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始まりはいつも、雨 13
友達のままではわからなかったことがたくさんある。
嫉妬してイライラして───それが『好き』っていう素直な感情のひとつだというのなら。
そんな感情、もういらない。




だって。


頭、おかしくなりそう。










ふたりとも雨に濡れてしまった。
ともひろが車を回してくる間に、私は一度、園舎にタオルを取りに戻ることにした。
濡れた衣服から滴る水が、ぽたりぽたりと床に落ちて染みを作る。
上はコートを脱げば幾分かマシになった。
けれど下はひどい有様で、ブーツの中までぐっしょりと雨の水が滴る。
しっとりと足に纏わり付くストッキングの感触が気持ち悪くてしょうがない。
着替えたい所だけど……自分だけ着替えてしまうのは、さすがに申し訳ないからやめた。
ざっとタオルで拭き取って、ストッキングを脱いだ素足にブーツを履いた。
早く話を終わらせて、あったかいお風呂に入ろう。
濡れた頭をタオルで拭きながら、そう心に強く誓う。
ともひろが戻って来るのは思ったよりも早く、外に出たときには黒のVOLVOが園舎から離れた目立たない場所に止っていた。


「……乗ってた人は?」
「帰った」
「……この雨の中を…?」
まだ結構、降ってるのに。
っていうより、土砂降りに近い激しい雨が、今もなお降り続いていた。
「小さな子どもじゃあるまいし、傘があれば問題ない。電車だってまだある時間なんだ…礼は、またしておくよ。
それよりも……大丈夫か?」
「え?」
「随分、濡れたみたいだけど」

ともひろも車の中で、私と同じように濡れた上着を脱いでいた。
仕事用の分厚いコートは、私が着ていたものよりも随分と雨をしのいでくれるらしい。
濡れた髪だけが不自然なぐらいに、中に着ていたスーツは無事だった。


「どこかで着替えた方が───」
「すぐ終わる話なんでしょ? 大丈夫だから」
言ったそばから、クシュッと、小さなくしゃみが出る。
本当は、ガンガンに効かせてくれた暖房が、温かく感じられないくらい寒かった。
濡れた衣服が遠慮なく体温を奪って、体の芯から震えが上がってくる。
このままだと間違いなく、風邪を引いてしまう。
寒さに思わず腕をかき寄せた時、バサと何かが膝の上に投げられた。


「着とけよ。少し濡れてるけど……ないよりマシだろ」
ともひろのスーツのジャケットだ。
「着替える気がないなら、せめてそれは着てくれ」
ふわっと車内の空気が動く。
頑なに意地を張り続ける私の手から、ジャケットが奪われて、そのままそれで体を包まれた。


「風邪引いて熱を出したって、仕事は休む気ないだろ。変な意地とプライドで自分の首を絞めんな。
…それとも──────もうオレには、とわを心配する権利もないのか?」


切なそうに歪められた目で見つめられて、胸が詰まった。
なんでともひろがそんな顔してんのよ。
泣きたいのは、こっちの方なのに。


「いいから素直に着とけ。──────出すぞ。シートベルトして」

音もなく私から離れたともひろが、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
ジャケットに微かに残る体温と、ともひろの残り香に包まれて、鼻の奥がツンとする。
こんな時に優しくなんかしないでよ、バカ。
なにもかもどうでもいいやって、放り投げたくなってしまう。
ハンドルを握る横顔に、そっと視線を送った。
すれ違う車のヘッドライトが映し出すともひろの横顔は、切なくなるほど綺麗で、涙が出そうになった。
車内の芳香剤の匂いに混じって、微かな煙草の匂いが鼻腔をくすぐる。
狭い空間に満ちたともひろの匂いに、抱きしめられてるような錯覚が私を襲う。
会うと駄目だ。顔を見るとなおさら。
すぐ側にある体温に直に触れたくなる。
こんなまやかしのぬくもりなんかじゃなくて、本物を確かめたい衝動に駆られてしまう。
ダメだ。ダメだ。
早くこの人から離れないと、間違いなく私はともひろに飲まれる──────。
切なくて、苦しくて、ぎゅっと目を閉じた。





車は国道経由で見慣れた道を走った。
お互いに話しを切り出すきっかけを探して、探って──────それでも見つからずに、ただ押し黙ってそれぞれ違う景色を見つめた。
聞きたいことは山のようにあった。
でもそれを確認するのが、怖い。
自分から離れたくせに。
さよなら以上に怖いことなんて、もう何もないはずのに。


「…さっきとわを待つ間に、買っておいたんだ。飲むか?」
赤信号で停車した時、ともひろがおもむろに車のドアポケットから缶コーヒーを取り出して私に投げた。
スカート薄い布地を通して、スチール缶の熱がじんわりと伝わってくる。
あったかい。
「……ありがとう」
素直にそれを受け取った私に、ともひろが少しホッとしたような顔を見せる。
再び動き出した車内から、流れる景色を静かに見つめながら、それを握り締めた。
重い沈黙のせいで、いつもの車内が狭く息苦しく感じる。


気が付けば、家路への道を逸れ、知らない道を走っていた。
建物が少なくなって、倉庫や空き地ばかりの生活感のない光景が広がる。
金網の向こうに、等間隔に規則よく並んだライトが見えた。
滑走路だ。
てっきり家まで送り届けてくれているものだとばかり思ってた私は、驚きに顔を上げる。
「どこ、行くの……? 私のアパートに向かってるんじゃ」
「話もしてないのに、このまま帰すわけないだろ」
ともひろはいいざま、ハンドルをきゅっとまわして、滑走路脇の路肩に車を止めた。
どこをどう走ってきたのか、気づけは空港近く。
闇にどこまでも伸びる滑走路のランプが、ぞっとするぐらい綺麗だった。
人気のないひんやりとした夜の静けさが、車の中まで漂ってくる。
ふいに空気が動いた。




「これ。オレは受け取れないから」

鍵だった。
私がさよならの代わりの置いていったまっさらな鍵。
私は頑なに首を横に振る。
受け取れないのは、こっちの方だ。
「……とわ。ちゃんと説明してくれ。これを置いて、黙って出て行った理由をオレに」
ともひろの目が切なげに歪められた。









「……理由? それを私に、言わせるの……?
奏多からネックレスを預かったのなら、もう聞いてるんでしょ? 全部、知ってるんでしょ? 私が黙って出て行った理由なんて、とっくにわかってるくせに…っ」












「……リオコのことか」













しばらくの沈黙の後、ともひろが重そうに口を開いた。





「……リオ…、コ?」







「見たのか。オレが彼女と一緒にいるのを──────」






心が、一瞬で真っ黒になる。
言葉の途中で舌が痺れたように動かなくなった。









「……認めるん…だ。あの日、彼女とホテルにいたこと…」


諦めたように呟きながら、弱い笑みを浮かべた。
ともひろが口にする色めいた女の名前に、見えない嫉妬が溜まっていく。
あの日、女といたことを否定しようともしない。言い訳すらしない。
簡単に認めちゃうんだね。
潔すぎるよ、ともひろ。






「仕事だって言ったのは、嘘だったの…? 私を好きだっていうのも、全部全部、嘘だったの!? 
私が…っ、タケルとどんな理由で別れたのか、ともひろが一番よく知ってるくせに……っ、どうして同じことをするの? 繰り返すの? どうして……っ!!」


辛くて、悔しくて、唇を噛締めた。
どす黒い激情に呑み込まれる。
リオコって誰? いつから関係があるの? どうして仕事だって嘘をついてまで、その人と会うのよ?
二股かけられるぐらいなら、きっぱりとふられた方がマシなのに。
聞きたいことは山のようにあるけれど、それ以上、声になって出てこなかった。
裏切られたことが痛くて辛くて、感情が暴走する。





「仕事だと嘘をついたことは謝る。リオコのことは、いつかとわにも話さなければならないことだった。そのタイミングを計って、自分勝手に伸ばして……とわを傷つけてしまったことも。すまない。
とわ……彼女、リオコは──────」

「私の前で、私以外の女を、そんな風に呼ばないでよ…っ!!」


気が付けば半ば叫ぶような形で、ともひろをきつく睨みつけていた。
溜まっていく嫉妬に冷静さを失って、感情が暴走する。
息を詰めたようなともひろと視線が交わった途端、我に返る。
恥ずかしかった。
自分から別れを切り出したくせに、感情的になってしまう自分が、どれだけ惨めで恥ずかしいことをしているのか。
悔しさに唇を噛締めて、下を向く。
そうでもしなきゃ、零れそうな涙を誤魔化しきれなかった。
ふいに、シートベルトを外す金属音が鼓膜を掠めた。











「──────そういうお前こそ。奏多って何だよ……? 城戸と、名前で呼び合うほどの深い関係か?」




ハッとして顔を上げた瞬間。
近くに迫ったともひろと目が合って──────あっという間に、腕を取られた。
「…っ!?」
驚きに浮いた足から缶コーヒーが転げ落ちる。
瞬間、乱暴にシートが倒された。
構えてなかった背中に鈍い衝撃が走り、慌てて起こそうとするその上に、ともひろが覆いかぶさる。



「やだ、っ! とも、ひろ……っ!?」

私へと伸ばされた手がシャツのボタンに掛かるのが見えて、息を飲む。
精一杯の抵抗を子どもをいなすかのように簡単に抑え込まれて、器用にボタンを上から外された。
雨に濡れたシャツが乱暴に押し開かれた。
スカートの下に潜り込んできた手が躊躇いもなくそれを捲し上げて、太股に触れる。
指が素肌をなぞって、上へ上へと這い上がってくる。
ビクと体が跳ねた。
首筋、鎖骨、そして露わになった胸元を、熱い手のひらが滑る。
「なん、で…っ、こんなこと…っ!! ともひろ、ッ──────やぁ…ッ」
甘い疼きに声がこぼれた。
何かを確かめるように体を這う手の動きに、ぞくりと腰を浮かしかけて、再び声を上げそうになった時。
その手が止まった。















「──────寝たのか。城戸と」




怒りを噛み殺した低い声だった。
静かな怒りに、ジンと空気が震えたような気がして、怖さが這い上がってくる。
冷たく見下ろすともひろと視線が交わった瞬間、背筋がゾクリと震えた。







「オレが、リオコと一緒にいるのを見たから、お前はアイツに、体を許したのか─────」



「ちが…っ!! そんなこと、してな──────」
「だったらどうして!! ……こんな場所、裸になって抱き合うようなことでもしなければ、つけられる場所じゃない!!」






キスマークのことを言ってるんだというのは、すぐにわかった。
ともひろが探るように私の体を辿ったのは、奏多がつけた痕。
他の男に触れられたという印。
きわどい場所に何箇所もそんなものがついていたら、声を荒げたくもなるだろう。
でも。
仕事だと嘘をついて、違う女と蜜月を重ねていたともひろに、私を責める資格なんてない。







「───キスはされた。私も、それに応えた。
でも……それ以上の事は、なにもしてない。なにも、なかった……!!」


しようって言われた。
ともひろを過去にする気があるのなら、付き合うから。
そう言って優しく抱きしめてキスをくれる奏多に、一瞬、流されそうになった。
いたるところにつけられたキスの痕は、その時出来たものだ。
かさぶただらけの心の隙間に染み込んでくる優しい言葉に流されて、キスを受け入れてしまったのは事実。
本当は、ともひろを責める資格なんてない。
だから、会えなかった。
鍵を返したのは、ともひろばかりが悪いからじゃない。
ほんの一瞬でも、どうなってもいいやと思ってしまった自分の甘さが、バカで情けなかったから──────。


「浮気されたからって、じゃあ私も…なんていう気になるわけ、ないじゃない……っ」

女は受身だ。
感情に流されて無茶をして、後で傷つくのは自分。
男は経験の数だけ株が上がるのかもしれないけど、女は逆。








「私は。ともひろみたいに気持ちがないのに、誰かと付き合ったり、好きでもない男と寝たことなんて、一度もない。馬鹿にしないで」



好きでもない男と肌を合わせるのは、自分の価値を下げるだけだ。
そういう後悔だけは、まっぴら御免だ。



ともひろが、震えるような息を長く吐いた。
「じゃあ……なんで、城戸とこういうことになったのか。オレにわかるように説明してくれ」
「……きっかけは───鍵だった。合コンの席で私が落とした鍵をあの子が拾ったのに、返してくれなくて。それで…取り返すために自分から会いにいったの」
「そんな恐喝まがいのことをされて、何でオレに相談しなかった?」
「あの子に確かめたいことがあったからよ」
「確かめたい…こと?」
「……言ったのよ。あの子。ともひろに私以外の女がいるって。だから別れろ。傷つく前にとっとと身を引けって」
「それをそのまま信じたのか?」
「最初、何を言われたのかわからなかった。何バカなことを言ってるんだろう、そんなはずなじゃないって、信じようとしない自分のどこかに、迷いみたいなのが生まれて……確かめたくなった。信じてるなんて言いながら、私バカだよね。
でも……あの子が言ったことは、間違ってなかった。事実だった。見たのよ、私。ともひろがホテルで女の肩を抱くのを。寄り添うのを。心が抉られるかと思った。──────なんで…? なんで……よ…っっ!!!」


ちからいっぱい、拳をともひろの胸にぶつけた。
感情を全部ぶちまけるみたいにして、ドンドンと叩く。
そんな力じゃ怯みもしないともひろの逞しさがまた憎らしくて、何度も何度も強く叩いた。
馬鹿みたいに。












「なん、で………ッ!!!」


焦点がぶれて、ともひろの顔がよく見えなかった。
涙腺が壊れた。
バカみたいに涙が溢れる。
悔しさを全部ぶちまけるみたいにして、大きな胸にずるずるとすがり落ちた時。
肩を強くつかまれた。強引に顔を上げられる。
ごつごつした無骨な指が、肌に食込む痛さに思わず顔を背けた時、ともひろが息を飲むような力強さで抱き寄せた。
「嫌だ。放して…っ、放してってば……っ!!」
力任せに拒絶する私の手が押さえつけられたと同時だった、唇が塞がれたのは。




「や───っ…」

 噛み付くようなキスだった。
片方の手で肩を押さえつけられ、もう片方で後頭部を引き寄せられる。
強引に唇を割って入ってきた舌に、激しく舌の根を吸われて脳の奥が白く霞んだ。
目の奥が痺れて涙が込み上げてくる。
燃えるような熱い舌が口の中を這って、きつく私の唇を吸う。
「ぅ、い…や……っ」
眩暈がした。
獣のような乱暴な吸い付きに、唾液が顎を伝って胸に落ちた。
腰に巻きついた力強い腕が、逃げることをさせてくれなくて、息苦しさに私は何度も首を振った。
ともひろは角度を変えて私に何度も口付けて、強く体を抱きしめてくる。
ようやく離れた唇はそのまま熱い息を頬に吹きかけながら、まるでうわごとのように言葉を繰り出した。










「──────オレはとわが好きだ。その気持ちに嘘も偽りもない。


オレが今までしてきたことを思えば信じられないのも、疑われるのも、当然かもしれないけど……オレは、とわ以外の女に愛の言葉を囁いたことなんて、一度だってない。
好きだなんて告げたのは、後にも先にもおまえ一人だ。断言してもいい。浮気もしてない。本命はとわだけって、自信を持っていえる。




…だけど──────」







言葉が途切れた。
辛そうに、切なそうに歪められた視線が私から離れて、目を伏せた。












「………すまない、とわ。オレには、親の決めた結婚相手が……、いる」







「……え?」









「親が酒井の為に決めた、婚約者。とわがホテルで見た彼女がそうだ───」











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とわの彼方に comments(7) -
始まりはいつも、雨 12
永遠を望んでたわけじゃない。
でも、その恋がいつか終わりを告げるものならば。
少しでも長く、そばにいさせて。






カタカタ、という音で目が覚めた。
情事の後の気だるい体を身じろがせて、ぼんやりする意識の中で、私はいつものように隣を探る。
シーツが冷えてる。
ベッドは乱れていてそこにいた形跡はあるけれど、だいぶ前に起きたようだった。
「……仕事?」
煙草を口にくわえたまま、少し難しい顔でキーボードをたたいている横顔にそっと声を掛けた。
「──────ああ。わり……うるさかったか?」
「ううん、平気」
「すぐ終わるから。寝てていいよ……つか、先にシャワー浴びてくる?」
「ともひろは? 浴びたの…?」
「まだ。ひと段落ついたらオレも行く」
ぼんやりと視線を泳がせたリビングの床には、昨夜着ていた服が散乱したままだった。
どうもともひろは、その脱ぎ散らかした中の1枚を羽織ってデスクに向かってるらしい。
不自然にできたYシャツの皺が彼らしくない。
シャワーも浴びる間もないくらい忙しいのなら、言ってくれればいいのに。

「……ごめんね」
瞬きもせずに、パソコンに向かうともひろの背中に小さく声を掛けた。
ストイックな横顔は、さっきまでの情熱的なともひろとは思えない。
別人だ。
「なんでお前が謝る」
「だって……仕事、たまってるみたいだから……」
「べつにそこまで切羽詰ってないから。着替えてないのは、シャワーを浴びてないから。浴びないのは、お前が起きてから一緒にって思っただけ。一緒にいられる時間は、少しでも無駄にはしたくないから。文句ある?」
眼鏡をずらして諭すように言われた。
あー。
そういう顔は反則だよ。
はだけた胸元がむちゃくちゃセクシーなんですけど。
ベッドの上の熱いともひろを思い出して、頬が赤くなる。
女より色気がある男ってどうなのよ。
モテるはずだ。

「じゃあ…待ってる。終わったら一緒に浴びよう」
基本的にあまりわがままは言わないようにしてる。
困らせるのは好きじゃないし、重い女にはなりたくない。
「了解。もうちょい待ってて。髪、洗ってやるから」
私の心を知ってか知らずか、そんな私にともひろはとことん甘い。
────── 今度付き合うなら、年上のうんと甘やかしてくれる男の人がいい ──────。
昔、そんなことを言ってしまったからなのかな。



ともひろの仕事が終わってから、ふたりでシャワーを浴びた。
約束通りともひろは私の髪を洗ってくれて…ついでに、乾かしてくれたりもする。
それぐらいは自分でやるからって断る私に、放っておいたらそのまま寝ちゃうだろって。
まるで子どもに言い聞かすような口ぶりで、私を鏡の前に座らせた。
普通、こういうのは逆なんじゃないかな。
甘やかしすぎだよ、ともひろは。




「──────そうだ、とわ。次の週末、会えなくなった。ごめん」
耳元で鳴ってたドライヤーの音が止んだ。
「仕事?」
「いや。酒井に帰るから」
ともひろは家に戻る時、実家とは言わない。
酒井って他人行儀な言い方。
なんだかよそよそしくて寂しい感じがする。
「ずっと帰ってないから、強制送還。話があるから、顔出せって」
「……どうかしたの?」
「将来的なことだろ。酒井のこととか、オレがいつ戻って引き継ぐか、とか」
「……戻るの?」
「さあ? オレにその時期を決める権限はないし、親父次第だな。まあ、顔見せれば納得するだろうから、ちゃちゃっと終わらせて……とわ───?」
胸にすがりつくように抱きついた私に、ともひろが驚いた声を上げた。



「なに? 週末会えないのが、寂しいの? お前」
「……うん」
「…うんって……。なんか、らしくないな」
「むっ。らしくないって、どういう意味よ?」

ドライヤーのコードをしまいながら、くくっと押し殺したように笑うともひろを、鏡越しに軽く睨みつけた。
「素直な返事も、とわの方から甘えてくるのも。めったに見られないから、何か慣れなくて」
ともひろが髪を撫でた。
耳の後ろをかき上げて、毛先を整えて、首筋を撫でてく指がくすぐったい。
「あー…。帰るのやめよっかな」
悪戯に耳元で囁かれた後、いとおしげにゆっくりと唇を吸われた。
私も目を閉じてともひろに絡みつく。




「──────ともひろ…」
「ん?」
「好き………」


声に出したら涙がこぼれた。
いつからこの気持ちが止らなくなったんだろう。
どうしようもなく、この人が好きだ。






「……阿呆。なんで泣くんだよ……?」

こぼれていく涙をそっと指ですくわれる。
この人はいつまでこうやって私の腕におさまっていてくれるのだろう。
力強い腕も、聞えてくる鼓動も、確かにそこにあるものなのに、ありえない未来を掴んでいるような空虚。
ほんのひと時だけ与えられた幸せのような気がして、時々、無性に寂しくてたまらない。
この幸せにどっぷり浸かっていいものか、漠然とした不安に飲み込まれそうになる。
ともひろが一層強く、私を抱きしめた。
その息苦しさが幸せだと思った。
こうしてずっと、強く抱きしめていてほしい。
私の不安も寂しさも、力強さに溶けて、全部消えてしまえばいいのに…。



どんなに今が幸せに甘く満ちても、私は頭の片方でいつも考えてた。
ともひろとの未来がないことを。
永遠がないことを。







はじめからわかってたことじゃない。














アラームの音で目が覚めた。





「……夢、か──────」


さよならを告げて3日。
こういう夢ばかりみて、目が覚める。
幸せだった頃の夢。甘いだけの自分勝手な記憶。
何を今さら。未練がましい。
夢に浸って、現実を見たくなくなる自分の甘さが、本当に嫌だ。
恋を失くした痛みは、放っておけば他の痛みに交じって消えていく。
しっかりしろ、私。













「あーあ。今日も遅くなっちゃったね」
園舎の戸締りを確認しながら、同期の梓が疲れた声を上げた。
年度末が近づくといつもこうだ。
普段の保育の準備に加えて、園や小学校に提出する書類の作成、卒園式の準備に、新入園児を迎える準備。
子どもが帰ってからの限られた時間で、それをこなすのは大変だ。
定時になんてとても。
タイムカードに記された時間は、今日も9時をとっくに回っていた。

「──────あれ。また雨……? 」
最後の鍵を閉めて園舎を出た途端、降り出した雨に心底嫌そうに顔をしかめながら、梓が傘を開いた。
「最近、ずっとじゃない。うっとおしい」
「あー…、ゴメンネ」
「…なんでとわが謝んのよ? もしかして───雨女?」
「うん。まさにそう。どこか出かけようとするといつも降るの。最悪でしょ」
「そういえばとわって、いつも傘、持ち歩いてるよね?」
「うん」
いつ降られても大丈夫なように、いつも鞄の中には折りたたみの傘を携帯してる。
荷物にはなるけれど、雨に打たれるよりはよほどいい。

「あー。お腹すいたー。夕飯、どこ行こっか?」
「梓。ごめん、今日も──────」
「泊まるの? あたしはいいけど……それでいいの?」
「うん……」
「ちゃんと話し合った方がいいよ? 終わるにしても、よりを戻すにしても、一度はちゃんと向かい合わなきゃ。このまま逃げ続けたら、本当に過去になっちゃうよ」
「もう過去だよ。今さら話すことなんてないから」

会わないって決めた。
だから鍵だってそのまま返してきた。
仕事だと偽った先で知らない女の肩を抱いていたともひろに、どんな理由があるっていうの?
今さら何を言われても、都合のいい言い訳にしか聞えない。
そんなの聞いたって、余計に惨めになるだけだ。



「でも。見ず知らずの男とホテル行ってそういうことになったアンタに、酒井くんを責める資格はないよ?」
「………わかってる」

それがわかってるから、ますます会えないんじゃないの。
私だって奏多と──────。
思い出したら、目の奥が熱くなってふちに涙が浮かんでくるのがわかった。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
泣くな。思い出すな。
ぐずと鼻を鳴らして目を伏せた私を見て、梓が溜息をついた。

「あーもう、わかったから。気の済むまで、うちに泊まりなよ。
ただあたしは…仲直りする気があるなら、時間はあまり空けないほうがいいと思っただけだから。もう、そんな顔しないで。あたしが泣かしたみたいじゃない」
困ったように笑って、梓が優しく私の頭をなでた。
「馬鹿だねー、とわは。そういう弱い部分も、ちゃんと酒井くんに見せればいいのに。
アンタって、男の前だと妙に強がるよね? 媚びてる女より、マシだろうけどさ、損だよ。男なんて甘えられてなんぼみたいなところがあるんだし……。
 たまにはみっともないぐらい、泣いてみなよ。すがってみなよ。かっこ悪くてもいいじゃん。嫉妬なんてさ、好きっていう素直な感情のひとつなんだからさ」
「………」
「ご飯やめて、飲みに行こっか? 朝までとことん付き合うよ」



気遣って優しく笑う親友に、私は何も言えなかった。
梓は気づいてる。
私がちゃんと向き合おうとしないのは、自分に臆病だから。
自分から別れを告げる私の潔さは、ひとりで突き進める強さじゃない。
自分がこれ以上、傷つかないようにするための、ずるさだ。
私はいつからこんなに弱虫になったんだろう。




ともひろから別れを告げられる前に、私は、逃げただけだ。













正門までくると、先に出てたはずの同僚が固まって何やら話し込んでいた。
世間話に花を咲かせるという風ではなく、表情が暗い。
「え。なに? どうしたの?」
ただならぬ雰囲気にお互いに顔を見合わせて、梓が声を掛けた。


「あれ、見てよ。門のところに車、止ってるの」
「夕方からもう、ずっとよ……。通報した方が良くない?」









「──────車…?」



それを遠目に確認した瞬間、ドクリと心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「……あ…」
本能的にそこから後ずさる。
嫌な汗が流れて、喉が引きつったみたいに声が出てこなかった。




「……とわ?」


サッと顔を青くする私に何かを察した梓が、自然な動作で私の肩を抱いた。
体の向きを変えて、ひそと声を潜めて耳元で囁いた。








「あの車、もしかして……酒井さん?」



梓の質問に、馬鹿みたいに何度も頷く。
なんでこんなところに。
保護者や同僚に見られるとまずいから、職場にだけは来ないでって、あれほどキツク言ってたのに。



「……どうしよう、梓。私──────」
「バカ。落ち着きなよ。顔に出てる」
動揺を隠せない私の腕を捕まえて、皆に気づかれないように少し離れたところへ連れてかれた。
気持ちが落ち着くようにと、優しい手が背中を摩る。






「はい、深呼吸して──────どう? 落ち着いた?」
「……うん…」
「で。本当にあれは酒井さんで、間違いないの?」


黒のVOLVO-V70。
車種も色もナンバーも、間違いない。
ともひろが来てる。

どうして?
さよならの代わりにおいてきた鍵の意味が、ちゃんと彼に伝わらなかった?
ううん。
勘のいいともひろが、その意味に気づかないはずがない。
だったらどうして──────。




「向こうもそれだけ、煮詰まってんのよ。本気だってことでしょ?」
「………」
「会いたくないならさ、裏口から出なよ。後のことはあたしが何とかしとくから」
「ゴメン梓…」
「いいって。早く行きな」
「うん。また後で連絡するから」



とにかくそこから逃げたくて、半ば駆け足で裏口に向かった。
鍵を返してから3日。
未だ、携帯の電源は切ったままだ。
ともひろからかかってくるのも、かかってこなくなるのも、どちらも怖くてずっと電源を入れられない。
家にも帰らず携帯も取らず、避け続けていたんだから、当たり前といえば当たり前の行動だとは思う。
でもそれは、普通の人だったらの話だ。
ともひろは違う。
いつだって彼は、恐ろしくはっきりと、過去の恋に線を引く人だった。
淡白で執着がなくて、去るものは決して追わない人。
──────酒井くんは冷たいのよ。
ともひろと付き合った歴代の彼女達は、口をそろえてそう言った。
高校時代、彼と別れた友達から嫌というほど聞かされたあの言葉が、何度も頭の中でぐるぐる回る。
だからこんなともひろは知らない。その意味に戸惑う。



裏門から出て、路地を曲がった。
車は依然、正門に横付けされたままでそれが見えなくなると、少しホッとした。
今日はやっぱり、外で食べるのはやめよう。
もしも出先で、ばったり会ったりなんかしたら最悪だ。
「梓にメール、しとかなきゃ……」
そう思って、ずっと切りっぱなしだった携帯の電源を入れようとした時だった。





「………っ、あ───!」

予想もしてなかった方向から、腕を捕まれた。
驚いた拍子に、さしていた傘を取り落とす。
暗闇に鮮やかな赤が転がるのが目に入ったと同時に、視界に映りこんだ黒い影に思わず息を飲んだ。










「とも、ひろ………」


高い位置から、鋭い視線が私を射抜く。


「やっと捕まえた」


心臓がドクンドクンとうるさくて、まともにものが考えられない。
なんでこんなところに。




「なんで……。だって、車は?」
門には車が止まったまま、動かした形跡はない。
「あれには同僚が乗ってる。カムフラージュだよ。お前、車見たら絶対逃げるだろうと思って先手、打っといた。
姑息な真似して悪かったけど…そうでもしなきゃお前、オレの話聞かないだろ」
低く呻るようにともひろが呟いて、私の手をきつく握りしめた。
納得のいく答えを聞くまでは、離さないつもりらしい。
声を荒げたりはしないけれど、静かな怒りが握られた手元から伝わってくる。
言葉にしない憤りがそこからじわりと伝わってくるようで、ゾクリと背筋が震えた。



「……何、らしくないことやってんのよ…」

「らしくない? こっちもギリギリなんだよ。
たいして仲良くもない同僚に頭さげて、プライベート晒して。そうまでしてお前を待ってたオレの気持ちぐらい、察しろ」



「……っ!!」

突然、視界が回転した。
ともひろに肩を掴まれて、向かい合わせにさせられる。












「──────逃げるのは、やましいことがあるからか?」






「え?」





ともひろの目が鋭さを増した。
射抜くような視線の鋭さに、動悸が激しくなる。
私の腕を捕んでないもう片方の手が、スーツのポケットをまさぐって、何かを取り出した。



「──────これ。預かった。城戸からだ」


深い声を低く響かせながら、それを私に突きつけた。
「あ」
短く声を漏らしてしまったことに、思わず口元を塞ぐ。
ネックレスだった。
あの日、私が忘れて帰ったはずの。
どうしてともひろが──────。





「お前、オレに聞きたいことあるんだろ? オレもある」


ぴしゃりと言い放った低い声。
唐突に真正面から目が合って、息が止りそうになる。
髪の毛先から雨の雫を滴らせ、鋭く見つめてくる視線に、背中がゾクリと震えた。
怖さが這い上がってくる。
言いたいことはたくさんあった。
けれど、それよりも何よりも自分への後悔の念がいっぱいで、私は瞳を伏せた。
ともひろが手を緩めた。


ひと際、強い雨が降りつける。
服も髪もぐしょ濡れで、凍ってしまいそうに身体が冷たかった。
静まり返った闇の中に、彼の呼吸音だけが吸い込まれていく。





「……一人で色々勝手に考えて、一人で勝手に結論を出すな」


深くため息をつきながら、ともひろが低く告げた。






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とわの彼方に comments(2) -
始まりはいつも、雨 11


何度、携帯を鳴らしても、とわはでなかった。
かれこれ1時間近く、タイミングをみつけてはコールしてるのに、全く応答がない。
「何をやってんだ、アイツは」
連絡が欲しいと、入れたメールもスルーだ。
風呂か?
まさか。
1時間も気づかないほど入ってるわけがない。
じゃあ、寝てるのか?
一度夢に落ちれば、なかなか起きられない眠りの深さはオレもよく知ってる。
「……仕方ないか」
約束よりも遅くなってしまった詫びと、出てるついでに、このまま外で飯でもって思ってたのに。
とりあえず今から戻ることだけをメールに入れて、携帯をパクンと閉じた。
今夜も家でふたりきり、甘い時間を過ごすのも悪くない。
ポケットからボックスを取り出して、煙草に火をつけた。
ゆるく煙を吐き出しながら、何を考えるわけでもなく、窓から外を眺める。
ここんところずっと雨だ。気がめいる。
昨晩からずっと降り続く雨は、一向にやむ気配を見せない。
ガラスの向こうの鼠の空へ煙を吐いたら、背後できぃと扉が開く音がした。
オフィス街の休日の喫煙室が穴場だつうことを知ってるヤツが、他にもいたか。





「煙草。1本もらえる?」


俺が返事をするよりも先にカウンターに転がしておいたボックスへと、その手が伸びた。
「──────城戸…」
振り返った先に立ってたのは、学生服に身を包んだ男。
アルバイトの城戸だった。

「…未成年はやめとけ。あまり前からやりすぎると、身体によくないぞ。つうか──────高校生が、喫煙室に来るな」
学生服でここ、入ってたらヤバイだろ。
さっさと出てけ。
一緒にいる俺までパクられたら堪らん。
「酒井さんなんか、もっと前からやってんだろ? 1日に何箱開けてんの? 30が来る前に肺が真っ黒になるよ」
「ほっとけ」
「人を未成年だつって諭すクセに、自分はもっと前からガンガン吸ってて、高校生の俺を人数合わせの為だけに、酒の席に引っ張ってって──────言ってることとやってることがアンタ、無茶苦茶だろ?」
「まぁ…確かにそうかもな」
軽く笑って、煙草を備え付けの灰皿に押し付けた。
ボックスから2本目を取り出したオレは、再度それに火をつけた。

「まだ吸う気?」
「ん? ああ…今日、あまり吸えなかったからな。──────で? 何の用?」
「べつに。何もないけど」
「煙草も持ってないヤツが、喫煙室に用はないだろ」
「酒井さんが見えたから、1本分けてもらおうと思ってね」
「お前、吸わないのに?」
笑顔で切り替えしたら、城戸の顔つきが変わった。


「…言いたいことがあるなら、さっさと言え。お前のくだらん世間話に付き合えるほど、オレは暇じゃない。時間の無駄だ」
半分まで吸った煙草を灰皿に押し付けて揉み消した。
コイツと話してると、煙草がまずくなる。
「…相変わらず──────嫌味なぐらい鋭いね、酒井さん。デキる男はここが違うって? すごいなー」
トントンと指先で自分の頭を叩いて、分かりきったような顔で城戸が笑う。
嫌な言い方をする奴だ。

「…傘、なかったのか?」
ふと見ると、城戸の学ランがひどく濡れていた。
雨の中走ったのか、泥はねしたズボンの裾が水玉模様だ。
何をそんなに急いだのか。
「……これ、使え。返すのいつでもいいから」
「酒井さんは? 外、まだ結構、降ってるけど」
「もう1本ある」
「…人と会ってたんだ」
「……お前には関係ない。──────じゃあな」
煙草のボックスをポケットに突っ込んで、顔も見ないで手を振った。




「ねえ、酒井さん」



帰りかけた背中を低い声で呼び止められた。

「ひとつだけ、聞かせてよ」

ドアに掛けた手を止めて、返事もせずに顔だけ向けたら、城戸が真顔でじっとオレを見据えていた。
感情を抑えたような声で、口を開く。












「──────どっちを入れてあげんの?」









質問の意味がよくわからなかった。

眉をひそめた俺に向かって、城戸が言葉を繰り返す。






「もしここに、傘が1本しかなかったとしたらさ、酒井さんはどっちを自分の傘に入れてあげるつもり?」





淡々と告げた城戸の顔から、笑顔は消えていた。
見つめてくる顔は無表情すぎて、何の感情も読み取れない。
ピリと緊張が走った。





「……なに言ってんの、お前……」



「しらばっくれなくてもいいよ。俺、全部知ってるから」







こっちの内心を知ってか知らずか、探るような視線を投げかけて城戸が言った。
ただ黙っているには息苦しい、中途半端な沈黙がその場に流れる。






「…馬鹿馬鹿しい」


目を閉じて、静かに呼吸を繰り出した。




「くだらない質問に付き合えるほど、オレは暇じゃないんだよ」



「逃げんの?」



「知らんものは、答えようがないだろ。じゃあな──────」






 「───帰ってもとわさん、いないよ」















「……なに?」





その場の空気を振るわせるほど、冷たく低い声が出たのに、自分でも驚いた。
微かな動揺を一瞬で見透かして、城戸が薄く笑う。



「……言いたいことがあるのは、そっちもだろ? さっき、俺を見つけた時の酒井さん、すごい顔してたよ。とわさんに聞いてたんだ、俺と会ったこと」
「駅で偶然、声を掛けられた。そう聞いた」
「偶然会った男としゃべっただけで、あの顔? 怖いなぁ」
挑発的な笑顔が、勘に触る。
神経を逆撫でる。
次第に不機嫌さを増していくオレに、城戸が薄く笑った。


「とわさんのことになると、こんなに感情を乱すんだ? 完璧な酒井さんの、すっごい弱点」
「ふざけんな。偶然だって? お前、故意に会いに行ったろ? どういうつもり? 何で、とわの周りをうろついてる? あの日、とわの様子が変だったのは、お前が原因か」
「……鋭いね。ちゃんと気づいてたんだ。
そうだよ。俺から会いに行った。わざわざとわさんの職場を調べてね」
「……なんのために…」
「惚れた女に近づくのに、理由がいんの?」



「──────惚れた……女?」





何言ってんだ、コイツ。













「人のものだと思うと欲しくならない? 人間の心理だよ。
手に入らないと思うとなおさら欲しい、今すぐ欲しい。人の女なんて特に、一度は味わってみたい禁断の果実。
酒井さんもそうだったんじゃないの? とわさんのこと」
「……なにを──────」
「親友の彼女だったんだって? どんな方法で手に入れたの?
まあ…確かにあの人、可愛いよね。特別美人ってワケじゃないけど愛嬌があって、強そうに見えるのに、どこか危なげで目が離せなくて。スタイルは抜群だし、男なんて何も知らないみたいな綺麗な体してるくせに、ちゃんと男を知ってて。抱きしめたらすげー柔らかくて、お菓子のように甘い匂いがする。
酒井さんがハマル理由、オレもわか──────ッ、く…っ!!」



城戸が一瞬、苦痛に顔を歪めた。
気が付けばオレは、城戸の襟を強く掴んで、乱暴に引き上げていた。
自分の方に引き寄せて、強く揺する。





「どういうことか、説明しろ」
低く威圧しても、城戸は動じなかった。
「抱きしめたって、どういうことだ? とわがいないってどういうことなのか、オレに分かるように説明しろ」
「……どこまでも余裕だね、酒井さん。内心、腸煮えくり返ってるだろうに、冷静を装って、感情表に出さなくて。声も荒げないでオレを追い詰めて」
「ふざけんな」
「ぐ…ッ」
本気で襟元を絞め上げたら、城戸が苦しげに言葉を詰まらせた。
これのどこが冷静なんだよ。
高校生相手に、胸倉掴んでいきり立ってるオレのどこが。
手を緩めることをせず、ただ強く上から城戸を睨み付けた。
それでも城戸は怯むことなく、こっちを睨みつけてくる。
キイと微かな音を立てて、喫煙室の扉が開いた。
疲れた顔で入ってきたサラリーマン風の男は、一触即発なオレと城戸を目にした途端、慌てたようにすぐ扉を閉めて出ていった。
まずいところに出くわしたとでもいう顔つきで。



「……いいの、あれ。追いかけなくても。誰か呼びに行ったふうだけど。立場的にヤバイの酒井さんだよ? 俺、未成年だし」
「んなこと、どうでもいい。さっさと説明しろ」
「……普段冷静なぶん、キレると扱いづらいね、アンタ……」


軽く悪態ついた後、城戸がオレの手を強く払いのけた。
華奢に見えても高校生でも、男は男だ。
跳ねつけた手にも、オレを睨みつける視線にも容赦がない。
上等だ。
乱れた襟元を直した城戸が、そのまま学生服のズボンのポケットを弄った。
そこから何かを取り出して、オレに差し出す。





「──────これ。とわさんに渡しといてよ。忘れてったから」


キラリと光を跳ね返しながら、それがオレの手の中へこぼれて落ちた。
まるでスローモーションのように視界に入ったそれに、オレは大きく目を見開く。
弾かれたように顔を上げた。








「見覚えあるだろ、それ」









ピンクゴールドのクロスのペンダント。





とわのものだ。









「なんで、お前が──────」
「さっきまで一緒だったから。彼女と。シーサイド・パーク・ホテル。そこまで言えば、わかるだろ? 全部見て知ってるから、とわさん」
「お前ッ、どういうつもりで……!!」
「現実を見せてあげただけだろ? 何をそんなに怒ってんのさ」



俺の怒りに、優越感を帯びた口調で城戸が言った。







「──────ねえ、酒井さん。どうせあの人のことも本気じゃないんだろ? だったら譲ってよ、オレに」


















城戸と別れた後、急いでタクシーを飛ばした。
エレベーターを待つ時間さえまどろっこしくて、7階までの階段を全力で駆け上る。
さすがに、7階に辿り着いた時には息が切れた。
バレーをやってた頃なんて、これくらいのアクションへっちゃらだったのに。
体力が落ちてんのか、年を取ったのか。
はたまた城戸が言ったように、煙草の吸いすぎで肺が真っ黒になってんのか。
そんなどうでもいいことをオレは何度も頭の中で繰り返した。







「とわ!!」



おぼつかない手つきで鍵を開けた。





玄関に靴はなかった。
それでも俺は叫ぶ。




「とわ───ッ!?」





部屋は空だった。
温度も匂いも残ってない。荷物もない。
とわがこの部屋を後にしてから、随分時間が経過してることを肌で感じた。

「…くそ…ッ」
出ないとわかっていても、しつこく携帯を鳴らす。
何度コールしても応答はない。
もちろん、メールの返事なんてあるはずもない。
見てるかどうかも定かだ。
かわいい顔して、ケータイ真っ二つに折るぐらいの気丈な一面を俺はよく知ってる。
頼むからもう、それだけはすんな。
連絡が取れなくなったんじゃあ、たまらない。
「ちくしょう…っ、出ろよ……とわ!」
もう何度目になるかわからないリダイヤルを繰り返した時、聞き慣れたアナウンスが流れた。
電源が入ってないとか、電波の届かないエリアにいるとかいうあれだ。
さっきまで繋がっていたっていうのに。
故意に電源を落としたっていうのが伝わって、ますますオレは苛立った。
とわは完全にオレを拒絶するつもりだ。
「…話ぐらい、させろよっ! あの馬鹿ッ!! 」
力任せにテーブルを叩いたら、何かが跳ねて床に転がった。
キン、と高い金属音を響かせて転がったそれを視線の端に捕らえて、オレは一瞬で動けなくなる。
心臓が抉られたかと思った。







鍵だった。
オレがクリスマスにとわにプレゼントしたはずのこの家の鍵。
『合鍵はポストの中にあるから』
たったひと言、走り書きのメモが床に舞い落ちた。
さよならの代わりにとわが残していったまっさらな鍵は、使われることのないままオレの手元に舞い戻る。




「理由も聞かずに、勝手に幕を下ろす馬鹿があるか──────ッ!!」


力任せに壁を殴りつけたら、ベコッと鈍い音を上げてあっけなくそこに穴が開いた。
オレがどんな覚悟でこれを渡したのか、知りもしないくせに!
握り締めた拳が怒りに震えた。



とわの気持ちは手に取るようにわかる。
昼間、見たであろう事実をどう受け止めて、どれだけ傷ついたのかも。
今までオレがしてきたことを思えば、それぐらい容易に想像できた。
オレを信じられなくなった。タケルの時と同じ。裏切られた──────。
見ないふりして、現実に蓋をして、なかったことにしてしまえるほどアイツは器用じゃない。
人前では簡単に泣けないプライドの高さも、ひとりだと朝まで泣いてしまう心の弱さも、オレは全部知ってるから。
『彼女』のことを黙っていたオレが悪い。
だけど──────。


「…くそっ……!」




床に転がった鍵をひっつかんで、オレは家を飛び出した。







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とわの彼方に comments(2) -
始まりはいつも、雨 10

部屋に入ったらすぐにバスルームに連れてかれた。
宙に浮く感覚に吐き気を加速させた私は、我慢の限界を超えて吐いてしまったのだ。
エレベーターで吸い込んだ甘ったるい匂いが身体中に染み付いてるみたいで、気分が悪くて仕方ない。
体に入った全てを吐き出すみたいにして、ひたすら吐いた。
全てを吐き出しても吐き気は治まらず、私はしばらくそこから離れられなかった。
「──────大丈夫?」
奏多が背中をさすってくれる。
ああ。すっごく情けない。
なんかもう、最近こんなのばっかだ。


「服、脱いで」
「…え?」
「洗うんだよ。さすがに弱ってる人をどうこうしようとは、思わないから。早くして」

便器の前でへたってる私の服を有無を言わさず剥ぎ取って、洗面台に投げた。
奏多も着ていた学生服の上着を脱いで、同じように投げる。
ああ、私が吐いて汚してしまったから。

「ゴメン……」
「素直に謝られると気持ちが悪い。謝る前に臭いの、何とかしたら?」
奏多の姿が奥に消えて、キュッとコックをひねる音が聞えたと同時、水音がした。
むんと上がってくる蒸気に、バスタブに湯を浸していることがわかる。
服の代わりにバスローブが投げられた。

「……俺、服の始末してくるから、気分悪くなったら呼んで」
奏多がこんな気遣いをできるなんて意外だった。
生意気な高校生──────としか思ってなかったのに。
ほんの少し見直した。

「ホント、最悪だよね。私…」
下着だけの姿で便器にうつ伏す自分は本当に情けない。
しかも数回会っただけの男とふたりでホテルの一室にいるなんて、梓が知ったら激怒だろう。
理由はどうであれ、軽薄すぎる。
バスローブを手繰り寄せて、顔に押し付けた。
柔らかい繊維の感触が心地良くて、ほんの少し気持ちがほぐれるような気がした。
寂しいときの優しさは堪える。
今度は下手に流されないようにしなきゃ。
吐き気が幾分かマシになった私は、のろのろと立ち上がって下着とアクセサリーを外した。
バスタブから溢れる寸前でコックを閉めて、軽くシャワーで汚れた髪や肌を洗い流す。
ゆっくり足を浸して、湯船に浸かった。
温かい。


「すごいなー…。こんなお風呂、入ったことないや…」

大理石の広いバスタブ。
もうひとつの浴槽はジャグジーかな。
テレビまで付いてるなんて、どこまでも贅沢だ。
おまけに、大きな窓の向こうはオーシャンビュー。
やまない雨が湯気で白く曇った向こうで降り続く。
まるで空が泣いてるみたいだと、呼吸ができるギリギリのラインまでどっぷり湯に浸かりながらうつろに外を眺めた。



「結局、どこにも辿りつけなかったじゃないの……」

流されなければよかった。
こんな思いをするくらいなら、ラインなんて踏み越えなければよかった。
そうすれば友達のままでいられたのに。
「あーあ。馬鹿みたい…」
あんな裏切りを見せられても、まだ友達でいたかったなんて思う自分が。
いつからこの気持ちが止らなくなったのだろう。

バスタブの中で膝を抱える。
狭い箱の中が白い湯気で満ちて、ガラスの向こうの景色を覆い隠す。
明かりが雨に滲んでぼやけた。
雨なのか、涙で滲んでいるのか分からないくらいに私は泣いていた。
ともひろはここからの光景をあの女と何度、見たの?
口付けを交わして、肌を合わせて、愛してると何度囁いた?
したくもない想像ばかりが胸を締め付けて、ポロポロと涙が溢れて止らなかった。
ともひろの本質は、はじめからわかってたことじゃない。
私ばかりが特別って、自分なら彼を変えられるとでも思った?
とんだうぬぼれだ。
あの人が、誰かひとりだけのものになるなんて、絶対にありえないこと。
ひとりの枠に納まってしまうような男じゃないことぐらい、はじめから覚悟してたでしょう?
何度自分に言い聞かせても、一度溢れてしまった涙を止めることはできなかった。
ひっくとしゃくり上げた声が浴室に反響して、虚しさを満たす。
扉の向こうには奏多がいる。
泣いたら聞えてしまうのに──────。





「──────とわさん。長いけど、平気…?」

しばらくして、なかなか出て来ない私を心配したのか、バスルームの扉が遠慮がちに叩かれた。
無遠慮な奏多でも、さすがに中まで踏み込んできたりはしないようだ。
「平気」
短く答えて、のろのろとバスタブから身体を起こした。
今、何時だろう。
壁に備え付けられたバスクロックに手を伸ばして、水滴を指で拭い去る。
もう、ともひろのところには帰れない。
今の情緒不安定な状態で顔なんか見たら、寂しさに負けて流されて、ずるずると中途半端な関係を続け兼ねない。
それとも、ともひろは潔く私を振るのかな。
見せ付けられた親密さを思えば、私よりも向こうを選ぶのは確実。
「あ──────。仕事の書類…」
やりかけのままソファの上に放置してきた。
着替えや私物は、後でどうにでもなるけど、それだけは今日中に取りに行かないと。
顔は合わせられない。
だったら、ともひろが帰る前に早く取りに行かなきゃ──────。


勢いよく立ち上がった瞬間、くらりと眩暈がした。
ヤバイ。長く浸かりすぎた。
おまけに湯船の中でめそめそ泣いたりしたから、軽く脱水症状になりかけてる。


「とりあえず、涼しいところに出なきゃ。水分取って、ちゃんと体も拭かないと……」


ぺたんと座り込んだ大理石の床が気持ちよかった。
濡れた体のままショーツに足を通して、ブラのストラップを掛けたところまでは覚えてる。
けれど。




そのあとの記憶は、真っ白だった。















バタン、という音で目が覚めた。
「んー……。ともひろ……?」
無意識に手を伸ばして隣を探る。
もぞと身体を身じろがせて、裸の素肌にブランケットを巻きつけようとベッドの上のそれを手繰り寄せた。
「うー…。さぶ」
頭からそれを引っ被って、生地の柔らかさに頬ずりをした。
いつもよりも数倍、ふわふわして心地良い。
おまけにいい匂いー。
上質の手触りとアロマのような香りにうっとり身を任せながら、またゆるゆると目を閉じた。
何だろ、この匂い。
ラベンダーのような、カモミールのような。
心の奥からリラックスできる落ち着いた香り。
アロマがきついせいか、ともひろの煙草の匂いが全くしない。
…なんで?
ブランケットの色もシーツも、いつもと違う気が…。
「……んー…?」
誰かが優しく髪を撫でてく感覚にのろのろと目を開けた。
私を上から覗き込んでくる顔に、さらりと髪が流れて影が落ちる。
クセのない長めの黒髪はさらさらしてて気持ちが良さそう。
あれ? 眼鏡、かけてないや。
ともひろ、コンタクトにしたの?











え…? 






「……かな、た──────?」











「吐いたと思ったら、今度は風呂場でのぼせてぶっ倒れて。馬鹿じゃないのか、アンタは」



「………!!!」




一気に目が覚めた。思い出した。
吐いて汚して、バスルームで気分悪くなって、それで──────。
よく見ると下着を着用した上に、バスローブを着せられていた。
下着は何とか身に着けた記憶はあるけれど、バスローブに袖を通した覚えはない。
じゃあ、奏多が──────?
ぎゃーーーっ!! 
なんたる失態!!!
ていうか、どんな格好で倒れてたの!? 私……!!
みっともないにも程がある。

「つめ…っ!」
ひやりとした何かをいきなり頬にくっつけられて、あまりの冷たさに私は飛び上がった。
「軽く脱水症状起こしたみたいだから。飲んで」
冷蔵庫から取り出したばかりであろうミネラルウォーターが、私の目の前に差し出された。
「……ありがとう」
素直にそれを受け取って、乾いた喉に流し込む。
冷たい。


「……奏多が運んでくれたの…?」
「俺以外に、誰が運ぶんだよ。アンタ──────、華奢に見えて意外に筋肉質だね」
「…それは遠まわしに重かったってことかしら?」
「解釈はご自由に。裸。見たって怒んないの?」
「怒らないわよ。ぶっ倒れた私が悪いもの。それに、見られて恥ずかしいような体はしてないつもり」
「……すっげー自信家」

一瞬、目を真ん丸く見開いた後、奏多が笑った。
その角が取れたような柔らかい瞳の光に一瞬、戸惑う。
笑うとこの子、年相応に見えるじゃない。
とっつきにくい、つんけんした雰囲気が和らいで、高校生らしい幼さが垣間見える。
いつもそういう顔、してればいいのに。


「……もしかして…。ずっと側に付いていてくれたの?」
「こんなところで傷心自殺とかされちゃあ堪んないから、見張ってただけ」
「かわいくない言い方……」
「そっちだって負けてないだろ? 女はもっとしおらしくて、従順な方が可愛げがあるよ」
「キミに言われたくない」
「はいはい。なんか食う?」
「……いらない。食べたらまた吐く」
「それは困る。やめといて」
「…なんか、いちいちムカツク言い方するわね」
「もうこれ以上、世話焼きたくないからね。服はとりあえずランドリーに出しといた。もう少し待って」
「至れり尽くせりね。さすが坊ちゃん」
「…それ。嫌味?」
「軽く皮肉。御曹司とか家柄とか……そういうしがらみのあるような人とは、もう関わりたくないもの」
「……それだけポンポン言い返せるのなら、もう大丈夫だな」
わかりにくい形だけど、奏多なりに心配してくれてるっていうのは、行動の端々から伝わる。
迷惑かけといて私のこの態度はあんまりだろ。
そう思ったら、申し訳なくなった。
「……ありがとう」
素直に言葉に出したら、また笑ってくれた。
その笑顔にほんの少し、救われた気がする。


「──────はい」
手からペットボトルを抜き取られて、代わりに白く湯気の上がるティーカップを渡された。
「なに、これ…」
「カモミールティ。リラックス効果があるから、飲んで少し落ち着けば?」
夢うつつに感じた匂いはこれだったのか。
和らぐ匂いにすんと鼻を鳴らして、口に含ませた。
あったかい……。
奏多も同じようにそれを淹れて、窓辺のソファに腰掛けた。


「…よく降るよなー」
窓の向こうの雨雲は飽きもせずに、ザァザァと雨を降らす。
ベッドの上に膝を抱えるように丸まって、私はそれをぼんやりと眺めた。
鬱蒼とした窓の向こうが、孤独を煽る。
「私、雨女なんだよねー」
ふと独り言のように漏らしたら、奏多と目が合った。
私の顔を深く見つめたまま、笑みを漏らす。

「なに笑ってんのよ…」
「いや、べつに。いいんじゃないの? 雨女。俺、結構雨、好きだけど」
「なんでよ。うっとうしくない?」
「雨だとずっと家にいられるから」
「うわ。イアンドア発言炸裂ね。若いんだから、もっと外出なさいよ。太陽に当って、光合成しなって。男ならもっとアクティブに動くべきよ……」
そんなだから無駄に背だけ高くて、ひょろっこいんだ。
「…アンタ、俺を小学生かなんかと勘違いしてない? まあ、いいけど…。ほら、俺。ピアノ弾く人だから」
そう言って私の目の前で手を開けて見せた。
ごつごつと骨ばった手ではあるけれど、どこか繊細で儚げな指。
わ、やっぱ長くて綺麗…。



「いつから弾いてんの?」
「物心ついた時から。他にもいろいろやったよ。バイオリンとか、フルートとか。茶道に活花。語学や習字に、武道、格闘技……。英才教育バリバリ」
「ボンボンだもんねー」
「酒井さんだって同じだろ? 酒井の為になるものは、子どもの頃からありとあらゆるものを叩き込まれてるはずだよ。そこは俺と変わらないと思うけど?」
「………」



「……なに?」


「奏多は、どうして私に近づいてきたの?」
「………」
「何が目的?」
「………前にも言ったろ? とわさんを酒井さんと別れさせるためだって」
「…なんの為に……」


「──────とわさんが好きだから」



表情をピクリとも変えず、奏多が言ってのけた。




「………馬鹿言わないで」

「今の告白、信じない?」

そんな熱のこもってない愛の言葉があるか。
「まるっきりの棒読みだったじゃない。熱意も情熱も伝わってこない。それに──────奏多と会ったのは、今日で3度目。ろくに話もしたことがないのに、心が動くの? ありえない」
温度のない告白の裏に、何かある。
たぶん、この子が執着してるのは、私じゃなくてともひろ。
私以上に、彼をよく知ってるのは、なぜ?

「一目惚れって信じないタイプ? 直感でこの人だと思ったんだけど」
「だったらどうして、会ったその日にアプローチしてこないのよ? 今更のこのこ出てきて…そういう席にいたんだから、チャンスなんていくらでもあったでしょ?」
「じゃあ……どんな風に迫れば気持ちが揺れんの? 酒に酔わせて迫る? それとも──────キスでもしようか?」
いきなり二の腕をつかまれて体の向きを変えられた。
唐突に真正面から奏多と目が合って、心臓が飛び跳ねた。
息が止りそうになる。
昼間の行為を思い出して、顔が強張るのを隠せなかった。




「気持ちのない愛の言葉は、心のどこにも響かないから」


感情を抑えた声で、奏多を真正面から見据えて応えた。
何かを探るような視線から目を逸らしたくなるのを必死で堪えて。
真顔で数秒見つめられて、奏多が微かに笑った。





「酒井さんの言葉は、嘘か本気か。見抜けなかったクセに?」


「それは………」


言いかけて、ギクと体が跳ねた。
妙な威圧感を感じて、私は本能的に後ずさる。
背中がヘッドテーブルへと触れて、逃げ道がないと悟った時には、もう遅かった。




いきなり頬が、奏多のYシャツの肩口に押し付けられた。
「……! ……ッ!?」
びっくりして放しかけた体はバランスを崩して、そのままベッドに押し倒される。
「ちょ…っ! 奏多ッ、やだ……ッッ!!」
顎を強く持ち上げられるのと同時に、間近に迫ってくる奏多の顔に思わず目を閉じた。
瞬間──────唇が奪われた。
「ふ…ッ、んぅ……っ」
片方の手で肩を押さえつけられ、もう片方で後頭部を包まれた。
抗えない。逃げられない。
唐突に、強引に割り入ってきた舌に激しく吸いつかれて、脳の奥が白く痺れる。
眩暈がした。
力いっぱい、奏多の胸を押し返した。
びくともしない奏多の体が憎たらしくて、拳で殴りつけたくなる。






「……抵抗、しないの?」

しないんじゃない。
できないんだ。
喉が引きつったみたいに声が出てこなかった。
そうさせてんのは奏多なのに、私がまるで自分からキスを受け入れてるみたいに言うのが憎らしい。
目の奥が痺れて、生理的な涙が込み上げた。





「キスされて嫌だった? それとも──────俺とキスして、酒井さんのキスでも思い出した?」



再度、重ねられた唇に息を吹き込むように囁かれる。
まるで傷口を優しく舐めるように、目尻に堪った涙を唇で軽く吸われた。
ピアノを弾く綺麗な指が私の髪にもぐって、また唇を強く吸われて、呼吸を奪われた。
息苦しさに焦点がぶれて、視界が白く霞む。




「……初めてキスした時は、あんなに取り乱したのに。もう、どうでもよくなった? 」


「ファーストキスじゃあるまいし。なにを今更──────」


「泣きながら強がっても、説得力ないけど」




徐々に下がっていく奏多の湿った舌の感触に、ぞわりと背筋が震えた。
夜露にぬれた様なしっとりとした黒髪が素肌を撫でて、胸元で止った。





「──────とわさん。俺としようか。あの人を過去にする勇気があるのなら、俺は付き合うよ」









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