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スキというキスを サイド*ましろ
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全力で駆けた。
人の波に逆らって、なりふり構わず駆ける私を。
何人もが振り返ったけれど、それを気にする余裕なんてなかった。
下駄は走りにくく、浴衣の裾がはだけて足に絡まりつく。
それでもただ、夢中で駆けた。
とにかくそこから逃げ出したかった。
誰もいない知らないところへ駆けて、すべてなかったことにできたらいいのに。
裏参道を抜る頃には、誰もこっちを振り返らなくなった。
人足もまばらになる。
「きゃ…ッ!」
ブチッと、鈍い音が鼓膜を掠めたと同時、砂埃が舞う。
鼻緒が切れて、前のめりに倒れこむ。
これで二度目だ。
応急処置のままで、全力疾走したりしたから。
転がった下駄を拾ったけれど、それはもう、履けそうにない。
鼻緒でこすれた指の間は、皮が剥けて真っ赤で。
髪はほつれて絡まって、汗で頬に張り付いていた。
手をやると砂を噛んだ髪がざりっとなった。
「ひどいなあ、もう…」
なにもかもがぐちゃぐちゃだった。
「なんでいつも、思い通りにいかないのかなぁ……」
音もなく溢れた涙が筋をかく。
頬から顎に滴って、地面に落ちた。
蒼吾くんが、見てた。
きっと全部、見られてた。
なんてタイミングが悪いんだろう。
良くないことはいつも重なる。
意識して引いた口紅が、何だか厭らしく思えて、私はごしごしと唇を擦った。
こすってもこすっても、キスの感触は拭い去れない。
どんどん溢れてくる涙に、ついに声が零れる。
荒い自分の息が、泣き声に変わるのを抑えられなかった。
今度こそほんとうに、ほんとうに。
蒼吾くんに嫌われた。
気を許すな。隙を見せるな。園田はいつも警戒心がなさすぎる。
蒼吾くんは何度も何度も、忠告してくれてたのに。
何も疑いもせずにのこのこついていって、キスされて。
きっと罰があたったんだ。
「…ふ、えぇんっ」
声を上げて泣いた。
誰もいないのをいいことに、小さな子どもみたいに声を上げて、みっともなく。
安部くんのキスなんてカウントするもんか。
キスは蒼吾くんとだけ。
そう思うのに。
全てをなかったことにはできない。
だって──────キスはキスだ。
止め処なく溢れてくる涙に、私はその場に膝を抱えてうずくまった。
どんなに声を上げても、涙を流しても、気持ちは晴れない。
泣けば泣くほど、どんどん自分が惨めになっていく。
どれくらいの時間、そこで泣いたのかわからない。
気がつけば夜空を飾る花火の音は聞こえなくなっていて、辺りに静寂が降りた。
幾重にも連なる笹の葉が不気味な音を立てて、耳に届く。
その音で頭が冴えた。
うずくまった膝から顔を上げる。
「…ここ……、どこ……?」
意識がはっきりとしてきて、今さらだけど自分が今、どこにいるのかを考える。
誰も通らないはずだ。
だって、ここ。
首吊りの竹薮だ。
住吉神社の北側には広い広い竹薮がある。
いつから手入れをしていないのかもわからない笹の葉が、幾重にも重なり、影を作る。
そのおかげで昼間でもほとんど陽の光が差し込まない、鬱蒼とした場所。
昔、ここで首吊り自殺があって、今もその霊が彷徨ってる。
迷い込んだら最後、二度と出られない。
小学生の頃、その類の噂をよく聞いた。
そんなの迷信だ。
そういって、度胸試しに竹薮に入った学校の男の子達が神隠しに合うことはなかったけれど、その数日後、必ず決まって原因不明の高熱を出す。
祟りだとか、罰が当たったんだとか。
ますます噂に尾びれがついて、子ども達はこの場所を恐れた。
地元の子どもは誰も近づかない場所。
大人だって用がなければ近づかない。踏み込まない。
もちろん私だって。
ずっと避けて、通ったこともなかったのに。
風が冷たい。
真夏の暑い夜だっていうのに、その場所だけがひんやりと冷たい気がする。
「……な、に…?」
竹薮の奥でガサリと何かが音を立てた。
風なんかじゃない。
何かが枯れ草を踏みしめて、近づいてくる音だ。
どんどん近くなる。
視線の端に動く影を認めて、背すじが冷たくなる。
風が葉を揺らす不気味な音だけが、リアルに鼓膜を揺らす。
「やだ…っ」
恐怖に足がすくみそうになるのを必死で堪えて、そこから逃げた。
気持ちだけが焦って、足がもつれる。
風がひゅうひゅう鳴く音と、空から覆いかぶさるような笹の葉がますます恐怖を煽る。
怖くて怖くて仕方がない。
「出口…どっち…!?」
ただ逃げる為だけに闇雲に走っていたので、方向がわからない。
覆いかぶさるように竹の枝が覆っているせいで、どの方向を見ても同じに見える。
「どうしよう……誰か…ッ!」
息が上がり足元がふらつく。
浴衣に片方だけ下駄を履いた格好では、うまく走れない。
枯れ草を踏みしめるたびに、足の裏にチクチクと痛みが走る。
それでも必死で逃げた。
恐怖が一層、体力を消耗させる。
「…あ…ッ!」
浴衣の裾を踏んで、前のめりに倒れた。
背筋が凍るような恐怖に飲まれて、膝ががくがくと笑う。
力が入らない。
立てない。
「キャ、アアアーーーっ!!!」
突然。
何か黒い物体が背後から覆いかぶさってきて、私は声にならない悲鳴を上げた。
確かな生身の感触。
幽霊とか物の怪とか、そういう類のものじゃない。
人肌のリアルな感触が私を羽交い絞めにして、竹薮の中へと引きずり込もうとする。
「放して…ッ! やッ!! 誰か……っ!!」
パニクって、テンパって、取り乱して。
何が何だかわけがわからず、無我夢中で抵抗した。
必死だった。
「落ち着け! 園田! オレだっ!!」
頬を両手で掴まれ、強引に上を向かされた。
「…そう、ご……くん……?」
意志の強い視線が私を絡め取る。
「…どうして──────」
「お前を裏参道で見失ったって三浦に聞いて、急いで追いかけた。こっち、入ってくのが見えたから……って──────園田!?」
へなへなと力が抜けてその場に座り込んだ。
安堵にはらはらと涙が零れる。
冷たくなった指先に、体温が戻ってくる。
本当に本当に、怖かったから…。
「…お前、もしかしてさ──────オレのこと、幽霊かなんかと勘違いしてた?」
蒼吾くんが私の前に腰を降ろした。
「首吊り幽霊の話、まさか…今でも信じてる?」
コクリ。
私は頷く。
「やっぱり。オレ、何度も園田のこと呼んでんのに、全く聞こえてねえし、必死だし。こりゃあ、人とは違う別のものに追いかけられてるみたいに錯覚してんなーって思った。脅え方が尋常じゃねえし。
しかも方向音痴! どんどんどんどん、奥へ進んでくんだもんな。マジ見失うかと焦って、こっちも本気になって追いかけたから…余計に恐怖を煽って悪循環だったな。ゴメン」
心底、申し訳なさそうに笑って、私の頭をくしゃんと撫でた。
確かな人の体温に触れて、震えが少しずつ納まってくる。
大きな手のひらに撫でられて、心がほぐれてく。
蒼吾くんが優しくて、泣きたくなる。
「……どうして? どうして…追いかけてきてくれたの? 安部くんとのこと…怒って、ないの?」
責められると思った。
蒼吾くんの忠告も聞かず、安部くんに気を許したこと。
のこのこついていったこと。
キス。されたこと。
また、逃げたこと──────。
「……本音言うと、すげえ腹立ってる。怒ってる。安部にも……、お前にも。
オレ、云ったろ? アイツに気を許すな。隙を見せるな。園田はいつもいつも警戒心がなさすぎる。あれだけ何度も云ってたのに、気を許して、のこのこついていって、キスされて」
大きな手のひらがそっと私の頬を包み込んだ。
強く、顔を上げられる。
「でも。腹が立つのは、お前が好きだからなんだよ。どーでもいいやつのことで、本気で怒ったりしない。悪いって思ってんなら、ちゃんと弁解してくれよ。安部とは何でもないって──────」
零れた涙をそっと指ですくわれた。
涙の痕を辿って、蒼吾くんが瞼にキスを落とす。
目尻に、頬に、おでこに。
優しく唇が触れていく。
びっくりするぐらい丁寧に触れる蒼吾くんの優しさに、ますます涙が溢れた。
鼻の奥がツンとする。
胸が苦しい。
苦しいのか、切ないのか。
わけのわからない感情が波のように押し寄せてきて、伝えたい言葉がうまく声にならない。
「どうして? なんて聞くな。園田のこと、迎えに来たにきまってるだろ」
みっともなく涙が零れる。
髪もメイクもぐちゃぐちゃだ。
あまりにひどくて、顔が上げられない。
「…ひでえな、これ。裸足で走ったりなんかするから…。とにかく、足。どうにかしよ」
低くそう告げると、座り込んでうずくまる私の腕を掴んで蒼吾くんが軽々と抱き上げた。
私の全てを包んでくれる温かさに堪らなくなって、私から手を伸ばす。
蒼吾くんの首に強くしがみついて、大きな身体に顔を埋める。
「…蒼吾く…ん、ごめ…っ、ごめんなさい……」
喉の奥が詰まって、声が擦れる。
呼吸さえもうまくままならなくて、蒼吾くんの肩にぎゅっと額を押し付けた。
「……オレの方こそ、ゴメン。悪かった。
園田はなにも悪くねえ。勝手に腹を立てて、無茶して、突き放して…。オレさえちゃんとしてれば、あんなことにはならなかったのに──────」
その言葉に、必死で首を横に振る。
不安にさせた。追い詰めた。
それは、私のせい。
もういいと言うように優しく抱きしめられて、髪を、頬を、肩を撫でられる。
抱き上げられた身体がもう一度、地面に降ろされたかと思うと。
スローモーションのように、蒼吾くんの顔が近づいてきた。
吐息が唇にかかる。
──────キスされる。
そう思ってゆっくりと瞳を閉じたけれど、いつまでたっても、それはこなかった。
不思議に思い瞳を開けて蒼吾くんを見つめた私に。
蒼吾くんが優しくきいた。
「嫌じゃねえの?」
「……え?」
「一応、オレも経験あるからさ。園田の気持ち無視して、キスして泣かせたこと…。安部に無理矢理されて、またトラウマになってるんじゃねえかと…」
「嫌じゃないよ。蒼吾くんのは…ちっとも嫌じゃない……。
蒼吾くんこそ……嫌じゃないの? 他の人と、キスした私に触れるの」
「嫌なわけねえよ。 むしろ、キスしたくて、むちゃくちゃに抱きしめてやりたくて……我慢してる。そういうの、伝わってね?」
指が躊躇いがちに唇に触れた。
「切れてる」
「…? 切れてなんか──────」
そこまで言いかけて、慌てて口を噤む。
今さらだけど、思い出した。
安部くんの唇の感触。舌が口の中を這う行為。
無理矢理唇を塞がれて、キスされて。
どんなに押しても叩いても、力では適わなかった。
だから思い切り、彼の唇に歯を立てた。
それが自分にできる精一杯の抵抗だった。
私の唇には傷なんてひとつもない。
血の痕は、安部くんにキスされた証──────。
「擦るな。つか、噛むなって! 傷つくから」
怒ったようにぐいと、顎を持ち上げられた。
蒼吾くんの指が私の唇を辿って、血の跡をぬぐいさる。
そのまま顔が近づいてきて、唇を舐められた。
「蒼…ッ」
その行為に驚いて、一瞬、身体を放し掛けた私を再度、捕まえて。
蒼吾くんが頬を包み込む。
逃げられない。
「ん…っ」
舌先でゆっくりと唇をなぞられた。
何度も何度も舌が唇を辿るのに、キスにはならない行為。
蒼吾くんの舌が余すことなく、私の唇に触れていく。
柔らかで熱い感触。
眩暈がした。
キスをしてるわけじゃないのに、息が上がる。
苦しい。
まるで傷口を舐める動物みたいな行為に耐え切れなくなった私は、恥ずかしさに首を振った。
「やだ…ッ蒼吾くん…っ、もういい、もう、いいから……っ」
「よくねえよ。オレがやなんだよ。
安部が触れた痕跡──────全部、全部、消してやりたい。だから…逃げんな──────」
何か言おうと口をあけたら、それが塞がれた。
蒼吾くんのキスに言葉が飲み込まれる。
優しく唇で触れて、角度を変えて。
離れかけた唇をまた引き寄せて、もっと深く口付ける。
私の上唇も下唇も、蒼吾くんのそれでなぞるように挟んで、甘噛みされて。
舌先を口内に突き入れ、深く、深く。
吸い付くように、噛み付くように、ただ唇を求められた。
「ん、んん……っ」
私の唇を余すところなく蒼吾くんの舌が彷徨って、角度を変えるたびに、深くなるキス。
息苦しさに唇が薄く開き、告げたい言葉も声に出来なくて、ただ唇を動かしてそれに答えた。
言葉なんていらない。
狂おしい程の恋情が、唇から伝わってくる。
どんどん私を解して溶かしてくれる優しいキスに、涙が次から次へと溢れて溢れて、止まらなかった。
「もう他のヤツに園田を触れさせたくない。園田に触れるのは、オレだけだ。……オレだけにして──────」
蒼吾くんの言葉に考えることなく必死で頷いた。
首に手を回して頬を寄せて口づけて。
もう。
何も考えられないほどに、蒼吾くんだけ──────だった。
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