横恋慕をほのめかしておいて、恋人に会いに行く?
バカにすんな。
大人をからかうのも大概に。
*
奏多が門をくぐったのは、郊外にある私立海星学園高等部。
小中高一貫教育の私立名門校だ。
中でも音楽科は、全国でも超有名レベルの学校だった。
校舎に入るわけでもなく、奏多は通いなれた校内をずんずん進んでく。
背が高いせいか、コンパスが長く歩幅が広い。
おまけに早足で歩くもんだから、私も半分意地になって、必死でそれを追いかけた。
白樺の並木を抜けた先に、横長の白い建物が見えた。
等間隔で、同じような扉が8つ並ぶ。
ぱっと見は部室棟のような雰囲気のそれが、東西向かい合わせで建っていて。
東側一番左の扉の前で、ようやく足を止めた奏多が、私を振り返った。
「………どこまでついてくるつもり?」
「鍵を返してくれるまで」
「…あっそ。勝手にすれば」
ポケットから取り出した鍵を奏多が回したら、カチャリと軽い音をたてて、扉が開いた。
私がいることを気にかけるでもなく、その中へと姿を消す。
逃してなるものかと一歩踏み込んだ私の視界に、大きな物体が映り込んだ。
黒く無感情なその存在に、思わず。
「───え?」
と、声が零れた。
踏み込んだ部屋は思ったよりも狭く、ひやりとしたコンクリート張りの部屋だった。
その部屋が普通よりも少し天井が高い理由は、充分に共鳴の得られる空間が必要だから。
「彼女に…会いにきたんじゃなかったの───?」
「そうだよ。この子が俺の恋人。俺の聖域。だから───、邪魔しないでくれる?」
奏多が私を見つめて、意地悪く笑った。
その部屋にあった物は、黒いグランドピアノ。
ピアノが恋人? かなたの聖域? また何の冗談を───。
喉元まで出かかった言葉がそれ以上続かなかったのは、それが嘘じゃないって思い知らされたから。
重く頑丈な蓋を開けた後、黒と白が一定に並んでいる鍵盤に指を乗せて、すぅと、深く息を吸い込んだ。
次の瞬間、奏多の恋人が音を奏でた。
澄んだ音。
力強く重みがあって、なのにどこか繊細で、どこまでも音の波が広がる気がした。
導き出される音色に、心が震える。
初めて間近で見た時、綺麗だって思ったかなたの指が音を導き出す。
………すごい。
あの指は、ピアノを弾く指だ──────。
「………さん、とわさん…!」
「え?」
「そこ、閉めてくれる? 防音設備の意味、ないんだけど」
そう言われて初めて、自分が夢中でその音に聞き入っていたことに気づく。
音の波に圧倒されて、声も出なかった。
「…奏多、すごい。キミ、天才だわ……」
こぼした本音に、一瞬、目を丸くして、何か言いたげに開いた口が、それを飲み込むように再び閉ざされた。
「………なに?」
「とわさんって、俺のピアノを聴きに来たわけ? 当初の目的、忘れてるだろ?」
変な人だな、って奏多が笑う。
「いいの。それぐらい、感動したんだから。奏多は……わざわざ、ピアノを弾くために学校に来たの?」
「悪い?」
「ぼんぼんなんだからさ、ピアノぐらい家にあるでしょ?」
こんな練習用なんかじゃなくて、コンサート・グランドランクのピアノが、あの家にはありそうだ。
「俺が家で弾くと、嫌がる人がいるから。ここだと誰にも邪魔されない」
そう言ってまた、新しい曲を弾き始める。
すごい集中力。
鍵盤に指を乗せたら、周りの音なんて全然聞こえてない、見えてない。
ピアノの音だけが、彼の世界。
私は目的も忘れて、奏多が奏でる音に聞惚れた。
この子の音は、心が震える。
「──────いつまでそこにいるつもり?」
4、5曲ほど弾き終えたところで、奏多がメロディーを奏でたままに、私に聞いた。
「鍵を返してもらうまでに、決まってるでしょ」
「持ってないっていったろ?」
「ここの鍵を出した時、あの束の中に私の鍵も入ってた。違う?」
「…目ざといな」
「返して。もらったら、おとなしく帰ってあげるから」
フッとかなたが笑ったのと同時、音が途切れた。
鍵盤に乗せた指が旋律を止めて、座った位置から静かに私を見上げて笑みを浮かべる。
「……何がおかしいの?」
「とわさんは、分かってないなぁと思って」
「…どういう意味?」
「酒井さんを信じるなんて言ってるくせに、やってることが間逆だってこと。そんなこともわからないの?」
弾くことをやめたかなたが、椅子を正面から座りなおして、私の方を向いた。
「信じてるならさ、何で酒井さんに相談しないんだよ? 社員名簿調べて、男のテリトリーにひとりで乗り込んできたのは、やましい気持ちがあるからだろ? 自分が非力なのはわかってるはずだ。高校生だって、男に力では適うはずがないって───昨日、ちゃんと分からせてあげたんだから」
「私を抱きしめたあれは…牽制、だったの……?」
「とわさんが大人大人って、主張するから、大人である前に女であることを、わからせてやっただけ。
男の怖さを十分思い知ったはずなのに、それでもひとりで来たってことは、心のどこかで酒井さんのこと、疑ってる自分がいるからだろう? 本人に確かめる勇気がないから、俺に会いに来た。現実を見ないふりして、さっさと終わらせようと思ってる。違う? とわさんこそ、鍵という口実があって、よかったね」
「……っく!」
何でも分かったような物言いに、私はカッとなって思わず手を振り上げた。
「───殴れば? 殴った時点で、俺の言ってることが正しいって、自分から認めることになるよ。そんなこともわからないの?」
勝ち誇ったような顔をされて、一瞬で躊躇してしまった私の手を奏多が捕まえた。
この子は、私の心を先読みする。
だからだ。
この子の前で冷静になれないのは。
確かに、奏多が言ってることは間違ってない。
それでころか、私がひたかくしにしてた心の黒い部分を全部見透かされて、暴露された気分だった。
私は、心のどこかで後悔してた。
タケルとのこと。
どうしてあの時、自分から手を離してしまったんだろうって。
あのままセーラー服の彼女が来たことなんて忘れて、タケルが浮気してることなんて気づかないふりして、あのまま付き合っていたのなら……。
私じゃなくて、高校生の彼女と終わりを迎えて、タケルと元に戻れたのかもしれない。
幸せになれたのかもしれない。
涙で枕を濡らしながら、何度も何度も想像した。
もちろんそれは朝になると、自分の選択は間違いではなかったって思うけれど、どうしても夜になるとダメだった。
寂しすぎて、手を離してしまったことを後悔した。
今更、タケルに未練があるわけじゃない。
私は、ともひろと同じ事を繰り返すのが怖くて、現実を見ないふりして、向き合うことから逃げた。
聞かなければなかったことにできる、知らなければ見なかったことにできる。
ともひろを信じてるからじゃなくて、自分に都合の悪い現実から、さっさと逃げ出したかっただけだ。
そういう私のずるい部分を、この子は簡単に見透かしてしまうから、怖くて仕方がなかった。
「………図星をつかれると、しゃべらなくなるのは、とわさんの癖? 」
奏多が見透かしたように笑う。
「わたしは…っ。私は───、何を言われようと、ともひろを信じてる。信じるって、決めたの。
奏多から聞くことなんて、何もない。鍵をもらって、それで終わりにするつもりで………」
喉の奥がつかえて、言葉がそれ以上、続かなかった。
きっと私の顔は、半泣きだったんだろう。
奏多が少し困ったような顔をして、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「手」
「…なに?」
「手、出して。鍵、返すから」
金属音が鼓膜を掠めた後、目の前に鍵が差し出された。
にごった音は、さっきまで心地良く響いた、かなたのピアノの音とは全く違う音色。
手のひらに落ちた確かな感触に安堵して、それを二度と手放さないように手の中に閉じ込めた。
「…もう、奏多には二度と会わないから。さよなら」
別れを告げて、そこから立ち去ろうと踵を返した瞬間。
「───っ、きゃぁ……ッ!!」
肩を強く捕まれたかと思うと、ドンと体を押された。
不意をつかれてバランスを保てなくなった私の体は、すぐ後ろにあったソファに足を取られて、その上に転がる。
「…っ、た……ぃ。もう、なにすん───きゃ…あッ!!」
再度、肩が捕まれて、ソファの上に押し倒される。
慌てて体を起こそうとしたけれど、できなかった。
私の両腕に奏多の手が重なって、ソファに押し付けるように組み敷かれたからだ。
無感情な視線で見下ろされて、背筋がゾクリと震えた。
「な……に……」
「ホントわかりやすい人だね。俺の読み通りに行動してくれるから、すごく扱いやすいんだけど」
奏多の顔がぐっと近づいて、声が間近に聞こえた。
「や、ぁ…ッ」
耳元にわざと息を吹きかけるように囁かれて、私の身体がビクと震え上がる。
「…甘ったるい声。その声でいつも、酒井さんのこと誘ってんの?」
「何を───ていうか、どいて! また牽制のつもり!?」
「とわさんが揺らがないから、実力行使。───ねえ。酒井さんと、別れてよ」
「……え…?」
「アイツと付き合ったって、いいことなんてない。いつか捨てられるよ? 深入りして傷つく前に、別れといた方がいいって思わない?」
「なに……言ってんの…? どうしてそんなこと、言うのよ……」
「とわさんだってさ、酒井さんとの永遠を夢見てるわけじゃないだろ? いつかは別れが来る、そのことを初めからわかって付き合ってるんだろ? どうせ別れるのなら、早い方が傷つかなくていいと思うけど」
「なにが…言いたいのか……わかんないよ。奏多」
「手っ取り早く、俺にしとけば? 添い寝ぐらい、俺だってしてやれるよ。酒井さんがそうしたみたいに、寂しさを埋めてやれたら、とわさんは俺の事、好きになるんだろう?」
「…どうしてそれを───。…ッ!?」
私へと伸ばされた手が襟元にかかるのが見えて、体が強張った。
「……声、出すよ」
「───出せば? ここがどういう場所かぐらい、わかるだろ? 気丈に振舞ってるけどさ、とわさんって案外、脆いよね? 揺さぶれば黙ってられない。罪悪感で押しつぶされて、自滅するタイプ。どれぐらい大声を出せば外に聞こえるのか、試してみる?」
「……っ!!」
ワンピースのスナップがひとつ、奏多に外された。
さっきまでピアノを奏でていたあの指に鎖骨を撫でられて、ゾクリと背筋が震えた。
「奏多っ!」
思わず大きな声が、出てしまう。
「酒井さんは抱く時に、必ず痕を残す人? 自分の所有物だっていう自己主張の印。意外に独占欲、強いんだ。
こういう男ってさ、自分がつけた場所と数、覚えてるんだよね? ひとつ増えてたら酒井さん、どう思うかな?」
「や、だ……ッ、やめ───っ!!」
首筋に痛いほど吸い付かれた。
生暖かい唇の感触に肌が粟立つ。
首筋と、胸の谷間。
手首の柔らかい場所に、痕を付けられたのが分かった。
ともひろのものでない、紅い花が咲く。
「どうして…っ? どうしてこういうこと、するの…っ!? 奏多は、何が目的で……っ、離してよ…ッ!!!」
「───目的? とわさんのこと、めちゃくちゃにしてやりたいからだよ。酒井さんが大事にしてるものは全部、めちゃくちゃに壊してやりたい」
「なんで───ッ……!?」
その後の言葉は続かせてもらえなかった。
奏多の顔がぐっと近づいて、反論の言葉も拒絶も、悲鳴も。
全部、キスで飲み込まれた。
「や、ぁ…ッ、やめ───!!!」
奏多の唇が強く押し付けられて、舌が荒々しく唇の中に入り込んできても、動けないし逃げられなかった。
ともひろではない這うようなキスに、全身がひどく粟立つ。
やだ、やだ、やだ、やだ……ッ!!!
必死でもがいても、両腕をがっちりと固定された私は動けない。
行動がわかりやすいというのなら、これも全部、仕組まれたこと?
私がひとりで来ることも、諦めずにのこのこついてくることも、ピアノの音色に気を許して油断してしまうことも。
全部、全部、奏多の手の内───。
「…っつぅ…ッ!?」
思い切り歯を立てて噛み付いた。
気が緩んだ隙に、奏多の体を思い切り突き飛ばしてその場から逃れた。
逃げ出そうとした足が恐怖にもつれて、扉までは届かなかった。
はだけた胸元を隠すのが、今の私にできる唯一の抵抗。
「来ないで…っ。それ以上、私に近づかないで───っ!」
「今日はもう、しない」
ホールドアップとでも言うかのように、奏多が両手を挙げて肩の横で止めた。
「もう二度と、私に近づかないで! 関わらないで!!」
「うん。俺からはもう、近づかない。鍵も返したしね。でも───今度はきっと、とわさんの方から俺に会いにくると思うよ?」
「行くわけないでしょ…っ」
「どうかな?」
笑みを浮かべた奏多が、ピアノに置いたスコアから1枚のカードを抜き出した。
無言で私の前に差し出す。
数字の陳列が見えた。ケータイの番号だ。
「…奏多の番号でしょ。 そんなの、いらないから」
「裏はそうだけど、見てもらいたいのは表」
そんな風に言われて手渡されたら、見ないわけにはいかない。
恐る恐る、表をめくる。
奏多のケータイ番号が書かれたカードの表は、どこかのお店の名刺みたいだった。
「シーサイド・パーク・ホテル……?」
「アイツのこと信じてるっていうならさ、行ってみるといいよ。そこに。
何が真実なのか、自分の目で確かめればいい」
カードを手にしたまま、動けなくなってしまった私の背後で、扉が開く音がした。
背中を押されて、外へと押し出される。
「真実を目の前にして、見ないふりができるのならさ、それを俺に聞かせてよ。
待ってる───」
背後で扉の閉まる音が、ひと際大きく響いた。
レッドカードを突きつけられて、無理矢理ドロップアウトさせられた気分だった。
固く閉じたその向こうから微かにピアノの音が聞こえた。
かなたが奏でるそのメロディーが、心をざわつかせて、鼓膜を揺らしたまま離れなかった。
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