***********************
春を待つキミに。 6 サイド*佐倉
***********************
その日の放課後も、日下部はいつもの場所にいた。
とっくに下校の時間なんて過ぎているのに、何をするわけでもなく、ひとり教室に残っている。
黄昏が教室を夕焼け色に染めて、茜の空が降りてきても、ただ窓辺にずっと。
…ああ。またあの顔なのか。
日下部が何を見ているのか、誰を追っているのかなんてとっくにわかってた。
こうやって放課後の教室に残るのは、いつも決まって水曜日。
親友のましろちゃんが習い事で一緒に帰れない日。
野球部がグラウンドを全面使える日。
日下部だけのトクベツな放課後。
教室の隅っこでグラウンドを見つめて、ただひたすらにひとりだけを追いかける。
穏やかな優しさの中に、時折見せるやるせない表情。
きっとあの顔は、アイツでないと引き出せない表情だ。
他の誰かを見ている奴をどうして想っていられるのだろう。
そんな顔をするぐらいなら、好きになんてならなければいいのに。
勝気な彼女が、普段見せることのない表情。
それを見ていると、なぜだか胸の奥が締め付けられるような気がした。
触れてはいけない特別な領域のような気がして、気付かないフリをしてそこを立ち去ろうとした。
キュ、と。
踵を返した瞬間、上靴の音がひと際大きく響いて、鼓動を跳ね上がらせた。
「…佐倉────」
先に声を掛けたのは日下部だった。
振り返った瞳が一瞬、戸惑いを見せて背に隠すようにカーテンを引いた。
まるで自分の視線の行方を誤魔化すように。
今さら、そんなことをしても無駄なのに。
まさか俺がそこにいるなんて思ってもみなかったという、困惑の瞳がじっとこちらを見つめた。
「どうしたの?教室、入らないの?荷物、取りに来たんでしょう?」
その言葉ではじめて、自分が彼女に見入っていた事に気が付いた。
それもひどく長い間。
「ああ」
とだけ、短く漏らして俺は教室に足を踏み入れた。
なんてこともない、いつもと変わらない空間なのに、そこに踏み入れるとやけに緊張感が漂った。
息が、詰まる。
「また描いてたの?」
視線が俺の小脇に抱えていたスケッチブックに泳いだ。
「好きだね、絵」
窓の桟に背中を預けて俺をじっと見つめた。
藍の色が深くなった夕暮れが、彼女の黒の強い瞳の色をますます深くする。
「…日下部は、まだ帰らないのか?もうみんなとっくに帰っただろう」
早く荷物を回収して、早くこの場から立ち去りたかった。
息が詰まる空間には長くはいられない。
「うん…。ちょっと、ね」
黄昏の色が強くて、その表情はよく見えなかったけれど。
日下部がひどく寂しそうに笑ったように見えた。
アリガトウゴザイマシタッ!と。
野球部の練習の終わりを告げる掛け声が耳を掠めて、監督を囲んでいた部員たちが黄昏の中にまばらになって散って行く。
それを背中にしっかりと感じながら、日下部が穏やかに目を閉じた。
声の記憶を手繰り寄せて、アイツの声を鼓膜に響かせる。
その姿はいつもの気の強い学級委員長とは全く別人で、脆く儚げな印象に見えた。
荷物なんてあとで取りに来ればよかった────って。
彼女のトクベツな時間に踏み込んでしまったことをひどく後悔したけれど、もうすでに引き返せない。
穏やかに一呼吸した後、日下部がゆっくりと瞳を開いた。
「ね、どうして蒼吾と喧嘩なんてしたのよ?」
いつもより穏やかな口調に、ひどく胸がざわついた。
「別に。理由なんてないよ」
そっけなく言葉を返すと、ふ〜んと納得のいかない顔がこちらを見つめた。
くっきりとした大きな瞳が、じっと俺を見据える。
「蒼吾に喧嘩で勝てるわけないでしょう。チビだけどさ、力あるのよ」
「アイツ、強かったよ」
「でも佐倉も負けてなかったって、安部が言ってた」
「安部、ねぇ…」
元はといえば、事の発端はアイツにあるような気がする。
うちのクラスのトラブルの原因に、いつも安部が関わっている。
それを思い出したらため息をつかずにいられなかった。
「ね、佐倉」
「うん?」
「この前言ったこと、取り消すね」
「なに?」
「屋上で言ったこと」
どの話だろう、と記憶の糸を手繰り寄せた。
屋上で日下部に言われたことなんて、星の数ほどあって思い出せない。
「“佐倉には喜怒哀楽が少ない”って言ったやつ。佐倉でも、ちゃんと怒ったり感情的になったりすることもあるんだ…」
「するよ。ていうか佐倉でもって…。それも失礼だろ?」
日下部はいつもひと言多い。
「それに。そっちじゃなくて、もうひとつの方を取り消してくれよ」
「もうひとつ?」
「“佐倉って、やっぱり何考えてるのかわかんない”」
「ああ…」
思い出したように小さく笑って、上目遣いで俺を見上げた。
「それは取り消せない。だって、やっぱり佐倉って何考えてんのかわかんないんだもん」
「蒼吾くらい単純な方がいい?」
「…アイツは…バカだもん」
小さく肩を竦めながら笑って、視線を窓の外に泳がせた。
“バカ”だなんて。
そんな愛しさを滲ませたバカなんてあるか、と。
やるせない気持ちで、窓の向こうに気持ちを泳がせる横顔をそっと覗き見た。
どうしてだろう。
この日は彼女を取り巻く空気が優しい気がした。
今まで日下部とは何度も言葉を交わしているはずなのに、こんなに穏やかに話す彼女を見たのは初めてだった。
時折、見せる柔らかな表情が心をざわつかせる。
「それ、ましろにもらったの?」
ふいに振り返った大きな瞳が、俺の口元に泳いだ。
頬に貼られた、ましろちゃんにもらった小さな花柄の絆創膏。
「男のくせに、花柄の絆創膏を顔に貼るのやめなよ」
呆れたような諦めたようなため息が漏れて、日下部が小さく笑った。
「せっかく、ましろちゃんがくれたから」
「だからって顔に貼らなくても…。こことか目立たないところに貼ればいいでしょう?」
自分の腕を指差して肩をすくめる。
「ああ。そうだな」
思いもしなかったよ、そんなこと。
「…わざと?」
「ん?」
「それ、見えるところに貼ったの。蒼吾への、当て付け…?」
────え?
心の奥まで覗き込むよな強い眼差しが、真っ直ぐに俺を見据える。
「…なに、馬鹿なこと言ってるんだよ…」
それに耐え切れなくなった俺は、乱暴に視線を外した。
嘘なんて簡単に見抜いてしまうような澄んだ瞳に、息が詰まる。
「そんなこと、するはずないだろう?大体、蒼吾に当て付ける理由がどこにあるんだよ」
ハッ、と。
馬鹿にするような息が漏れて、その言葉を吐くことで動揺を隠すのが精一杯だった。
「ましろ」
その名前を呟いて、体の緊張がスルスルと抜けて行くような気がした。
一瞬、気持ちを見透かされてしまったのかと思ったけれど、そうではないらしい。
「ましろちゃん、ね…」
安堵の息を悟られないように、彼女の親友の名前をもう一度呟いた。
「安部に聞いた。蒼吾が佐倉に飛び掛っていった理由。
ましろのことで、もめたんだって…?」
「そうだけど」
それが何?
「それってさ。佐倉が無自覚なだけで、本当はましろのことが好きなんじゃないの?」
見ないフリをしていたかったのに、視線が合わさってしまう。
曇りのない、意思の強い真っ直ぐな視線に捕われると簡単に動けなくなってしまうのに。
思わず、一歩足を引いた。
「日下部は、誰の味方してるんだよ」
「────え…?」
噛み合わない会話の内容に、日下部が数秒経ってから驚いたように聞き返してきた。
「前にも一度、屋上で言っただろ。日下部は“雛鳥を守ってる母鳥みたいだ”って。…最初はそう思ってた」
内気なましろちゃんを放っておけなくて、親友として助けてるんだって。
「だけど、違う───」
俺がましろちゃんに構うと、彼女が悪く言われるからじゃない。
日下部のそれは、ましろちゃんの事を見ているアイツが傷付くのを放っておけないからだろ?
「な、日下部。
俺がましろちゃんを好きな方が、日下部には都合がいい?それとも、都合が悪い?」
>>To Be Continued
ランキングに参加しています。
(Webコンテンツは春を待つキミに。単作品のランキングです)
押していただければたいへん励みになります。