歩くたびに、トレイに乗せたカップが音を立てて、琥珀色の水面が揺れる。
ウェッジウッドの高価なティーカップを、割らないようにこぼさないように、細心の注意を払いながら、バックヤードの一番奥の扉の前で立ち止まった。
大きく息を吸い込んだ私は、『ブライダル・サロン』とネームの掛かったシックな木彫ドアを叩く。
「失礼します」
結婚式やパーティの入ってない日は、ここがピアニストの控え室になる。
2時間前の緊迫した空気が嘘のように、中は穏やかだった。
「あのー…。津田さん。お茶、淹れてきたんですけど…」
花嫁専用のゴージャスな鏡。
そこに施された繊細な薔薇細工とは全く釣り合わない、不機嫌な顔が私を見つけて、鏡越しに睨みつけた。
「うん。もう少しで終わるから、ちょっと待ってもらえる?」
目の前でビューティアドバイザーの津田さんが、馴れた手つきで彼の身支度を整える。
いつもはラフに降ろしてるさらさらの黒髪を、ワックスで流れを作り後ろに流してく。
「今時、カラーリングしてない髪っていうのは、珍しいな。友達なんて、もっとチャラチャラしてるでしょ? 真面目くんなんだ、城戸くんは」
津田さんの言葉に、にこりともしない。
「…ねぇ。彼、緊張してるのかな?」
そっと耳打ちされて、苦笑いしか返せない。
これがこの子の素なんですよ、津田さん。
絶対絶命ピンチの中で思い出したのは、一度だけ聞いた奏多のピアノの音色。
駄目もとで頼んでみたら、案外あっさり引き受けてくれたのだ。
お客様の前に立つのに、普段着というわけにはいかない。
しぶる奏多を無理矢理納得させて、鏡の前に座らせたのがほんの10分前。
鏡越しに見えるのは、普段からの愛想のない顔に輪を掛けたような仏頂面。
やだなぁ、目が合わせらんないよ。
「──────ハイ。いいわよ。出来上がり」
にこやかに笑いながら、津田さんが奏多の両肩を叩いた。
「花井さん。こんなもんでどうかしら?」
「あ、ハイ。素敵です」
髪型を変えるだけで、別人だ。
いつもより、大人びて見える。
「若いっていいわね。肌の張りも、髪のコシも全然違う。変にいじってないから、やり易かったわー。それに彼、素材がいいから、フォーマルがすっごく映える」
どこで見つけてきたのよ。すれ違いざま、ニヤニヤ顔で囁かれた。
苦笑いを返しつつ、紅茶のカップをそっと鏡の前に置いた。
「どうぞ」
笑いかけても、こちらを見ようともしない。
なんなの、その偉そうな態度は。
それならこっちも無視───と、いきたいところだけど…そうもいかない。
やっぱりここは、機嫌を取っておくべき…だよね?
本番に差し支えても困るし。
ちらり横目で視線を投げかけて、うっと固まる。
眉間に皺。頑なに結ばれた口元は思いっきりへの字。おまけに、あからさまな大きな溜息───。
超不機嫌。
俺に話しかけんな的オーラーを放つ無言の横顔に、声を掛ける勇気を失くす。
ああもう、どうしよ。
「じゃあ、花井さん。後はよろしくね。ジャケットはクローゼットの中に掛けてあるから」
仕事を終えた津田さんが部屋を出て行く。
ふたりっきり。
ますます、気まずい……。
「とわさん」
重苦しい空気に堪えかねたのか、先に口を開いたのは奏多だった。
「鏡越しにジロジロ見ないでくれる?」
「べつに…減るもんじゃないし、いいでしょ」
「あつかましい」
「あ…っ、あつかましい!?」
ふてぶてしい物言いに、思わず口調が強くなる。
おっといけない、平常心。
「……ねえ」
「なに」
「今、何やってんの? 高校は、卒業したんだよね?」
「大学生。音大」
「そっか。そっちの道にちゃんと進んだのね。大学楽しい? 授業ってやっぱり、音楽的なことばかりするの? 専攻はピアノだよね?」
「……つうかやめてくれる? その社交辞令的な会話。俺のことなんか興味ないくせに」
うっ。読まれてる。
だってそういう会話で繋がなきゃ、間が持たないんだもん。
共通の話題ってなによ?
みつからない。
「───俺も聞くけど。いきなり呼び出しといて、なんだよこれは。つうか、二度と俺には会わないつったよな、アンタ」
追い討ちをかけるように、鏡越しに睨まれた。
「…しょ、しょうがないでしょ? そんなの…時と場合によるわよ」
「開き直るなら俺、このまま帰るけど」
ああ、もう…っ。
この子の扱いづらさは相変わらずだ。
「ゴメンナサイ。謝るから。ちゃんと責任持って弾いてください。お願いします」
今日ばかりは、奏多に逆らえない。
偉そうな態度もNGだ。
今日だけ。今日だけ。そう心の中で何度も言い聞かせて、私は頭を下げた。
「いきなり呼び出されたかと思えば、わけもわからず弾かされて。鏡の前に座らされたかと思えば、人形のようにいじられて。俺の意見はなしか」
「ゴメン……。でも、説明はさっき、受けたでしょ?」
「男絡みで恨まれて、はめられて、その尻拭いを俺にさせるんだろ?」
「それ、どこで…」
「最初、ここに俺を案内してくれた人が、丁寧に事の次第を説明してくれたよ」
チッ。
瀬戸ちゃんめ、余計なことを。
人間的にはいい子なんだけど、口が軽いのが玉に瑕。
「女の争いに、部外者の俺を巻き込むな」
好き好んでやってるわけじゃない。
私だって巻き込まれたうちのひとりだ。
でも勿論、奏多にそれは関係のないこと。
文句言いたくなるのもうなづける。
「……ごめんね、巻き込んじゃって。城戸くんにはちゃんと、感謝してるから」
いくら憎まれ口を叩いても、奏多がここまで駆けつけてくれたのは事実。
私が困ってる、その理由ひとつで。
何度頭を下げても、感謝しきれない。
「……一番気に入らないのは、その余所余所しさ。なんだよ、城戸くんって。気持ちわる」
「だって…。職場なんだから、しょうがないでしょ? それにもともと、余所余所しいなんて言われるほどの関係じゃないじゃない」
友達でも恋人でもない、中途半端な知り合い。
私と奏多を繋ぐ関係ってなに?
ともひろはもう、いない。
「……深い仲じゃん」
奏多が薄く笑った。
「…?」
「俺。とわさんの体のほくろの位置と数、言えるけど?」
「ば……ッ!! バカ!! なに言ってんのよ、こんなところで…っ!!」
思わず部屋の中を確認した。誰もいない。
よかった───、じゃないよ!
そんな、誤解を招く言い方しないで。
バスルームでのぼせた私を運んだだけじゃないか、奏多は。
ていうかあのとき、場所と数を確認できるほど、じっくり見たの?
バカ!! サイテー!!
辛抱堪らず奏多をぐーで殴りつけたところで、前触れもなくドアが開いて。
「───花井さん、ちょっと」
相原チーフが顔を覗かせた。
「…はい?」
手招きされるまま、部屋の外に出た。
扉がきっちり閉まるのを確認してから、チーフが声を出す。
「仲がいいのはよろしいことだけど、場所と立場をわきまえてね。また、よからぬ噂の的になるわよ。今回の事件で、よーく身にしみたでしょう?」
「……はい」
「あなたにそんな気はなくても、他人がどう捕らえるかはわからないから。人によって見方は違うのよ。もちろん。私は、あなたの味方だけど」
眼鏡越しに見えた目が、優しく緩む。
「よかったわね、間に合って」
「はい」
「私も、オーナーと一緒に彼のピアノを聞かせてもらったけど……たいしたものね。腕も技術も…文句なかったわ」
「そうですか。よかった……」
「若いし、見栄えもいいし。ピンチヒッターで終わらせるには惜しい逸材ね」
相原チーフの目がキラリと光る。
彼女は人事も担当してる。
いえ、もう今回だけで勘弁してください。
「…花井さんが五十嵐になびかない理由は、こういうことなのね」
ポツリと呟いた言葉は、あまりよく聞えなかった。
「彼、いくつなの?」
「たぶん…18、9ぐらいだと思いますけど……」
「どうりで。若いと思ったわ。で? あなたとは、どういう関係?」
「どういうって……ただの知り合いです」
友人でも恋人でもなく、ただの知り合い。
私と奏多の関係を表す言葉で、これ以上のものが見つからない。
「…いきなりの無茶な呼び出しを断りもせず、二時間もの長距離をタクシーで駆けつけて。ただの知り合いがそこまでしてくれるとは思わないけど?」
「…嫌味ですか?」
「いいえ。人に恵まれてるってことよ。周りに集まってくる人間は、その人の人柄を表すから。人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい」
にこやかに笑って、チーフが肩を叩いた。
「よかったわね、首が繋がって。彼に感謝しなさいよ」
ピンチヒッターのピアニスト。
全てが無事終わってからじゃないと、よかったなんて笑えないけど。
「───相原チーフ。ちょっとこっち、いいですか?」
「ええ。今行くわ。───じゃあ、後はよろしくね。今日はレストランの方はいいから、彼についててあげて」
慌しくバックヤードを掛けてくチーフの背中を見送りながら、ぼんやりと、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
─── 人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい ───
望まない繋がりは、どうしたらいいんだろう。
望んでも繋がらない場合は?
解けてしまった恋の糸は、もう繋がらない。
「とわさん」
「なに?」
「突っ立ってないで入れば? 話、終わったんだろ?」
「あ…うん。ごめんね」
いけない。
こんな大事な時に、なにを感傷に浸ってんだ、私は。
気持ちを切り替える為に、軽く頭を振って頬を叩いた。
ふと。
流した視線の先で奏多が楽譜から顔を上げるのが見えて、彷徨う視線がそのままぶつかった。
彼にしては珍しい真っ直ぐな眼差しに、意味もなく動揺してしまう。
「……なあ、とわさん」
「なに…?」
「アンタ、こんなとこで何やってんだよ?」
「何って、仕事───」
「んなこと、わかってる。俺が言ってんのは、何で職場が変わってんのかってこと。幼稚園は?」
「……辞めたよ」
「なんで?」
「何でって……どーでもいいでしょ」
「酒井さんとは、まだ続いてんの?」
「………とっくに別れたわよ。満足?」
「ふーん」
「なによ……」
「そういうことか」
「だから、なによ!?」
言いたいことがあるならはっきり言え。
「永久就職でも狙ってたの?」
「な……ッ!!」
「酒井さんと別れて、あてがなくなって、そのまま実家に出戻り? カッコ悪」
哀れむようなニュアンスを込めた笑い声が、奏多の口から零れた。
ば、馬鹿にして!!
「べつにっ、ともひろは関係ありません! 自分の判断で地元に戻っただけよ…」
「とわさんっていつも、自分に都合のいい言い訳ばっかするよな」
腹が立つ。
奏多の顔からバカにしたような笑みが消えない。
「言い訳じゃありません。それに私、あの人との結婚を考えたことなんて、一度もないから!」
永遠を夢見ることもなかった。
悲しい結末に胸が痛んで、思わず強い口調で睨みつけてしまう。
「ふーん…」
「……なによ」
「ここのレストランって、ウエディングもやってるんだって?」
「そうだけど……なに?」
「知ってる? ウエディングに携わる仕事をしてると、婚期を逃すってジンクス。このままだとアンタ、絶対行き遅れるよ?」
「──────奏多…ッ!!」
怒りのあまりに振り上げた拳を今度はあっさり交わされて、そのまま腕を捕られた。
「きゃぁ…っ」
不意に視界が反転したと同時に、肩と頭に軽い痛みを覚える。
「…いっ、たぁ……ッ」
テーブルの上に押し倒されたのだ、と理解するまでに、そう時間はかからなかった。
背中に固いテーブルの感触と、目の前には身支度の整えられた端正な顔。
その後ろに見えるのは、サロンの天井───。
「な、にっ、やってんのよ……っ!!」
押し返そうと動いた拳はまた捕らわれて、あっけなくテーブルの上に縫い付けられた。
何度あがいても、びくともしない。
「──────バカじゃないのか、アンタは。何度も黙って、殴らせたりするわけないだろ。男に手を上げる時は、押し倒されるぐらいの覚悟はしとけ」
くやしい、くやしい、くやしいっ。
その偉そうな物言いも、人を見下げた言い方も。
「つうか、大事なピアニストに怪我させたら、ヤバイのはそっちだろ」
大きな溜息をついたのと同時に、私の腕を押さえつけていた手が緩まった。
「……っ」
自分が言い返せない立場にいるのが、一番悔しい。
奏多といると、いつもペースを崩される。
「とわさん、ちょと出てってくれない?」
「は?」
「演奏前に集中できない。どうせ弾くなら、いい演奏して欲しいだろ?」
人のこと散々けなした挙句、押し倒しといて、集中できないから出て行け?
なんて自分勝手な!
「……ていうか、城戸くん。私、自分から頼んどいてなんだけど……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「なにが?」
「ちゃんと弾けるのかって聞いてるの!」
「…呆れて物が言えない」
「は?」
「今さら俺に、それを聞く? つうか、馬鹿にしてんのか? 弾けると思ったから呼んだんだろ?」
「だって…。アンタしか思いつかなかったから……」
「──────ジャズ、クラッシック、ポップス、ポピュラー。どれも問題ない。なんだったらコンクールで弾くような思いっきり難しい曲でも弾いて見せようか? こんなレベルの曲、初見で弾ける」
用意した楽譜の山を私に突きつけた。
「なに……?」
「いらない。一度見れば、頭に入る」
「いらないって、奏多──────」
「花井さん。時間。店、開けるって」
「だって。とわさん」
「だって、じゃない! どうすんのよ、これ」
楽譜を抱えたまま振り返ろうとした私は、そのままの状態で硬直した。
背中に重なってくる奏多の気配。
自分の体のすぐ横から伸びてきた手がドアノブを引いて、小さな音を立てて扉が閉まる。
「ちょ…っと、奏多……何やって───」
真横に伸びた、奏多の腕に息を飲む。
囲われた。
「ギャンブラーだな、アンタも」
耳元に息を吹きかけるように囁かれた。
ぞくん、と。体が震え上がる。
「俺の音聴いたのなんて、あれ一度きりだろ。それで判断しちゃうんだから」
「…賭けよ。ていうか……、アンタしか思いつかなかったって、言ってるでしょ? ああ、もうっ! どいてって! 時間がないんだか───ッ!?」
囲われた空間から抜け出そうと動かした体を後ろから抱きしめられた。
驚いた拍子に腕から楽譜が滑り落ちて、音を立てて散らばった。
五線譜に描かれた音の渦が、床一面に広がる。
「っ、なにやってんの…っ、いいかげんに、してよ…っ!」
動かした体はびくともしない。
それどころか、一層腕に力が込められる。
背中に密着する体から、奏多の体温がリアルに伝わってくる。
「嬉しかったよ。俺の音、認めてくれて」
「……え?」
抱きしめた腕が軽く緩んだかと思うと、そのままその手に目隠しをされた。
また、耳元で囁かれる。
「───とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ」
目を開けた時、奏多はもう、そこにはいなくて。
しばらくそこで、呆然と立ち尽くしたまま動けなくなっていた私の耳に届いたのは、澄んだピアノの音色。
「───あ…。この曲、なんで………」
五十嵐さんの曲だ。
彼が彼の時間だけに弾く、お客様にも人気の高いソナタ。
確か渡した楽譜の中には、この曲は入っていなかったのに。
「すごいのね、あの子。一度聴いたら、弾けるんだもの」
「───相原チーフ」
いつからそこにいたのか。
気がつけば扉の前に、相原チーフが腕組みをして、こちらを見つめて微笑していた。
くいと顎でしゃくられて、彼女の後について、ピアノの袖側に回る。
「どうしてあの曲を城戸くんが…?」
「教えてくれって言われたのよ。五十嵐が入る日に、その人の持ち曲を楽しみに来る客がいるだろうって。楽譜は五十嵐が持ってるからないわよって言ったら、テープでいいからですって。一度聴いただけよ? すごいわね、あの子」
「……ああいうの、絶対音感っていうんですよ」
耳で聞いて、心で奏でて。
音が頭の中に入っているから、キーを見失うことなく反射的に正確に打鍵できる。
かなたの音楽センスがこれほどまでとは、思わなかった。
「なーんだ、今日は五十嵐さんじゃないのか」
「でもあの人も、ねえ。なんだかカッコよくない?」
「ていうか……、なに。すごく、上手───」
目を閉じて。音を拾って。心で聴いて。
聴く人みんなが立ち止まる。そっと振り返って目を閉じて、彼が奏でる音色に、旋律に。
「勿体無いわね」
「え?」
「あの子をこのまま、ピンチヒッターで終わらせるのは。うちに欲しい逸材だわ」
「…ええ。本当に…」
賭けでもギャンブルでもないの、奏多。
私がキミを呼んだのは。
耳に残ってるのよ。
いまだに、あのとき聴いた奏多のピアノの音色が───。
────── とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ ──────
そう言った奏多は、何も楽譜のない中で一音も間違えることなく。
見事、三時間。弾いて見せた。
←BACK /
NEXT→
←TOPへ /
とわの彼方に*目次へ→