友達のままではわからなかったことがたくさんある。
嫉妬してイライラして───それが『好き』っていう素直な感情のひとつだというのなら。
そんな感情、もういらない。
だって。
頭、おかしくなりそう。
*
ふたりとも雨に濡れてしまった。
ともひろが車を回してくる間に、私は一度、園舎にタオルを取りに戻ることにした。
濡れた衣服から滴る水が、ぽたりぽたりと床に落ちて染みを作る。
上はコートを脱げば幾分かマシになった。
けれど下はひどい有様で、ブーツの中までぐっしょりと雨の水が滴る。
しっとりと足に纏わり付くストッキングの感触が気持ち悪くてしょうがない。
着替えたい所だけど……自分だけ着替えてしまうのは、さすがに申し訳ないからやめた。
ざっとタオルで拭き取って、ストッキングを脱いだ素足にブーツを履いた。
早く話を終わらせて、あったかいお風呂に入ろう。
濡れた頭をタオルで拭きながら、そう心に強く誓う。
ともひろが戻って来るのは思ったよりも早く、外に出たときには黒のVOLVOが園舎から離れた目立たない場所に止っていた。
「……乗ってた人は?」
「帰った」
「……この雨の中を…?」
まだ結構、降ってるのに。
っていうより、土砂降りに近い激しい雨が、今もなお降り続いていた。
「小さな子どもじゃあるまいし、傘があれば問題ない。電車だってまだある時間なんだ…礼は、またしておくよ。
それよりも……大丈夫か?」
「え?」
「随分、濡れたみたいだけど」
ともひろも車の中で、私と同じように濡れた上着を脱いでいた。
仕事用の分厚いコートは、私が着ていたものよりも随分と雨をしのいでくれるらしい。
濡れた髪だけが不自然なぐらいに、中に着ていたスーツは無事だった。
「どこかで着替えた方が───」
「すぐ終わる話なんでしょ? 大丈夫だから」
言ったそばから、クシュッと、小さなくしゃみが出る。
本当は、ガンガンに効かせてくれた暖房が、温かく感じられないくらい寒かった。
濡れた衣服が遠慮なく体温を奪って、体の芯から震えが上がってくる。
このままだと間違いなく、風邪を引いてしまう。
寒さに思わず腕をかき寄せた時、バサと何かが膝の上に投げられた。
「着とけよ。少し濡れてるけど……ないよりマシだろ」
ともひろのスーツのジャケットだ。
「着替える気がないなら、せめてそれは着てくれ」
ふわっと車内の空気が動く。
頑なに意地を張り続ける私の手から、ジャケットが奪われて、そのままそれで体を包まれた。
「風邪引いて熱を出したって、仕事は休む気ないだろ。変な意地とプライドで自分の首を絞めんな。
…それとも──────もうオレには、とわを心配する権利もないのか?」
切なそうに歪められた目で見つめられて、胸が詰まった。
なんでともひろがそんな顔してんのよ。
泣きたいのは、こっちの方なのに。
「いいから素直に着とけ。──────出すぞ。シートベルトして」
音もなく私から離れたともひろが、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
ジャケットに微かに残る体温と、ともひろの残り香に包まれて、鼻の奥がツンとする。
こんな時に優しくなんかしないでよ、バカ。
なにもかもどうでもいいやって、放り投げたくなってしまう。
ハンドルを握る横顔に、そっと視線を送った。
すれ違う車のヘッドライトが映し出すともひろの横顔は、切なくなるほど綺麗で、涙が出そうになった。
車内の芳香剤の匂いに混じって、微かな煙草の匂いが鼻腔をくすぐる。
狭い空間に満ちたともひろの匂いに、抱きしめられてるような錯覚が私を襲う。
会うと駄目だ。顔を見るとなおさら。
すぐ側にある体温に直に触れたくなる。
こんなまやかしのぬくもりなんかじゃなくて、本物を確かめたい衝動に駆られてしまう。
ダメだ。ダメだ。
早くこの人から離れないと、間違いなく私はともひろに飲まれる──────。
切なくて、苦しくて、ぎゅっと目を閉じた。
車は国道経由で見慣れた道を走った。
お互いに話しを切り出すきっかけを探して、探って──────それでも見つからずに、ただ押し黙ってそれぞれ違う景色を見つめた。
聞きたいことは山のようにあった。
でもそれを確認するのが、怖い。
自分から離れたくせに。
さよなら以上に怖いことなんて、もう何もないはずのに。
「…さっきとわを待つ間に、買っておいたんだ。飲むか?」
赤信号で停車した時、ともひろがおもむろに車のドアポケットから缶コーヒーを取り出して私に投げた。
スカート薄い布地を通して、スチール缶の熱がじんわりと伝わってくる。
あったかい。
「……ありがとう」
素直にそれを受け取った私に、ともひろが少しホッとしたような顔を見せる。
再び動き出した車内から、流れる景色を静かに見つめながら、それを握り締めた。
重い沈黙のせいで、いつもの車内が狭く息苦しく感じる。
気が付けば、家路への道を逸れ、知らない道を走っていた。
建物が少なくなって、倉庫や空き地ばかりの生活感のない光景が広がる。
金網の向こうに、等間隔に規則よく並んだライトが見えた。
滑走路だ。
てっきり家まで送り届けてくれているものだとばかり思ってた私は、驚きに顔を上げる。
「どこ、行くの……? 私のアパートに向かってるんじゃ」
「話もしてないのに、このまま帰すわけないだろ」
ともひろはいいざま、ハンドルをきゅっとまわして、滑走路脇の路肩に車を止めた。
どこをどう走ってきたのか、気づけは空港近く。
闇にどこまでも伸びる滑走路のランプが、ぞっとするぐらい綺麗だった。
人気のないひんやりとした夜の静けさが、車の中まで漂ってくる。
ふいに空気が動いた。
「これ。オレは受け取れないから」
鍵だった。
私がさよならの代わりの置いていったまっさらな鍵。
私は頑なに首を横に振る。
受け取れないのは、こっちの方だ。
「……とわ。ちゃんと説明してくれ。これを置いて、黙って出て行った理由をオレに」
ともひろの目が切なげに歪められた。
「……理由? それを私に、言わせるの……?
奏多からネックレスを預かったのなら、もう聞いてるんでしょ? 全部、知ってるんでしょ? 私が黙って出て行った理由なんて、とっくにわかってるくせに…っ」
「……リオコのことか」
しばらくの沈黙の後、ともひろが重そうに口を開いた。
「……リオ…、コ?」
「見たのか。オレが彼女と一緒にいるのを──────」
心が、一瞬で真っ黒になる。
言葉の途中で舌が痺れたように動かなくなった。
「……認めるん…だ。あの日、彼女とホテルにいたこと…」
諦めたように呟きながら、弱い笑みを浮かべた。
ともひろが口にする色めいた女の名前に、見えない嫉妬が溜まっていく。
あの日、女といたことを否定しようともしない。言い訳すらしない。
簡単に認めちゃうんだね。
潔すぎるよ、ともひろ。
「仕事だって言ったのは、嘘だったの…? 私を好きだっていうのも、全部全部、嘘だったの!?
私が…っ、タケルとどんな理由で別れたのか、ともひろが一番よく知ってるくせに……っ、どうして同じことをするの? 繰り返すの? どうして……っ!!」
辛くて、悔しくて、唇を噛締めた。
どす黒い激情に呑み込まれる。
リオコって誰? いつから関係があるの? どうして仕事だって嘘をついてまで、その人と会うのよ?
二股かけられるぐらいなら、きっぱりとふられた方がマシなのに。
聞きたいことは山のようにあるけれど、それ以上、声になって出てこなかった。
裏切られたことが痛くて辛くて、感情が暴走する。
「仕事だと嘘をついたことは謝る。リオコのことは、いつかとわにも話さなければならないことだった。そのタイミングを計って、自分勝手に伸ばして……とわを傷つけてしまったことも。すまない。
とわ……彼女、リオコは──────」
「私の前で、私以外の女を、そんな風に呼ばないでよ…っ!!」
気が付けば半ば叫ぶような形で、ともひろをきつく睨みつけていた。
溜まっていく嫉妬に冷静さを失って、感情が暴走する。
息を詰めたようなともひろと視線が交わった途端、我に返る。
恥ずかしかった。
自分から別れを切り出したくせに、感情的になってしまう自分が、どれだけ惨めで恥ずかしいことをしているのか。
悔しさに唇を噛締めて、下を向く。
そうでもしなきゃ、零れそうな涙を誤魔化しきれなかった。
ふいに、シートベルトを外す金属音が鼓膜を掠めた。
「──────そういうお前こそ。奏多って何だよ……? 城戸と、名前で呼び合うほどの深い関係か?」
ハッとして顔を上げた瞬間。
近くに迫ったともひろと目が合って──────あっという間に、腕を取られた。
「…っ!?」
驚きに浮いた足から缶コーヒーが転げ落ちる。
瞬間、乱暴にシートが倒された。
構えてなかった背中に鈍い衝撃が走り、慌てて起こそうとするその上に、ともひろが覆いかぶさる。
「やだ、っ! とも、ひろ……っ!?」
私へと伸ばされた手がシャツのボタンに掛かるのが見えて、息を飲む。
精一杯の抵抗を子どもをいなすかのように簡単に抑え込まれて、器用にボタンを上から外された。
雨に濡れたシャツが乱暴に押し開かれた。
スカートの下に潜り込んできた手が躊躇いもなくそれを捲し上げて、太股に触れる。
指が素肌をなぞって、上へ上へと這い上がってくる。
ビクと体が跳ねた。
首筋、鎖骨、そして露わになった胸元を、熱い手のひらが滑る。
「なん、で…っ、こんなこと…っ!! ともひろ、ッ──────やぁ…ッ」
甘い疼きに声がこぼれた。
何かを確かめるように体を這う手の動きに、ぞくりと腰を浮かしかけて、再び声を上げそうになった時。
その手が止まった。
「──────寝たのか。城戸と」
怒りを噛み殺した低い声だった。
静かな怒りに、ジンと空気が震えたような気がして、怖さが這い上がってくる。
冷たく見下ろすともひろと視線が交わった瞬間、背筋がゾクリと震えた。
「オレが、リオコと一緒にいるのを見たから、お前はアイツに、体を許したのか─────」
「ちが…っ!! そんなこと、してな──────」
「だったらどうして!! ……こんな場所、裸になって抱き合うようなことでもしなければ、つけられる場所じゃない!!」
キスマークのことを言ってるんだというのは、すぐにわかった。
ともひろが探るように私の体を辿ったのは、奏多がつけた痕。
他の男に触れられたという印。
きわどい場所に何箇所もそんなものがついていたら、声を荒げたくもなるだろう。
でも。
仕事だと嘘をついて、違う女と蜜月を重ねていたともひろに、私を責める資格なんてない。
「───キスはされた。私も、それに応えた。
でも……それ以上の事は、なにもしてない。なにも、なかった……!!」
しようって言われた。
ともひろを過去にする気があるのなら、付き合うから。
そう言って優しく抱きしめてキスをくれる奏多に、一瞬、流されそうになった。
いたるところにつけられたキスの痕は、その時出来たものだ。
かさぶただらけの心の隙間に染み込んでくる優しい言葉に流されて、キスを受け入れてしまったのは事実。
本当は、ともひろを責める資格なんてない。
だから、会えなかった。
鍵を返したのは、ともひろばかりが悪いからじゃない。
ほんの一瞬でも、どうなってもいいやと思ってしまった自分の甘さが、バカで情けなかったから──────。
「浮気されたからって、じゃあ私も…なんていう気になるわけ、ないじゃない……っ」
女は受身だ。
感情に流されて無茶をして、後で傷つくのは自分。
男は経験の数だけ株が上がるのかもしれないけど、女は逆。
「私は。ともひろみたいに気持ちがないのに、誰かと付き合ったり、好きでもない男と寝たことなんて、一度もない。馬鹿にしないで」
好きでもない男と肌を合わせるのは、自分の価値を下げるだけだ。
そういう後悔だけは、まっぴら御免だ。
ともひろが、震えるような息を長く吐いた。
「じゃあ……なんで、城戸とこういうことになったのか。オレにわかるように説明してくれ」
「……きっかけは───鍵だった。合コンの席で私が落とした鍵をあの子が拾ったのに、返してくれなくて。それで…取り返すために自分から会いにいったの」
「そんな恐喝まがいのことをされて、何でオレに相談しなかった?」
「あの子に確かめたいことがあったからよ」
「確かめたい…こと?」
「……言ったのよ。あの子。ともひろに私以外の女がいるって。だから別れろ。傷つく前にとっとと身を引けって」
「それをそのまま信じたのか?」
「最初、何を言われたのかわからなかった。何バカなことを言ってるんだろう、そんなはずなじゃないって、信じようとしない自分のどこかに、迷いみたいなのが生まれて……確かめたくなった。信じてるなんて言いながら、私バカだよね。
でも……あの子が言ったことは、間違ってなかった。事実だった。見たのよ、私。ともひろがホテルで女の肩を抱くのを。寄り添うのを。心が抉られるかと思った。──────なんで…? なんで……よ…っっ!!!」
ちからいっぱい、拳をともひろの胸にぶつけた。
感情を全部ぶちまけるみたいにして、ドンドンと叩く。
そんな力じゃ怯みもしないともひろの逞しさがまた憎らしくて、何度も何度も強く叩いた。
馬鹿みたいに。
「なん、で………ッ!!!」
焦点がぶれて、ともひろの顔がよく見えなかった。
涙腺が壊れた。
バカみたいに涙が溢れる。
悔しさを全部ぶちまけるみたいにして、大きな胸にずるずるとすがり落ちた時。
肩を強くつかまれた。強引に顔を上げられる。
ごつごつした無骨な指が、肌に食込む痛さに思わず顔を背けた時、ともひろが息を飲むような力強さで抱き寄せた。
「嫌だ。放して…っ、放してってば……っ!!」
力任せに拒絶する私の手が押さえつけられたと同時だった、唇が塞がれたのは。
「や───っ…」
噛み付くようなキスだった。
片方の手で肩を押さえつけられ、もう片方で後頭部を引き寄せられる。
強引に唇を割って入ってきた舌に、激しく舌の根を吸われて脳の奥が白く霞んだ。
目の奥が痺れて涙が込み上げてくる。
燃えるような熱い舌が口の中を這って、きつく私の唇を吸う。
「ぅ、い…や……っ」
眩暈がした。
獣のような乱暴な吸い付きに、唾液が顎を伝って胸に落ちた。
腰に巻きついた力強い腕が、逃げることをさせてくれなくて、息苦しさに私は何度も首を振った。
ともひろは角度を変えて私に何度も口付けて、強く体を抱きしめてくる。
ようやく離れた唇はそのまま熱い息を頬に吹きかけながら、まるでうわごとのように言葉を繰り出した。
「──────オレはとわが好きだ。その気持ちに嘘も偽りもない。
オレが今までしてきたことを思えば信じられないのも、疑われるのも、当然かもしれないけど……オレは、とわ以外の女に愛の言葉を囁いたことなんて、一度だってない。
好きだなんて告げたのは、後にも先にもおまえ一人だ。断言してもいい。浮気もしてない。本命はとわだけって、自信を持っていえる。
…だけど──────」
言葉が途切れた。
辛そうに、切なそうに歪められた視線が私から離れて、目を伏せた。
「………すまない、とわ。オレには、親の決めた結婚相手が……、いる」
「……え?」
「親が酒井の為に決めた、婚約者。とわがホテルで見た彼女がそうだ───」
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