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見栄より意地よりプライドよりも
──────修羅場ばった。



22年生きてきた中で、修羅場なんて、これが始めて。
優しいコイビトがいて、気の合う友達がいて。
やりがいのある仕事に付いて、毎日が忙しいながらも充実してて。
挫折も躓きも知らない。
私の人生は順風満帆だ──────なんて思ってた。
今日、この時までは。



そういえば。
今朝の星座占いランキングは、牡牛座が最下位だったっけ。
人間関係の危機。水の事故に気をつけろ。
爽やかな笑顔を振りまきながら、新人アナウンサーが言ってたのを思い出す。
現実派な私は、占いなんてほとんど信じない。
いいところだけ聞いて、あとは右から左へポイ。
だから今日だって占いの内容なんかよりも、アナウンサーの着ているMICHEL KLEINの新作の秋物ニットがカワイイな、なんて。
呑気に構えてたっていうのに。
ちゃんと信じて用心していれば、これも回避できたんだろうか。
今度からはバカにしないで、ちゃんと聞いてみよう、なんて。
こんな時でも冷静に分析する自分がいるなんて。
ちょっと意外。
実際、腹の奥は煮えくり返ってるっていうのに。


「彼と、別れてください…っ」


私の目の前で小さな肩を震わせているのは、セーラー服に身を包んだ女子高生。
ほろほろと流す大粒の涙が、頬で光ってる。
選ぶ場所を間違えた。
こんなことになるのなら、どこか人目のつかない路地裏でも十分だったのに。
お気に入りのカフェ。
大好きな雑貨に囲まれて癒しの時間。
入れたてのほろ苦エスプレッソと、ふわふわのバニラシフォン。
もう来れなくなっちゃったじゃないの。
目の前の彼女を軽く睨みつけた。


「ヒサン〜」
「かわいそー」
私と彼女を見る目が痛い。
ひそひそと声をひそめて、聞こえてないとでも思ってんの?
そりゃそうだよ。悲惨ですよ、私。
オトコのことで修羅場って、コップの水をぶっ掛けられて。
浮気?二股?
そんなトラブル、私には無縁だと思ってた。
彼と私は自他共に認める仲のいい恋人同士で。
このまま順調に愛を育んで、ゴールインするんだって。
おめでたい人生設計まで、出来上がってたっていうのに。
それを突然現れた女子高生に、現実叩きつけられて。
突き落とされて。
私は今、不幸のどん底だ。
それなのに悪いのは全部、私──────みたいな目で見られる。


心の準備もないままに呼び出された私は研修帰りのリクルートスーツ。
彼女はセーラー服。
どう見たっていい年をした大人が、いたいけな女子高生を泣かせてる図にしか見えないじゃないの。
休みの日なのに制服で現れたのは、それが目的?
自分を守るための防護服。
若さと、未成年という武器を振りかざして。
純情?可哀相?
人のオトコに手を出しておいて、挙句の果てに自分は悪くない、って。
涙を流して悲劇のヒロインでも演じてるつもり?
ふざけんな。
涙の向こうは、女の炎がぎらぎらしてるっていうのに。
可哀相なのは私のほうだ。
こんなの、漫画やドラマの世界だけだと思ってた。
経験の積み重ねが人を成長させるなんていうけれど、できれば経験なんてしたくなかった。
間違いなく私の人生の中で。
思い出したくもない出来事、ナンバーワンに輝くと思う。


「タケルと別れてください……っ。私には、彼しかいないんですっ。彼を、盗らないで……っ」



わざとらしい。
泣けばなんでも許される?
泣けばかわいいとでも思ってるでしょ。
泣きたいのは、こっちの方だ。



タケル、っていうのは私のカレシ。
今年、N大の4回生になる。
高校時代のクラスメイトで。卒業間直、3年生の夏に告られて、付き合って。
卒業後の進路は別々だったけれど、これまでうまくやってきた。
一年前にひと足先に短大を卒業した私は、社会人になって、ひとり暮らしを始めて。
新しい愛の巣に、大好きな彼とのこれからの未来を思い描いていたっていうのに。



大きなため息と共に、未来予想図がガラガラと崩れ落ちた。
ドリカムなんて、二度と聴くもんか。












店を出た私は、その足でタケルを呼び出した。
サークルがあるとか何とか、言い訳をつけて断ろうとするアイツを脅して。
大学近くの公園で会う約束を取り付けた。
緑豊かな芝生広場が自慢の公園は、休日ともなるとカップルや家族連れで大賑わい。
四季折々の花が所狭しと花壇を彩り、カメラや画材を片手にした芸術家が絶えない憩いのスポット。
タケルとも、よくここで待ち合わせをしてお弁当を広げたっけ。
現実を突きつけられた今も、そんな虚しい彼との思い出に涙ぐみそうになる。
いけない。
ぐっと肘で涙をぬぐって、雨上がりの空を見上げた。
空はどんより曇っていて、雲の切れ間にほんの少しだけ青が見えた。
こういう話は一秒でも間を開けちゃ、いけない。
キライで別れるわけじゃない。
時間が経てば経つほど、情に流されてしまう可能性が大きいから。
雨上がりでよかった。
服が濡れているのも。
乾いた涙の跡も。
雨に濡れたから──────って、言い訳ができる。



タケルは数分もしないうちにやってきた。
プーマのハーフパンツに、薄汚れたサッカー用のスパイク、サークルのスタジャンを羽織って。
サークル活動中だっていうのは、嘘じゃなかった。
少しだけ、救われた気分になる。
「何だよ、急に」
私に向ける笑顔は相変わらず無邪気で、気持ちが大きく揺らいだ。
このまま胸に抱きついて、全部なかったことにしてしまえれば、どんなに楽だろう。
目の奥が、じんと熱くなった。
それを奮い立たせて、話を切り出す。
はじめはとぼけていたタケルも、カマをかけて揺さぶったら簡単に堕ちた。
隠し事や嘘が苦手だってことぐらい、知ってる。
だから、なおさら。


二股? 浮気?
違う。
タケルは、本気だ。
初めはほんの出来心でも、それは次第に本気になった。
嘘や隠し事の苦手な彼が、嘘をついてまで貫き通したもうひとつの恋。
優しくて、情の深いタケルだから。
彼女に本気を感じながらも、長く付き合ってきた私を切れなかった。
そんなこと、お見通しだよタケル。
でもそれは、優しさではないことに気付けないアンタは、バカだ。
幸せに溺れて、彼の微妙な心の変化に気付けなかった私は。
もっと、バカだ──────。



「別れよう。私にだって、タケルの他にもいいオトコがいるんだから」
そんな男の影なんて、カケラもないのに。
一瞬、動揺の色を漂わせたタケルが、大きなため息を零した。
「…そっか…」
なんて。
そんな簡単に信じないでよ。
そんな悲しそうな顔、見せないでよ。


雨上がりの空に、携帯の着信音が鳴り響いた。
それは私とタケルの間に割って入り、いつまでも耳障りに鼓膜の奥を揺らす。
「出れば? カノジョじゃないの?」
鳴り止まない音に、ふとよぎったのはセーラー服。
「…あ〜…」
困ったように視線を泳がせた後。
「ごめん」
短く告げて、スタジャンのポケットから携帯を取り出した。




背中ごしに。
途切れ途切れに聴こえてくる、会話の内容。

「寧々(ねね)…」

私以外の女の子を、そんな風に呼ぶタケルの声を。
初めて聞いた。
胸の奥が、抉られるような気がした。
あの子、ねねちゃんっていうんだ。
名前まで若くて、カワイイ。
きっと電話の向こうでほろほろと大粒の涙を流しながら、携帯から聞えるタケルの声に耳を傾けているのだろう。


「──────貸して」
気がつけばタケルから携帯を奪って。
「もう、タケルとは別れたから。だから、あとはふたりで好きにやって」
電話の向こうに、冷たい言葉を吐き出す自分がそこにいた。

『え、え…っ』
受話器の向こうで戸惑う声が聞こえたけれど。
それを無視して通話を遮断した。
驚きを隠せないタケルに、ニコリと笑顔を見せ付けて。
手にした携帯を膝の上で、折った。
簡単に真っ二つに折れた、携帯電話。
まるで、今の私と彼だ。

「いらないでしょ。どうせ会いに行くんだから」



ひどい女。
そう思われて、結構。
大好きだったから。
私を傷つけた──────って、いつまでも引きずって欲しくない。
未練なんて残しちゃダメ。
こんな思いは私だけで十分だから。
だから。


「──────ばいばい、タケル」


私は自分の恋に、自分でピリオドを打った。










部屋に駆け込んだ私は、研修の書類も放りだして。
スーツがしわくちゃになるのも構わず。
勢いよく、ベッドにダイブした。


「…ちきしょー」

悪態をついて、ごろんと仰向けに転がったら見上げた天井がゆらりと歪んだ。
今頃になって泣けてきた。
ふった男の前で、泣けるもんか。
それぐらいのプライドはある。

のそのそと気だるい体を引きずって。
備え付けの冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。
プシュッとプルの抜ける気持ちのいい音がして、一気にそれを煽った。
昼間からヤケ酒なんて、バカみたい。
でも、そうでもしないとやってらんない…っ。
足元の布団を引き寄せて、頭から被った。
落ち込む時には、寝てしまえ。
明日になれば、明日の道が見えてくる。




浮気なら、まだよかった。
本気だから、辛い。




「バカだなぁ、私…」







見栄も意地もプライドも捨てて、泣いてすがればよかったのかもしれない。
行かないで、って。
私にはタケルしかいないんだよ、って。
情の深いタケルだから、少しは迷ってくれたかもしれない。
もしかしたら、彼女よりも私を選んでくれたかもしれないのに。
でも。
重い、って思われたくなかった。
なりふり構わず店の中でも泣けるセーラー服の彼女みたいに。
私はかっこ悪くなれない。
引き際をかっこよくみせたかった、だなんて。
バカだ、私──────。




ひとりの休日がこんなにも寂しいものだなんて、思いもしなかった。






NEXT→


(お題提供*「1141」  七瀬はち乃様)
とわの彼方に comments(4) -
春を待つキミに。 8
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春を待つキミに。 8  サイド*佐倉

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六年生になった春。
ましろちゃんの転校が告げられた。
突然に知らされたクラスメイトとの別れは、それを惜しむ間もなく。
いつも彼女の側にあったはずのあの柔らかい笑顔はもう、そこにはなかった。
変化はいつも、突然やってくる。







朝の会の記録を録ろうと机の中を探ったら、筆箱がないことに気が付いた。
この日の朝は、通学路に植えられたソメイヨシノが満開で。
いつもよりも早く登校していた俺は、授業の始まるほんの数分前まで屋上でスケッチをしていた。
いいところで、始まりを告げるチャイムに打ち切られてしまい、慌てた拍子にそのままそこに置き去りにしてしまったらしい。

面倒だなと思いながらも、隣の席のクラスメイトに借りたままというのも心苦しいので、俺は急いで取りに戻ることにした。
六年生に進級した俺達の教室は、校舎でも最上階の四階。
屋上までは、ひと回り階段を登ればいい。



「───園田が転校って、どういうことだよ?」



聞き覚えのあるハスキーな声が耳を掠めて、角を曲がればすぐのところで、俺は足を止めた。
駆け上がろうとした足がそれ以上、動かなくなった。


“転校”という言葉は、アイツを絶望のどん底に落としたに違いない。
担任の口からそれが告げられた時。
誰もが蒼吾を見た。
気持ちさえ伝えられる事のないまま終わりを告げた、クラスメイトの恋の行方に同情して。
でもアイツは、クラス中に注目されているのなんて目に入らないかのように、チャイムと同時に“ましろちゃんの親友”を連れ出した。
怒りに肩を震わせて。
「あーあ。日下部、可哀相に」と。
クラスメイトが漏らしたため息なんて、気付きもせずに。


「何で言ってくんなかったんだよ…っ!!俺が、あいつの事好きなの知ってるくせに…っ」

もちろん、その言葉は一理ある。
俺だって思った。
転校するんだって、ひと言、言ってくれればいいのに。
もう、あの砂糖菓子のようなまあるい笑顔が見られないのかと思うと、寂しさが募る。
だけど今さら、日下部を責めたって仕方がない。
もうましろちゃんはいないのだから。
でも日下部の気持ちを知らないアイツは、その言葉がどれだけ彼女を傷付けるかなんて微塵も気付かない。
もしいつか、彼女の気持ちに気付いた時、この日を思い出して罪悪感を抱くことも知らずに。


「私の気持ち、全然わかって、ない…っ」


途切れ途切れに聞こえてくる日下部の声が、ひどく心を揺さぶる。
泣きそうな日下部の声、初めて聞いた。
それを聞けば気持ちなんて一目瞭然なのに、前しか見えていない鈍感なアイツは、それに気付きもしない。
バカだ。蒼吾は。
本当にバカだ───。



「…俺だって辛いんだよ。
俺、あの時のまんま、ちっとも進歩してねぇよ。園田に、好きもごめんも。何にも伝えてねぇのに…っ!」



呻くように漏れた蒼吾の言葉を、日下部は今、どんな気持ちで聞いているのだろう。




気がつけば、俺はそこから逃げ出した。
行き違う気持ちが痛くて。
ちゃんと気持ちを見つめようとするほど、行き違って行くことが辛くて。
目を背けた。


───俺は今まで、日下部の何を見てきたのだろう…。


彼女は、ずっと強いヒトだと思ってた。
頭の回転が速くて、ムードメーカーで。
真っ直ぐ前を見つめる強い視線は人を惹きつけて、それを引っ張っていく強さがある。
そう思っていた。

でも違う。
日下部のそれは、弱さゆえの強がり。
自分の弱さを押し込めて唇を引き結び、黒髪をなびかせて凛とした表情を漂わせ、真っ直ぐに前を向く。
そうして張り詰めていないと、弱さに押し潰されてしまうから。
泣きそうな自分に負けてしまうから。
真っ直ぐに前を見つめる強い瞳は、迷わないための道標を見失わないためのもの。




彼女の涙は、誰が受け止めてやれるのだろう───。




* 



その日の午後は雨だった。
朝の天気予報では、降水確率10パーセントだったのに。
突然のバケツをひっくり返したような大雨。
まるで心から泣けない彼女の代わりに、空が泣いているような…そんな雨。



いつものように放課後、残っていると、学級委員会を終えた日下部が教室に戻ってきた。
六年生になっても彼女の優等生ぶりは相変わらず。
さすが、というべきか。


「何、描いてるの?」
窓際に椅子だけ移動させて、そこに膝を折って窓と向き合うようにスケッチをしていた俺を、日下部が好奇心のままに覗き込んだ。
「…え…?」
澄んだ瞳が大きく見開かれ、俺の顔と手元のスケッチブックを交互に見比べる。
「何でそんなに驚くんだよ」
小さく笑って座った位置から彼女を見上げた。
「だって…。窓の外を見て描いてるから、てっきり風景画かと思って…」
外は雨。
薄暗い雨模様を覗かせる窓ガラスに、ふたりの影が薄っすらと浮かび上がる。
俺は薄く微笑んで、それを指差した。

「セルフポートレートって言葉、知ってる?」
「…セルフ…ポートレート?」
聞きなれない言葉に日下部が可愛らしく首を傾げた。
「“自画像”って意味なんだけど」
「へぇ…」
頭にいっぱいクエスチョンマークを付けたような表情が、一瞬明るくなった。

「急にやりたくなって」
「人を描くのは苦手って、言ってなかった?」
「うん。でも、これは別なんだ」
「どうして?」
俺との距離を少し縮めて、小首を傾げる。
普段の俺なんて興味ないくせに、今日はやけに構ってくる。
それが少し嬉しくて、話を続けた。

「…セルフポートレートってさ、落ち込んでいる時ほど描くといいんだ。
“自分が今、どんな顔をしているのか。どんな顔で悩んでいるのか。正面から自分と向き合ってみることで、足りない何かに気付く。おのずとやるべきことが見えてくる。
はじめはひどく落ち込んだ顔も、二枚、三枚と描いているうちに、いつか笑っている自分にたどり着く───”ってね」
「それ、誰の言葉?」
「…さぁ。売れない画家?」
俺は肩をすくめて笑って見せた。

「落ち込んでんの?」
「ましろちゃん、黙って転校しちゃうしね」
日下部の顔が険しい顔になって、口をつぐんだ。
泣きたくなる気持ちなんてきっちり隠して、何も言わず窓の向こうに視線を泳がせる。
唇を引き結んだ横顔は“強がり”の顔になってる。

「…何で黙ってた?聞いてたんだろ。ましろちゃんが転校するって」

理由なんて分かってるくせに。
意地悪な質問をしてしまう自分の不甲斐なさと、情けなさに、呆れ果てて吐き気がする。
それでも、聞かずにはいられなかった。

「同じこと、聞くんだね。…蒼吾と」

微かに開いた窓の向こうから、雨の匂いがふわっと漂った。
掻き消えそうな細い声だったけれど。
周囲の激しい雨音なんてかき消して、俺の耳にダイレクトに届く。

「アイツ、怒ってたな」

一日中、不機嫌だった横顔が脳裏を掠めた。
いつも笑いの中心にいるアイツが、今日はちっとも笑わなかった。
その原因は聞かなくてもわかる。
アイツの不機嫌な理由の中に入り込む余地なんてないのも知ってる。

「…当然だよね。私、知ってて黙ってたんだもん…」

日下部が黙っていた理由も。
誰かの代わりにはなれないことだって。
ほんとはとっくに気付いてるのに。



「蒼吾が好きだって、ちゃんと言えばよかったのに」



日下部は、否定しなかった。
口に出したら、一気に気持ちが沈む。
俺、情けないな。
それを誤魔化すように視線を走らせた。
窓の向こう、雨足がどんどん強くなる。


実際、雨音が大きくて。
呻るように漏れた俺の言葉なんて、日下部の耳に届いていなかったのかもしれない。
けれど、その不用意な言葉が。
彼女の気持ちの深い部分を強く揺さぶってしまったのは、確かだった。

日下部と出会って2年。
ずっと見てきたっていうのに、彼女の涙ってモノを初めて見た気がする。
声を上げることも、肩を揺らして嗚咽を漏らすこともなく。
ただ、ひと粒の涙がほろり、と。
静かに頬を伝った。
ただ、それだけ。
ぬぐうこともせず、俯くこともせず。
涙の跡さえ残さないような、綺麗な泣き顔。
思わず、手を伸ばしそうになった。
ガラス越しに見える日下部の泣き顔に、触れるか触れないか…そんな微妙な距離で。
ガラスに映る彼女に触れることでさえ、躊躇ってしまう。


「バカだね、私。ましろがいなくなったら、少しは望みがあるかもなんて…。どうして思ったんだろう…」


気持ちはそんなに簡単じゃないのに、と。
小さく呟いた声が、雨音に消えた。





それからしばらく。
俺も、日下部も。何もしゃべらなかった。
俺は不安を塗りつぶすかのようにひたすらスケッチブックに向かい、時折、ガラス越しの彼女に視線を泳がせる。
描いていたセルフポートレートは、いつの間にか輪郭を変え、表情を変え。
鉛筆を白い空間に走らせて、恋の輪郭を辿る。



俺が描いたのは、初めて見た彼女の涙。





それが、彼女を描いたハジマリの日。




二枚、三枚と描いているうちに彼女が笑えるように。
いつか、心から笑えるように。


ただ、願いを込めて────。



>>To Be Continued

春を待つキミに。 comments(9) -
春を待つキミに。 7
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春を待つキミに。 7  サイド*佐倉

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フェイントをかけたつもりだった。
安部のセリフじゃないけれど、いつも堂堂と胸を張って、弱い部分なんて微塵も見せない彼女の、本音が少しでも聞きたかった。
だけど返ってきたのは。

「…バッカじゃないの?」

という皮肉な言葉。
1ミリたりとも動揺の色を見せず、凛とした立ち姿のまま真っ直ぐに俺を見つめた。
窓から吹き込む風が、彼女のクセのない黒髪を攫いサラサラと肩に流れた。


「都合がいいとか、悪いとか。なに馬鹿みたいなこと、言ってんの」


呆れたようなため息が漏れた。
「私にとって都合がよかったら、佐倉はましろを好きになるの?都合が悪かったら好きだとしても諦めるの?
…そんなのおかしい。人に言われたからって、はいそうですかって気持ちが動くはずないでしょう?そんなので簡単に動く気持ちなんて、嘘だ」
揺るぎのない意思の強さを輝かせて、じっと俺を見つめた。
妙な緊張感が漂って、何も言えなくなった。
それがますます、ふたりの間を流れる空気を気まずくさせる。

「…佐倉は知らないかもしれないけど、ましろは一学期、いじめられてたの。
私、何もできなかった。毎日ましろが泣いてたの知ってたのに、何もしようとしなかった。あんな事件が起こるまで、何も…」
記憶を手繰り寄せて、日下部が悔しそうに唇を噛み締めた。


「…私はもう二度と、後悔なんてしたくない。だから───」


違うだろう。
日下部が抱えている感情は、もっと複雑なニュアンスを持ったものだ。
…いや、違わないのかな。
彼女を助けることが、結局はアイツと繋がってるんだから。
もっとも日下部は、そんなそぶりは全く見せないけれど。



「それを言うなら、どうして佐倉はましろに執着するの?トクベツな感情があるとしか思えない」
「どうしてだろうな」
うっすら笑みを浮かべて小首を傾げた。
もうすっかり慣れてしまったごまかし笑いを日下部に返す。
「教室で蒼吾と揉みくちゃになって床に転がってる佐倉を見た時、すごく驚いた。何がそんなに気持ちを揺さぶったんだろうって。
…でもね、正直、ホッとした。佐倉の本気の本音が見えて。ちゃんと感情的になることもあるんだ、って。
なのに。…そうやっていつも、肝心なところをはぐらかす」
それを知ってか知らずか、呆れたようにため息をついた。


「…佐倉は、もう少し素直になればいいのに」


前置きなく、隣で空気が動いた気配がした。
いつの間にか顔を見ることを避けてしまった俺のすぐ側で、日下部がじっと見つめていることに気付いて、鼓動がひと際跳ねた。
感情は気配で伝わってしまうのに、一度走り出してしまった鼓動は収まることなく加速していく。
大きくくっきりとした瞳や、瞬きをすると揺れる睫毛。
自信に溢れた強い眼差しは、第一印象とちっとも変わらず、色あせることを知らない。
一瞬、息を詰めた。
それに気付かれたくなくて、じっと見つめる深い瞳から視線を外した。
まるで拗ねた子どものように。
視界の隅に映った彼女の小さな手が、ゆっくりと宙を舞った。


「────絆創膏、取れそうになってる」


躊躇いもなく伸ばされた手が、頬に触れた。
傷には触れないように、優しくそっと。
手の冷たい人は心があったかい、という言葉が頭の中で渦巻いてた。
指先から伝わるヒヤリとした体温に、息が詰まる。
腕を伸ばした拍子にバルーン型になった袖が肘まで滑り落ちて、細い腕が覗く。
目の前に見える長い睫毛とか、形のいい唇から漏れる小さな吐息とか。
彼女の全てが、スローモーションのように見えた。

「あーあ。綺麗な顔が、台無しだね」

見上げたその顔が、笑顔に変わる瞬間も、全て────。










気がついたら、俺は思わず日下部の左手をきつく掴んでた。
「…え…。なに…?」
きょとんとした表情で日下部が見上げた。
突然に腕を掴まれて、一瞬、戸惑いの色が走る。


「え…、あ………」


小さく呟きを漏らすことで、俺は我に返った。




何やってんだ、俺────。



「あ、ごめん。…もしかして、触れられるの、嫌だった?」
困惑の瞳が、俺を見上げた。
違う。
嫌とかそういうのじゃなくて───。
声にならない言葉が、喉元につっかえて気持ちが悪いのに、それを言葉にすることができない。


「…なに?」

浮んだはずの笑顔はとっくに消えて、日下部が不思議そうに俺を見上げた。




言えるはずない。

もう一度、俺に、笑ってほしいなんて───。






「じゃーなーっ!」
「先生、サヨナラーっ!!」
とっくに整備を終えたグラウンドから、野球部員の声が耳を掠めた。
「あ」
と、短く呟いて日下部がそれを振り返る。
掴んだ力が抜けて、するりと彼女の腕が外れた。
白く細い腕にはうっすらと赤い跡が残っていて、思いのほか強く掴んでしまったことをリアルに主張していた。

「じゃあね。私、帰るね」

彼女の気配が脇を抜けて、机の上に置かれていた鞄を持ち上げた。
「佐倉は、まだ帰らないの?」
いつまでもその場に突っ立ったままの俺を、一度、教室の入り口で振り返った。
「…ああ」
とだけ漏らすのが精一杯の俺に。
「早く帰りなよ。また、明日ね」、と。
いつもと変わらない委員長の顔になって、小さく手を振りながら教室を出て行った。
パタパタと廊下を駆ける足音が次第に小さくなり、闇に消えた。



下校を促す音楽と最後の放送が校内に響く。
すっかり闇の色を濃くした教室は、孤独感を膨らませる。
じき見回りの教師がやってくる。
力なく椅子に腰かけた体をのろのろと起し、最後にひとつだけ開いた窓をぴしゃりと閉めた。
ふと視界に入った窓の向こう。
薄汚れたユニフォームから着替えを済ませた野球部が、黄昏の中へ散って行く。

「────蒼吾…!」

凛とした聞き覚えのある声が耳を掠めて、日下部が駆け寄って行くのが見えた。
偶然なフリをしてアイツと肩を並べて帰る後ろ姿が、闇に溶けた。




無自覚?
そんなの本当はとっくに気付いている。
こんな厄介な感情、認めたくなんてなかったのに。
トン、と窓辺に背中を預けたらズルズルと床に沈むように力が抜けていった。

他の誰かを見ている奴をどうして想っていられるんだろう。
そんな顔をするぐらいなら、好きになんてならなければいいのに。
アイツを見つめる日下部を見かけるたびに、ずっとそう思ってた。
なのに。



────俺、今。どんな顔してるんだよ…。


情けなくって座り込んだ膝に埋もれるようにして顔を伏せた。
一緒に帰ろう、とか。暗くなったから送って行く、とか。
虚しく飲み込んだ言葉が、胸の奥につっかえて気持ちが悪い。








ああ、そうだ。
彼女の笑顔を見たかったのも、怒った顔が見たかったのも。
蒼吾にイラついていたのも、全部。


俺は、日下部が好きなんだ。





>>To Be Continued
春を待つキミに。 comments(12) -
春を待つキミに。 6
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春を待つキミに。 6  サイド*佐倉

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その日の放課後も、日下部はいつもの場所にいた。
とっくに下校の時間なんて過ぎているのに、何をするわけでもなく、ひとり教室に残っている。
黄昏が教室を夕焼け色に染めて、茜の空が降りてきても、ただ窓辺にずっと。

…ああ。またあの顔なのか。

日下部が何を見ているのか、誰を追っているのかなんてとっくにわかってた。
こうやって放課後の教室に残るのは、いつも決まって水曜日。
親友のましろちゃんが習い事で一緒に帰れない日。
野球部がグラウンドを全面使える日。
日下部だけのトクベツな放課後。

教室の隅っこでグラウンドを見つめて、ただひたすらにひとりだけを追いかける。
穏やかな優しさの中に、時折見せるやるせない表情。
きっとあの顔は、アイツでないと引き出せない表情だ。

他の誰かを見ている奴をどうして想っていられるのだろう。
そんな顔をするぐらいなら、好きになんてならなければいいのに。
勝気な彼女が、普段見せることのない表情。
それを見ていると、なぜだか胸の奥が締め付けられるような気がした。
触れてはいけない特別な領域のような気がして、気付かないフリをしてそこを立ち去ろうとした。
キュ、と。
踵を返した瞬間、上靴の音がひと際大きく響いて、鼓動を跳ね上がらせた。



「…佐倉────」


先に声を掛けたのは日下部だった。
振り返った瞳が一瞬、戸惑いを見せて背に隠すようにカーテンを引いた。
まるで自分の視線の行方を誤魔化すように。
今さら、そんなことをしても無駄なのに。
まさか俺がそこにいるなんて思ってもみなかったという、困惑の瞳がじっとこちらを見つめた。

「どうしたの?教室、入らないの?荷物、取りに来たんでしょう?」

その言葉ではじめて、自分が彼女に見入っていた事に気が付いた。
それもひどく長い間。
「ああ」
とだけ、短く漏らして俺は教室に足を踏み入れた。
なんてこともない、いつもと変わらない空間なのに、そこに踏み入れるとやけに緊張感が漂った。
息が、詰まる。


「また描いてたの?」
視線が俺の小脇に抱えていたスケッチブックに泳いだ。
「好きだね、絵」
窓の桟に背中を預けて俺をじっと見つめた。
藍の色が深くなった夕暮れが、彼女の黒の強い瞳の色をますます深くする。
「…日下部は、まだ帰らないのか?もうみんなとっくに帰っただろう」
早く荷物を回収して、早くこの場から立ち去りたかった。
息が詰まる空間には長くはいられない。


「うん…。ちょっと、ね」


黄昏の色が強くて、その表情はよく見えなかったけれど。
日下部がひどく寂しそうに笑ったように見えた。
アリガトウゴザイマシタッ!と。
野球部の練習の終わりを告げる掛け声が耳を掠めて、監督を囲んでいた部員たちが黄昏の中にまばらになって散って行く。
それを背中にしっかりと感じながら、日下部が穏やかに目を閉じた。
声の記憶を手繰り寄せて、アイツの声を鼓膜に響かせる。
その姿はいつもの気の強い学級委員長とは全く別人で、脆く儚げな印象に見えた。
荷物なんてあとで取りに来ればよかった────って。
彼女のトクベツな時間に踏み込んでしまったことをひどく後悔したけれど、もうすでに引き返せない。
穏やかに一呼吸した後、日下部がゆっくりと瞳を開いた。


「ね、どうして蒼吾と喧嘩なんてしたのよ?」


いつもより穏やかな口調に、ひどく胸がざわついた。
「別に。理由なんてないよ」
そっけなく言葉を返すと、ふ〜んと納得のいかない顔がこちらを見つめた。
くっきりとした大きな瞳が、じっと俺を見据える。
「蒼吾に喧嘩で勝てるわけないでしょう。チビだけどさ、力あるのよ」
「アイツ、強かったよ」
「でも佐倉も負けてなかったって、安部が言ってた」
「安部、ねぇ…」
元はといえば、事の発端はアイツにあるような気がする。
うちのクラスのトラブルの原因に、いつも安部が関わっている。
それを思い出したらため息をつかずにいられなかった。


「ね、佐倉」
「うん?」
「この前言ったこと、取り消すね」
「なに?」
「屋上で言ったこと」


どの話だろう、と記憶の糸を手繰り寄せた。
屋上で日下部に言われたことなんて、星の数ほどあって思い出せない。
「“佐倉には喜怒哀楽が少ない”って言ったやつ。佐倉でも、ちゃんと怒ったり感情的になったりすることもあるんだ…」
「するよ。ていうか佐倉でもって…。それも失礼だろ?」
日下部はいつもひと言多い。
「それに。そっちじゃなくて、もうひとつの方を取り消してくれよ」
「もうひとつ?」
「“佐倉って、やっぱり何考えてるのかわかんない”」
「ああ…」
思い出したように小さく笑って、上目遣いで俺を見上げた。
「それは取り消せない。だって、やっぱり佐倉って何考えてんのかわかんないんだもん」
「蒼吾くらい単純な方がいい?」
「…アイツは…バカだもん」
小さく肩を竦めながら笑って、視線を窓の外に泳がせた。
“バカ”だなんて。
そんな愛しさを滲ませたバカなんてあるか、と。
やるせない気持ちで、窓の向こうに気持ちを泳がせる横顔をそっと覗き見た。


どうしてだろう。
この日は彼女を取り巻く空気が優しい気がした。
今まで日下部とは何度も言葉を交わしているはずなのに、こんなに穏やかに話す彼女を見たのは初めてだった。
時折、見せる柔らかな表情が心をざわつかせる。




「それ、ましろにもらったの?」
ふいに振り返った大きな瞳が、俺の口元に泳いだ。
頬に貼られた、ましろちゃんにもらった小さな花柄の絆創膏。
「男のくせに、花柄の絆創膏を顔に貼るのやめなよ」
呆れたような諦めたようなため息が漏れて、日下部が小さく笑った。
「せっかく、ましろちゃんがくれたから」
「だからって顔に貼らなくても…。こことか目立たないところに貼ればいいでしょう?」
自分の腕を指差して肩をすくめる。
「ああ。そうだな」
思いもしなかったよ、そんなこと。

「…わざと?」
「ん?」
「それ、見えるところに貼ったの。蒼吾への、当て付け…?」


────え?



心の奥まで覗き込むよな強い眼差しが、真っ直ぐに俺を見据える。
「…なに、馬鹿なこと言ってるんだよ…」
それに耐え切れなくなった俺は、乱暴に視線を外した。
嘘なんて簡単に見抜いてしまうような澄んだ瞳に、息が詰まる。
「そんなこと、するはずないだろう?大体、蒼吾に当て付ける理由がどこにあるんだよ」
ハッ、と。
馬鹿にするような息が漏れて、その言葉を吐くことで動揺を隠すのが精一杯だった。

「ましろ」

その名前を呟いて、体の緊張がスルスルと抜けて行くような気がした。
一瞬、気持ちを見透かされてしまったのかと思ったけれど、そうではないらしい。
「ましろちゃん、ね…」
安堵の息を悟られないように、彼女の親友の名前をもう一度呟いた。

「安部に聞いた。蒼吾が佐倉に飛び掛っていった理由。
ましろのことで、もめたんだって…?」
「そうだけど」
それが何?
「それってさ。佐倉が無自覚なだけで、本当はましろのことが好きなんじゃないの?」
見ないフリをしていたかったのに、視線が合わさってしまう。
曇りのない、意思の強い真っ直ぐな視線に捕われると簡単に動けなくなってしまうのに。
思わず、一歩足を引いた。




「日下部は、誰の味方してるんだよ」



「────え…?」


噛み合わない会話の内容に、日下部が数秒経ってから驚いたように聞き返してきた。
「前にも一度、屋上で言っただろ。日下部は“雛鳥を守ってる母鳥みたいだ”って。…最初はそう思ってた」
内気なましろちゃんを放っておけなくて、親友として助けてるんだって。


「だけど、違う───」


俺がましろちゃんに構うと、彼女が悪く言われるからじゃない。
日下部のそれは、ましろちゃんの事を見ているアイツが傷付くのを放っておけないからだろ?



「な、日下部。
俺がましろちゃんを好きな方が、日下部には都合がいい?それとも、都合が悪い?」







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春を待つキミに。 5
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春を待つキミに。 5  サイド*佐倉

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初めて喧嘩をした。
取っ組み合いの。
椅子が倒れる音が教室にひと際大きく響いて、気がついたら左の頬がやけに熱かった。
転がった教室の床は冷たくて、見上げた視界に殺風景な白い天上と、苦い顔をしたまんま唇を噛み締めた蒼吾の顔が見えた。
踏み込んでしまったことにすでに後悔を感じたけれど、もう引き返すことなんてできなかった。

どうしてイラつくのかわからない。
他人になんて執着しようとも思わない。


でも俺は、やっぱりコイツが嫌いだ────。





* 




「この…っ、バカっ!!何やってんのよっ!!」


昼休みの保健室。
仕切ったカーテンの向こうで罵声が聞こえた。
声の主は日下部。
きっといつものように腰に手を当てて、相変わらずのきりりとした顔つきで蒼吾を見下ろしているのだろう。


あの後、教室は一時、騒然となった。
本当ならとっくに出来ているはずの給食の準備はおろか、机や椅子は蹴り飛ばされて転がっているわ、野次に飛ばしたタオルや体操着、空になったペットボトルはころがっているわ。
更衣室から戻ってきた女子が思わず教室の入り口で躊躇してしまうほど、悲惨な状態だった。


「何やってんだ−っ!一組男子はっ!!」

女子と一緒に戻ってきた担任が野太い声で一喝して、床の上で団子になっていた俺と蒼吾を引き剥がした。


「お前ら…給食抜きだ。廊下に立って一度、頭を冷やせ!」
俺と蒼吾のひどい顔に頭を抱えながら、担任が呆れた声を漏らした。
今どき給食抜きだとか、廊下に立たされるとか、あるんだな。
これって田舎の学校だからか?
向こうの学校だったらありえない、とか。
理不尽さを感じながらも、言われるままに廊下に立った。
俺は教室の後ろの入り口、蒼吾は前。
殴られた拍子に切れた唇の端がやけにズキズキと痛んだ。

「…佐倉、すっげーな。意外にやるじゃん、お前」

給食の牛乳を運びながら、すれ違いざまに安部がぼそりと呟いた。
同じように前の扉に立たされている蒼吾にも何やら耳打ちをしたら、思い切り尻を足蹴りされていた。
バカだ。


「なにすんだよ…っ!」

「安部ーっ!お前も廊下に立つかぁ?」

担任の声に一括されて、安部は心底痛そうに尻をさすりながら、教室の中に消えて行った。
やっぱ馬鹿だ、安部は。
クスクスと教室から小さな笑い声が漏れる中、ふて腐れた表情でひたすら前だけを見つめる蒼吾は、決して俺を振り返ることはなかった。


給食の時間中、ずっと立たされていた俺たちふたりは、その後こってりと担任に叱られて、そのまま保健室へ連れられた。
お互い、頬や口元が赤く腫れていたり、生傷が痛々しい。


「あの…佐倉、くん。…大丈夫…?」


顔を上げると丸っこい茶色い目と視線がぶつかった。
給食のトレイを手にしたまま、心配そうな眼差しでましろちゃんがじっとこっちを見つめていた。
「先生が給食、持って行けって…。食べられる?」
「ああ。ありがとう」
「…よかったらこれ、使って」
小さく笑いながら差し出された絆創膏。
花柄の可愛いらしい一枚。
あまりにもそれがましろちゃんらしくて、思わず顔が緩んだ。

「ましろ、行こ」

「あ、うん。…じゃあね」

柔らかな笑顔を残して、ましろちゃんは日下部に連れられて保健室を出て行った。
長い黒髪を翻した日下部の背中はひどく怒っていた。
相変わらずだな。

「はい。これで消毒おしまいっ」
保健の先生の声が途切れるのと同時に、し切っていたカーテンが開かれた。
「まぁ。喧嘩をするのが悪いことだとは言い切れないけど、ほどほどにしなさいよ」
と、苦笑混じりに俺と蒼吾を見比べた後、机をふたつ向かい合わせてそこに運んできてもらった給食のトレイを並べた。
「教室は掃除が始まっているし、ここで食べてから戻りなさいね」
穏やかに声を落として机に向かうと、先生は何やら分厚いノートにペンを走らせた。
記録簿に俺と蒼吾の名前と症状でも書き記しているのだろう。
本当は蒼吾と向かい合って給食なんて食える心境ではなかったけれど、このまま何も言わずに飛び出していける勇気も度胸もなくて。
結局。
そのまま用意してくれた席に腰を降ろして、スプーンを手にした。
向かい合った蒼吾の頬には四角い絆創膏が痛々しく貼られていて、への字に結んだ口元が「いただきます」とぶっきら棒に呟いた。



その時の給食の味は今でも覚えてる。
大好きなメニューだったはずなのにひどく味気なく、切れた口元の傷にとても沁みた。
窓から見上げた秋の空はどこまでも高く。
授業中とは打って変わって、ざわめきが校舎に満ちていた。




取っ組み合いの喧嘩をするのも、廊下に立たされるのも。
クラスメイトに喧嘩の強さで褒められるのも。
保健室で給食を食べたのも。
全部、俺にとって初めての経験だった。







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