また新しい子に乗り換えた。
奏多と私ができてるって思ったらしい。
店のみんなもそう思ってる。
何度訂正しても信じてもらえないから、もう面倒くさくなって、そのままにしてる。
奏多の存在がちょうどいい男除けになって、かえって都合がいいくらい。
「じきにわかるよ」
意味深な笑みを浮かべて、奏多が私から離れた。
ドアを開けたら、ふわと雨の匂いが強くなった気がした。





「奏多……! 傘は───」

「いらない。すぐそこだから。
送ってくれてありがとう。おやすみ、とわさん───」








にこり、笑って。
小雨に霞む道の向こうに、奏多が消えて見えなくなった。



ひきつるような胸の痛みと後悔は、引きずる想いを自覚するのに十分だった。








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とわの彼方に comments(6) -
悲しみの出口 5


店が閉店した後、私はせっせとピアノを磨いていた。
がらんとした店内は、どこか薄暗い。
「ふぅ…」
演奏が終わってからもしばらく、まるで魂を抜かれたみたいに、そこから離れられなかった。
鼓膜の奥に残る音の余韻が、ふわふわと心地いい。
目を閉じると奏多の音が溢れ出す。
彼の選曲はどれも優しい曲ばかりで、渡した楽譜にはない、知らない曲もたくさん混じってた。
最後に聞いたメロディ、あれが一番好き。




グランドピアノのアフターケアを終えてからバックヤードに戻った私は、控え室の扉を軽くノックしてから中を覗いた。
顔の上には蒸したタオル。
長い脚の膝を折って、ソファの上で仰向けに寝そべっている奏多にそっと近づいて、声を掛けた。
「お疲れさま」
顔に乗せたタオルをわずかにずらして、奏多が私を見上げた。
「大丈夫?」
「……あれだけの時間、ぶっ通しっていうのは、さすがに疲れた。でも…すごい達成感。気持ちいいよ」
3時間、途切れない集中力は見事だった。
音と奏多が共鳴して、普段の無愛想な彼とは似ても似つかない、優しいメロディが店内を彩った。
情熱的で勇ましく、けれど、甘くやさしい音。
来店されたお客様のほとんどが、食事やおしゃべりよりも、奏多のピアノに夢中になった。
あれだけ聴き入ってもらえれば、弾き手としても満足に違いない。


「腕、貸して」
返事を聞くよりも先に、奏多の腕を取った。
「ピアノ弾くと、ここ。使うでしょう? 上腕部の三角筋っていうのかな。軽くほぐしておくと、後が楽だから」
肩から腕にかけての筋肉を、リンパの流れに沿って優しくほぐしていく。
「…とわさんは、俺以外のピアニストにもこういうことすんの?」
「? そりゃ、仕事だから…奏多じゃなくてもするよ」
「ふーん…」
「ほら、力抜いてリラックスして」

意外。
見た目細っこいから、華奢なイメージが強かったんだけど…。
シャツ越しに触れた奏多の上半身は、思った以上にガッチリしてる。
特に上腕部が逞しくて、シャツの上から触れてもよく分かる筋肉にドキリとした。
これはピアノを弾くたびに鍛えられていったものだ。
奏多の努力の証。




「……すげえ、気持ちいいんだけど」
「本当?」
「俺が疲れてる箇所を心得てるつうか、ツボがどんぴしゃ」
奏多が笑う。

「ピアノを弾くときはね、使う筋肉と使わない筋肉があるでしょう?
肩から首にかけて…ここが凝るのは、変なところに力が入ってるからなんだって。奏多はさ、和音や早いパッセージを弾くときに肩に変な力が入ってる。だから、ここ。凝ってるかなぁと思って」
肩のところで指に力を入れたら、鏡越しに見えた顔が、一瞬歪んだ。
ビンゴ。

「…すごいな、とわさん。
それ。レッスン中によく注意される言葉、そのまま。早い曲ほど肩を下ろして、力抜け。脱力を意識すること。何度言われたか…。そういうの、勉強してんの?」
「小さい頃、私も習ってたから。てゆっても、奏多みたいに本格的ではないんだけど。マッサージも……資格があるわけじゃないから、独学だけど。弾いた後はリラックスして欲しいじゃない? ほぐされて、癒されて、次もまた、もっといい演奏をして欲しい」
「……ふーん。」
奏多にしては珍しい、穏やかな笑みを浮かべながら、目を閉じた。
あ、寝ちゃいそう。
「───はい。終わり。オツカレサマ」
「…サンキュ。マジで、軽くなった」
首を左右に倒して、パキパキ鳴らした後、奏多が天へ向かって大きく伸びをした。
顔色が少し戻ってる。
よかった。




「…けど…。びっくりした。すごいのね。五十嵐さんの曲。一度聴いただけで、あれだけ弾けるなんて」

奏多の耳とピアノが、あそこまですごいなんて、想像もしなかった。
音がくるくると鍵盤の上を跳ねたり、流れたり。
私は五十嵐さんよりも、この子の音の方が断然好きだな。


「相原チーフが大絶賛だったよ。このままピンチヒッターで終わらせるには、惜しい逸材だって」
「───とわさんは?」
「え?」
「他人の評価なんてどうでもいいよ。とわさんは、どうだったの?」
「どうって……すごいよ、感動した」


ラスト一曲は、不覚にも涙が出ちゃった。
優しく繊細で、甘く柔らかい音。
淡い優しさが染み渡るメロディ。
思わず手を伸ばして、触れて、彼の持つ温度をそっと確かめたくなるような音。
奏多から生まれる音は、心にしみて心地いいの。
相原チーフじゃないけど、ピンチヒッターでのまま終わらせてしまうのは何だか惜しい。
もちろん。
この子のバックグラウンドを考えれば、こんな小さなレストランじゃなくても、演奏の場はもっと世界にあるのだろうけど。
惜しいと思うのは、私自身。
奏多のピアノがこれっきりで聴けなくなってしまうのが、残念で仕方ない。





「───最後に弾いた曲、あれが一番好きだったな」

独り言のように、ぽつり。呟いた言葉に。
奏多が一瞬、目を見開いて、次の瞬間、ふわり。笑った。




「…すげえや」
「なに……?」
「ちゃんと、届いたんだ」
「?」
「ラストの曲。即興。とわさんの為に奏でた曲なんだけど」



臆面もなく、さらっとそんなことをいうから。
身構えてなかった感情が、一気に外に溢れ出た。
ぶわっと、頬が真っ赤に染まるのが、鏡を見なくても分かるほど。
不覚!


「…ぷっ。とわさんにしては、素直な反応」
「からかわないで…」
「喜怒哀楽が激しいのはさ、感受性が豊かな証拠。ラストの曲で、とわさん、泣きそうだったろ?」
見てたのか、コイツ。
「付き合おっか、とわさん。俺と」
「どさくさに紛れて、バカ言わないで」
「まだ、からかわれてるとでも思ってる?」
「思ってる」
「俺のピアノがずっと聴けるよ? とわさんだけの為に奏でてあげるのに」
「結構です」
「つれないね」
溜息混じりに、肩をすくめた。
奏多と付き合うなんて、冗談じゃない。
それに、ともひろとさよならしてからまだ半年。
私は、まだ──────。




「服。どうすればいい?」
そう言って突然、シャツを脱ぎ始めた奏多に、ぎょっとする。
そりゃここは、着替えたりする部屋だけど。
私の目の前で、恥じらいはないのか。
「その辺に適当に掛けておいて。クリーニングはこちらで出すから」
目のやり場に困った私は、不自然な動作であらぬ方向を向く。
さすがに直視はできない。



「……とわさん」
「なに?」
「顔。耳まで赤いけど?」
「……っ」

痛いところを指摘されて、ますます頬が高潮していくのが自分でも分かった。
今日はこういうのばっかで、嫌になる。
「なに、中坊みたいな反応してんだよ? 男の裸ぐらい見慣れてるだろ。そんな反応されたら、逆にこっちが意識するからやめてよ」
「べ、別にそんなつもりは……」
「それ。投げてくれる?」
言われるままにしぶしぶ、ハンガーに掛けてあった私服を取って、奏多に手渡したとき。
裸の上半身がまともに視界に飛び込んだ。
華奢に見えて、意外と逞しい。
肩や背中のラインは特にゴツゴツしていて、細っこくてもちゃんと男の子。
繊細なのは指だけか。




「花井さんー! ちょっとこっち、手伝ってくれるー?」
「はーい! 今、行きます!」
椅子の背に掛けられた、ジャケットとYシャツを回収しながら、声を上げた。
いけない。
まだ仕事が残ってるのに、長居しすぎた。
「じゃあ、奏多。私、行くね。出演料は思いっきりふんぱつするって、チーフが言ってたから期待してて。また後日、手渡しになるから。じゃあ──────」
ドアノブに手を掛けたときだった。
ぐん、と反対側の手を捕まれて、重心が後方へぐらりと揺れた。
トン、と背中に触れた体温にびっくりして顔を上げたら、真上から覗き込んだ奏多とまともに目が合った。











「………まさか、とわさん。これで終わりにするつもりじゃないよね?」


真面目な声色に、ぞくんと体が跳ねた。
私のすぐ側をすり抜けた手が半開きになった扉へと伸ばされて、パタンと音を立てる。
扉の閉まる小さな音が、すごくクリアに私の耳に届いた。








「……出演料は払うって言ったでしょ?」


「賃金は労働した者の当たり前の権利。俺が言ってんのは、そっちじゃない。とわさん自身のこと。言ったよな、電話で。来てくれたらなんでもするって」






「……言ったかな? 忘れた」










「それって都合、良すぎるんじゃないの───?」





再び奏多の手が伸びた。
ガチャリ。
耳障りな音が鼓膜を掠めて、鍵が閉められる。









「なにを───」
「こうでもしないととわさん、逃げて曖昧にするだろ?」
「……しないわよ」
「忘れたつったくせに」
「…それは……ごめん。謝る。ちゃんとするって約束するから。今日は本当に、時間がないの。また後日、あらためさせて」
「かわすの、うまいね」
「そんなんじゃない。食事でも何でもおごるから。何がいいか、考えてといてよ」
「……何でもいいの?」
「常識の範囲ならね」
「ふーん…」



じゃあね、と鍵を開けようと伸ばした手を制された。
そのまま扉へと、両手をついて囲われる。
「もう…、いいかげんに……───ッ!?」
言い終わらないうちに、視界がぐるんと回転した。
押し返そうと伸ばした手を反対に握られて、そのまま扉に縫い付けられた。
近い距離に、息が止まる。

奏多は楽しい悪戯でも思いついた子どもみたいな目をして、真上から私を見下ろした。
弱い物をいたぶるかのように、じわりじわりと追い詰める。
背筋を駆け上がる得体の知れない恐怖に、私は唇を強く結んだ。








「……どいてよ」


「嫌だって言ったら?」


近い声とともに、顎を取られた。
抑えつけられた身体は、わずかに動かすことも叶わず、自由を奪われたまま。
顔に息が掛かる距離で、奏多が言葉を紡ぐ。















「ねえ、とわさん…。キスも、常識の範囲───?」







「なに、言って……───ッ…!?」



なんの躊躇いもなく唇に重ねられた体温に、ビクンと身体が跳ねた。
現状がうまく把握できていないところに強引に舌をねじこまれ、反射的にきつく目を瞑る。
いやだ。いやだ。いやだっ。






「か、な……ッ、やめ………っ!」


一瞬、唇が離れたかと思えば、また角度を変えて何度も貪られる。
息が出来ない。
眩暈がする。
奏多は扉へと強く私を押さえつけたまま、執拗に唇を吸った。
開いた隙間から、濡れた感触が入り込んできて、舌を取られる。
飲み込めない唾液が零れて、顎を伝った。
「あ…ふ……っ」
燃えるような熱い舌がむさぼるように私の口の中を這って、その熱を移されたみたいに、目の奥が赤く染まる。
必死に顔を背けても、すぐに奏多の唇に追いつかれて、捕まってしまう。







「…男に対して何でもするなんて、軽々しく、口にしない方がいいよ。いつか、とんでもないことになるから」
「とんでもないことをしてんのは、アンタでしょ!? バカ…っ!!」
「だって、何でもしてくれるんだろ? 報酬は望む形で返してもらわないと、意味がない」
「言ってることと、やってることが、全然ちがっ…!! ───ッ!?」



今度は手の平できつく口元を覆われた。
鼻も唇も全部塞ぐから、呼吸が出来ない。






「黙って───」

耳元で囁く低音に、ぞくんと身体が震えた。
それと同時に背中に伝わってくる振動。
腰元にわずかに触れるドアノブが、ガチャガチャと不快な音を立てて回る。
誰か、来たんだ───。













「───あれ? 鍵が掛かってる…」





瀬戸ちゃんだ。



「変ねえ。この部屋に鍵を掛けることなんて、あまりないんだけど……」
「誰か着替えてんのかな?」
「そういえば……。城戸くん、まだ帰ってないよね? 彼かな」


扉のすぐ向こうに、瀬戸ちゃんがいる。
声さえ出れば、この場を回避できるかも───。
「…ぅ、っ……!!」
ビクンと身体が跳ねた。
奏多の唇が柔く耳朶を噛んだからだ。
温かく濡れた感触に声が零れそうになった私は、必死にそれを押し殺す。
唇に耳朶を含んだまま、奏多が囁いた。








「───声、だしてもいいけど。俺とふたりきりの部屋に鍵をかけた理由、ちゃんと説明できんの?」


なんて卑怯な。
私の立場を利用して、追い詰めて、ずるいよ奏多は。
悔しさに溢れた涙が、視界を滲ませる。
私がもう、声を出す気がないと判断したのか、奏多の手が離れた。
薄く微笑して、再び私の唇を吸う。
何回も唇を噛んだり、周囲を舐めたり。私の自由を奪ったまま、平然とキスを続ける。
そこから逃げることも、拒むことも、許してくれなかった。







「…遅いですね」
「うん。もうこの部屋の掃除は、後回しにしちゃおっか」


瀬戸ちゃんと、アルバイトの子だと思う。
彼女達が諦めてこの場を去るまで、奏多はずっと私にキスをし続けた。
ツ、と離れた唇から透明の糸が引くのが見えて、嫌悪感がせり上がる。
ようやく開放された唇で、私は何度も息を喘いだ。




「久しぶりすぎて、息するのも忘れた? とわさんのそういうとこ、子どもみたいで、可愛いいよ」

カッと頬が燃える。
人の唇、無理矢理奪っといて、その態度はあんまりだ。
訴えられても仕方ない行為だぞ。
怒鳴りつけてやりたいのに、唇が震えて、うまく声にならない。






「それとさ───とわさん。シャツのボタン。もひとつ上まで止めたほうがいいよ。
料理出すときに胸元、見えてる。特に夜の照明はさ、陰影がついて、ヤラシイんだよ。見えにくいインナー着てるからって、少々平気とでも思ってるんだろうけど、角度によったら丸見えだから。自覚した方がいいよ。とわさん、自分が思ってる以上に色気あるから。男、誘ってる」

「バカっ!! サイテー!!」



憎まれ口とは裏腹に、ぶわっと涙が溢れた。
泣くなんてカッコ悪い。
慌てて目尻に浮かんだ涙を手の平でぬぐったら、どんどん涙が溢れてきた。
サイアク。
そんな私の心の内を見透かして、奏多が喉の奥で笑う。





「いつだって強がるくせに、案外、涙もろいよな」
「誰のせいよ…っ。もう帰れば? ていうか、帰ってよ。バカ!!」
「自分から呼び出しといて、その態度はあんまりじゃない?」
「報酬はちゃんと払ったから。今度こそもう、二度と会わない───!」


奏多の前であからさまに、唇をぬぐった。
やっぱり嫌い。
大嫌い!!









「───でもさ、そうもいかないんだよね」



奏多が薄く笑う。


「……なんの、ことよ…」







嫌な予感がする。


「相原さん、だっけ? 彼女が言ってたろ?」
「なにを」
「ピンチヒッターにしておくには、惜しい逸材だって。さっき言われたんだよ。正式に、専属としてうちに来てくれないかって───。勿論、引き受けるつもり」
「……なっ…!」
うそでしょ。
そんな話、聞いてない!!
思わず顔が引きつった私に、奏多は知らん顔して笑ってる。









この日から始まったのだ。


私の、受難の日々が。









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悲しみの出口 4

歩くたびに、トレイに乗せたカップが音を立てて、琥珀色の水面が揺れる。
ウェッジウッドの高価なティーカップを、割らないようにこぼさないように、細心の注意を払いながら、バックヤードの一番奥の扉の前で立ち止まった。
大きく息を吸い込んだ私は、『ブライダル・サロン』とネームの掛かったシックな木彫ドアを叩く。
「失礼します」
結婚式やパーティの入ってない日は、ここがピアニストの控え室になる。
2時間前の緊迫した空気が嘘のように、中は穏やかだった。


「あのー…。津田さん。お茶、淹れてきたんですけど…」
花嫁専用のゴージャスな鏡。
そこに施された繊細な薔薇細工とは全く釣り合わない、不機嫌な顔が私を見つけて、鏡越しに睨みつけた。
「うん。もう少しで終わるから、ちょっと待ってもらえる?」
目の前でビューティアドバイザーの津田さんが、馴れた手つきで彼の身支度を整える。
いつもはラフに降ろしてるさらさらの黒髪を、ワックスで流れを作り後ろに流してく。
「今時、カラーリングしてない髪っていうのは、珍しいな。友達なんて、もっとチャラチャラしてるでしょ? 真面目くんなんだ、城戸くんは」
津田さんの言葉に、にこりともしない。
「…ねぇ。彼、緊張してるのかな?」
そっと耳打ちされて、苦笑いしか返せない。
これがこの子の素なんですよ、津田さん。




絶対絶命ピンチの中で思い出したのは、一度だけ聞いた奏多のピアノの音色。
駄目もとで頼んでみたら、案外あっさり引き受けてくれたのだ。
お客様の前に立つのに、普段着というわけにはいかない。
しぶる奏多を無理矢理納得させて、鏡の前に座らせたのがほんの10分前。
鏡越しに見えるのは、普段からの愛想のない顔に輪を掛けたような仏頂面。
やだなぁ、目が合わせらんないよ。


「──────ハイ。いいわよ。出来上がり」
にこやかに笑いながら、津田さんが奏多の両肩を叩いた。
「花井さん。こんなもんでどうかしら?」
「あ、ハイ。素敵です」
髪型を変えるだけで、別人だ。
いつもより、大人びて見える。
「若いっていいわね。肌の張りも、髪のコシも全然違う。変にいじってないから、やり易かったわー。それに彼、素材がいいから、フォーマルがすっごく映える」
どこで見つけてきたのよ。すれ違いざま、ニヤニヤ顔で囁かれた。
苦笑いを返しつつ、紅茶のカップをそっと鏡の前に置いた。
「どうぞ」
笑いかけても、こちらを見ようともしない。
なんなの、その偉そうな態度は。
それならこっちも無視───と、いきたいところだけど…そうもいかない。
やっぱりここは、機嫌を取っておくべき…だよね?
本番に差し支えても困るし。
ちらり横目で視線を投げかけて、うっと固まる。
眉間に皺。頑なに結ばれた口元は思いっきりへの字。おまけに、あからさまな大きな溜息───。
超不機嫌。
俺に話しかけんな的オーラーを放つ無言の横顔に、声を掛ける勇気を失くす。
ああもう、どうしよ。

「じゃあ、花井さん。後はよろしくね。ジャケットはクローゼットの中に掛けてあるから」
仕事を終えた津田さんが部屋を出て行く。
ふたりっきり。
ますます、気まずい……。




「とわさん」
重苦しい空気に堪えかねたのか、先に口を開いたのは奏多だった。
「鏡越しにジロジロ見ないでくれる?」
「べつに…減るもんじゃないし、いいでしょ」
「あつかましい」
「あ…っ、あつかましい!?」
ふてぶてしい物言いに、思わず口調が強くなる。
おっといけない、平常心。
「……ねえ」
「なに」
「今、何やってんの? 高校は、卒業したんだよね?」
「大学生。音大」
「そっか。そっちの道にちゃんと進んだのね。大学楽しい? 授業ってやっぱり、音楽的なことばかりするの? 専攻はピアノだよね?」
「……つうかやめてくれる? その社交辞令的な会話。俺のことなんか興味ないくせに」
うっ。読まれてる。
だってそういう会話で繋がなきゃ、間が持たないんだもん。
共通の話題ってなによ?
みつからない。
「───俺も聞くけど。いきなり呼び出しといて、なんだよこれは。つうか、二度と俺には会わないつったよな、アンタ」
追い討ちをかけるように、鏡越しに睨まれた。
「…しょ、しょうがないでしょ? そんなの…時と場合によるわよ」
「開き直るなら俺、このまま帰るけど」
ああ、もう…っ。
この子の扱いづらさは相変わらずだ。
「ゴメンナサイ。謝るから。ちゃんと責任持って弾いてください。お願いします」
今日ばかりは、奏多に逆らえない。
偉そうな態度もNGだ。
今日だけ。今日だけ。そう心の中で何度も言い聞かせて、私は頭を下げた。


「いきなり呼び出されたかと思えば、わけもわからず弾かされて。鏡の前に座らされたかと思えば、人形のようにいじられて。俺の意見はなしか」
「ゴメン……。でも、説明はさっき、受けたでしょ?」
「男絡みで恨まれて、はめられて、その尻拭いを俺にさせるんだろ?」
「それ、どこで…」
「最初、ここに俺を案内してくれた人が、丁寧に事の次第を説明してくれたよ」
チッ。
瀬戸ちゃんめ、余計なことを。
人間的にはいい子なんだけど、口が軽いのが玉に瑕。


「女の争いに、部外者の俺を巻き込むな」
好き好んでやってるわけじゃない。
私だって巻き込まれたうちのひとりだ。
でも勿論、奏多にそれは関係のないこと。
文句言いたくなるのもうなづける。
「……ごめんね、巻き込んじゃって。城戸くんにはちゃんと、感謝してるから」
いくら憎まれ口を叩いても、奏多がここまで駆けつけてくれたのは事実。
私が困ってる、その理由ひとつで。
何度頭を下げても、感謝しきれない。



「……一番気に入らないのは、その余所余所しさ。なんだよ、城戸くんって。気持ちわる」
「だって…。職場なんだから、しょうがないでしょ? それにもともと、余所余所しいなんて言われるほどの関係じゃないじゃない」
友達でも恋人でもない、中途半端な知り合い。
私と奏多を繋ぐ関係ってなに? 
ともひろはもう、いない。



「……深い仲じゃん」
奏多が薄く笑った。
「…?」
「俺。とわさんの体のほくろの位置と数、言えるけど?」
「ば……ッ!! バカ!! なに言ってんのよ、こんなところで…っ!!」
思わず部屋の中を確認した。誰もいない。
よかった───、じゃないよ!
そんな、誤解を招く言い方しないで。
バスルームでのぼせた私を運んだだけじゃないか、奏多は。
ていうかあのとき、場所と数を確認できるほど、じっくり見たの?
バカ!! サイテー!!
辛抱堪らず奏多をぐーで殴りつけたところで、前触れもなくドアが開いて。
「───花井さん、ちょっと」
相原チーフが顔を覗かせた。

「…はい?」
手招きされるまま、部屋の外に出た。
扉がきっちり閉まるのを確認してから、チーフが声を出す。
「仲がいいのはよろしいことだけど、場所と立場をわきまえてね。また、よからぬ噂の的になるわよ。今回の事件で、よーく身にしみたでしょう?」
「……はい」
「あなたにそんな気はなくても、他人がどう捕らえるかはわからないから。人によって見方は違うのよ。もちろん。私は、あなたの味方だけど」
眼鏡越しに見えた目が、優しく緩む。
「よかったわね、間に合って」
「はい」
「私も、オーナーと一緒に彼のピアノを聞かせてもらったけど……たいしたものね。腕も技術も…文句なかったわ」
「そうですか。よかった……」
「若いし、見栄えもいいし。ピンチヒッターで終わらせるには惜しい逸材ね」
相原チーフの目がキラリと光る。
彼女は人事も担当してる。
いえ、もう今回だけで勘弁してください。


「…花井さんが五十嵐になびかない理由は、こういうことなのね」
ポツリと呟いた言葉は、あまりよく聞えなかった。
「彼、いくつなの?」
「たぶん…18、9ぐらいだと思いますけど……」
「どうりで。若いと思ったわ。で? あなたとは、どういう関係?」
「どういうって……ただの知り合いです」
友人でも恋人でもなく、ただの知り合い。
私と奏多の関係を表す言葉で、これ以上のものが見つからない。
「…いきなりの無茶な呼び出しを断りもせず、二時間もの長距離をタクシーで駆けつけて。ただの知り合いがそこまでしてくれるとは思わないけど?」
「…嫌味ですか?」
「いいえ。人に恵まれてるってことよ。周りに集まってくる人間は、その人の人柄を表すから。人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい」
にこやかに笑って、チーフが肩を叩いた。
「よかったわね、首が繋がって。彼に感謝しなさいよ」
ピンチヒッターのピアニスト。
全てが無事終わってからじゃないと、よかったなんて笑えないけど。
「───相原チーフ。ちょっとこっち、いいですか?」
「ええ。今行くわ。───じゃあ、後はよろしくね。今日はレストランの方はいいから、彼についててあげて」


慌しくバックヤードを掛けてくチーフの背中を見送りながら、ぼんやりと、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。




─── 人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい ───

望まない繋がりは、どうしたらいいんだろう。
望んでも繋がらない場合は?
解けてしまった恋の糸は、もう繋がらない。






「とわさん」
「なに?」
「突っ立ってないで入れば? 話、終わったんだろ?」
「あ…うん。ごめんね」
いけない。
こんな大事な時に、なにを感傷に浸ってんだ、私は。
気持ちを切り替える為に、軽く頭を振って頬を叩いた。
ふと。
流した視線の先で奏多が楽譜から顔を上げるのが見えて、彷徨う視線がそのままぶつかった。
彼にしては珍しい真っ直ぐな眼差しに、意味もなく動揺してしまう。



「……なあ、とわさん」
「なに…?」
「アンタ、こんなとこで何やってんだよ?」
「何って、仕事───」
「んなこと、わかってる。俺が言ってんのは、何で職場が変わってんのかってこと。幼稚園は?」
「……辞めたよ」
「なんで?」
「何でって……どーでもいいでしょ」
「酒井さんとは、まだ続いてんの?」
「………とっくに別れたわよ。満足?」
「ふーん」
「なによ……」
「そういうことか」
「だから、なによ!?」
言いたいことがあるならはっきり言え。
「永久就職でも狙ってたの?」
「な……ッ!!」
「酒井さんと別れて、あてがなくなって、そのまま実家に出戻り? カッコ悪」

哀れむようなニュアンスを込めた笑い声が、奏多の口から零れた。
ば、馬鹿にして!!




「べつにっ、ともひろは関係ありません! 自分の判断で地元に戻っただけよ…」
「とわさんっていつも、自分に都合のいい言い訳ばっかするよな」
腹が立つ。
奏多の顔からバカにしたような笑みが消えない。
「言い訳じゃありません。それに私、あの人との結婚を考えたことなんて、一度もないから!」
永遠を夢見ることもなかった。
悲しい結末に胸が痛んで、思わず強い口調で睨みつけてしまう。
「ふーん…」
「……なによ」
「ここのレストランって、ウエディングもやってるんだって?」
「そうだけど……なに?」
「知ってる? ウエディングに携わる仕事をしてると、婚期を逃すってジンクス。このままだとアンタ、絶対行き遅れるよ?」
「──────奏多…ッ!!」
怒りのあまりに振り上げた拳を今度はあっさり交わされて、そのまま腕を捕られた。
「きゃぁ…っ」
不意に視界が反転したと同時に、肩と頭に軽い痛みを覚える。
「…いっ、たぁ……ッ」
テーブルの上に押し倒されたのだ、と理解するまでに、そう時間はかからなかった。
背中に固いテーブルの感触と、目の前には身支度の整えられた端正な顔。
その後ろに見えるのは、サロンの天井───。



「な、にっ、やってんのよ……っ!!」
押し返そうと動いた拳はまた捕らわれて、あっけなくテーブルの上に縫い付けられた。
何度あがいても、びくともしない。
「──────バカじゃないのか、アンタは。何度も黙って、殴らせたりするわけないだろ。男に手を上げる時は、押し倒されるぐらいの覚悟はしとけ」
くやしい、くやしい、くやしいっ。
その偉そうな物言いも、人を見下げた言い方も。
「つうか、大事なピアニストに怪我させたら、ヤバイのはそっちだろ」
大きな溜息をついたのと同時に、私の腕を押さえつけていた手が緩まった。
「……っ」
自分が言い返せない立場にいるのが、一番悔しい。
奏多といると、いつもペースを崩される。



「とわさん、ちょと出てってくれない?」
「は?」
「演奏前に集中できない。どうせ弾くなら、いい演奏して欲しいだろ?」
人のこと散々けなした挙句、押し倒しといて、集中できないから出て行け?
なんて自分勝手な!




「……ていうか、城戸くん。私、自分から頼んどいてなんだけど……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「なにが?」
「ちゃんと弾けるのかって聞いてるの!」
「…呆れて物が言えない」
「は?」
「今さら俺に、それを聞く? つうか、馬鹿にしてんのか? 弾けると思ったから呼んだんだろ?」
「だって…。アンタしか思いつかなかったから……」
「──────ジャズ、クラッシック、ポップス、ポピュラー。どれも問題ない。なんだったらコンクールで弾くような思いっきり難しい曲でも弾いて見せようか? こんなレベルの曲、初見で弾ける」
用意した楽譜の山を私に突きつけた。
「なに……?」
「いらない。一度見れば、頭に入る」
「いらないって、奏多──────」
「花井さん。時間。店、開けるって」
「だって。とわさん」
「だって、じゃない! どうすんのよ、これ」
楽譜を抱えたまま振り返ろうとした私は、そのままの状態で硬直した。
背中に重なってくる奏多の気配。
自分の体のすぐ横から伸びてきた手がドアノブを引いて、小さな音を立てて扉が閉まる。



「ちょ…っと、奏多……何やって───」

真横に伸びた、奏多の腕に息を飲む。
囲われた。






「ギャンブラーだな、アンタも」

耳元に息を吹きかけるように囁かれた。
ぞくん、と。体が震え上がる。


「俺の音聴いたのなんて、あれ一度きりだろ。それで判断しちゃうんだから」
「…賭けよ。ていうか……、アンタしか思いつかなかったって、言ってるでしょ? ああ、もうっ! どいてって! 時間がないんだか───ッ!?」
囲われた空間から抜け出そうと動かした体を後ろから抱きしめられた。
驚いた拍子に腕から楽譜が滑り落ちて、音を立てて散らばった。
五線譜に描かれた音の渦が、床一面に広がる。
「っ、なにやってんの…っ、いいかげんに、してよ…っ!」
動かした体はびくともしない。
それどころか、一層腕に力が込められる。
背中に密着する体から、奏多の体温がリアルに伝わってくる。
「嬉しかったよ。俺の音、認めてくれて」
「……え?」
抱きしめた腕が軽く緩んだかと思うと、そのままその手に目隠しをされた。
また、耳元で囁かれる。







「───とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ」


目を開けた時、奏多はもう、そこにはいなくて。
しばらくそこで、呆然と立ち尽くしたまま動けなくなっていた私の耳に届いたのは、澄んだピアノの音色。









「───あ…。この曲、なんで………」


五十嵐さんの曲だ。
彼が彼の時間だけに弾く、お客様にも人気の高いソナタ。
確か渡した楽譜の中には、この曲は入っていなかったのに。






「すごいのね、あの子。一度聴いたら、弾けるんだもの」
「───相原チーフ」
いつからそこにいたのか。
気がつけば扉の前に、相原チーフが腕組みをして、こちらを見つめて微笑していた。
くいと顎でしゃくられて、彼女の後について、ピアノの袖側に回る。
「どうしてあの曲を城戸くんが…?」
「教えてくれって言われたのよ。五十嵐が入る日に、その人の持ち曲を楽しみに来る客がいるだろうって。楽譜は五十嵐が持ってるからないわよって言ったら、テープでいいからですって。一度聴いただけよ? すごいわね、あの子」
「……ああいうの、絶対音感っていうんですよ」


耳で聞いて、心で奏でて。
音が頭の中に入っているから、キーを見失うことなく反射的に正確に打鍵できる。
かなたの音楽センスがこれほどまでとは、思わなかった。







「なーんだ、今日は五十嵐さんじゃないのか」
「でもあの人も、ねえ。なんだかカッコよくない?」
「ていうか……、なに。すごく、上手───」


目を閉じて。音を拾って。心で聴いて。
聴く人みんなが立ち止まる。そっと振り返って目を閉じて、彼が奏でる音色に、旋律に。





「勿体無いわね」
「え?」
「あの子をこのまま、ピンチヒッターで終わらせるのは。うちに欲しい逸材だわ」
「…ええ。本当に…」





賭けでもギャンブルでもないの、奏多。
私がキミを呼んだのは。
耳に残ってるのよ。
いまだに、あのとき聴いた奏多のピアノの音色が───。












────── とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ ──────






そう言った奏多は、何も楽譜のない中で一音も間違えることなく。
見事、三時間。弾いて見せた。













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悲しみの出口 3

「──────花井さん、ちょっと」
忙しいランチタイムを終えて、サロンで仲のいい同僚とひと息ついていた時だった。
笑みの消えた真面目な顔つきでチーフに呼ばれた。
「…はい?」
「五十嵐さん、まだ来てないんだけど。ちゃんとアポ、取ったわよね?」
「え?」
「……いつもなら、2時間前には楽屋入りしてくれてるんだけど…何かあったのかしら」
困ったわね、と。
中指で眼鏡を押し上げながら、相原チーフが綺麗な顔を曇らせた。
「ちょ、ちょっと待ってください。五十嵐さんのスケジュールって、確か来週じゃ──────」
「何言ってんの。今週よ。ちゃんと予定表、確認したの?」
「しました。でも、麻生さんにもらった予定表には、五十嵐さんの担当日は来週って──────」






あ。



彼女の名前を出した瞬間、チーフも何かを感じ取ったらしく。
「……見せて」
真面目な顔で私の手から紙を抜き取った。
「───花井さん。これ、大北のスケジュールよ。受け取った時にネームをちゃんと確認しなかったの?」
うそ。
相原チーフの手元から思わず紙を奪い取る。
本当だ。
スケジュールに記されたネームは『OOKITA』───五十嵐さんのじゃない。
「……やられたわね」
配ったのは麻生さん。
普段、雑用なんてしない彼女が、かいがいしく予定表を配ったりしてると思ったら、全てはこの為だったのか。
私を陥れる為に、わざと──────。
「大北の方は? 五十嵐とスケジュールが入れ替わってないかしら。瀬戸さん、確認してみて」
「───確認取れました。大北さんの方は間違いないそうです」
「じゃあ今日、五十嵐の代わりに大北が来てくれるということは、ないということね?」
「……はい」
くやしい。
麻生さんはスケジュールを渡し間違えたのではなく、故意に違うピアニストのものを渡したということだ。
わざわざ同じものをコピーして、私に。
もちろんそれを信じて確認を怠った私のミスではあるけれど……許せない。
その腐った根性が!


「ちょ、花井さん!? どこ行くつもり!?」
「どこって───麻生さんのところに決まってるでしょ」
あわわ、と。
その場で見てるだけだった同僚が私のただならぬ殺気を感じて、腕を取った。
キッと睨みつけた私に一瞬、怯みかけて、それでも腕を離さない。
「行ってどうするのよ?」
「腐った根性、たたき直してやる」
許せない。
私が気に入らないのなら、正々堂々やればいい。
私ひとりの為に、五十嵐さんを巻き込んで、店にも迷惑掛けて。
これだから『恋愛がすべて』の女なんて嫌いだ。
ふざけんな。
「ちょ、たんま! 今、手を上げたりなんかしたら、ますます向こうの思う壺だって。悪い立場にもっと追い込まれちゃうよ?」
「だって……!」
「あの人が何でコンピューターって呼ばれてると思うの? べつに仕事ができるからとか、頭いいからとかじゃない。計算高いからよ。たぶん、花井さんが怒って怒鳴り込んでくることも、全部計算の上のはずだから。今行くのは、絶対まずいって!」
「じゃあ私に、泣き寝入りしろっていうの!?」
勝ち誇った顔で笑う、麻生さんの顔が脳裏に浮かんで消えた。
くやしさで、目尻に涙が溜まる。

「……花井さん。今、あなたが行ったところで、起きてしまったことはどうにもならないわ。麻生さんのことは後で確認を取って、処分はちゃんと下します。だから」
「あの人のことだもの。そんな遠まわしなことしてたら、その間に言い訳を作って逃れるに決まってます。だったら直接、私が───」
「花井さん!」
チーフが声を荒げた。
静かな怒りのこもった声色に、空気が低く震える。
隣で、同僚の瀬戸ちゃんが息を飲んだのがわかった。
「責任の擦り付け合いよりも、今一番、何を優先すべきか考えなさい。まだ、夜のオープンまでに時間はあるから。五十嵐に連絡して、謝罪して、急いで来てもらいなさい」
「でも……っ」
「言い訳は後。たとえ麻生さんが引き金だったとしても、最終的な確認を怠ったのは花井さん、あなただから。責任逃れをする前に、やるべきことを優先しなさい。あなたひとりの為に、店の開店を遅らせるの?」
「……っ」
チーフの言うとおりだ。
内輪で揉めてる場合じゃない。
夜のオープンまで後、二時間半。
それまでに五十嵐さんに来てもらうか、誰か別のピアニストを手配しないと──────。


「もし捕まらなかったときの為に、大北さんとヘルプの三人にも当たってみるから。とりあえず花井さんは、五十嵐さんに連絡つけて」
同僚の瀬戸ちゃんが、ポンと肩を叩いた。
落ち着け。目が語ってる。
「……はい」
「花井さんがお詫びに、食事に付き合うとでも言えば、どんな予定もキャンセルして来てくれるわよ。五十嵐は」
「わ、私に体を張れと……?」
「べつに一夜を共にしろって言ってるわけじゃないんだから。ミスが食事ひとつで償えるのなら、安いものでしょ? あなたのお給料じゃ行けないランクのお店、連れてってもらえばいいのよ」
「あの、でも……」
「お姫様気分でエスコートしてもらって、おいしく食事して、お酒もいただいた後は笑顔でさよならしちゃえばいいの。それぐらいできるでしょ?」
「む、無理です」
できるかできないかじゃなくて、行きたくない。
あんな手の早そうな男と食事になんて行ったら、巧みなトークに騙されて、お酒に飲まれて──────私が食われる。
冗談じゃない。
「ていうか、早くしなさい。市内にいれば、まだ間に合うから」
うーっ……。
仕方ない。
食事のことは頭の隅に避けとこう。
それは最終手段に取っといて、とにかく電話──────。



「……あれ?」
何度コールしても出てくれない。
自宅も携帯も応答がなく、すぐ留守電に捕まる。
なんで……。









「──────あ」






「どうしたの? 捕まった?」









────── 週末は演奏会で、ベルギーに行くんだ ──────  

鼓膜に残こる甘ったるい言葉を思い出した。






「……チーフ。今、五十嵐さん…ベルギーです……」


タクシーすっ飛ばして間に合う、なんていう距離じゃない。





「大北は? 捕まらないの!?」
「……彼も演奏会だそうです。国内みたいですが、ちょうど最中らしくて……来てもらうのは無理です」
「ヘルプの3人はどうなの?」
「川見くんは大学。彩ちゃんは、生徒レッスン。中田くんは…旅行中だそうです。それぞれ外せない予定が入っているみたいで……全滅です」
「なんで、そろいもそろって…」
もしもの時の為に、誰かはキープに入ってるはずが、誰もいない。
頭を抱えた。
「…だから言ったでしょ。コンピューターだって。
五十嵐がベルギーで捕まらない距離にいることも、他が全員捕まらない日だということも、全部計算の上での”今日”なのよ」
麻生さんが勝ち誇ったように笑うのが見えた。
なんで。
いやだ、こんなのは。
くやしい。くやしい。くやしい…っ。
たくさんの言いたいことを喉元まで運びつつ、言葉にできない。
唇を噛締めて、怒りに拳を握り締めて、上の判断を待つことしかできない。
突っ立ってるだけで何も出来ない役立たずの自分に、一番腹が立つ。




「………私、どうすればいいですか」
「もう正直に話して、頭下げるしかないでしょ。オーナーが何て言われるかはわからないけれど…今日はもう、機械的なBGMに頼るしかないわね」
「機械的なBGMって──────。ピアノ演出が店の看板にもなっているのに、そんなことしたら──────!」
「仕方ないでしょ? 専属の五十嵐は捕まらない。大北も、ヘルプの北見くん達も全滅。花井さんが弾いてくれるとでもいうの…!?」


低い怒りの声に、その場がシンと波打つ。
普段もにこやかな人ではないけれど、今日の相原チーフは今まで見た中で、一番怖い。
静かな怒りにその場の空気がピシと凍る。
部下のミスは上のミスだ。
ただ押し黙まって下を向くことしかできない私の背中を相原チーフが優しく撫でた。



「…大丈夫よ、花井さん。頭を下げるのは私だから。あなたは黙って、ついてくれば──────」
「……弾ければ誰でもいいんですか?」
「え?」
「言いましたよね? 私が代わりに弾いてくれるのかって。私は勿論、無理ですけど……ピアノが弾けるのなら、誰もいいってことですよね?」
「誰でも、ってわけにはいかないけど……。素性がはっきりしてて、ある程度技術を持ってる人がいるのなら、この際、プロアマは問わないわ」
「だったら──────。私、知ってます。弾ける人」








それが奏多だった。









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悲しみの出口 2

ともひろと関わる全てのものから、私は逃げた。
私から連絡しない限り、奏多は連絡先を知らない。
だけど。
きっかけを作ってしまったのは、自分。

そう。
あれは去年の秋。












新しい就職先は、思ったよりも早くに決まった。
遠縁に当たるおばさんの友達のいとこが経営するレストラン『ジュピター・ガーデン』。
要はコネ、要は他人。
中途半端なコネクションは、変にかしこまらなくてよくて、気が楽だった。
来年度の教職員の採用募集までの腰掛になればいい、そんな軽い気持ちではじめたのが5月。
たかがレストラン。たかがウエイトレス。
甘く見ていた。

『ジュピター・ガーデン』は、閑静な住宅街の中央に位置するフレンチ専門のレストランだった。
タウン誌にもよく取り上げられ、レストランとしてはもちろん、コンサートホールやウエディング。各種パーティに利用する人が多く、土日や週末はほぼ貸切になる。
評価も高く、地元では人気のスポット。
とにかく忙しかった。
仕事を覚えるのにひと月。
状況を把握して、自分らしく動けるようになるまでにそこから更にふた月かかった。
サービスをスムーズに取り行っていく機敏さと正確さ。
わずかな時間で最高の満足を提供する高い技術。
お客様に満足してもらう為には努力を惜しまない、スタッフのサービス精神の高さとプロ姿勢は見事で。
たかがと、馬鹿にしていた自分が恥ずかしかった。


通常勤務はレストラン。
忙しいときは企画やイベントのヘルプに入る。
これでも半年、頑張った。
シフトに入る以外の時間は、資格を取る為に学校にも通って。
やるからには中途半端は嫌な性格から、私は次第に新しい仕事にのめりこんでいった。
新しいことだらけ、覚えることだらけの毎日はめまぐるしく、勤務中は感傷に浸ってる暇がない。
正直、忙しさに助けられたのも事実。











「──────じゃあ、来週は週末の3日間ということで構わないかな?」
「はい。よろしくお願い致します」
私は腰を折って、深々と頭を下げた。
相手はうちの専属ピアニスト、五十嵐さん。
食事をしながら生演奏を楽しめるのもジュピター・ガーデンの人気のひとつで、店では数人、ピアニストを抱えている。
中でも、若手で実力もルックスもナンバーワンの五十嵐さんの人気は高く、彼目当てに店に来る女性客も少なくはない。
少し色素の抜けた長髪に、鼻筋の通った顔立ち。
切れ長で、一般的な日本人よりも彫りが深く黒い瞳。
仕立ての良い高級そうなスーツを嫌味なく着こなす五十嵐さんは、一見、ホストのようなルックスで──────実は私の苦手とする男の部類だった。
彼とは、打ち合わせの場へお茶を運んだのが初対面。
それから顔を合わすたびに声を掛けられるようになって、彼の打ち合わせの日には、なぜか向こうが私を指名してくるようになった。
キャバ嬢じゃあるまいし、指名ってなによ。
立場を利用して、自分が気に入った従業員を指名するその腐った根性が気に入らない。
彼を苦手と位置づける理由のひとつがそれ。
もちろん、まだある。



「明日からしばらく、演奏会でベルギーに行くんだ」
帰り際、紳士的な笑みを浮かべながら、五十嵐さんが私を振り返った。
打ち合わせの後は、担当が玄関先まで見送ることになってる。
「素敵ですね。頑張ってください」
「ああ。ありがとう」
差し出したコートの下で、五十嵐さんの手が私の指とぶつかった。
あ、っと思った時には、長くて細い指が私の指を絡め取って、そのまま手を握られた。
驚いて顔を上げた私に、丹精な顔が微笑して、そのまま耳元で囁いた。



「───お土産買ってくるけど……何がいい?」

男の人なのに、甘ったるくて耳に響く声。
ゾクリとした。
官能的な身の震えじゃない。
拒絶反応。
思わず気持ち悪くなって、口元に手を当てたくなるのをかろうじて堪えた。
見た目、いい男なのは認める(長髪はタイプじゃないけど)。
でも、自覚あるのもどうかと思うよ。
自分にかかれば堕ちない女はいないって、本気で思ってるその態度。
生理的に受け付けない。
嫌い、その二。


「じゃあ───チョコレートを。ベルギーのチョコレートって有名ですよね? 休憩時間に、みんなでお茶菓子にいただきます」
ニコリ笑って、自然な動作で彼から離れた。
手にしたコートを手渡す。
もう、いいからさっさと帰ってよ。
「……交わすのがうまいね、花井さんは」
そういうところがいいんだけど、手が軽く肩に触れて、去り際にまた耳元で囁いた。
嫌い、その三。
軽々しいスキンシップ。
何かにつけてボディタッチをしてくるその馴れ馴れしさ。
「では来週。宜しくお願いいたします」
グーで殴りつけたくなる心を無理矢理押さえつけて、私は笑顔で頭を下げた。
顔で笑って心で打つべし。
引きつった笑顔を深く身を折ることで誤魔化して、彼を見送った。



「───今のは。花井さんだけに特別に、って意味だと思うけど?」
突然、降って沸いた声に視線をさまよわせると、ホールの入り口のところで、相原さんがこちらに腕組した状態で立っていた。
ひっつめて後ろひとつに束ねた黒髪に、眼鏡。
地味な外見の彼女は、私直属の上司。
目が合うと、綺麗に口紅で縁取られた唇の端を持ち上げた。
「高いアクセサリーやブランド物のバッグでも、ねだってやればよかったのに」
「……冗談やめてくださいよ」
下心の込もったプレゼントをホイホイ受け取るほど馬鹿じゃないし、好意を平気で物に変えられるほど小悪魔にもなれない。
「ていうか。いつからいたんですか、チーフ」
あの声が聞えてたんだから、すごい。
どんだけ地獄耳なんだ。
「うん。またあの五十嵐がね、従業員に手を出しやしないかと、見張ってたんだけど……その心配は、なさそうね。
ていうか、どちらかといえば、花井さんが五十嵐に手を上げそうで…」
「どういう意味ですか」
私だって、伊達に社会人として経験を積んでいるわけじゃない。
苦手な人でも、笑顔で話すくらい平気だ。
教職時代も、モンスターペアレントって呼ばれる部類の保護者なんていくらでもいた。
それに比べれば五十嵐さんなんか、はるかにマシだ。

「まあ、花井さんなら、公私混同はしないと見込んで、彼の担当にしたんだけど」
「お陰で風当たり強いですけどね」
うちには専属のピアニストが二人。ヘルプで来てくれるピアニストが三人。
計五人のピアニストを抱えている。
その中でも甘いマスクの五十嵐さんは、従業員の中でもダントツの人気で──────彼の恋人のポジションを狙ってる女子社員は少なくなかった。


「……とくに麻生さんなんて、あからさまですよね」
彼女を思い浮かべるときには、いつも溜息が出てしまう。
入社四年目の麻生さん。
ウエディングプランナーの資格を持つ彼女は、企画部の中でも実力派。
綺麗で仕事も出来て、女らしい色気が匂う人。
私が来るまでは、五十嵐さんと結構いい仲らしかったみたいなんだけど……。
「そりゃ、気に入らないでしょうよ。入社して半年の新人が、いきなり彼の担当に抜擢されて、一番近いポジションにいるんだから」
「そんな他人事みたいに言わないでくださいよ…」
そうなることを分かってて、私を彼の担当にしたのは相原チーフのくせに。
五十嵐さん絡みで、女子社員の一部から、私は目の敵にされている。
嫉妬と羨望の眼差しってやつだ。
女の嫉妬ほど怖いものはない。

「そんなにみんな、五十嵐さんがいいのなら、喜んで担当交代しますけど」
「あら。それは困るわね。担当を替えたことで、また新しい揉め事、増やしたくないし」
「ていうか、変えてください。私、正社員っていってもまだ見習いですし……資格も、まだ取得途中で──────」
「ピアニストのお世話に資格なんていらないのよ、花井さん。そういえばあなた…レストランから企画・イベントの方に、転属願い出してたわよね?」
「はい」
「じゃあ、チャンスじゃない。反対に利用してやるぐらいの気持ちがなくて、どうするのよ」
「それとこれとは、話は別で……」
視線を感じて顔を上げると、相原さんがじっとこっちを見てた。
値踏みでもするかのように、上から下まで視線が撫でてく。
な、なんですか。



「……花井さんって彼氏、いないの?」
「いません」
「募集中?」
「いりません」
「あら、寂しいこと言うわねえ」
「いいんです、しばらく独り身で。そのほうが気が楽だし…」
「だったらべつに、五十嵐の担当でも問題はないじゃない」
「……でも。嫌いなんですよ、ああいう男の人は…」


慣れてる人。軽い人。自分の良さに自信があってそれをひけらかす人。
どうも苦手だ。
人間の中身まで軽く見えちゃう。
本当にイイ男っていうのは、自分からひけらかさなくても自然に向こうから寄ってくるもんじゃないのか。
だいいち、男なんて五十嵐さんだけじゃないじゃん。
みんなもっと、外にアンテナ向けようよ。
視野、狭すぎだって。



「……花井さんって、職場で敵を作っちゃうタイプよね」
「なんですか、それ。ここが特殊なんですよ。前の職場ではみんな仲良くて──────」
「バカねえ。女だけの職場で何を争うのよ?」
「…はい?」
「そういう無自覚なのが、たぶん一番あの子の勘に触るんだわ」
相原さんが困ったみたいな声で笑う。
あの、意味わからないんですけど。




「まあいいわ。彼女──────麻生さん、コンピューターだから」
「コンピューター、ですか?」
なにそれ。
頭脳派? 仕事できるって意味?
「意味はいずれわかると思うけど……まあ、気をつけて」
後から聞いた話だけど。
麻生さんと男絡みでもめて、辞めさせられた女子社員は数え切れないらしい。
いくら仕事ができても、そんな人間的に欠陥のある人、辞めさせちゃえばいいのに。
そんな程度に軽く考えてた自分に、まさか災いが降りかかろうなんて。
このときの私は思いもしなかった。










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悲しみの出口 1
涙とキスと。



吹き抜ける風に、流れる髪を押さえた。
春、4月。
車から降りた私は、視界に舞い落ちる淡い色を見つけて、空を仰ぐ。
見上げたのは駅の入り口に立つ、大きな大きなソメイヨシノの木。
いくつもの花を付けた桜が空へと大きく枝を伸ばし、堂々とその存在を主張していた。
咲き誇る淡いピンクの花が、また1年、時が過ぎたことを知らせる。
はらり、舞う桜。
花の隙間から零れる光に目を細めた。




「とーわ!」
ふいに声を掛けられた。
懐かしい声に心を震わせながら、振り返って私は笑う。
「なに見てたの?」
「見て。桜──────」
「……うっ、わ…。すごいね、この木。樹齢何年ぐらいあんの? こんな大きいの初めて見たよ」
少し大きめのトートバッグを肩に掛け直しながら、私の隣で同じように木を見上げた梓が感動の声を上げた。


見惚れるほど美しい桜の木は、今年も満開を迎えた。
ここに立つと思い出す。
もう恋なんて二度とするもんかと強く心に誓ったあの日の決意を。
地元に戻ってきた日。
駅に降り立った私に、突如吹きつけた強い風が、降り積もった花びらを舞い上がらせ、私の心を散らせた。
目を閉じれば、あの日の桜吹雪が、今でも瞼の裏に舞う。





「…なーに、とわ。まだ感傷に浸ってんの?
 あれから、二年経つんだよ? もう……忘れてもいい頃でしょ」


眠れない夜を何度やり過ごしただろう。
枕を何度、涙でぬらしたのかわからない。
失恋ソングばかり集めて、バカみたいに毎日、繰り返し聴いた。
朝が来るとつい隣を確かめてしまう癖が悲しくて、休日の夜は朝まで映画を見て、夜が明けてから眠った。
毎日枯れるほど泣いて、泣いて、私は今、ここにいる。

あれから二年。
悲しい記憶はなかなか消えてはくれないけれど。
それでも時は前へ、前へ。
どんなに悲しくて辛くたって、朝は来るし、明日は待ってくれない。
過去を振り返って後悔したところで、未来は後ろに繋がってないのだ。
そしたらもう、前に進むしかないじゃない。
心の傷はまだ完全には癒えなくても、少しずつ確実に、時間は日常を取り戻してくれる。




「…あれから、連絡はないの?」
私のすぐ隣で、瞳に桜を映したままに、梓が聞いた。
「誰から?」
「酒井さん」
「……あるわけないじゃん。もう、終わったんだから…」


見事なくらいないよ。
やっぱりともひろは潔い。過去なんて振り返らない。
ふたりの関係は、あの日できっぱり終わりを告げた。




「あーあ。とわなら彼を変えられるって思ってたのになー」
「なにを根拠にそんなこと…」
「酒井さんが職場まで押しかけて来た時にさ、とわだけは特別なんだって、運命を感じたのに。つなんなーい。
結局とわもさ、酒井さんの過去の女のひとりになっちゃったわけだ」
「まあ……そういうことだね」
大したことない風を装って、笑いながら言った。
「でも…ホント勿体無い。あんないい男、他じゃなかなか見つからないよ? もう少し、頑張ってみればよかったのに」
「先が見えてることを頑張れない。誰だってサヨナラ前提で、恋なんかしないでしょ? もう夢ばかり見てられる年齢じゃないよ、私らは」
今年で24になる。
来年はアラサー領域だ。
四捨五入すれば30。やだな。

「まだまだ若い!全然行けるよ!って、墨田先生によく言われるけどさ、若さなんて一瞬だよね。のんびりしてたらホント、あっという間に30が来ちゃう」
「墨田先生かー。懐かしい。元気でやってるの? ていうか、まだ独身?」
「独身も何も。彼氏すらいません状態よ。いろいろ、セッティングはしてあげてんだけどねー。あの人、高望みしすぎなのよ。ストライクゾーンはもっと広く持たなきゃ。あの調子じゃあ、いつまでたってもゴールは見えてこないわ」
「あはは。相変わらずなのね。環や……子ども達も、みんな元気にやってる?」
「元気元気。相変わらず環は合コンの斡旋ばかりやってる。
入園当初、親から泣いて離れられなかったあの子らもさ、今では年少さんのお世話とかやってんのよ。すごいでしょ?」
「そっかぁ…。久しぶりにみんなに会いたいな…」
子ども達の笑顔を思い浮かべると、自然に顔がほころぶ。
また、みんなに会いたい。
「会いにくればいいのに」
「うん……。今の仕事が結構、忙しくてさ。またいずれ、ね。───ハイ、荷物」
梓から預かった一泊分の荷物を、車のトランクに入れて、運転席に戻ってエンジンをかけた。
フロントガラスに積もった桜の花びらが、発進と同時に空へ舞い上がる。



「…けどさ」
「ん?」
「なにも仕事まで、辞めちゃうことなかったのに……」
「だって……。住むとこ、なくなっちゃったんだもん」

春からともひろと住むつもりだった。
そのつもりで、住んでいたマンションを三月いっぱいで退去する手続きを済ませ、荷造りもほぼ、完了してたのに。
私が出た後の入居者はすでに決まっていて、取り消しも出来ず。
予定通り、三月にはそこを引き払った。
春の新生活シーズン真っ只中。
場所と環境と、金額と。見合う物件はなかなか見つからず、結局、一人暮らしを諦めて、実家に戻ることにした。
仕事もそのとき、辞めたのだ。




「べつに、ここから通えばよかったじゃん。二時間ぐらい、往復できない距離じゃないでしょ」
「一時間に一本しか電車の来ない田舎からじゃ、通えないって。車じゃ交通費かかりすぎるし…。
そういう梓は、自分だったら通うの?」
「あー…、ナイナイ。大手企業ならともかく、たかが私立幼稚園ぐらいで。二時間もかけて通うなら、近場を探すね」
「でしょ?」
「まあ……その方がとわにはよかったのかもね。少しでも酒井くんと距離、置きたかったんでしょ?」
梓の言葉に、私は困ったように笑った。

別れた年の春先に、街でともひろを見かけた。
もう私のものじゃなくなった彼は、別の女のものになっていた。
婚約者のリオコさん。
隣にいたのは、たぶんその人。
頭では理解してたつもりなのに、気持ちはまだ、それについていけなくて。
傍らに寄り添う彼女の存在に、胸が痛くて辛くて、ビルの陰に隠れて泣いた。
泣くな、泣くな。
強く何度も言い聞かせても、溢れる涙はしばらく止まることがなかった。
もう、離れたかった。
ともひろと過ごした思い出の街を。
もちろん、地元にも数え切れないほどの思い出は散らばっている。
でもその時の思い出に、恋愛感情はなかった。
この街にはともひろはいない。
街でばったり───なんていう偶然は、年に数えるほどしかない。
時期を見極めれば、回避できる。
もうともひろには、会いたくなかった。




「でもさ、痛いよね。恋も仕事も男も住むとこも、ぜーんぶなくなっちゃってさ。あー、かわいそう」
「…うるさい。なによ、梓ー。ダメ出しに来たのなら帰れば?」
「アンタが柄にもなく、感傷に浸ってるからでしょ。からかいたくもなるわよ」

笑いながらも、梓が私を心配してくれてるのは知ってる。
へたな同情は、惨めにさせるだけだということも。
軽口叩いて、痛い思い出を笑い飛ばしてくれる方がよほどマシ。



「梓」
「んー?」
「……ありがとね」

ちゃんと食べてる? 眠れてる? 寂しかったらいつでも会いに行くから。
この二年。梓はいつも励ましてくれた。気にかけてくれた。
泣きたい時には電話をくれて、落ち着くまでずっと、話を聞いてくれた。
長期の休みに入るたびに、こうやって会いに来てくれる。
梓の存在は、いつも私の励みだったよ。




「感謝の気持ちは現金でヨロシク」
「もう…。なにそれ…」
「うそうそ。でも、美味しいお店、連れてってくれるんでしょ?」
「うん。予約入れといた。地元の鯛を食べさせてくれるお店でね、それに合う地酒を出してくれるんだけど…それがすっごく美味しいの! 梓、絶対気に入ると思うんだけど」
「えー、マジで? 嬉しい!」
「とりあえず、うち寄って荷物置いてからね。飲むなら、車じゃダメだし」
「了解。あー、おなかすいた! 今日はとことん飲むから。ちゃんと付き合いなさいよー」



失恋の痛みは何度経験しても、辛い。
この痛みには、慣れっこない。
アドレスも着信もメールも、全てを綺麗に消去しても、気持ちだけはなかなか過去になってはくれなかった。
機器みたいに、気持ちも感情も、簡単にリセットできたらどんなに楽だろう。
何度も思って、何度も泣いた。

だけどべつに、失恋したぐらいで死にゃしないし。
恋人いなくたって、毎日楽しくやってる。
梓が思ってるよりも、ちゃんと元気にやってるから、私。
心配しないで、梓。












一度、実家まで戻って荷物を片付けてから、街へと出かけた。
目的地は、地元食材をふんだんに使った日本料理を食べさせてくれる料亭。
女性をターゲットにしているというだけあって、上品でお洒落な佇まい。
全室個室っていうのも嬉しい。
地酒から口当たりのいいカクテルまで、幅広いアルコールの品揃えも魅力的なお店。
予約しておいたのは、鯛のお鍋がメインの旬の食材を使ったコース料理。
薄くスライスしたお刺身をダシのきいたお湯でしゃぶって、大根おろしと鷹のつめの入ったピリ辛おろしと、自家製のポン酢で食べる鯛のお鍋がもう、絶品で。
梓から出る言葉は、うまい!美味しい!の連続だった。
お料理に合わせて出してくれる地酒が、これまた美味しくて…箸が進む。お酒が進む。話が弾む。
色気よりも食い気。食い気よりもお酒なひと時。
彼氏とじゃあ、そうもいかないでしょ。






「ねえ、梓……。ずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「その指輪、なに?」
左手薬指。
眩しいぐらいに存在を主張するその輝きは、もしかして──────。


「あー、うん。結婚、決まったの」
「うそ。ホントに!? いつ?」
「年内に籍だけいれて、挙式は冬休みに海外で挙げる予定…」
「やーん。おめでとう!! ていうか、何で今まで言ってくれなかったの!?」
「はっきり決まるまでは、って思ってて…。実は今回、報告を兼ねて、ここまで来ました」
ぺろりと舌を出して、梓が申し訳なさそうに肩をすくめた。
まったく、もう。
水臭いんだから。
「ちゃんと話してくれてれば今日、お祝い準備してきたのに…」
「いいよ。お祝いなんて。そうやって喜んでくれるだけで、十分。ていうか、アンタ置いて幸せになる方が申しわけないくらいで……」
「何言ってんのよ。私のことなんて、梓の幸せには関係ないじゃない。じゃあ、ここは私が払う。前祝い! お祝いはまた後でちゃんとするけど、今日はそれくらいさせて?」
「ありがとう。でも、それは遠慮しとくわ」
「なんで?」
「あたし、結構飲んでるし…。それに……高いでしょ、ここ」
こそ、と梓が囁いた。
個室なんだからさ、別に声を潜めなくてもいいのに。
その判断が付かないくらい、今日の梓は出来上がってるらしい。



「これでも私、稼いでるんだよ? 幼稚園の時のお給料よりも貰ってる」
「マジで?」
「マジっす」
「……そっか、すごいね。ていうか、とわはもう、幼稚園に復帰する気はないの?」
「んー。やりがいのある仕事ではあったんだけど……。
新しい仕事にもようやく慣れてきたところだから、今の仕事、もう少し続けてみようと思って」
「お給料がいいんじゃ、辞められないか。教諭職は安月給だもんね。やりがいだけでは生活できないよ。
それに……幼稚園じゃあ、出会いのチャンスもないしね。女の花園だもん。男なんてバスのおっちゃんと、園長だけってどうよ? 父兄と…なんてわけにはいかないし」
「まあ、そこんところは今の私にはありがたいんだけど……」
ちび、とお酒を口に運んだ。
ほんのり桜の味のする地酒がすうと体に吸収されて、ほどよく酔わせてくれる。
気持ちがいい。


「何言ってんのよ、とわ。そんなこと言ってるから、アンタ、いつまでたってもひとりなのよ」
「…へ?」
ずいと顔を近づけてきた梓が、いきなり両手で私の頬を挟んだ。
あっちょんぷりけでもされたように頬が潰れる。
い、いたひ…。
火照った私の頬よりも、頬を包む梓の手の方が熱い。
こりゃ、そうとう酔ってるな。



「ていうか、なに? この艶のない肌は。気合の入ってないメイクは! 
とわは素材がいいからさ、ノーメイクでも全然いけるけど……だからなおさら勿体無いって。酒井さんと付き合ってた頃が、一番綺麗だったよ、あんた。女子力は磨かなきゃ、落ちてくだけなんだからね。しゃんとしろ!」

おもむろにバッグから化粧ポーチを取り出した梓が、私の顔へとファンデーションを乗せてく。
お鍋の湯気とアルコールで崩れてるだけで、一応メイクはしてるんだけど。
個室だし、相手は梓だけだし。
このままメイク直しなしで帰ろうと思ってたのに。




「痛い恋を引きずるな。過去の男を踏み台にして、のし上がるぐらいの意気込みがなくてどうすんの!
見返してやりなさいよ。綺麗になって、酒井さん以上のいい男捕まえて。「あなたじゃない他の男と幸せになりました」って。女磨いて、惜しいことをしたって後悔させてやんなさいよ。女の旬は決まってんのよ? 時期を過ぎたら劣化してくだけなんだから。次行け、次!」
「劣化って……」
物じゃないんだからさ、もうちょっと普通に言おうよ。



「あんたねえ…。なに他人事みたいに笑ってんのよ。ていうか、いつまで酒井さんを引きずるつもり? 前彼の時は、もっと早くに次、行けたじゃない。
過去にしがみついて出会いのチャンスをなくしてたら、それこそ馬鹿みたいじゃん。環の受け売りじゃないけど、恋の痛みは新しい恋でしか癒せないと思うのよ。あたしは」
「で。また私に新しい傷を増やせって?」
「もうっ!」
握り締めたグラスをドンとテーブルに打ち付けた瞬間、中のアルコールがチャプンと跳ねて零れた。
ああ、もう。
この酔っ払いめ。
「ハイハイ。梓の言うことはいつも正論。正しいよ。アドバイス、いつも骨身に染みてます。感謝してる。
でもね。いいのよ、マジで。しばらくは恋はしたくない」
断固拒否した私に向かって、梓があからさまに溜息を零した。


「意外とあんた、引きずるからねえ……」
「……ごめん」

「で、もうひとりは?」
「なに?」
「城戸くん、だっけ? 彼とは会ってないの?」
「……うん。ともひろと別れた後、それっきり…」

「ふーん…」
「な、なによ…。その疑わしい目は」
「ねえ。その子って本当にとわが好きだったのかな?」
「え?」
「だっておかしくない? あれだけ言い寄ってきといて、酒井さんと別れたらそれっきり? フリーになったんだからさ、ここぞとばかりにごり押ししてきてもいいじゃない。私が男だったらそうする。だってチャンスじゃん。それなのに音信不通なんてさ」
「いいじゃん。それで。もう関わりたくないし…」
「んー…」
納得、行かない。そう短く呟いて、お猪口を口に運んだ。





「梓、それ何杯目?」
「さあ…? わかんなーい」

へらへら笑う梓に溜息をつきながら、お酒で火照った耳元を手で隠した。






「なに? どしたの? 耳、痛い?」
「あ、ううん。飲みすぎて耳まで熱いやーと思って。梓も真っ赤だよ?」
「…ホントだ。熱くなってる」


よかった気づかれてない。
お酒を飲んでるからよかった。
素面なら鋭い梓が見逃すはずがない。






嘘をつくと、左の耳がぴくぴくなる変な癖。
彼女は知ってるから。










そう。
私は、梓に嘘をついた。


奏多とは、あれからずっと、会ってる。










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