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夏のはじまり サイド*ましろ
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夏の朝。
5:00AM。
空気の冷えたうちに家を出る。
大きなスケッチブックを抱えて、目指したのは街の高台。
夜に咲いた月見草の花がしぼんで、朝露を浴びた朝顔が花開く。
すずめの聞きなれた声があちこちで始まるけれど、蝉の声はまだ聞こえてこない。
誰もいない街はいつもと違って見えて、まだ色の無い景色が視界に広がる。
見上げた白い空は、今日も青の色を濃くするのだろう。
あれから。
蒼吾くんと進展はない。
だけど、距離がぐんと縮まった感じ。
もっともっと、蒼吾くんに近づいた気がして、いつも傍に彼の存在を感じる。
蒼吾くんが心配していた学期末テストも無事終わって、長い長い夏休みがスタートした。
あの日交わした約束は、まだ約束のまま。
夏が始まる。
きっときっと、忘れられない夏が───。
*
それにしても。
「…あっつぅーーい……」
まだ早朝だっていうのに、少し歩くだけで軽く汗が浮かぶ。
今日は何度まで上がるんだろう。
うだる暑さを想像するとゾッとした。
早めに家を出てきてよかった。
昼間の炎天下じゃあ、きっと参ってた。
「…っはぁ。疲れた〜……」
日頃の運動不足がたたって、ほんの少し坂を登るだけでも息が切れる。
情けないなぁ、私。
抱えたスケッチブックをベンチに置いて。
一息ついて、空を見上げた。
夜明けと共に、空の色がだんだんと青の色を濃くする。
街を望む高台の広場で、私はうんと身体を伸ばした。
「んー…っ!気持ちいいーーー!」
太陽と風と空の匂い。
まるで、蒼吾くんみたいだ。
「ヨシっ。がんばろう!」
街を臨むベンチに座って、スケッチブックを開いた。
美術部員の夏休みの課題。
スケッチ100。
夏をテーマに、感じたままを拾ってデッサンしてくること。
それが2学期までの課題。
朝顔。夏百合。月見草。
太陽へ花開かせる大きな大きな向日葵。
虫網。麦わら帽子。カブトムシ。
蝉を手にした子どもたちの無邪気な笑顔と笑い声。
青い空。白い入道雲。
夕立の後にかかる七色の虹。
夏の総体。コンクール。
グラウンドに響く部生の掛け声、光る汗。
高校野球。甲子園。
援団の掛け声と、どこまでも空に伸びるトランペットの音。
夏の縁側。ビニールプール。
庭先から聞こえる子どもたちのはしゃぐ声。
風にそよぐ風鈴の音、チリン。
見つけた夏のカケラはたくさんあって、どれから描けばいいのか迷ってしまう。
目に見えるものだけでなく、夏の音や匂いや感情まで。
絵で表現できたらいいのに。
夏を拾いながら場所を移してた私は、ボールの弾む音にふと足を止めた。
広場の先には屋外用のバスケットコートがある。
こんな早朝から…。
練習熱心な人って、いるんだ───。
そんなことを考えながら、何気なくそこへ足を運ぶ。
黒いTシャツにハーフパンツ。
屋外用のバスケットシューズ。
赤茶けた短髪が視界で跳ねた。
低い姿勢でボールを弾ませてドリブル。
いくつかフェイクを入れた後、ゴール手前で、キュッ。
大地を蹴って、高く高く跳んだ。
空に放ったボールが大きく弧を描いて、音もなくリンクに吸い込まれていく。
わ。
キレイ……。
リンクから落ちたボールが2回ほど地面で弾んで、花壇のふちに当たって転がった。
コロコロと速度を落としながら距離を縮めたそれは、私の足元で止まる。
随分と年季の入ったバスケットボール。
磨り減って見えなくなったロゴと、刻み込まれたたくさんの傷は努力の証。
すごいなぁ…。
「すみません! ボール───」
足元で止まったそれをしゃがんで拾い上げた。
ボールを渡そうと顔を上げたら、ビクと身体がこわばった。
「───園田……?」
うそ。
「…安部…くん……?」
なんで。
「おいっ。待てって! 逃げんなよ。つか、ボール! 返せって!!」
思わず、条件反射。
安部くんを認識した途端、逃げ出してしまった背中に罵声が飛ぶ。
しまった。
ボールを抱えてたこと、すっかり忘れてた。
「…返す。ゴメンね」
顔も見ないで、ボールだけ突きつけた。
ちくちくと突き刺さるような視線が痛い。
「ボール持ってとんずらすんな。バカ野郎」
苛立ちのこもった低い声が頭の上から降ってきて、ますます身体が縮こまる。
お腹がキリキリと痛みだす。
耳が安部くんを覚えてる。
身体が、心が、あの日の記憶を覚えてる。
「じゃあ…」
帰ろうと踵を返したタイミングで、強く腕を掴まれた。
「なあ。お前…絆創膏持ってね? さっき転んで、膝、擦り剥いだんだけど」
「…持ってない」
「うそつけ。持ってんだろ。お前、昔っからそういうの持ち歩いてたろ?」
どうしてそういうことは、覚えてるの?
私を傷つけたことなんて、都合よく忘れてるクセに。
変なところだけ記憶力がよくて困る。
仕方なく私はポケットを探った。
確かまだ、1枚残ってたはず。
「花柄だけど…いい?」
「…ダッセーけど、我慢してやる」
我慢するぐらいなら、貼らなきゃいいのに。
安部くんってほんと、何考えてるのかよくわからない。
安部くんがその場にしゃがみこんだ。
ハーフパンツを捲り上げて、私があげた花柄の絆創膏の袋を開ける。
「……それ、ちゃんと消毒してからでなきゃ、ダメだよ…」
そのまま貼ろうとするから、思わず声を掛けた。
だって。
ばい菌入ちゃう。
「わーってるよ。帰ったらする」
「絆創膏、貼る前にしなきゃ…。せめて洗うだけでも…」
「応急処置だから、いいんだよ」
「…でも……」
「うっせーよ。お節介女!」
怒った口調で言い捨てて、安部くんが擦り傷にそのまま絆創膏を貼った。
あーあ。
ばい菌入って、ひどくなっても知らないから。
「やる」
「…え?」
「ゴミ。捨てといて」
えー。
どうして私が?
納得がいかず苦い顔をした私に。
「だって。お前の絆創膏だろ」
何それ。
納得のいかないまま、しぶしぶそれを受け取ってポケットに入れた。
安部くんは昔っから、自分が法律の人だから。
逆らわない方が得策。
「お前、何やってんだよ。こんなところで」
「…何って……。スケッチしてたの…」
「スケッチ? 何だよそれ」
思い切り眉をしかめて、しゃがみこんだ姿勢で見上げてくる安部くんと、ガッチリ視線が合わさった。
心臓がバクバクと踊りだす。
蒼吾くんと一緒にいる時みたいな、胸の奥が温かくなる感じのドキドキじゃなくて、不快な音。
危険シグナル。
安部くんは、私が俯いてしまうのわかってるから。
わざとにしゃがみこんだまま、下からジッと見つめてくる。
人を射抜くような鋭い目つきが、怖い。
「なあ」
立ち上がる気配と同時に、アルトの低い声がした。
怖くて安部くんの方、向けない。
「なあ! ってば!」
─── 久しぶりに面白いモノ、見つけたんだ。そう簡単に手離すかよ ───
あの日の言葉を思い出すと、ますます顔が上げられない。
「おい! 園田!!」
苛立ちが空気を伝って浸透する。
ザッと地面を踏みしめる音が聞こえて、安部くんが近づいたのがわかった。
瞬間、身体が強張る。
「俺。何度も呼んでんだろ? 耳がねーのかよ、お前は! 人が話してる時は、相手の顔、見ろ! 目ぇ見て聞け!」
顎を強く掴まれて、上を向かされた。
ぎゅっと閉じてた瞳に、急に夏の日差し。
眩しさと同時に、強引に上を向かされたことで頭の血が下がる。
くらり。眩暈がして、思わずその場にしゃがみこんだ。
「…んだよ、お前……。貧血か?」
地面がゆらゆら揺れる。
こういう感覚、久しぶり。気持ち悪い。
しゃがんでるのも辛くって、ぺたんと地面に座り込む。
「……それ、まだ治ってねーのかよ……」
もう、治ったと思ってたのに。
安部くんといると、昔の弱い自分がどんどん引き出される。
嫌だ。
あの頃の自分になんて、戻りたくないのに───。
「大丈夫か、お前…」
「……平気…。いつもの、ことだから…」
安部くんも、何度か見たことあるでしょう?
今更、驚くほどのことでもないじゃない。
「平気って……顔、真っ青じゃん」
「大丈、夫…だってば」
「大丈夫って顔、してねーからゆってんだろ!? とりあえずベンチに座れよ。あっち、日陰になってるから───」
急に腕をすくわれた。
ぐにゃり。
地面が思いっきり大きく歪む。
思わず安部くんの手を払った。
嫌悪感が私を襲う。
「…いいから!」
びっくりするぐらい、大きな声が出た。
「…ひとりで…大丈夫だから…! もう、放っておいてって…ゆってるでしょ!?」
早く。
ここから、いなくなって───。
「…んだよ……勝手にしろ!! 」
バーカ!と捨て台詞を残して。
年季の入った外履きのバスケットシューズが視界にかすむ。
しばらくしてそれも見えなくなる。
よかった。
あきらめて帰ってくれたんだ。
よろよろとベンチまで歩いていった私は、倒れ込むように座り込んだ。
朝だからって油断した。
頭のてっぺん、暑くなってる。
帽子、ちゃんとかぶってくればよかった。
しばらく座ってれば治るかな。
ママに電話して迎えに来てもらおうか。
でも…今日はお料理教室の日とかで、早くに出かけるんだっけ。
蒼吾くん、まだ家にいるのかな。
部活の前に来てもらうのは…あきらかに迷惑、だよね……?
携帯を開きかけて、躊躇。
日陰だったベンチは影をなくして、太陽はどんどん空高く上る。
どうしよう。
ほんと、気持ちが悪い……。
「ひゃ…ッ!」
目の醒めるよな冷たさが、頬に触れた。
瞬間、身体が跳ね上がって、ベンチから転げ落ちそうになった。
なに!?
「…何やってんだよ、お前。相変わらずとろいなあ…」
呆れた声が頭の上から降ってきて。
いつの間に戻って来たのか。
安部くんが仁王立ちで私を見下ろしてた。
「ほらよ」
目の前にペットボトルが差し出された。
頬に触れたのはこれだ。
もしかして───。
「…わざわざ買いに行ってくれたの……?」
「ついでだよ、ついで!」
思い切り睨まれた。
そうだよね。
安部くんが人のために動くなんて。
ましてや私の為? ありえない。
私の分も買ってきてくれただけでも、すごいことなのに。
明日、雨降るのかな。
「何、ボーっとしてんだよ。いるのか、いらねーのか?」
「…いいの……?」
「さっさと取れよ。バァーカ!」
躊躇い気味に手を伸ばした私に、ペットボトルを突きつけて。
自分のボトルを開けて、ポカリを勢いよく飲み干す。
喉仏が上下するのがリアルに見えた。
額には無数に汗の粒。
黒いTシャツの肩から背中にかけて、大きな汗のカタチ。
いつから練習してたんだろう…。
「…んだよ。見てんなよ? さっさと飲むか冷やすかしろよ。冷たいの買ってきた意味がねーだろ!? 」
「あ…うん。ゴメン……」
のろのろとボトルの蓋を開けて、ひと口。
あ。これ───。
私の好きな紅茶だ。
炭酸やスポーツ飲料は苦手だから、嬉しい。
たくさんの種類の中で安部くんがこれを選んでくるなんて、すごい偶然。
唇を潤して、冷たい感触が喉を降りてく。
蓋を閉じてボトルを額に当てたら。
スーッと汗が引く感覚と同時に、気分の悪さが和らいでいく。
気持ち、いいーー。
「お前、ちゃんと夜、寝てんのか?」
「…最近、暑さで寝られなくって……。クーラー、苦手だから…」
長くあたると風邪、引いちゃうから、夏場の夜は扇風機のみ。
だから猛暑の夜は、暑さで何度も目が覚めて、眠れなくなるの。
「ほんっと弱いな、お前」
「…ゴメン…」
「別に謝ることじゃねえだろ。ほらよ」
目の前にタオルが差し出された。
「…なに、これ…」
「見てわかんねーのかよ。濡れタオル!」
それは見ればわかるんだけど、どうしてそんなのが出てくるの?
まさか。
わざわざ濡らしてきてくれたの?
私の為に?
「額か首の後ろにでも当てとけよ。少しはマシになっから」
そう言って、有無を言わさず私の額にタオルを押し当てた。
「…ひゃっ…」
冷たい。
でも気持ちがいい。
熱がどんどん奪われる。
暑さが引いてく───。
「…ゴメンね……。タオルも、自販機も……。下まで行ってきてくれたんでしょう…?」
坂道、結構キツイのに。
「ついでつったろ!? 別に、お前の為じゃねーよ! 」
「…うん…。ゴメンネ……」
それでもちょっと、嬉しかった。
「…おい。園田───」
「うん?」
「お前、何でもすぐに謝んな。悪くなくてもこっちが責めてるみたいに聞こえるだろ!?
ゴメンじゃなくて、ありがとうだ。こういう場面は。覚えとけ!」
偉そうに踏ん反り返って安部くんが言った。
…そっか。
そうだよね。
「うん…。ありがとう、安部くん…」
ちゃんとお礼を言ったのに、つーんとそっぽを向いて、知らん顔。
何、それ。
「…自分から言わせといて……ひどくない?」
「黙ってじっと座っとけ。バーカ!」
悪態ついて、また睨まれた。
安部くんとしゃべったの…すごく久しぶり。
3年生までは普通だったの。
どうして私、嫌われちゃったのかな。
「練習…してたの…?」
「あん?」
「いつも早起きして、この公園まで来てるの?」
「バーカ。暇つぶしだよ。天才がわざわざ練習するわけねーだろ!」
こんな早朝から?
安部くんちって、少し遠いよね?
履きつぶしたバッシュと、年季の入ったバスケットボール。
努力してたんだ、この人は。
「お前こそ。スケッチって何だよ? 」
「…部活の課題。夏をテーマに、100のスケッチをしてくるの」
「部活やってんの?」
「…うん。美術部」
「はーん…。佐倉も一緒だろ? アイツがいるからお前、入ったな?」
「違うよ…。ただ単純に、絵を描きたかったから……」
「嘘つけ。佐倉がいたからだろ? お前ら、昔っから仲良しこよしだもんなー」
「もう。違うってゆってるでしょ?」
「それ。見せてみろよ」
「───あっ!」
一瞬で、手元からスケッチブックが抜き取られた。
「へぇ…」
安部くんの片眉が上がる。
ヘタクソって、才能ねぇなって、絶対、バカにされる。
「…なんだ。結構うまいじゃん、お前」
鋭い目が真ん丸く見開く。
「…園田の、意外な才能だな…」
いつもの険しい表情が緩んで、興味深くページを捲る。
安部くんの穏やかな顔って、初めて見た。
この人。
こういう顔もできるんだ…。
「───何?」
視線に気づいた安部くんが顔を上げた。
「安部くんが人を褒めるのって、初めて聞いた…」
「褒めてねーよ。うぬぼれんな!」
また不機嫌。
やっぱり基本はこの顔なんだ。
「なんだよ? 何で笑うんだよ?」
「別に…笑ってないよ」
なんだ。
安部くんって、私が怖がらなければちゃんと話してくれるんだ。
なーんだ…。
「…なあ。これって───」
スケッチブックに挟んであった1枚の紙を安部くんが抜き出した。
夏期講習の日程と、クラス割のプリント。
挟んだままなの忘れてた。
「お前、予備校行ってんの?」
「ううん。夏期講習だけ通おうと思って…」
先週、申し込みと手続きを済ませたばかり。
講習は明日から。
凪ちゃんとは専攻科目が違うから、クラスが離れちゃって残念なんだけど…。
「これって、夕陽丘んとこのだろ?」
「…うん」
「奇遇だな」
「───え?」
「オレも夏期講習。英語科Aクラス。お前と一緒───」
プリントを私に突きつけて、安部くんがにやりと笑った。
うそ…だよね?
夏はまだ、始まったばかり。
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