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全力少年 29
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スキというキスを   サイド*ましろ 

*******************************************


全力で駆けた。
人の波に逆らって、なりふり構わず駆ける私を。
何人もが振り返ったけれど、それを気にする余裕なんてなかった。
下駄は走りにくく、浴衣の裾がはだけて足に絡まりつく。
それでもただ、夢中で駆けた。
とにかくそこから逃げ出したかった。
誰もいない知らないところへ駆けて、すべてなかったことにできたらいいのに。

裏参道を抜る頃には、誰もこっちを振り返らなくなった。
人足もまばらになる。
「きゃ…ッ!」
ブチッと、鈍い音が鼓膜を掠めたと同時、砂埃が舞う。
鼻緒が切れて、前のめりに倒れこむ。
これで二度目だ。
応急処置のままで、全力疾走したりしたから。
転がった下駄を拾ったけれど、それはもう、履けそうにない。
鼻緒でこすれた指の間は、皮が剥けて真っ赤で。
髪はほつれて絡まって、汗で頬に張り付いていた。
手をやると砂を噛んだ髪がざりっとなった。
「ひどいなあ、もう…」
なにもかもがぐちゃぐちゃだった。



「なんでいつも、思い通りにいかないのかなぁ……」


音もなく溢れた涙が筋をかく。
頬から顎に滴って、地面に落ちた。
蒼吾くんが、見てた。
きっと全部、見られてた。
なんてタイミングが悪いんだろう。
良くないことはいつも重なる。
意識して引いた口紅が、何だか厭らしく思えて、私はごしごしと唇を擦った。
こすってもこすっても、キスの感触は拭い去れない。
どんどん溢れてくる涙に、ついに声が零れる。
荒い自分の息が、泣き声に変わるのを抑えられなかった。


今度こそほんとうに、ほんとうに。
蒼吾くんに嫌われた。
気を許すな。隙を見せるな。園田はいつも警戒心がなさすぎる。
蒼吾くんは何度も何度も、忠告してくれてたのに。
何も疑いもせずにのこのこついていって、キスされて。
きっと罰があたったんだ。


「…ふ、えぇんっ」


声を上げて泣いた。

誰もいないのをいいことに、小さな子どもみたいに声を上げて、みっともなく。
安部くんのキスなんてカウントするもんか。
キスは蒼吾くんとだけ。
そう思うのに。
全てをなかったことにはできない。
だって──────キスはキスだ。



止め処なく溢れてくる涙に、私はその場に膝を抱えてうずくまった。
どんなに声を上げても、涙を流しても、気持ちは晴れない。
泣けば泣くほど、どんどん自分が惨めになっていく。





どれくらいの時間、そこで泣いたのかわからない。
気がつけば夜空を飾る花火の音は聞こえなくなっていて、辺りに静寂が降りた。
幾重にも連なる笹の葉が不気味な音を立てて、耳に届く。
その音で頭が冴えた。
うずくまった膝から顔を上げる。


「…ここ……、どこ……?」


意識がはっきりとしてきて、今さらだけど自分が今、どこにいるのかを考える。
誰も通らないはずだ。
だって、ここ。
首吊りの竹薮だ。



住吉神社の北側には広い広い竹薮がある。
いつから手入れをしていないのかもわからない笹の葉が、幾重にも重なり、影を作る。
そのおかげで昼間でもほとんど陽の光が差し込まない、鬱蒼とした場所。
昔、ここで首吊り自殺があって、今もその霊が彷徨ってる。
迷い込んだら最後、二度と出られない。
小学生の頃、その類の噂をよく聞いた。
そんなの迷信だ。
そういって、度胸試しに竹薮に入った学校の男の子達が神隠しに合うことはなかったけれど、その数日後、必ず決まって原因不明の高熱を出す。
祟りだとか、罰が当たったんだとか。
ますます噂に尾びれがついて、子ども達はこの場所を恐れた。
地元の子どもは誰も近づかない場所。
大人だって用がなければ近づかない。踏み込まない。
もちろん私だって。
ずっと避けて、通ったこともなかったのに。


風が冷たい。
真夏の暑い夜だっていうのに、その場所だけがひんやりと冷たい気がする。
「……な、に…?」
竹薮の奥でガサリと何かが音を立てた。
風なんかじゃない。
何かが枯れ草を踏みしめて、近づいてくる音だ。
どんどん近くなる。


視線の端に動く影を認めて、背すじが冷たくなる。
風が葉を揺らす不気味な音だけが、リアルに鼓膜を揺らす。
「やだ…っ」
恐怖に足がすくみそうになるのを必死で堪えて、そこから逃げた。
気持ちだけが焦って、足がもつれる。
風がひゅうひゅう鳴く音と、空から覆いかぶさるような笹の葉がますます恐怖を煽る。
怖くて怖くて仕方がない。
「出口…どっち…!?」
ただ逃げる為だけに闇雲に走っていたので、方向がわからない。
覆いかぶさるように竹の枝が覆っているせいで、どの方向を見ても同じに見える。
「どうしよう……誰か…ッ!」
息が上がり足元がふらつく。
浴衣に片方だけ下駄を履いた格好では、うまく走れない。
枯れ草を踏みしめるたびに、足の裏にチクチクと痛みが走る。
それでも必死で逃げた。
恐怖が一層、体力を消耗させる。
「…あ…ッ!」
浴衣の裾を踏んで、前のめりに倒れた。
背筋が凍るような恐怖に飲まれて、膝ががくがくと笑う。
力が入らない。
立てない。



「キャ、アアアーーーっ!!!」




突然。
何か黒い物体が背後から覆いかぶさってきて、私は声にならない悲鳴を上げた。
確かな生身の感触。
幽霊とか物の怪とか、そういう類のものじゃない。
人肌のリアルな感触が私を羽交い絞めにして、竹薮の中へと引きずり込もうとする。



「放して…ッ! やッ!! 誰か……っ!!」




パニクって、テンパって、取り乱して。
何が何だかわけがわからず、無我夢中で抵抗した。
必死だった。












「落ち着け! 園田! オレだっ!!」





頬を両手で掴まれ、強引に上を向かされた。












「…そう、ご……くん……?」










意志の強い視線が私を絡め取る。






「…どうして──────」

「お前を裏参道で見失ったって三浦に聞いて、急いで追いかけた。こっち、入ってくのが見えたから……って──────園田!?」







へなへなと力が抜けてその場に座り込んだ。
安堵にはらはらと涙が零れる。
冷たくなった指先に、体温が戻ってくる。
本当に本当に、怖かったから…。













「…お前、もしかしてさ──────オレのこと、幽霊かなんかと勘違いしてた?」






蒼吾くんが私の前に腰を降ろした。
「首吊り幽霊の話、まさか…今でも信じてる?」
コクリ。
私は頷く。
「やっぱり。オレ、何度も園田のこと呼んでんのに、全く聞こえてねえし、必死だし。こりゃあ、人とは違う別のものに追いかけられてるみたいに錯覚してんなーって思った。脅え方が尋常じゃねえし。
しかも方向音痴! どんどんどんどん、奥へ進んでくんだもんな。マジ見失うかと焦って、こっちも本気になって追いかけたから…余計に恐怖を煽って悪循環だったな。ゴメン」
心底、申し訳なさそうに笑って、私の頭をくしゃんと撫でた。
確かな人の体温に触れて、震えが少しずつ納まってくる。
大きな手のひらに撫でられて、心がほぐれてく。
蒼吾くんが優しくて、泣きたくなる。



「……どうして? どうして…追いかけてきてくれたの? 安部くんとのこと…怒って、ないの?」




責められると思った。
蒼吾くんの忠告も聞かず、安部くんに気を許したこと。
のこのこついていったこと。
キス。されたこと。



また、逃げたこと──────。






「……本音言うと、すげえ腹立ってる。怒ってる。安部にも……、お前にも。
オレ、云ったろ? アイツに気を許すな。隙を見せるな。園田はいつもいつも警戒心がなさすぎる。あれだけ何度も云ってたのに、気を許して、のこのこついていって、キスされて」

大きな手のひらがそっと私の頬を包み込んだ。
強く、顔を上げられる。

「でも。腹が立つのは、お前が好きだからなんだよ。どーでもいいやつのことで、本気で怒ったりしない。悪いって思ってんなら、ちゃんと弁解してくれよ。安部とは何でもないって──────」






零れた涙をそっと指ですくわれた。
涙の痕を辿って、蒼吾くんが瞼にキスを落とす。
目尻に、頬に、おでこに。
優しく唇が触れていく。
びっくりするぐらい丁寧に触れる蒼吾くんの優しさに、ますます涙が溢れた。
鼻の奥がツンとする。
胸が苦しい。
苦しいのか、切ないのか。
わけのわからない感情が波のように押し寄せてきて、伝えたい言葉がうまく声にならない。



「どうして? なんて聞くな。園田のこと、迎えに来たにきまってるだろ」



みっともなく涙が零れる。
髪もメイクもぐちゃぐちゃだ。
あまりにひどくて、顔が上げられない。

「…ひでえな、これ。裸足で走ったりなんかするから…。とにかく、足。どうにかしよ」
低くそう告げると、座り込んでうずくまる私の腕を掴んで蒼吾くんが軽々と抱き上げた。
私の全てを包んでくれる温かさに堪らなくなって、私から手を伸ばす。
蒼吾くんの首に強くしがみついて、大きな身体に顔を埋める。


「…蒼吾く…ん、ごめ…っ、ごめんなさい……」


喉の奥が詰まって、声が擦れる。
呼吸さえもうまくままならなくて、蒼吾くんの肩にぎゅっと額を押し付けた。


「……オレの方こそ、ゴメン。悪かった。
園田はなにも悪くねえ。勝手に腹を立てて、無茶して、突き放して…。オレさえちゃんとしてれば、あんなことにはならなかったのに──────」


その言葉に、必死で首を横に振る。
不安にさせた。追い詰めた。
それは、私のせい。
もういいと言うように優しく抱きしめられて、髪を、頬を、肩を撫でられる。
抱き上げられた身体がもう一度、地面に降ろされたかと思うと。
スローモーションのように、蒼吾くんの顔が近づいてきた。
吐息が唇にかかる。
──────キスされる。
そう思ってゆっくりと瞳を閉じたけれど、いつまでたっても、それはこなかった。
不思議に思い瞳を開けて蒼吾くんを見つめた私に。
蒼吾くんが優しくきいた。



「嫌じゃねえの?」
「……え?」
「一応、オレも経験あるからさ。園田の気持ち無視して、キスして泣かせたこと…。安部に無理矢理されて、またトラウマになってるんじゃねえかと…」
「嫌じゃないよ。蒼吾くんのは…ちっとも嫌じゃない……。
蒼吾くんこそ……嫌じゃないの? 他の人と、キスした私に触れるの」
「嫌なわけねえよ。 むしろ、キスしたくて、むちゃくちゃに抱きしめてやりたくて……我慢してる。そういうの、伝わってね?」
指が躊躇いがちに唇に触れた。


「切れてる」
「…? 切れてなんか──────」


そこまで言いかけて、慌てて口を噤む。
今さらだけど、思い出した。
安部くんの唇の感触。舌が口の中を這う行為。
無理矢理唇を塞がれて、キスされて。
どんなに押しても叩いても、力では適わなかった。
だから思い切り、彼の唇に歯を立てた。
それが自分にできる精一杯の抵抗だった。
私の唇には傷なんてひとつもない。



血の痕は、安部くんにキスされた証──────。









「擦るな。つか、噛むなって! 傷つくから」



怒ったようにぐいと、顎を持ち上げられた。
蒼吾くんの指が私の唇を辿って、血の跡をぬぐいさる。
そのまま顔が近づいてきて、唇を舐められた。
「蒼…ッ」
その行為に驚いて、一瞬、身体を放し掛けた私を再度、捕まえて。
蒼吾くんが頬を包み込む。
逃げられない。
「ん…っ」
舌先でゆっくりと唇をなぞられた。
何度も何度も舌が唇を辿るのに、キスにはならない行為。
蒼吾くんの舌が余すことなく、私の唇に触れていく。
柔らかで熱い感触。
眩暈がした。
キスをしてるわけじゃないのに、息が上がる。
苦しい。
まるで傷口を舐める動物みたいな行為に耐え切れなくなった私は、恥ずかしさに首を振った。


「やだ…ッ蒼吾くん…っ、もういい、もう、いいから……っ」


「よくねえよ。オレがやなんだよ。
安部が触れた痕跡──────全部、全部、消してやりたい。だから…逃げんな──────」


何か言おうと口をあけたら、それが塞がれた。
蒼吾くんのキスに言葉が飲み込まれる。
優しく唇で触れて、角度を変えて。
離れかけた唇をまた引き寄せて、もっと深く口付ける。
私の上唇も下唇も、蒼吾くんのそれでなぞるように挟んで、甘噛みされて。
舌先を口内に突き入れ、深く、深く。
吸い付くように、噛み付くように、ただ唇を求められた。
「ん、んん……っ」
私の唇を余すところなく蒼吾くんの舌が彷徨って、角度を変えるたびに、深くなるキス。
息苦しさに唇が薄く開き、告げたい言葉も声に出来なくて、ただ唇を動かしてそれに答えた。
言葉なんていらない。
狂おしい程の恋情が、唇から伝わってくる。
どんどん私を解して溶かしてくれる優しいキスに、涙が次から次へと溢れて溢れて、止まらなかった。





「もう他のヤツに園田を触れさせたくない。園田に触れるのは、オレだけだ。……オレだけにして──────」




蒼吾くんの言葉に考えることなく必死で頷いた。
首に手を回して頬を寄せて口づけて。






もう。
何も考えられないほどに、蒼吾くんだけ──────だった。









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全力少年(魔法のコトバ* 続編) comments(0) -
全力少年 28
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全力少年   

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サイド*嵐/


腹が立つ。
俺の葛藤も蒼吾に対する敵対心も、コイツには届かない。
今更、嫉妬だなんて。
くだらない感情なのは百も承知だ。
そんなもの、園田の転校と同時にとっくに捨てたはずだった。
でも。
園田と再会したあの日から。
心の中で燻ってた想いが、勝手に毎日積み重なって。
どんどん追い詰められてく。
おそろいの携帯ひとつで、心が弾むなんて。
どうかしてる。

たぶん泣かす。
絶対、泣く。
わかっていても、止められなかった。



「…痛…ッ」



腕を掴んで引き寄せた瞬間、園田の手から携帯が滑り落ちた。
携帯から漏れた蒼吾の声が、微かに耳を掠める。
それを必死で拾おうとするけれど、させてやらない。
頬を両手で包み込んで強引に上を向かせた。
逃ることが出来ないように、全てを包み込んで自分のそれで園田の唇を塞いだ。
ずっと園田に触れたかった。
抱きしめて、キスしたかった。
その気持ちに気づかないフリして、他の女で誤魔化して──────自分を偽るのは、もう限界だ。


「んーーーッ!!」

ドンドンと胸を叩く園田の抵抗を感じたけれど、止まるはずがない。
息苦しくて緩んだ唇を舌でこじ開け、口中に割り入って舌を絡め取る。
助けを求めるように抵抗を続ける小さな唇を越え、思いの丈貪った。
柔らかな感触にリアルに触れて、理性が保てるわけがない。
「ふぅ……ッッ」
抱きかかえるように園田の背と腰に腕を回して、ますます深く口付けた。
抵抗を続けるように彷徨っていた手は既に、俺の手に押さえつけられている。
だから身動きも出来ない。
それでも園田は、なおも逃げようとする。
サイテーなことしてる。
そういう自覚はあった。
けれど、一度ブレーキが外れたら、止まるのは無理だ。

「──────ッ!」


唇に鋭い痛みが走った。
鉄臭い味が口の中に広がる。
力では適わないと判断した園田が、噛み付いたのだと理解するまでに、時間はかからなかった。
瞬間、精一杯の抵抗で、園田が俺の身体を突き放す。


「…どう、して……っ? 何で、こんなこと、するの…!?」


──────ナンデ?
態度で解るだろ、惚れてんだよ!
その言葉は簡単には出てこない。


「あの日の仕返し…? あのとき、私が安部くんに恥をかかせたから…!? からかうのもいい加減に──────」
「…ッ。そういうところが、ムカつくんだよ! お前は!!」
堪えきれずに、声を荒げた。
「鈍感なのも大概にしろ! いくら思春期だからってなっ、キライな女にキスなんかするかよ! 罰ゲームじゃねえんだぞ!」
ビクと園田が身を引いて、顔に脅えが走る。
またあの顔だ。
俺はコイツに、こういう表情しかさせてやれない。
蒼吾は園田のこと、突き放して、放ったらかしにしてたくせに。
その声ひとつで、園田を笑顔にさせる。
俺にはめったに見せてくれない甘い笑顔で、アイツには嬉しそうに笑いかける。
俺に笑ってくれたのなんて、ほんの数えるほどしかないのに──────。


腹が立つ。
そして何よりも、悔しかった。






「……なに、言ってるのか……、わかんない……。わかんない、よ……っ」




わかってる。
いつだって俺は、言葉が足りない。
肝心な気持ちを言葉にできない。
園田が欲しがる言葉を簡単にみつけて、分け与えてやれる蒼吾とは違う。
最初から、勝ち目がないことはわかりきってたのに。



──────俺、なんてみっともないことやってんだよ。




えっく、と園田がしゃくりあげた。
涙で頬を濡らしたぐちゃぐちゃな顔。
お世辞にも綺麗とはいえない子どもみたいな泣き顔が、俺をますます苛々させる。
あのときと同じだ。
小学4年生。淡い恋心と苦い記憶。
今頃になって、あの日の言葉を理解する。
お互いが好きでないと、カウントできないキスの意味を。
ただ惨めなだけだった。
リアルなのはキスの感触だけで、心は満たされない。
罪悪感と後悔だけが、俺を支配する。
俺の全部を否定するみたいにして、きつく噛締めた口元を見るだけで、こっちの方が泣きそうになる。


「……好きでもないヤツとのキスは、カウントしねーんだろ!? だったら俺のキスなんて、何ともねぇよな? ──────ザマーミロ!」


いつだって俺は、言葉とウラハラ。
昔から進歩がない。






サイド*蒼吾/



通話が途切れた。
園田が何も言わず、携帯を切るはずがない。
会話途中の不自然な切れ方──────。
嫌な予感がする。

人垣を掻き分けて、オレは全力で石段を駆け下りた。
耳の裏がチリチリする。
追い詰められたピンチのとき、感じる感覚とよく似てる。
胸騒ぎがする。
こういうときの勘はよく当たる。

石段の入り口。
金魚と林檎飴の屋台のすぐ裏に、園田はいた。
「すみませんッ!!」
屋台に群がる人波に割り入って、裏手に回る。




「──────園…っ」



手を伸ばせばすぐ届く距離に園田はいた。






いるのに。
オレは動けなかった。
それを目にした瞬間。
身動きひとつ、できなかった。





暗闇に沈む景色の中、イヤになるほどはっきり見えた。
重なる影も、その相手が誰なのか──────も。
一瞬で、心が真っ黒になる。



「安部ッ!!!」



頭の中で、何かが切れるような音がした。
もう、我慢できねえ。
ふざけんなッ!!


園田から安部を引き離して胸倉を掴み上げる。
そのまま力任せに殴りつけた。
「きゃあッ!」
周りから悲鳴が上がり、賑やかな祭りの雰囲気が一転して、騒然となる。
一瞬で注目を浴た。

「なんだよ。今のはっ! 説明しろッ!」
倒れはしないものの、バランスを崩した安部が、2、3歩よろめく。
ハッと鼻で笑ったのが見えた。


「どいつもコイツも馬鹿ばっかだな。いちいち説明しなきゃ、わかんねーのかよ?
お前もスポーツやってんならわかるだろ。 相手の弱点を見つけてそこをつく──────本気で勝ちに行くならそうする」
「たとえの話なんてすんな!」
「……まだわかんねーのかよ? そっちのピンチはな、オレにとってはチャンスなんだよ! お前が園田を突き放して、ぐだぐだやってるから悪いんだろ!? てめーが招いた結果だ! 甘ったれんなッ!!」



「んだと……ッ!!」



拳を振り上げたと同時、左の頬が熱くなった。
体勢を立て直した安部が、思い切りオレの顔を殴り飛ばしたからだ。
上等だ!




「…に、やってんだよッ!」
「そーごがキレタ!」
「騒ぎになる前に止めろ!!」



騒ぎをききつけて駆けつけた里見と三浦が見えた。
お前ら、ゴメン。
ジンさんゴメン。
もう辛抱ならねぇ。我慢できない。
部を任せるって云われたばかりなのに、園田の涙がそれを強く打ち消す。
どうしても安部だけは、許すことができねぇ。


「そーごッ!! 涼、岡野! こっちだ!! 手ぇ貸せッ!!」



ふたり掛かりで、押さえつけられて動きが制限される。
安部も同じだ。




「そーご!やめろよ……ッて、おい! 園田ちゃん──────!!」



「お前に俺の気持ちなんて、わかんねーよッ!」



わかるか!
つか、わかりたくもねえ!
懇親の力で押さえつける腕を振りほどいて、再度、安部の胸倉を掴み上げた。
どれだけ安部と組み合っても、気持ちが晴れない。



「そーごッ!!!」



渾身の力で拳を振り上げた瞬間。
むんずと、首根っこを掴まれて後方に強く引かれた。
「いーかげんに、しろッ!!!」
思わぬ引力に転びそうになったオレは、足を思い切り開いてそれを堪えた。
瞬間。
バシャッと、顔面に何かがぶつけられた。
当たった瞬間、それが弾けて生ぬるい水の感触と、カルキの匂いが鼻をついた。






「………は?」





金魚?
今…オレの顔に、当たったよな?
その光景に呆然と手を降ろしたオレの胸倉を涼が掴んだ。


「そーごッ! お前、やってること違うだろっ!? 気持ちわかるけどっ! 許せないのわかるけど!! キスされて一番傷ついてるの、お前じゃない! 園田ちゃんだろっ! 間違えんな!」



そっちこそ。
掴む相手、間違ってねえか?
てか、涼。
お前、見てたな? 一部始終。
つか、お前。
金魚が入ってた水、オレにぶっかけたわけ──────!?
わなわなと拳を震わせている涼の右手に握られた透明の袋。
そこにいるはずだった色鮮やかな赤い金魚が、酸素を求めて地面を飛び跳ねる。
それを見てたら目が覚めた。
頭が冴える。
夢から覚めたみたいに現実が飛び込んできて、そこに肝心の園田がいないことに気づく。


「──────園田はっ!?」
「お前らが団子になってる間に、走って逃げた。三浦が追いかけたけど──────ちっこいから、人混みに紛れるとわかんなくなるぞ!」
「……ッ」



何やってんだ、オレ!
頭に血が昇って、冷静さを失って。
今一番、何が大事なのかを完全に見失ってた。
やることめちゃくちゃだけど、涼の云うとおりだ。
キスされて傷ついてるのは、オレだけじゃねぇ。


一番、傷ついたのは、園田だ──────。






「クソッ!! ──────涼! 園田がどっちに行ったかわかるか!?」
「裏参道で彼女、見失ったって…!」
三浦と携帯で連絡を取り合ってた里見が声を上げる。
「裏参道って…家と間逆じゃん!」
なんで!?
「バカ蒼吾! 向こうはテンパってんだから、方向なんて見てねーよ!」
「裏参道って人通り少ないから、やばくね?」
「変なヤツ、多いし。女の一人歩きは危険──────ッて、そーご!?」
「後は頼む!」
走り出した身体にブレーキかけて、チームメイトに向かって手を合わす。
「裏参道なら、竹薮抜けたほうが早いぜ! ほらよっ、忘れもん!」
涼が拾い上げた携帯を投げてよこす。
地面に転がっていた園田の携帯の白が、薄く汚れていた。
携帯は繋がらない。
自力で探さねぇと。




「サンキューっ!」
「いいから早く追いかけろって! 今ならまだ追いつくから」



さっさと行けよ、そういって手で追いやられたと同時。
笛の音が鼓膜を掠めた。
騒ぎを聞いて、警備員が駆けつけたらしい。
ヤバイ。
捕まるのはもちろんヤバイけど、連れてかれると完全に園田を見失う──────。


「ここはいいから、行けって! 捕まったらヤバイの俺らも一緒だから、適当に誤魔化す! 当事者がいなきゃなんとでもなるから!」
ほら、お前も!
里見が安部を開放するのが見えた。
本当は警備に引渡しやりてぇ気分だけど、敵にも情けだ。
安部を引き渡したところで、何の解決にもならねぇ。



「…安部! 話──────、終わってねえからな!」
叫ぶと、あからさまに安部の顔が険しくなった。
「……うぜぇからさっさと行けよ」
どうでもいいみたいな口調で、顎をしゃくる。
内心、腸煮えくり返ってるクセに。
相変わらず、態度に出そうとしない。
本来なら二度と園田に近づかないように、ギタギタにしてやりたいところだけど。
それは後回しだ。
今、優先すべきは園田。


「後、頼んだぞっ!」


申し訳ないと思いつつも、後のフォローはチームメイトに任せて、オレは全力で駆けた。
何であの時。
安部に殴りかかる前に、園田を気にかけてやれなかったんだろう。
涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見れば、非がないことなんて一目瞭然だったのに。
真面目で素直な園田が、好きでもない男にキスされて、平気でなんていられるはずないのに。
キスひとつで、どれだけ園田が傷ついたのか。
大丈夫。気にすんな。
そのひと言で、どれだけ園田が救われるか──────。


嵐のような後悔が、胸の中で渦巻く。
あの時。
キスされて傷ついた園田を。
真っ先に抱きしめてやれなかった自分が、歯痒くて仕方ない。







「──────くそッ! 絶対、見つけてやる!」

花火に歓声を上げる人混みを掻き分けて、オレは駆けた。
園田を見つけたら、まず抱きしめよう。
言葉で伝えるよりもまず先に。
抱きしめて、閉じ込めて、もう二度と離さないように。






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全力少年(魔法のコトバ* 続編) comments(0) -
全力少年 27
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ウラハラ 2   サイド*ましろ 

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人混みを割って、立ち並ぶ屋台の裏に出た。
座るのにちょうどいい石を見つけて、安部くんが腰を降ろす。
浴衣の裾を気にしながら、私もその隣に腰掛けた。
安部くんが手にしていた下駄に視線を落とす。
顔を上げるとライトに照らされた鳥居がちょうど真上に見えた。



「お前、ひとりで来たの?」
視線を落としたまま、安部くんが聞いた。
「お母さんと来てたんだけど……用ができて先に帰ったの」
「蒼吾は?」
「………知らない」



あれから、何度も何度も電話した。
メールだって送った。
だけど。
蒼吾くんは私からの連絡には、一切出ようとしない。
しばらく距離を置こうって云われたのだから当然だ。
一度だけ、意を決して学校まで会いに行ったけれど、結局何もできなかった。
さすがに部活中に押しかけられないし。
自分の弱さが嫌になる。
蒼吾くんはまだ怒ってる。
きっと、呆れられたんだ。


「俺のせい?」


私は静かに首を横に振る。
きっかけは安部くんだったかもしれないけれど、そうじゃない。
私の鈍さと、臆病な心が、いつも蒼吾くんを傷つける。
ふーんと鼻を鳴らして、安部くんが手元から顔を上げた。


「なあ。お前、何で蒼吾と付き合ってんの? あの事件で蒼吾のこと、嫌いになったんじゃねえの?」


再会した当初を思い出す。
過去のトラウマのせいで、最初は蒼吾くんと向き合うのが怖かった。
怖くて、辛くて。
向き合うことを避けて、ずっと逃げてた。
そんな臆病な私に、蒼吾くんは体当たりで気持ちをぶつけてきた。
小手先や駆け引きなんてしない。
いつでもストレートに真っ直ぐぶつかってくる蒼吾くんの存在は、私の心に刻み込まれて。
一気に気持ちが動いた。
付き合うようになってからの蒼吾くんは、いつだって私の気持ちを優先してくれた。
真綿に包まれているようなぬくもりと優しさに甘えきって、過信していたのは私。
ずっと大丈夫───だって。


気がついたら涙が頬を伝ってることに気づいた。
パタパタと頬を流れ落ちる雫が浴衣に染みを作る。
「……泣くな。ウザイから」
「うん……ごめ…」
「拭けよ」
安部くんがタオルを差し出した。
「いーから使えって。俺が泣かしたみたいだろ」
首を横に振って断る私の手に、有無を言わさず握らせる。
「……ありがと……」
安部くんの匂いがした。
蒼吾くんとは違うその匂いに、私はますます悲しくなって顔をうずめて泣いた。
私がめそめそしている間、安部くんはひと言もしゃべらず、鼻緒を直すのに集中していた。
鼻緒が直っても、何も言わずに側にいてくれる。
あの安部くんに同情されるぐらい、自分の状態のひどさを思い知る。
ダメだ。
これ以上、迷惑かけちゃいけない。
そう思ったら涙が止まった。



「…ゴメン……」
「いいよ。別に。お前がめそめそすんの、今に始まったことじゃねえから。
できたぞ。とりあえずの応急処置だけど───履けよ。肩、貸してやるから」
安部くんが下駄を差し出した。
「どうよ?」
少しきつくて親指の付け根が痛い気もするけれど、ちゃんと歩ける。
「うん…。大丈夫みたい。ありがと───う…」
すぐ傍に安部くんの顔がある。
目線が同じで、声も近い。
私は慌てて肩から手を放した。

「なんだよ?」
「あ……うん。なんでも……」

鋭い視線と間近で目が合って、緊張で身体が固くなる。
安部くんが腰を上げた。
「ケータイ、探しにもどるぞ。もう手遅れかもしれねえけど」
「…手遅れ?」
「拾われたか、踏まれて割れて使い物にならないか。その可能性、大だろ」
「………」

「園田。ケー番、教えろ」
「え」
やだよ。
「悪用したりしねーから」
「………」
「お前の携帯、鳴らすんだよ! 早くしろ!」
一喝されて、ビクリと身体が震えた。
「こういう時は、闇雲に探し回ったってダメなんだよ。頭、使え!」
苦い顔で安部くんがポケットから携帯を取り出した。


「あ…」
「なんだよ?」

「携帯。私と一緒……」




「───マジで?」



「うん…」



「ラッキー」





「───え?」



言葉の意味が分からず、ぼんやりと聞き返した私に向かって。
安部くんがニッと笑う。
「お前も虹色ケータイってことだろ? 着信時に虹色に光る設定にしてんのか?」
「うん……」
「じゃあ、探しやすい」
安部くんが、さっき私から聞きだしたばかりの番号をプッシュ。
「お前もしゃがめって。突っ立ったままじゃ、見つからないだろ?
拾われてないなら、足元だ───」
くん、と浴衣の袖を引かれて、ペタンのその場に座り込む形で腰を降ろす。
安部くんが肘で小突いて合図した。


「繋がったぞ。目ぇ凝らせ」


花火の打ち上げ時間を間近に控え、一段と人の数が増えてる。
太鼓の音と賑やかな歓声にかき消され、小さな着信音は聞こえるはずもない。
頼りになるのは光だけだ。


「光ったか?」
「ううん……」
「ちゃんと探してんのか?」
「探してるよ」


足元なんて無理だよ。
紛失届を提出して、出てくるのを待つ方が早いんじゃないのかな。
そう思った時だった。
視線の隅にチカリと、何かが光ったように見えた。
「あ…」
金魚すくいの屋台のすぐ側。
虹色の光がチカチカと反射するのが視界に映る。


「安部くん! あった! あそこ───」




指差したと同時。
私が腰を上げるよりも早く、安部くんが駆け出した。
人の波をかき分けて、屋台に辿りついて、携帯を拾い上げる。
私にも見えるように大きく空に翳してみせた。

「これかっ!?」


砂まみれで傷だらけだけれど、確かに私の携帯だった。
「うんっ!」
私は大きくうなづいた。

「でかしたなっ!」

携帯を手に戻ってきた安部くんが、屈託なく笑った。
その笑顔に目を丸くして見入ってしまう。


「……なに?」
「あ……うん……。ありがとう」
「なんだよ? 云いたいことがあんなら、さっさと言え。黙んな!」



「…安部くんも…そうやって、笑うことあるんだなーっと思って……」
「ああ?」


「───イタッ…! 痛いよ…ッ」

安部くんがコメカミに拳を押し付けた。
思いっきり怖い顔を近づけて、左右から力を込めてグリグリ。

「失礼だろ! お前!!」
「だって……。安部くん、いつも怒ってるか難しい顔、してるから───」
「…るせー!」

ふくれっ面をますます険しく歪めて、拳に力を込めた。
痛い。
本当に痛いよ、安部くん。


「ったく…お前は。俺の事を何だと思ってんだよ!」
女の子相手にこういうこと、する人でしょう?
そう云ったら、また怒鳴られた。
「俺は普通に優しいし、嬉しかったら笑う。人を鉄仮面みたいに云うな! 」
そっか。
喜怒哀楽の怒の部分ばかりしか見えてなかったけれど、嬉しかったらちゃんと笑うんだ。
最近の安部くんは、私が怖がらなければちゃんと話してくれる。
狭い視野の中で、私は安部くんのほんの一部分しか見えてなかった。
いつだって安部くんは、私に怒ってばかりだったから…。
そういえば。
「昔の安部くんは普通だったよね?」
「はあ? ……お前なぁ…人をフツーじゃねえみたいな言い方ばっかしやがって!」
「ご、ゴメン…。そうじゃなくて……」
いじめっ子の印象が強烈すぎて、はっきりとは覚えていないけど。
それ以前の安部くんは優しかった。
他の女の子達と同じように接してくれてた気がする。


「…ねえ、安部くん」
「ああ?」
「私……安部くんに何か嫌なことしたのかな?」
「は?」
「どうして私、きらわれちゃったの?」



いじめが始まったは、4年生になってからだ。





「……お前のそういうところがムカつくんだよ」
「そういうところって?」
「そんなの自分で考えろ」

「……ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんないよ……」


肝心なところはいつもはぐらかす。
素直じゃないのは知ってる。
ちゃんと安部くんの口から聞きたいのに。


「……今さらそんな話、してもしょうがねえだろ。もう終わってんだ。今さらむしかえすな」
「今だからだよ」
少し強くなれた。
自分に自信がもてるようになった。
今だから、目をそらさずに受け止められる。
ちゃんと自分のダメな部分と向き合える気がするから…。


「……てか、ケータイ。壊れてねえか、確認してみろ」

うまくはぐらかされた。
「早くしろって!」
これ以上、深く入り込むと本気で怒らせそうな空気をぴりぴり感じる。
私は仕方なく、手元の携帯に視線を落とした。











「え?」






ドクンと鼓動が跳ねた。









「なんで…? どうし、て───」





液晶に映し出された文字が信じられなくて、何度も目を擦る。







「どした?」












着信が入ってた。
5件───どれも蒼吾くんからだ。





瞬間、ケータイが鳴った。
震える手で、私は携帯を耳元に当てる。





『園田───?』



その声を聞くのは10日ぶりだった。



「……そーご───くん…」



声が震える。


『よかった。やっと繋がった。お前、とってくれないから…もう駄目なのかと思った』
「どうして……」

『オレ───ダメなんだ。園田がいねぇと。自分の半分、死んだみたいになって、何やっても楽しくねえ。生きた心地、しねぇよ。自分から距離置こうって云ったクセに……。
だから───電話した。園田に会いたくて。ちゃんと会って、謝らせて───』


涙を堪えて唇を噛締めた。
そうでもしないと嗚咽が零れてしまう。



『園田? ちゃんと聞いてる?』
「ん…」



『……また、泣いてんだろ?』



蒼吾くんは何でもお見通しだ。




「蒼吾くん、私…わたし───」




思考回路がぐちゃぐちゃで、うまく言葉にならない。
気持ちだけが先走る。



『とにかく会おう。電話じゃ、ダメだ。ちゃんと顔見て話そう』


伝えたいことがたくさんある。
電話の声だけじゃ足りない。
満たされない。




ドン!と。
お腹の底から震えるような音が、聞こえた。
花火の開始を告げるアナウンスが流れて、第一発目が夏の夜空に打ちあがる。
色鮮やかな花が夜空に咲いて、周囲からわっと歓声が上がる。
花火が夏の夜を弾く。




「……蒼吾…くん…? 今、どこにいるの…?」


同じ音が聞こえた。
携帯の向こう側からも。




『神社にいる。園田を見かけたって部の先輩に聞いて……。
お前のこと、ずっと探してた───』




携帯の向こうがざわめくのは、同じ場所にいるから。
話す声がいつもより荒いのは、ずっと走っているからだ。
胸が苦しい。
早く、早く。
蒼吾くんに会いたい。




『何か目印になるものないか? オレは境内にいる。鳥居のすぐ真下───』


とっさに空を仰いだ。
青白いライトに照らされた真っ赤な鳥居。
ぼやっとした提灯の明かりとあまりの人の多さとで、蒼吾くんは見つけられない。




「ここから鳥居が見えるよ。私…蒼吾くんの真下だ…」
『真下?』
「うん。石段の入り口…」


『──────いた』


「…すごい。私、わかんないのに……」


視力は悪い方じゃない。
けれどこの距離と人の多さでは無理だ。


『園田だけは、どんなに遠くからでも見つける自信あるよ、オレ。どんだけ片思いしてたと思ってんだよ? なめんな』
ケータイの向こう側。
蒼吾くんが笑ったのが分かった。
私もわかるよ。
蒼吾くんが今、どんな表情をしてるか。
声を聞いただけで、想像できるんだよ?
太陽みたいに明るくでっかい笑顔、もっと見たい。
もっと近くで。
ずっとずっと、見ていたい。



『オレ。行くから、動くな。そこで待ってろ』
「うん」
『ケータイ、切んなよ?』
「うん───。蒼吾くん…」
『なに?』


「私──────」






───ずっとずっと、会いたかった。





そう告げようとした言葉が、突然、遮られた。
携帯が耳元から奪われたからだ。







「…あべ……、くん……? 」



この人の存在を忘れてた。
私の手をきつく握り締めて、きつく睨みつける。
ドクリと鼓動が嫌な音を立てて跳ねた。
…な、に……?
さっきまで楽しく笑ってくれてたのに。
どうして怒ってるの?








「──────言えばお前、どうにかしてくれんのかよ?」



言葉の意味がよくわからなかった。





突然、ガッと私の方へ伸ばされた手に腕の付け根を強く握られた。
「イタ…ッ」
その拍子に、携帯が地面へと滑り落ちる。
『園田───?』
蒼吾くんの声が途切れた。
拾おうとしても、安部くんはそれを許してくれない。






「──────ちゃんと言えばお前…俺の気持ち、受け止めてくれんのかよ?」





「なに……、言ってんのか…、わかんない、よ……」







「……やっぱお前、すげぇムカつく──────」






怒ったように安部くんが言葉を吐き捨てたあと、一瞬で、目の前が真っ暗になった。
安部くんの顔が覆いかぶさって、視界がふさがれたから。




突然。
なんの前触れもなく、キスされた。



「…あ、べっ……ク……ッ」



一緒だ、あの時と。
小学4年生。教室。ファーストキス。
心の引き出しに鍵をかけて、ずっとしまっていた苦い記憶が引きずりだされる。
一歩も動けなかった。
振りほどくこともできない。
「…や、っ、んーッッ!!」
声を上げようと唇を開けば、舌で強引に割られて押し入られた。
押し返した腕を掴まれて、後頭部から引き寄せられて、深く舌が侵入してくる。
何がなんだかわからない。
あのときみたいに、庇ってくれる蒼吾くんは側にはいない。
噛み付くようなキスに、頭が真っ白になる。









──────アイツに隙、見せるな。





あの日の蒼吾くんの言葉が、何度もリフレインする。



私が。
彼の忠告を聞かなかったからだ。









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全力少年(魔法のコトバ* 続編) comments(2) -
全力少年 26
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ウラハラ 1   サイド*ましろ 

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ふと、顔を上げたら鳥居が見えた。
長い長い石段を登った先にある大きな鳥居。
ざっと数えても100段以上はある。
普通に登っても大変なのに、浴衣に下駄の格好じゃあ、苦戦するのは間違いない。
溜息を零したら携帯が鳴った。


「もしもし──────?」


『ましろ?』


ママだ。




「どうだった?」
『大丈夫。火、ちゃんと消してた』
「…よかったぁー」
安堵に胸を撫で下ろす。
『今ちょうどパパが帰ってきたから、夕飯してからじゃないと出掛けられないのだけど…ひとりで平気?』
「大丈夫。もう子どもじゃないんだから。パパの夕飯、してあげて」
『何かあったら連絡するのよ?』
「うん。ありがとう」


できるだけ明るい声で電話を切って、携帯を懐にしまう。
せっかく浴衣を新調したのだからといって。
元気のない私をママが縁日に連れ出してくれた。
部活の日以外、ずっと部屋に篭りっきりだったから…。
あまり気は乗らなかったけれど、これ以上は心配をかけたくなくて。
ママは途中、お鍋の火を消したかどうか不安になって引き返したのだ。
火事にならなくてよかった。


目的もなく屋台の間を抜けたら、大きな鳥居のある石段に辿りついた。
お宮は遥か遠く。
あまりの人と石段の多さに、引き返してしまおかと考えてしまう。
「…参拝もしないで帰るのは、罰当たりだよね…」
住吉神社は縁結びの神様としても有名どころ。
こんな時だもの。
神様にもすがりたい。
「よし」
気合を入れて、長く続く石段への第一歩を踏み出した。
そのタイミングで、また携帯が震える。
ママかな?
懐から取り出して、パクンと折り曲げた携帯を開こうとした時だった。

ドン!と。
人波に背中を押された。
人の行き来の激しい石段の入り口で、ぼんやり携帯を開けてしまった私が悪い。
「あっ!」
声を上げたと同時。
携帯は私の手を離れて、宙に舞った。
足元なんて見てない浮かれた参拝客に蹴られて、はじかれて。
あっという間に、携帯の行方を見失ってしまう。



「ちょ…っ! すみません! ゴメンナサイ…!」




人波をかき分けてその場にしゃがみ込む。
姿勢を低くして探しても、携帯は見つからない。



「…っ。どうしよう……。きゃ…ッ」

「にやってんだよ! んなところで座ってんな!」


手を踏まれて、浴衣の裾を踏んでつんのめる。
転ばないように力いっぱい踏ん張ったら、そのタイミングで鼻緒が切れた。
ズサッと地面の乾いた音がして、私はまるで小学生がかけっこで転んだみたいに、その場に無様な姿をさらけ出してしまった。
「なに、あの子。大丈夫?」
「可哀想ー」
冷たい視線が一気に私に浴びせられる。
同情の声を上げても、手を差し伸べてくれる優しい人は、誰もいない。
みんな自分のことに精一杯だ。
新しい浴衣は砂だらけで、おまけに鼻緒も切れて。
靴で踏まれた手の甲と、地面についた膝小僧から血が滲む。
惨めだ。
声を上げて泣きたかった。
賑やかな人波がますます私を心細くさせる。





「──────園田」


硬質で低音な声が鼓膜を揺らした。
聞き覚えのあるその声に、ドキリと鼓動が跳ねて、声の主を探す。
少し離れた石段の入り口に、知ってる顔が見えて。
ガッチリ視線が合わさった。






「お前──────なにやってんだよ…」




黒いTシャツ姿に短パン、ナイキのスポーツサンダル。
神社の入り口で配っていたうちわをパタパタと扇ぎながら、私を見下ろしていたのは安部くん。
知った顔に一瞬、安堵して涙が浮かぶ。

「…携帯……落としちゃって……」
「どこで?」
「石段の入り口。探したんだけど…見つからなくて……」
「………」

つかつかと無言で歩み寄ってきた安部くんが、私の腕を掴んだ。
そのまま身体を引っ張り上げて、立たせる。
「てか、お前。邪魔。んなところに座り込むな! 移動すんぞ」
「でも、携帯が──────」
「んなの後だ」
有無を言わさず、掴んだ手を引っ張った。


「待って!」
引っ張られた拍子に下駄が脱げた。
浴衣の裾を気にしながら、それを拾い上げる。


「…足、どうかしたのか?」
「転んだときに、鼻緒が切れちゃって……」
「……貸してみろ」
安部くんが私の手から下駄を取り上げた。
眉根をキュッと寄せて難しい顔。



「これ、いつから履いてるヤツだよ……」
「…20年ぐらい前……かなぁ」
「はああ?」
「お母さんが、昔履いてたものだから…もう、かなり古いの」


ママとパパの出会いのきっかけになった思い出の下駄。
ましろにもいいこと運んでくれるといいわねって、譲ってもらった。
結果、こんなことになっちゃったけれど。
ロマンスのご利益は一度きりなのかもしれない。


「履けよ」
安部くんがサンダルを突きつけた。
さっきまで履いていた黒いナイキのサンダル。
「下駄。後で直してやるから。それまでとりあえず履いとけ」
ぶっきら棒に私に突き付ける。
「いいよ…。借りたら、安部くんが困る……」
「いいから。いくら俺だって、女を裸足で歩かせるほど鬼じゃねえ」
「…でも……」
「ぐだぐだ云うな。さっさと履け!」
「………」
「……お前って──────蒼吾や日下部には素直なクセに、俺相手だと頑固だな。そんなに俺に頼んの嫌かよ?」
だって。
安部くんに何かをしてもらうと、倍の要求をされそうなんだもん。



「もういい」


パン!
サンダルを投げつけた地面に、砂埃が舞う。
不機嫌な顔でそれをまた履いて、そのまま無言で近づいてきたかと思うと。
「きゃあ……ッ」
荷物を担ぐみたいにして、私を肩に抱き上げた。
「あ、安部く…んッ!? ちょっ、やだ……っ! 降ろして──────!!」
すれ違う人がみんな見上げてく。
こんなところでいちゃつくな、バカップル。
そういう呆れた視線だ。
恥ずかしくなって私は足をじたばたとバタつかせた。
「安部くん! やめてよ──────!」
「仕方ねーだろ? 俺のサンダル、履けないつーんだから」
「でも…借りたら、安部くんが困る…だから……」
「なら、じっとしとけ。バタバタすんな! 重い!!」
やだ。やだ。
こんなところ、誰かに見られたりしたら。
地元のお祭りだもん。
どこで知り合いが見てるかわからない。
もしまた、蒼吾くんに誤解されたりしたら──────。


「履く! 履きます!! だから降ろして…ッ」

数メートル歩いてぴたり。
安部くんが歩みを止めた。
肩に担いだ私をその場に降ろすと、また右足のサンダルを脱いで私に突き付けた。


「最初から素直にそうしろよ。手間かけんな!」
「……ごめん…」
「ゴメンじゃねーつってるだろ。学習しろ!」



「……ありがとう…」


言葉の使い方、間違えんな。
安部くんが言った。
こういうときは、ありがとうなんだって、教えてくれたから。


「……場所、移すぞ。ついて来い」

人混みをかき分けて、ぐんぐん進む。
その背中を見失わないように、少し距離を置いて安部くんを追いかけた。
浴衣の裾を気にしながらの小走りは苦戦する。
おまけに片足は下駄、もう片方はぶかぶかのサンダル。
安部くんを見失わないようにするのが、精一杯だ。
「きゃ…ッ」
人波にドンと押され、身体がはじき出された。
転びそうになった私の腕を安部くんが掴む。
前のめりになりつつも、無様な格好をさらけ出すのは免れた。

「…っぶね。──────どこ見て歩いてんだよ!」
「あ、安部くん! やめて…!」
「あいつ等、前見てねえから!」
あからさまに相手を睨みつけた後、私に向き直った安部くんが一喝。
「……お前も! 離れすぎなんだよ!」
だって。
変な誤解されるのはイヤだから…。


「それ。貸せよ。持ってやるから」
私の手から鼻緒の切れた下駄を奪い取った。
「お前どんくせーから、また人にぶつかってケータイみたいに落とす」
「もうやらないよ…」
同じ間違えは二度と。
「どうだか。…俺のサンダル、終わったらちゃんと返せよ?」
「云われなくても返すよ、ちゃんと…」
「そういうこと、ゆってんじゃねーよ。サンダル履いたまま、勝手にいなくなんなってこと! お前、都合悪くなるとすぐ逃げっから」
「………」
そんなことしない──────とは言い切れない。



「とにかく。ちゃんとついて来い。離れんな!」



言いよどんだ私に、ほらみろと悪態ついて、安部くんが顎をしゃくって行き先を促した。







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春を待つキミに。 15
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春を待つキミに。 15 サイド*凪 

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佐倉に手を引かれるまま辿りついたのは、ショッピング街を抜けた先の広場にある大きなモミの木だった。
点灯式を終えたばかりの大きなモミの木は、白と青の電飾を纏って幻想的な光を放つ。
近隣では少し有名なクリスマスツリー。
その圧倒的な大きさと電飾のまばゆい光に、私は目を細めた。
佐倉は大きな木の前で立ち止まったまま、何もしゃべらなくて。
私は彼の隣で同じようにそれを見上げることしかできなかった。
ここに連れてこられる時、握られた手はそのまま。
振りほどくことができなかった。


「見に来たことある?」
木を見上げたまま、佐倉が口を開く。
「うん。何度か」
「……蒼吾と?」
「まさか。みんなと一緒に見に来たことはあるけど……ふたりきりなんて、あるわけないじゃん」
わかってるくせに。
意地悪な質問だ。
「……佐倉は?」
「俺は初めて。お互い、寂しいクリスマスを過ごしてたわけだ」
失笑交じりに天を仰ぐ。
点滅する電飾の影が、佐倉の瞳に薄く映って消えた。



「──────日下部の夢って…なに?」
木を見上げたまま佐倉が聞いた。
「なに? 突然……」
「なんとなく、聞いてみたくなって」
「夢か…。昔はいろいろあったんだけど………今はまだ、漠然としてる。佐倉は? やっぱり絵の方に進みたい?」
「絵を描いて食っていきたいとは思わない」
「どうして?」
「夢で何かを犠牲にした人間を俺は見てきたから…。
好きなことでさ、食っていけるやつなんてほんの一握りだよ」
「自分から聞いてきたくせに、現実的だね」
「そうかな? でも……そういう将来じゃなくてもさ、絵には何らかの形で関わっていけたらいいなって思うよ」
「でも、美大には行くんだ? それって矛盾してない?」
「あれはただの情報収集。行くなんて云ってないだろ? まだ──────決めてない」


私は。
大きな木を静かに見上げる佐倉の横顔をじっと見つめた。
佐倉はただ漠然といい大学へというのではなくて、その先まで見てる。
淡々と、その先に見える将来を冷静に。
まさかこういう話を、佐倉とするとは思わなかった。




「日下部」
「うん?」
「手──────握ったまま。嫌じゃないの?」
「………っ!」



慌てて放しかけた手を佐倉が掴む。
振りほどこうとしたけれど、させてくれない。
それどころか。
指を絡めて、ますます強く握られた。



「さく」
「温かいから。もう少しこのままで」



あまり自分の感情や欲求を露にしない佐倉が、そんなことを云うから。
それ以上、振りほどけなかった。
これ以上、なにも云えない。




ずるいよ、佐倉は。
人恋しい時に、優しい声を聞いたらダメになる。
寂しいときに、優しくされたらその暖かさを求めてしまう。
一度、誰かに弱さを見せたら、もう──────。



佐倉が優しく笑いかけて、また大きな木を見上げた。
つないだ手をそっと、自分のコートのポケットに入れる。
温かい。
人のぬくもりって。
こんなにもあたたかく、安心できるものなんだ……。
触れ合う身体から、アクリルと油絵の匂いがした。
土とおひさまの匂いがする私の幼馴染とは全然違う、佐倉の匂い。
クラクラした。





「日下部と一度、見ておきたかったんだ」






どうしてだろう。
モミの木を見上げる横顔が、やけに遠くに見えた。
同じものを見ているはずなのに、佐倉が見つめる先はずっと遠く。
隣にいるのに、すごく遠い──────。


寒さで赤く染まった耳と頬が、小さく震える。
もうだいぶ長い時間ここに立っていて体が冷え切ってしまいそうだけれど、佐倉はなかなか動こうとしなかった。
仕方がないから、しばらく隣でツリーを見つめた。
マフラーに埋もれた息が、白く白く空に舞う。






「日下部」
「…なに?」
「いつかちゃんと、返事……聞かせて。今じゃなくていいから」





モミの木からそっと私に視線を返して、佐倉が笑う。






「蒼吾でなくてもいいって、思える日が来たら、その時に」






「……そんな日が来るのかな…」
蒼吾以外の人に、感情が動いたことがないから。
いつかのその日が、想像つかない。
「もしかしたら、そう思える日が来ないかも。ずっとずっと、死ぬまで蒼吾のことが好きかもしれないよ?」
「構わない。それでも俺、待つから」




「………」




「そう思える日が来たら、その時は、一番に俺の事、思い出して。考えて。
そのとき俺は、日下部の傍にいないかもしれないけれど──────でも、ずっと待ってるから」
「…佐倉の方が先に、私じゃなくてもいいって思う日が来るかも」
「来ないよ。ちゃんと言葉で聞くまでは俺、ふられたつもりないから」
「………」
「あの時の日下部は、蒼吾以外、考えられなかった。でも今は、違う」



イロゴト方面にはめっぽう鈍いましろが、蒼吾の気持ちに気づいた。
もともとはお互いに意識し合ってたふたりだもの。
きっかけ次第でどんどん転がっていくのは、目に見えてる。
私は蒼吾の気持ちを動かせない。
それはたぶん、この先もずっと──────。
手に入れられないと覚悟して想ってはきたけれど。
それはもう、確信になった。
きっと今のままではいられない。



「…意外と頑固だね、佐倉は」
「そっちこそ」



お互い睨み合って、どちらかともなく笑う。
ふっと。
緊張の糸が切れた瞬間だった。
前置きなく、隣で空気が動いた気配がして、私は佐倉を見上げた。
あ、と思った時にはもう、隣に佐倉はいなくて。
聞きなれた柔らかい声が、私の右耳のすぐ横で、ゆっくりゆっくりと言葉を紡いだ。




「日下部は……ずっとひとりで立ってきたから。そろそろ誰かを頼ってもいい頃だと思うんだ。
いつだって強がって、ひとりで前を向いて歩いてきたから」
「強がってなんか──────」
「失恋してから、一度でも泣いた? 声を上げて」




これだから嫌だ、この人は。
いつだって私を心の奥まで見透かす。
蒼吾なら気づかないような強がりな嘘を、この人は簡単に見つけてしまう。
佐倉には嘘や虚勢は、通用しない。

顔を上げたら、きっと泣く。
佐倉が優しいから、泣きたくなる。
我慢とか、難しくなる。
だからただ黙って、下を向いて唇をきつく噛締めた。



「……日下部の悪い癖だよ。泣きたいとき、そうやって唇を噛むの。我慢しないで、全部吐き出せば楽になるのに」




背中から抱きしめた佐倉の腕が強くなる。
息苦しいくらい、強く強く。
私の弱い心をすべて包み込むかのように、抱きしめてくる。

背中から伝わってくる佐倉の存在に、心臓が音を立てた。
嫌な鼓動じゃない。
息が詰まるこの感覚。




感情が、動く。





「もし、蒼吾のことが忘れられなくても──────誰かに寄りかかりたくなったら、いつでも云って」






そう、耳元で囁いて佐倉に。
私は何も答えられなかった。






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