気が付けば私はタクシーに飛び乗って、その場所にいた。
車外に一歩踏み出すと潮を帯びた風が冷たく頬を撫でて、身体を寒さに震わせる。
「お客さん、それ。忘れてますよ」
運転手にそう言われて、シートに転がった1枚のカードを拾った。
───シーサイド・パーク・ホテル。
奏多に言われるままに来てはみたけれど、ここに何があるというの?
いくら女と一緒だって聞いたからといって、こことは限らない。
市内のホテルだけでもいくつあると思ってんの。
大体、どうして奏多がともひろの居場所を知ってんのよ。
あまりにも話が出来すぎる。
「……何やってんだろ、私は」
もどかしさに拳を強く握り締めたら、クシャッと手のひらの中で乾いた音がした。
あの子の言葉に確証もないのに、こんなところまで来て。
来たところで、踏み込む勇気もないくせに。
「馬鹿みたい…」
手のひらの中でくしゃくしゃになった紙切れが、風に飛ばされた。
木の葉が地面を舞うみたいに、くるくると風に踊らされたそれが、誰かの足元に引かかり止まる。
再び風に舞い上がりかけたそれに手を伸ばして、その人が紙を拾い上げた。
「信じてるって偉そうに啖呵切ったくせに、結局、来たんだ───」
そう言われてはじめて、声の主が奏多だと気づく。
「捨てるんならさ、シュレッダーにかけるとか…せめて家のゴミ箱にしてくれない? 裏に俺のケー番書いてんだからさ」
拾ったそれを私の前に差し出した。
「そんなもの、いらない」
奏多のケー番なんて必要ないから。
それに───こんな場所、二度と来るもんか。
唇を強く噛締めて、頑なにそれを受け取ろうとしない私に、呆れた溜息をひとつ零して、奏多が近づいた。
「俺と別れた後、何かあったの?」
「………」
「まあ、大体察しはつくけど」
一歩踏み出して、拾った紙切れを無理矢理、私のコートのポケットに押し込んだ。
距離の近さを意識した私の体が、ビクと強張る。
「なに? 警戒してる?」
「……してないわけないでしょ。あんなこと、しておいて」
「ふーん…。さっきと色、変えたんだね。口紅。あまり濃い色は、とわさんに似合わないよ?」
何もかも見透かしたように笑うから、腹が立つ。
「来なよ」
クイと、奏多が顎をしゃくった。
「見せたいものがあるからさ」
寒さにかじかんだ手が急に暖かくなって、それが奏多に手を握られたからだと気づいた時には、そのまま腕をとられて引っ張られた。
強く握られて、振りほどけない。
「奏多、やめて。私には二度と関わるなって、言ったでしょ?」
「関わるな? 自分から来といて、よく言う。
とわさんはここへ、何しに来たの? もしかしたら───って、まだ微かに残る可能性を確かめるため? まさかだろ」
急に足を止めた背中に、どんとぶつかった。
顔を上げたら、どこまでも見通すような瞳に見下ろされて、思わず息を飲んだ。
冷ややかに私を見下ろしたまま、奏多が言った。
「とわさんは、現実を受け入れる覚悟、あるの? ないの? 中途半端な気持ちのままで来たのなら、帰ればいい」
私はホント、馬鹿だ。
覚悟がないのなら、こんなところ、来なきゃいい。
このままうやむやにして、真実に蓋をして、見なかったことになんてできないくせに。
この子に諭されるまで、それが分からないなんて。
「───行くわ」
心を決めた。
このままにしてたって、不安はどんどん増殖するばかり。
何が現実なのかを受け止めるのは、私。
*
エントランスをくぐった瞬間、私は思わず息を飲んだ。
ロビーは8階まで吹き抜け。
回路式の通路からは海が望めるように、南側一面、ガラス張りのオーシャンビュー。
東西には6機のシースルーエレベーターが常時稼動していて、高級感を漂わせる。
雑誌の特集なんかでよく見かけるそのままの光景が、目の前に広がっていた。
今日が雨でなく、ガラスの向こうに広がる空がスカイブルーなら、もっと感動は大きかっただろう。
こんな高そうなホテル、私は入ったことがない。
格の違いにあっと息を飲む。
まさかこういう形で来ることになるなんて、思いもしなかった。
「とわさん、こっち」
奏多に言われるまま、吹き抜けのロビーを抜けて、エレベーターに乗り込む。
「何階?」
「28」
「28って───」
20階以上のボタンを押すには、カードキーが必要になっていた。
インペリアルフロアと呼ばれるデラックスやスイートがある専用のフロアだ。
「ちょっと待って」
奏多がポケットからゴールドカードを取り出して、手馴れた仕草でそれを差し込んだ。
「……何で奏多がそんなもの、持ってんのよ」
「興味ある?」
「言いたくないなら聞かないけど」
「…いちいち素直じゃないね、とわさんは。ここのホテル、城戸の持ち物。つまり───、うちの親父の。
酒井さんがここを利用すんのは、親父と知り合いで顔が利くから」
そう言いながら、奏多が鞄から数枚の紙を取り出して、私の目の前に差し出した。
「なに、これ……」
「宿泊者名簿。ちょっと拝借して、コピってきた」
差し出されたB5サイズの用紙に、今日の日付と共に、ともひろの名前と連絡先が記入してあった。
「こんなの……いくらでも偽装できる」
住所を調べて書き込めばいい。
筆跡なんていくらでも真似できる。
「言うと思った。じゃあ、こっちは? 名簿は簡単に偽装できるけど…あの人いつも、カード払いだから。履歴を調べたら、全部データ拾えるよ?」
突きつけられた現実に、ぐらりと足元が揺れる。
「いつもふたり。同じ部屋。何やってんだろうね、酒井さんは」
「………」
「とわさんが付き合ってる男は、そういう人。わかってる? 覚悟もないくせに、簡単に付き合ったりするからこういうことになるんだ」
認めざるを得ない状況を作って見せ付けて、奏多は何を望むのだろう。
最上階でエレベーターが止まった。
フロアに足を踏み出すとヒールが軽く沈んで、ぐらりと揺れた。
通路の隅々まで敷き詰められた絨毯は頬を摺り寄せたくなるほどふかふかしていて、慣れない高級感が足に纏わり付いて、ひどく歩きにくい。
急に奏多が立ち止まった。
絨毯ばかり気にしていたから、学生服を着た背中にどんとぶつかって顔を強く打つ。
「…ったぁ……。なんで急に、立ち止ま──────」
「シッ。黙って」
口元を塞がれて、スタッフルームと記された扉の向こうへと体を押し込まれた。
そのまま、長身の体が覆いかぶさって私を隠す。
「なっ…!? 奏……ッ!!」
「しゃべんな、って。向こうからは見えないとは思うけど───念のため。こっちも見つかるとやばいから」
「なにが…っ」
「通路の西。酒井さん──────」
ドクリと鼓動が跳ねた。
覆いかぶさった学生服の隙間から見えたのは、赤茶けた髪と眼鏡をかけた横顔。
今朝、ベッドの傍らで袖を通したダークグレイのスーツはそのままに、仕事という嘘を纏って、ともひろがそこにいた。
彼のすぐ隣で、柔らかなロングヘアが揺れる。
細い腰元に手を回した仕草から、仕事とは無関係な間柄だというのが窺えた。
彼女に寄り添うように微笑むともひろは、私が知るどの顔よりも穏やかだった。
エレベーターの前で、女がともひろの襟元に手を伸ばした。
「ネクタイ、曲がってる…」
「…ああ。頼む」
私の目の前で大きな背中がゆるいカーブを描く。
いつも完璧で人に甘えることのないともひろが、こんな風に誰かに気を許すところなんて初めて見た。
彼女の手馴れた仕草と、穏やかなともひろの横顔。
それは、昨日今日の関係ではないことを物語ってる。
深い付き合いなのは一目瞭然だった。
音もなくエレベーターの扉が閉まり、私の視界が遮断される。
すべての幕を下ろすように、奏多が大きな溜息をついた。
「…これでわかったろ。俺が言ったのは、嘘じゃなかったって」
もう、何も言えなかった。
あんなの見せ付けられたら、認めたくなくても現実を受け入れるしかないじゃない。
「………うん」
「うんって、それだけ?」
「いけない?」
私は笑う。
「意外とあっさりしてんだね。もっと取り乱したり、泣きじゃくったり…そういうこと、すると思ったのに」
「それでなかったことにできるのなら、喜んでそうする。でも、そうじゃないから」
奏多の胸を押し返して、腕からぬり抜けた。
真っ直ぐエレベーターまで歩いて行って、1階で止ったそれを呼び戻す。
「……追いかけるつもり?」
「まさか。帰るに決まってるでしょ。奏多とも───もう、会うことはないから」
現実を見せ付けられて、ここにいる意味がどこにあるんだろう。
来たばかりのエレベーターに乗り込んだ。
余裕を見せて、バイバイと手を振る。
とわさん───と、何かを言いかけた奏多の口元が見えたけれど、聞こえないふりした。
これ以上話したら、みっともなく泣きそうだ。
扉が閉まったとたん、小さな部屋に満ちた微かな残り香に気づく。
独特なクセのある硝煙の匂い───ともひろのだ。
それに混じってふわと香る甘い香りに、吐きそうになって口元を覆った。
ともひろはいつも、エレベーターでふたりきりになるとキスをしてきた。
記憶の中で、ともひろの甘い口付けを思い出す。
そんな今更のことを何度も。
絡みつくような視線も、唇から伝わる情熱も、吐息の合間の甘い囁きも。
今朝までは私だけのものだって、信じて疑いもしなかった。
あれは全部、嘘だったの───?
ともひろはここで、私じゃないあの綺麗な女と、あんな風にキスを交わしたの?
私に触れたその手で髪を撫でて、私にキスしたその唇で、愛してると囁くの?
私じゃない他の誰かと、何度も何度も──────。
そう考えたら、ぱたぱたといくらでも涙が出てきた。
うーっと、唇を噛んで涙を堪えても、次から次へと溢れ出てくる涙を止めることができなかった。
「な、んで…よっ、ともひろ……。なんで………ッ」
分からない。
二股かけといて、平気で愛してるなんて言えるその心が。
ともひろも、私じゃなくてよかったの?
タケルと同じように、浮気が本気になった?
わからない。
何が本当で、何が嘘なのか見失ってしまう。
私が付き合った人はみんな、大事な思い出を簡単に消したい過去に変えてしまう。
「うっ…く……」
エレベーターの壁に背中を預けたまま、ずるずると座り込んだら最後、立てなくなってしまった。
みっともない。こんなところで。
扉が開けばフロントだ。
人がたくさんいて、もしかしたらそこにまだ、ともひろがいるかもしれないのに──────。
扉が開いて、外気が中へと流れ込む。
開放された扉の向こうに人の気配を感じるのに、私はそこから立ち上がれなかった。
涙と、嫌悪感からくるひどい吐き気のせいで、顔を上げることさえできない。
人が乗り込んできた重みで、小さな部屋が軽く沈んだ。
うずくまる私の頭上に、声が降る。
「……どこまでアンタは、強がるんだよ? 大人だから、みっともないところは俺には見せられないとか言うんだろ? 立ち上がれないぐらいに傷ついてるくせに、平気なふりなんかすんなよ」
顔を上げないままそちらに顔を向けると、黒いスニーカーのつま先が見えた。
「行き先も押さずに、エレベータに乗るやつがあるか」
顔を上げたら、呆れた表情の奏多と目が合った。
偉そうな口調のくせに、私を見下ろす目元が少し優しい。
「とわさん、アンタ今、すげえ顔してんのわかってる? 泣くか我慢するか、どっちかにしたら?」
強がった手前、奏多に涙なんて見せられないと思った。
でも、みっともないところを見せてしまったら、もうどうでもよくなった。
うーっと噛締めた唇がみるみるうちに緩んだ瞬間、ボタボタッと涙が粒になってこぼれ落ちた。
どんどん溢れてくる涙に、ついに泣き声を漏らした時。
奏多がひょいと私を抱き上げた。
「ちょ……っ!?」
いきなりふわと宙に浮いた感覚に、いままで我慢してきたものが、「うっ」とえづく。
どうしよう。本気で気持ち悪い───。
唇に手を当てたままで、奏多の肩に顔を埋めた。
「…アンタまた───気持ち悪いんだろ? 居酒屋で晒したみたいな醜態は、勘弁して」
私を抱えたままずかずかと歩いて、エレベーターに突っ込んだのと同じカードを奥の部屋の扉にかざした。
まさか───とは思ったけれど。
カチャリとロックの外れる音が鼓膜を揺らした瞬間、さすがにヤバイと思った。
「…っ、いい! トイレ、行くから…!」
「この期に及んで、まだ言う? フロアで吐いたりなんかしたら───請求書、とわさんに送るよ?」
見下ろす奏多の顔はマジだった。
うっ、と言葉が詰まったと同時、涙まで引っ込んだ。
「頼むから。これ以上、世話を焼かせないで」
奏多の呆れ声が、広い室内にうつろに響き渡った。
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