「───相原チーフ!!」
奏多を無理矢理送り出した後。
半ば、怒鳴り込むような形でサロンの扉を勢いよく開けた。
「いいんですか!? 卒後すぐの研修医に執刀をさせるようなまねをして!」
「……うちに研修医を入れたつもりはないけど?」
作業中のPCから視線だけを上げて、相原チーフはしれっと知らん顔。
利口な人だもの。私の言いたいことぐらい、わかってるくせに。
「たとえの話です。たとえ! どうして城戸くんを正式にうちの専属になんて、したんですか?」
「あら。何か問題ある?」
「だって、彼。学生ですよ!? 店の看板を背負うには、まだ荷が重すぎます」
「メインは今まで通り、五十嵐のままでいくわ。ちょうど坂田がね、年明けからしばらく海外へ定演で行くらしいのよ。それで、その間の坂田の穴をどう埋めようかと考えあぐねていたところに、城戸くんが来たでしょう? これはもうね、運命なのよ」
中指でずれた眼鏡を持ち上げて、チーフが微笑した。
うわ。
めったに見られない氷の微笑。
珍しくご機嫌な様子が窺える。
「……運命だなんて…そんな曖昧な言葉で片付けないでください」
「あら。意外と現実的なのね、花井さんは」
ロマンチストに欠けるわ、肩をすくめながら相原チーフが突っ立っている私に、ソファに座るように促した。
話が長くなるということ。
仕方なく向かい側に腰を降ろす。
「あなたが怒鳴り込んできたということは、城戸くんは承諾してくれたのね?」
「………」
「よかったわ」
私が何も、返事をしないことをOKと取ったらしい。
チーフが安堵の表情を見せる。
「当の城戸くんは? もう帰ったの?」
「…終電に間に合わなくなる前に、帰しました。この件に関しては、また後日、連絡くださいとの伝言です」
「そう。車で送ってあげればよかったのに」
「なんで私が……!!」
「なんで? だって、あなたが呼んで、あなたの為に城戸くんは弾いてくれたんでしょう? それぐらいしてあげても当然だわ。人付き合いなんてね、結局のところ等価交換で成り立ってる部分が大きいのよ。ビジネスに関しては特にね」
それをいうなら、もう払わされた。
キスという望まないカタチで、無理矢理奪われた。
だから送る義理なんてない。
ていうか、あんなのは等しくない。横暴だ。
思い出すとまた、涙が滲みそうになるのを唇を噛締めることで、必死で堪えた。
悔しさに膝の上に乗せた拳を静かに握り締める。
「───何かあったの?」
「……ありません」
「じゃあ別に、問題ないじゃない」
チーフは絶対に、奏多を引き込むつもりだ。
私だって。
さっきのキスがなければ、店にとっていい方向に考えられたかもしれない。
けれど今は無理だ。
思い出すたびに、ぞわぞわとした嫌悪感が首筋を駆け上がって、私は唇を奮わせる。
「たかがアルバイトぐらいで、1時間もの距離を未成年に通わせるなんて…。もっと身近で探した方が───」
「通勤距離については本人にも承諾を得たわ。
それに城戸くん、『無名のうちはひとつでも多く、奏でる場所を見つけて演奏したい。どこにどんなチャンスが転がってるかは、わからないから』ですって。若いのに感心ね」
物は言いようだわ。
思わず舌打ちしそうになって、思い留まる。
「長距離を通わせるのが申し訳ないっていうのなら、花井さんが送ってあげればいいじゃない。ちょうど夜の部の後は、こうやって終電ギリギリになるでしょう? だから───」
「ちょ、ちょっと待ってください!! そんなの無理です! 私にも都合ってものが……」
「───花井さん」
言葉が途中で遮られた。
「一応ね、お咎めなしだから」
「ハイ?」
「麻生さんが仕組んだこととはいえ、最終確認を怠った花井さんに、お咎めはなしだそうよ。これが条件」
「…どういうことですか?」
「行きは彼自身で来てくれるそうだから、帰りは送ってあげて。終電ギリギリでしょ。それこそ焦って事故られたら、困るから。勿論、その分の交通費は上乗せするし、タイムーカードの勤務時間も2時間プラスしてあげる。手の早い五十嵐を乗せてけって話じゃないんだから、悪い話じゃないでしょう?」
五十嵐さんの方が紳士的で、よっぽどマシだ。
「あとね、五十嵐の担当は外れて。その代わり、城戸くんについてもらうから。スケジュールはもう一度、城戸くんを入れて組みなおすわね」
「……」
「城戸くんを入れることに、同意できない?」
できない、と言ったところで、人事はもう絶対なくせに。
断れない条件を提示されて、私は従うしかできないじゃないの。
「…いいえ」
「そう。ならよかった」
自分で蒔いた種も処理できずに自分勝手なことを言ってるのは、重々わかってる。
でももう、奏多とは関わりたくない。
何もかも見透かすようなあの目と、時々見え隠れする奏多の感情の激しさに、いつか飲まれるんじゃないか。
怖くなる。
それにあの子を見るとどうしても、ともひろを思い出してしまう。
それが何より、辛かった。
奏多は公の場に出ることで、舞台度胸とピアノの腕をめきめきと上げて。
2年が経つ頃には、五十嵐さんの人気を抜いてトップに躍り出た。
奏多が演奏する日は、客足が途絶えず、その後のリピーターも多い。
そりゃあ、手放さないよね。
こんな才能、探したところで簡単に見つからない。
文句のないピアノの腕とセンスに加えて、ビジュアルの良さと、若さ。
奏多目当てに来るお客様は、圧倒的に女性が多く、宣伝にもなる。
専属といっても、カタチはアルバイト扱い。
安い賃金で、いいものを得られる経営者側としては、離すに惜しい存在。
店には確実にプラスになる。
「───城戸くんのピアノはいつ聴いても、甘く優しい音ね…」
お客様が零した言葉に、私はふと顔を上げて奏多を振り返る。
わがままで横暴なくせに、ピアノの音色は優しいだなんて、反則だ。
完全には、嫌いになれないじゃないの。
*
「おつかれさまでした。先、上がりまーす」
仕事の後、私が奏多を家まで送っていくのは、当たり前になっていた。
この日も店が閉店した後、みんなよりもひと足早く出させてもらって、車へと乗り込む。
私の車は、芳香剤の匂いに混じって、少し奏多の匂いがする。
「昨日、どうだった?」
エンジンをかけると奏多が聞いてきた。
一瞬、何のことだか考えあぐねて、ハンドルを握ったまま、視線だけを奏多に送る。
「昔の同僚が、遊びに来てたんだろ?」
「ああ…」
梓のことか。
遊びに来ること、奏多に話したんだっけ。
「ご飯食べに行って、しこたま飲んで、朝まで話したよ。楽しかったーー」
梓とは、いくら話しても足りることがない。
話したいこと聞きたいことがお互い、次から次へと出てきて、あっという間に時間が過ぎてしまう。
沈黙さえも心地いいんだから不思議。
そういう友達は大事にしなきゃ。
「結婚するんだって。年内に籍を入れて、挙式は海外。素敵よね」
「羨ましいの?」
「んー…。羨ましくないって言ったら、嘘になるけど。恋人がいないんじゃ、仕方ないでしょ。まずは相手を見つけなきゃ」
「なに、その台詞。俺は蚊帳の外?」
「うん。年下はね、タイプじゃないの」
「サラッと傷つくこと言うね。年齢はどうしようもないのに」
奏多がフンと鼻で笑った。
「そういえば───プランナーの資格、取れたんだって? おめでと」
「…誰に聞いたの? 情報早いなぁ」
仕事しながら通ってたから長くかかったけど。
ようやく取れたのだ。
ウエディングプランナーの資格。
実際の現場は、資格よりも実践と経験ではあるけれど、やっぱりあるとないのじゃ心強さが違う。
「これでますます婚期が遅れるな」
「女の幸せイコール結婚じゃないし、結婚イコールゴールじゃありません!」
「行くとこなければ、貰ってやるよ」
鼻で笑われて、ムッと顔をしかめた。
「未成年がバカおっしゃい」
「男は18で結婚できるだろ。それに俺、ハタチになったよ」
「……いつ?」
「今日」
「本当に……?」
「何で嘘なんか言うんだよ。見る? 証拠」
おもむろに財布の中から取り出した学生証を、私に突きつけた。
4月7日。本当だ。
今日、奏多ってば誕生日なんだ。
「お祝いしなきゃね」
「してくれんの?」
「勿論。相原チーフに話しておくから、店で盛大にやりましょ」
「…んだよ。ふたりきりじゃねーんだ」
本気で拗ねてる横顔が、ちょっとかわいい。
「CD、換えてもいい?」
私の返事を聞く前に、奏多がファイリングしてあるCDフォルダーをダッシュボードから取り出した。
なによ、聞く前に開けてんじゃん。
「リクエスト、あれば聞くけど」
「なんでも。奏多が好きなのでいいよ」
「そう?」
綺麗な指が迷いながらファイルの上を往復して、そのうちの一枚をオーディオに差し込んだ。
なじみのある音が、スピーカーから流れる。
木村カエラだ。
「とわさんって女性シンガー専門? この中で男は、レミオロメンぐらいだろ」
「そういうわけじゃないけど……。同姓シンガーの方が聴き入りやすいのよね、いろいろ共感できる部分多くて」
「ドリカムは最近、聴かないの? 俺が乗り始めた頃は、いつも聴いてたろ。うっとおしいぐらいエンドレスで」
うっとおしいは余計だよ。
むっと顔をしかめて隣を睨みつけた。
奏多はいつも、ひと言多い。
「…あれ聴くと、堕ちるからさ。ドリカムは失恋ソングって、決めてるの。泣きたい時に、大音量エンドレスで聴いてバカみたいに泣く。それで少し楽になれるから」
「…それ。すげえ重いんだけど」
「何とでも言って。とことん落ち込んだ方が、早く立ち直れんのよ」
苦笑をこぼしながら、ブレーキペダルを踏んだ。
交差点でちょうど信号が赤に変わる。
「聴かなくなったってことは、吹っ切れたんだ。酒井さんのこと」
「……え?」
不意を付いて出てきた言葉に、思わず弾かれたように隣のシートを振り向いた。
奏多の口から出たともひろの名前に、ずくんと胸が変な音を立てる。
まともに視線が交わった。
まっすぐ見つめてくる視線の強さに、私は一瞬、言葉を失くす。
奏多はそう聞いたきり、ただじっと見つめてくるだけで、一言も発そうとしない。
左へと出したウインカーの音だけが、リアルに鼓膜を揺らして。
降りてくる沈黙は、決して心地のいいものではなかった。
「……なに、言ってんのよ…今さら。そんなの、とっくに吹っ切れてる」
心の内を探るような瞳に耐え切れなくなって、乱暴に視線を外したところで。
タイミングよく、信号が青へと変わる。
「未練もない?」
「ないわ」
小さな動揺を見透かされないように、ゆっくり言葉を吐いて、アクセルを踏み込んだ。
ふわ、と車内の空気が動いて、奏多が窓の外に視線を送るのが見えた。
「こっちのが近いよ」
右の道を指差す。
「うん。知ってる。でもこっちの方が車幅広くて、運転しやすいから」
「遠回りになるのに?」
「うん。あの道嫌いで───」
「酒井さんのマンションがあるから?」
思わず息を飲んだ。
どうしてそれを───。
「俺、知ってるよ。右へ行くと一方通行になって、どうしても避けて通れない道ができる。その道沿いにあるんだろ、酒井さんの住むマンション。この2年、渋滞してようが工事中だろうが、絶対とわさんはあの道を通ろうとしないから、酒井さん絡みで何かあると思って、調べたんだよ。案外、うちと近いんだね」
奏多が笑う。
「どうやって……」
「昔、とわさんがうちを調べたのと一緒。見たんだよ、社員名簿」
「………っ」
「偶然でも会いたくない? それとも会えない? やっぱりまだ、とわさんは酒井さんのことを───」
「ともひろとはもう、終わったの。今さら出してきて、話を蒸し返さないで」
「向こうは終わってないって、言ったら───?」
「───え……? ……ッ、きゃあっ!!!」
今度こそ本当に、あからさま過ぎた。
動揺のあまり、飛び出して来た猫を見誤った私は、咄嗟の判断が出来なくて、思い切りブレーキペダルを踏み込む。
キキーーーッ、と。
不快なブレーキ音が響いたと同時に、ガクンと車体が大きく揺れて、身体が前へとつんのめる。
瞬間、ガンっと額をしこたまハンドルに強くぶつけた。
衝撃でエアバッグが開かなかっただけマシだ。
それぐらいの強い衝撃だった。
「ば…っ、かッ!! 何やってんだよっ!!」
奏多が私を怒鳴りつけた。
「だって、奏多が…っ、変なこと言うから……っ。バカ!!」
心臓がバクバク跳ねて、背筋が凍る。
動揺だけで言葉を紡ぐ私には、冷静さがなかった。
馬鹿は私じゃない。
今さら。
嘘か本当かも分からない空虚をつかむような言葉に、何をそんなに動揺してんのよ。
呼吸を深く吐くことで波打つ鼓動を落ち着かせて、状況を把握する為に辺りを窺う。
「…猫は?」
「ひいてない。無事。ビビッてあっちに逃げてった」
「そう。よかったぁ……」
ハンドルの上へとへたり込む。
勢いよくぶつけてしまったおでこが、今さらながらジンと熱く疼く。
後続車がいなかったのが、不幸中の幸い。
大きな事故にならなくて、本当によかった。
手足がまだ、ガクガクしてるのを何とか奮い立たせて。
時速10キロぐらいのスピードでのろのろ走って、近くに見えていた公園の駐車場に停めた。
バクバクいってる心臓を何とかしなきゃ、どうにも運転できそうにない。
「…自販機で何か、買ってこようか?」
「平気。ありがとう。奏多は……どこか、怪我してない?」
「何ともないよ。いっそ指でも怪我して、とわさんに一生責任負わせればよかったのに」
「冗談言わないで」
エンジンを止めて、シートベルトを外しても、まだ震えが止まらなかった。
小さく震える手を誤魔化すように顔の前で握り合わせて、唇を覆い隠す。
ああ、ヤバイ。
唇までガクガクなってるよ。
落ち着け、自分。
「大丈夫?」
「……うん。そのうち落ち着いてくると思うから、平気。
ごめん、奏多。今日はここでいいかな……?」
公園の坂を少し登ったところに、奏多の家はある。
歩いても10分はかからないはずだ。
「いいけど……。帰んのは、とわさんが落ち着くのを見届けてからにするよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だから帰って。少し休んだら、私も帰るから…」
ひとりにして欲しい。
いろんな動揺が一気に押し寄せて、ポーカーフェイスも限界にきてる。
余裕のない顔は、奏多に見せらんない。
見せたくない。
「雨、降りそうだし、今のうちに帰った方が───」
「強がるのもいいかげんにしたら?」
不意に腕を捕まれた。
驚きにハンドルから顔を上げたら間近でまともに目が合って、ドクリと痛いぐらいに心臓が跳ねた。
奏多がそのまま、私の震える手を包み込む。
「この震えは何? 事故の動揺? それとも、酒井さんの名前に動揺したの?」
「───猫の方に決まってるでしょ…」
「……どうだか。
関係は終わった。でも。とわさんの気持ちは、まだ、終わってないんじゃないの?」
あの目だ。
私の心を見透かす、感情を深く探る目。
微かに揺れる感情も嘘も決して見逃そうとしない。
鋭く意思の強いその瞳が、私を捕らえて離さない。
しばらく無言で見つめ合った後、フッと表情を緩めた。
「……もう、やめようよ。その話」
絡んだ手を外そうとしたけど、びくともしなかった。
身動きの取れない状況に、今度はじわりと嫌な汗が背筋に浮かぶのがわかる。
車のロック、かけたままだ。
じりと寄せてくる距離に、思わず息を飲んだ。
「───最初に約束したよね? 車で押し倒したりなんかしたら、二度と送らないって」
「したかな。忘れた」
「それって、都合がよすぎる───」
「とわさんの交わし方を、真似ただけだろ?」
強く腕を引っぱられた。
押されると思ってた私の体は逆の引力にいともあっさり捕まって、腕の中に簡単に捕まる。
コラム式の車のベンチシートは、境界が何もない。
こんな人気のない場所でエンジンを切ってしまったこと。
シートベルトを外してしまったこと。
ロックを解除してなかったこと。
今さらながら、自分の甘さを悔いた。
腰に回した腕に身体を捕られる。
軽自動車のくせに、無駄に広い空間が憎らしい。
「や、だ…っ。離してよ……ッ。力ずくでどうこうしようなんて、卑怯でしょ…っ」
「力ずくでどうにかなるんだったら、とっくにやってる。
押して駄目なら引いてみろみたいな心理で、今までずっと大人しくしてたけど───もういいだろ、いいかげん。2年も経った。
頑なに拒んで、気持ち守って、誰に義理立てしてんだよ。さっき言ったよな。酒井さんとは、もう終わった。未練もない。じゃあさっきの動揺はなんだよ?」
痛いところを突いてくる台詞にカッと頬が燃え上がる。
「あれは───奏多が今さらな話を突然、するから……っ」
密着した身体にじわりと汗が浮んだ。
奏多が、怖い。
「……やっぱりムカつく。
酒井さんは名前ひとつで、簡単にとわさんの素顔をさらけ出す。俺は2年掛かっても、見たことのない素直な反応。弱い部分。無防備な顔。とわさんはいつも、泣くか怒るか、仕事の顔しか俺には見せないのに。
女の顔はまだ、酒井さんにしか、見せられない───?」
耳元で息を吹きかけるかのように喋られて、ビクンと身体が跳ねた。
唇を動かされるたびに、ぞわぞわとした嫌悪感が首筋を駆け上がって、私は唇を震わせる。
「いいかげんにして…っ」
「それはこっちの台詞」
「……さっきのは───、私の反応を見る為に、カマをかけたのね───?」
ひどい。
「さあ? 事実はどうだろ。案外、待ってるのかもしれないけど?」
「2年も経つのよ? 何を今さら、待つことがあるのよ」
もう、連絡ひとつないのに。
「たとえ連絡が来たところで、もう戻れない。友達にも、恋人にも───」
いくら望んでも、関係は戻らない。
今までずっと、抑え込んで我慢していた感情が抑えられなくなる。
不覚にも涙が浮かんだ。
「そうだったら、俺には好都合だけど」
そっと、髪を取られた。
サラッと長く伸びたストレートの髪が、奏多の指の間を滑る。
髪に神経なんて通ってないのに、指が触れた瞬間、びくと身体が震えた。
全ての神経がそこに集中してるみたいに。
「伸びたよね。切らないの?」
肩でちょうど跳ねてしまうぐらいだった髪は、今は肩甲骨の少し下ぐらいまで伸びた。
この2年。
毛先を整える程度で、長さはほとんどいじってない。
「俺、とわさんの長い髪、嫌い。切りなよ。出会った頃みたく。肩にちょっとかかるぐらいの長さの方が、とわさんにはよく似合ってた」
「……バカ言わないで。どうして奏多の好みに、合わせなきゃいけないのよ…」
「長い髪───。これは酒井さんを想う長さ? 想う月日の分だけ長くなってくみたいで、俺はすごく嫌いだ」
「……っ」
繊細な指が髪にもぐった。
そのまま後頭部から引き寄せられて、ぐっと距離が縮まる。
咄嗟に唇を手で庇う。
───キス、されたくない。
「……とわさん」
「なに…」
「髪についてる」
「なにが?」
「埃。じっとしてて───」
そう言って伸ばされた奏多の繊細な指から、さらさらと私の髪が零れ落ちる。
反射的に目を瞑ってしまった私に、ぐっと大人びた雰囲気で笑いかける。
「取れたよ。つうか、何身構えてんの?」
そりゃ、身構えるよ。
何度、前科があると思ってるの。
言ったきり、奏多の表情はまたいつもの無愛想に戻って、外へと視線を向けた。
ポツリ。
雨が一粒、フロントガラスに落ちた。
音もなく降り始めた細い雨に、その匂いが微かに車内に香る。
「……降ってきたね。本当にとわさん、雨女なんだ」
「ひどくなる前に、もう帰ったら?」
「うん」
声だけが頷いて、抱きしめられた体は、離される気配が無い。
じわじわと浸透してくる危険のシグナルが頭に鳴り響いたまま、解除されない。
「確か傘が、後部シートの脇に置いてあるから───」
後部座席へと腰を浮かせた身体が、ぐるんと回転した。
その瞬間を待ってたかのように、身体はあっさりとシートへと倒されて、奏多の体が重くのしかかる。
私は。
自分の車の天井を、初めてまともに見た気がする。
片手で私の腕を押さえつけて自由を奪ったまま、奏多の手が開襟シャツの襟元に伸びた。
今日は着替える時間がなくて、店の制服の上にカーディガンを羽織ってるだけだ。
「俺、言ったのに。シャツのボタン、もひとつ上まで留めたらって」
シャツの合わせからもぐってきた指に、素肌を撫でられた。
背筋がゾクリと震えて、反射的に目を瞑った私の胸元に、奏多が強く吸い付く。
「───かな、た……ッ」
声がみっともなく、震えた。
「とわさんが、忠告を聞かないからこうなるんだよ。あんた、人の意見は素直に聞けないだろ」
「聞けるわよ。ちゃんと筋が通ってることなら」
「俺のこれは、筋が通ってない?」
「通ってるわけない…っ、や───ッ…!!」
もひとつ、強く吸いつかれる。
今度は左側だ。
赤くついたであろう痕をペロリと舌で舐められて。
胸元を這う柔く濡れた感触に、生理的な涙が浮かんで流れた。
「やだ…っ、奏多。もうやめてよ……っ」
「嫌だ。やめるつもり、ない」
「──ぅ…んッ」
今度は唇に、奏多のそれが降りた。
誰かとキスするなんて、2年ぶりだった。
嫌悪とはうらはらに、抗えない感覚が体を駆け巡る。
シートに強く抑えつけられたまま、何度も何度も、角度を変えて唇を吸われた。
頑なに奏多を拒む唇を舌がなぞって、こじ開けて、私のそれを捕まえる。
息をつぐことさえさせてくれなくて、荒い呼吸だけが狭い車内に満ちてく。
自分の口からこぼれる吐息に、くらくらした。
私の声も呼吸も、自由も全て奪って、奏多はキスを続ける。
意識と一緒に、理性が吹っ飛びそうだった。
どれくらいの時間、そうされていたのかは わからない。
意識が朦朧としすぎて、時間の感覚が麻痺する。
シートに縫い付けるように押さえ込んでいた手が離れても、私のその手が奏多の体を押し返すことはなかった。
優しいだけのキスが何度も降りてきて、舌が唇を往復していく。
上唇も下も、奏多の唇が啄ばんでいく。
ようやくキスから解放された頃にはもう。
抵抗する力なんて、これっぽっちも残ってなかった。
ただ静かに涙を流す私の体を奏多の腕がそっと包み込んで、抱き寄せる。
その腕は雨脚と共に強くなるばかりで、決して緩まることがなかった。
唇が優しく、耳朶に触れた。
「抵抗するのはもう、諦めたの?」
「……させてくれないくせに…っ」
「言い返せる元気はまだ残ってんだ。ろれつが回らないくらいにもっと、めちゃくちゃにしてやればよかった──」
そう言って、また唇が塞がれた。
私はこの子に、何回キスをされたんだろう。
ともひろとのキスが思い出せなくなるくらいに、何度も何度も甘く口づけられる。
「──────ねえ、とわさん。今度こそ、俺と付き合ってよ。2年経った。2年待ったよ、俺も。
ハタチになった。体も、法律的にも、もう子どもじゃない。そろそろ堪忍して、俺のものになってよ」
「ごめん…。無理だよ……。付き合えない……」
「俺だから付き合えない? それとも、酒井さん以外の男とは付き合いたくない? どっち───?」
私は何度も首を横に振った。
両方だ。
「……頑固だね。頑なだからこそ余計に、心を開かせたくなるんじゃないか。俺はとわさんがいれば、何もいらないのに───」
伸ばした手が乱れた胸元を整えて、ボタンが留められた。
「これからはちゃんと留めなよ。痕、しっかり残ってるから。これでもう、留めなくちゃいけないだろ?」
「…その為に……こんなこと、したの?」
「もちろんそれもあるけど……。ただ単純に俺が、とわさんに触れたかっただけ。とわさんの肌、甘くてすげえいい匂いがするから、誘われた」
「かな……ッ、あっ…!」
油断した。
今度は首の後ろにつけられた。
髪を降ろしてなきゃ、絶対に見つかるようなきわどい場所に。
何考えてんのよ!
今度こそ強く、奏多の体を押し返す。
「もう、明日からは送れないから。最初に約束したよね?」
「言うと思った。いいの? それがお咎めなしの条件だったんだろ?」
「でもそれは、かなたが未成年だったから。なったんでしょ? ハタチに」
「……言うんじゃなかった」
奏多はスッと、いつもの顔になって、悪態ついた。
「───こっちの痕は牽制。男よけ」
またしても私の体に触れようとするものだから、グッと体を引いて距離を置く。
ロックも解除した。
「牽制? 浮いた話も色のある噂も、何もない私にそれは無意味でしょう?」
しつこく諦めないのは、奏多ぐらい。
五十嵐さんは、奏多が店に入ったとたん、また新しい子に乗り換えた。
奏多と私ができてるって思ったらしい。
店のみんなもそう思ってる。
何度訂正しても信じてもらえないから、もう面倒くさくなって、そのままにしてる。
奏多の存在がちょうどいい男除けになって、かえって都合がいいくらい。
「じきにわかるよ」
意味深な笑みを浮かべて、奏多が私から離れた。
ドアを開けたら、ふわと雨の匂いが強くなった気がした。
「奏多……! 傘は───」
「いらない。すぐそこだから。
送ってくれてありがとう。おやすみ、とわさん───」
にこり、笑って。
小雨に霞む道の向こうに、奏多が消えて見えなくなった。
ひきつるような胸の痛みと後悔は、引きずる想いを自覚するのに十分だった。
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