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悲しみの出口 4

歩くたびに、トレイに乗せたカップが音を立てて、琥珀色の水面が揺れる。
ウェッジウッドの高価なティーカップを、割らないようにこぼさないように、細心の注意を払いながら、バックヤードの一番奥の扉の前で立ち止まった。
大きく息を吸い込んだ私は、『ブライダル・サロン』とネームの掛かったシックな木彫ドアを叩く。
「失礼します」
結婚式やパーティの入ってない日は、ここがピアニストの控え室になる。
2時間前の緊迫した空気が嘘のように、中は穏やかだった。


「あのー…。津田さん。お茶、淹れてきたんですけど…」
花嫁専用のゴージャスな鏡。
そこに施された繊細な薔薇細工とは全く釣り合わない、不機嫌な顔が私を見つけて、鏡越しに睨みつけた。
「うん。もう少しで終わるから、ちょっと待ってもらえる?」
目の前でビューティアドバイザーの津田さんが、馴れた手つきで彼の身支度を整える。
いつもはラフに降ろしてるさらさらの黒髪を、ワックスで流れを作り後ろに流してく。
「今時、カラーリングしてない髪っていうのは、珍しいな。友達なんて、もっとチャラチャラしてるでしょ? 真面目くんなんだ、城戸くんは」
津田さんの言葉に、にこりともしない。
「…ねぇ。彼、緊張してるのかな?」
そっと耳打ちされて、苦笑いしか返せない。
これがこの子の素なんですよ、津田さん。




絶対絶命ピンチの中で思い出したのは、一度だけ聞いた奏多のピアノの音色。
駄目もとで頼んでみたら、案外あっさり引き受けてくれたのだ。
お客様の前に立つのに、普段着というわけにはいかない。
しぶる奏多を無理矢理納得させて、鏡の前に座らせたのがほんの10分前。
鏡越しに見えるのは、普段からの愛想のない顔に輪を掛けたような仏頂面。
やだなぁ、目が合わせらんないよ。


「──────ハイ。いいわよ。出来上がり」
にこやかに笑いながら、津田さんが奏多の両肩を叩いた。
「花井さん。こんなもんでどうかしら?」
「あ、ハイ。素敵です」
髪型を変えるだけで、別人だ。
いつもより、大人びて見える。
「若いっていいわね。肌の張りも、髪のコシも全然違う。変にいじってないから、やり易かったわー。それに彼、素材がいいから、フォーマルがすっごく映える」
どこで見つけてきたのよ。すれ違いざま、ニヤニヤ顔で囁かれた。
苦笑いを返しつつ、紅茶のカップをそっと鏡の前に置いた。
「どうぞ」
笑いかけても、こちらを見ようともしない。
なんなの、その偉そうな態度は。
それならこっちも無視───と、いきたいところだけど…そうもいかない。
やっぱりここは、機嫌を取っておくべき…だよね?
本番に差し支えても困るし。
ちらり横目で視線を投げかけて、うっと固まる。
眉間に皺。頑なに結ばれた口元は思いっきりへの字。おまけに、あからさまな大きな溜息───。
超不機嫌。
俺に話しかけんな的オーラーを放つ無言の横顔に、声を掛ける勇気を失くす。
ああもう、どうしよ。

「じゃあ、花井さん。後はよろしくね。ジャケットはクローゼットの中に掛けてあるから」
仕事を終えた津田さんが部屋を出て行く。
ふたりっきり。
ますます、気まずい……。




「とわさん」
重苦しい空気に堪えかねたのか、先に口を開いたのは奏多だった。
「鏡越しにジロジロ見ないでくれる?」
「べつに…減るもんじゃないし、いいでしょ」
「あつかましい」
「あ…っ、あつかましい!?」
ふてぶてしい物言いに、思わず口調が強くなる。
おっといけない、平常心。
「……ねえ」
「なに」
「今、何やってんの? 高校は、卒業したんだよね?」
「大学生。音大」
「そっか。そっちの道にちゃんと進んだのね。大学楽しい? 授業ってやっぱり、音楽的なことばかりするの? 専攻はピアノだよね?」
「……つうかやめてくれる? その社交辞令的な会話。俺のことなんか興味ないくせに」
うっ。読まれてる。
だってそういう会話で繋がなきゃ、間が持たないんだもん。
共通の話題ってなによ?
みつからない。
「───俺も聞くけど。いきなり呼び出しといて、なんだよこれは。つうか、二度と俺には会わないつったよな、アンタ」
追い討ちをかけるように、鏡越しに睨まれた。
「…しょ、しょうがないでしょ? そんなの…時と場合によるわよ」
「開き直るなら俺、このまま帰るけど」
ああ、もう…っ。
この子の扱いづらさは相変わらずだ。
「ゴメンナサイ。謝るから。ちゃんと責任持って弾いてください。お願いします」
今日ばかりは、奏多に逆らえない。
偉そうな態度もNGだ。
今日だけ。今日だけ。そう心の中で何度も言い聞かせて、私は頭を下げた。


「いきなり呼び出されたかと思えば、わけもわからず弾かされて。鏡の前に座らされたかと思えば、人形のようにいじられて。俺の意見はなしか」
「ゴメン……。でも、説明はさっき、受けたでしょ?」
「男絡みで恨まれて、はめられて、その尻拭いを俺にさせるんだろ?」
「それ、どこで…」
「最初、ここに俺を案内してくれた人が、丁寧に事の次第を説明してくれたよ」
チッ。
瀬戸ちゃんめ、余計なことを。
人間的にはいい子なんだけど、口が軽いのが玉に瑕。


「女の争いに、部外者の俺を巻き込むな」
好き好んでやってるわけじゃない。
私だって巻き込まれたうちのひとりだ。
でも勿論、奏多にそれは関係のないこと。
文句言いたくなるのもうなづける。
「……ごめんね、巻き込んじゃって。城戸くんにはちゃんと、感謝してるから」
いくら憎まれ口を叩いても、奏多がここまで駆けつけてくれたのは事実。
私が困ってる、その理由ひとつで。
何度頭を下げても、感謝しきれない。



「……一番気に入らないのは、その余所余所しさ。なんだよ、城戸くんって。気持ちわる」
「だって…。職場なんだから、しょうがないでしょ? それにもともと、余所余所しいなんて言われるほどの関係じゃないじゃない」
友達でも恋人でもない、中途半端な知り合い。
私と奏多を繋ぐ関係ってなに? 
ともひろはもう、いない。



「……深い仲じゃん」
奏多が薄く笑った。
「…?」
「俺。とわさんの体のほくろの位置と数、言えるけど?」
「ば……ッ!! バカ!! なに言ってんのよ、こんなところで…っ!!」
思わず部屋の中を確認した。誰もいない。
よかった───、じゃないよ!
そんな、誤解を招く言い方しないで。
バスルームでのぼせた私を運んだだけじゃないか、奏多は。
ていうかあのとき、場所と数を確認できるほど、じっくり見たの?
バカ!! サイテー!!
辛抱堪らず奏多をぐーで殴りつけたところで、前触れもなくドアが開いて。
「───花井さん、ちょっと」
相原チーフが顔を覗かせた。

「…はい?」
手招きされるまま、部屋の外に出た。
扉がきっちり閉まるのを確認してから、チーフが声を出す。
「仲がいいのはよろしいことだけど、場所と立場をわきまえてね。また、よからぬ噂の的になるわよ。今回の事件で、よーく身にしみたでしょう?」
「……はい」
「あなたにそんな気はなくても、他人がどう捕らえるかはわからないから。人によって見方は違うのよ。もちろん。私は、あなたの味方だけど」
眼鏡越しに見えた目が、優しく緩む。
「よかったわね、間に合って」
「はい」
「私も、オーナーと一緒に彼のピアノを聞かせてもらったけど……たいしたものね。腕も技術も…文句なかったわ」
「そうですか。よかった……」
「若いし、見栄えもいいし。ピンチヒッターで終わらせるには惜しい逸材ね」
相原チーフの目がキラリと光る。
彼女は人事も担当してる。
いえ、もう今回だけで勘弁してください。


「…花井さんが五十嵐になびかない理由は、こういうことなのね」
ポツリと呟いた言葉は、あまりよく聞えなかった。
「彼、いくつなの?」
「たぶん…18、9ぐらいだと思いますけど……」
「どうりで。若いと思ったわ。で? あなたとは、どういう関係?」
「どういうって……ただの知り合いです」
友人でも恋人でもなく、ただの知り合い。
私と奏多の関係を表す言葉で、これ以上のものが見つからない。
「…いきなりの無茶な呼び出しを断りもせず、二時間もの長距離をタクシーで駆けつけて。ただの知り合いがそこまでしてくれるとは思わないけど?」
「…嫌味ですか?」
「いいえ。人に恵まれてるってことよ。周りに集まってくる人間は、その人の人柄を表すから。人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい」
にこやかに笑って、チーフが肩を叩いた。
「よかったわね、首が繋がって。彼に感謝しなさいよ」
ピンチヒッターのピアニスト。
全てが無事終わってからじゃないと、よかったなんて笑えないけど。
「───相原チーフ。ちょっとこっち、いいですか?」
「ええ。今行くわ。───じゃあ、後はよろしくね。今日はレストランの方はいいから、彼についててあげて」


慌しくバックヤードを掛けてくチーフの背中を見送りながら、ぼんやりと、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。




─── 人との繋がりは一生の財産よ。大事になさい ───

望まない繋がりは、どうしたらいいんだろう。
望んでも繋がらない場合は?
解けてしまった恋の糸は、もう繋がらない。






「とわさん」
「なに?」
「突っ立ってないで入れば? 話、終わったんだろ?」
「あ…うん。ごめんね」
いけない。
こんな大事な時に、なにを感傷に浸ってんだ、私は。
気持ちを切り替える為に、軽く頭を振って頬を叩いた。
ふと。
流した視線の先で奏多が楽譜から顔を上げるのが見えて、彷徨う視線がそのままぶつかった。
彼にしては珍しい真っ直ぐな眼差しに、意味もなく動揺してしまう。



「……なあ、とわさん」
「なに…?」
「アンタ、こんなとこで何やってんだよ?」
「何って、仕事───」
「んなこと、わかってる。俺が言ってんのは、何で職場が変わってんのかってこと。幼稚園は?」
「……辞めたよ」
「なんで?」
「何でって……どーでもいいでしょ」
「酒井さんとは、まだ続いてんの?」
「………とっくに別れたわよ。満足?」
「ふーん」
「なによ……」
「そういうことか」
「だから、なによ!?」
言いたいことがあるならはっきり言え。
「永久就職でも狙ってたの?」
「な……ッ!!」
「酒井さんと別れて、あてがなくなって、そのまま実家に出戻り? カッコ悪」

哀れむようなニュアンスを込めた笑い声が、奏多の口から零れた。
ば、馬鹿にして!!




「べつにっ、ともひろは関係ありません! 自分の判断で地元に戻っただけよ…」
「とわさんっていつも、自分に都合のいい言い訳ばっかするよな」
腹が立つ。
奏多の顔からバカにしたような笑みが消えない。
「言い訳じゃありません。それに私、あの人との結婚を考えたことなんて、一度もないから!」
永遠を夢見ることもなかった。
悲しい結末に胸が痛んで、思わず強い口調で睨みつけてしまう。
「ふーん…」
「……なによ」
「ここのレストランって、ウエディングもやってるんだって?」
「そうだけど……なに?」
「知ってる? ウエディングに携わる仕事をしてると、婚期を逃すってジンクス。このままだとアンタ、絶対行き遅れるよ?」
「──────奏多…ッ!!」
怒りのあまりに振り上げた拳を今度はあっさり交わされて、そのまま腕を捕られた。
「きゃぁ…っ」
不意に視界が反転したと同時に、肩と頭に軽い痛みを覚える。
「…いっ、たぁ……ッ」
テーブルの上に押し倒されたのだ、と理解するまでに、そう時間はかからなかった。
背中に固いテーブルの感触と、目の前には身支度の整えられた端正な顔。
その後ろに見えるのは、サロンの天井───。



「な、にっ、やってんのよ……っ!!」
押し返そうと動いた拳はまた捕らわれて、あっけなくテーブルの上に縫い付けられた。
何度あがいても、びくともしない。
「──────バカじゃないのか、アンタは。何度も黙って、殴らせたりするわけないだろ。男に手を上げる時は、押し倒されるぐらいの覚悟はしとけ」
くやしい、くやしい、くやしいっ。
その偉そうな物言いも、人を見下げた言い方も。
「つうか、大事なピアニストに怪我させたら、ヤバイのはそっちだろ」
大きな溜息をついたのと同時に、私の腕を押さえつけていた手が緩まった。
「……っ」
自分が言い返せない立場にいるのが、一番悔しい。
奏多といると、いつもペースを崩される。



「とわさん、ちょと出てってくれない?」
「は?」
「演奏前に集中できない。どうせ弾くなら、いい演奏して欲しいだろ?」
人のこと散々けなした挙句、押し倒しといて、集中できないから出て行け?
なんて自分勝手な!




「……ていうか、城戸くん。私、自分から頼んどいてなんだけど……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「なにが?」
「ちゃんと弾けるのかって聞いてるの!」
「…呆れて物が言えない」
「は?」
「今さら俺に、それを聞く? つうか、馬鹿にしてんのか? 弾けると思ったから呼んだんだろ?」
「だって…。アンタしか思いつかなかったから……」
「──────ジャズ、クラッシック、ポップス、ポピュラー。どれも問題ない。なんだったらコンクールで弾くような思いっきり難しい曲でも弾いて見せようか? こんなレベルの曲、初見で弾ける」
用意した楽譜の山を私に突きつけた。
「なに……?」
「いらない。一度見れば、頭に入る」
「いらないって、奏多──────」
「花井さん。時間。店、開けるって」
「だって。とわさん」
「だって、じゃない! どうすんのよ、これ」
楽譜を抱えたまま振り返ろうとした私は、そのままの状態で硬直した。
背中に重なってくる奏多の気配。
自分の体のすぐ横から伸びてきた手がドアノブを引いて、小さな音を立てて扉が閉まる。



「ちょ…っと、奏多……何やって───」

真横に伸びた、奏多の腕に息を飲む。
囲われた。






「ギャンブラーだな、アンタも」

耳元に息を吹きかけるように囁かれた。
ぞくん、と。体が震え上がる。


「俺の音聴いたのなんて、あれ一度きりだろ。それで判断しちゃうんだから」
「…賭けよ。ていうか……、アンタしか思いつかなかったって、言ってるでしょ? ああ、もうっ! どいてって! 時間がないんだか───ッ!?」
囲われた空間から抜け出そうと動かした体を後ろから抱きしめられた。
驚いた拍子に腕から楽譜が滑り落ちて、音を立てて散らばった。
五線譜に描かれた音の渦が、床一面に広がる。
「っ、なにやってんの…っ、いいかげんに、してよ…っ!」
動かした体はびくともしない。
それどころか、一層腕に力が込められる。
背中に密着する体から、奏多の体温がリアルに伝わってくる。
「嬉しかったよ。俺の音、認めてくれて」
「……え?」
抱きしめた腕が軽く緩んだかと思うと、そのままその手に目隠しをされた。
また、耳元で囁かれる。







「───とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ」


目を開けた時、奏多はもう、そこにはいなくて。
しばらくそこで、呆然と立ち尽くしたまま動けなくなっていた私の耳に届いたのは、澄んだピアノの音色。









「───あ…。この曲、なんで………」


五十嵐さんの曲だ。
彼が彼の時間だけに弾く、お客様にも人気の高いソナタ。
確か渡した楽譜の中には、この曲は入っていなかったのに。






「すごいのね、あの子。一度聴いたら、弾けるんだもの」
「───相原チーフ」
いつからそこにいたのか。
気がつけば扉の前に、相原チーフが腕組みをして、こちらを見つめて微笑していた。
くいと顎でしゃくられて、彼女の後について、ピアノの袖側に回る。
「どうしてあの曲を城戸くんが…?」
「教えてくれって言われたのよ。五十嵐が入る日に、その人の持ち曲を楽しみに来る客がいるだろうって。楽譜は五十嵐が持ってるからないわよって言ったら、テープでいいからですって。一度聴いただけよ? すごいわね、あの子」
「……ああいうの、絶対音感っていうんですよ」


耳で聞いて、心で奏でて。
音が頭の中に入っているから、キーを見失うことなく反射的に正確に打鍵できる。
かなたの音楽センスがこれほどまでとは、思わなかった。







「なーんだ、今日は五十嵐さんじゃないのか」
「でもあの人も、ねえ。なんだかカッコよくない?」
「ていうか……、なに。すごく、上手───」


目を閉じて。音を拾って。心で聴いて。
聴く人みんなが立ち止まる。そっと振り返って目を閉じて、彼が奏でる音色に、旋律に。





「勿体無いわね」
「え?」
「あの子をこのまま、ピンチヒッターで終わらせるのは。うちに欲しい逸材だわ」
「…ええ。本当に…」





賭けでもギャンブルでもないの、奏多。
私がキミを呼んだのは。
耳に残ってるのよ。
いまだに、あのとき聴いた奏多のピアノの音色が───。












────── とわさん。あんたの耳の記憶が正しいってこと、証明してやるよ ──────






そう言った奏多は、何も楽譜のない中で一音も間違えることなく。
見事、三時間。弾いて見せた。













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とわの彼方に comments(0) -
悲しみの出口 3

「──────花井さん、ちょっと」
忙しいランチタイムを終えて、サロンで仲のいい同僚とひと息ついていた時だった。
笑みの消えた真面目な顔つきでチーフに呼ばれた。
「…はい?」
「五十嵐さん、まだ来てないんだけど。ちゃんとアポ、取ったわよね?」
「え?」
「……いつもなら、2時間前には楽屋入りしてくれてるんだけど…何かあったのかしら」
困ったわね、と。
中指で眼鏡を押し上げながら、相原チーフが綺麗な顔を曇らせた。
「ちょ、ちょっと待ってください。五十嵐さんのスケジュールって、確か来週じゃ──────」
「何言ってんの。今週よ。ちゃんと予定表、確認したの?」
「しました。でも、麻生さんにもらった予定表には、五十嵐さんの担当日は来週って──────」






あ。



彼女の名前を出した瞬間、チーフも何かを感じ取ったらしく。
「……見せて」
真面目な顔で私の手から紙を抜き取った。
「───花井さん。これ、大北のスケジュールよ。受け取った時にネームをちゃんと確認しなかったの?」
うそ。
相原チーフの手元から思わず紙を奪い取る。
本当だ。
スケジュールに記されたネームは『OOKITA』───五十嵐さんのじゃない。
「……やられたわね」
配ったのは麻生さん。
普段、雑用なんてしない彼女が、かいがいしく予定表を配ったりしてると思ったら、全てはこの為だったのか。
私を陥れる為に、わざと──────。
「大北の方は? 五十嵐とスケジュールが入れ替わってないかしら。瀬戸さん、確認してみて」
「───確認取れました。大北さんの方は間違いないそうです」
「じゃあ今日、五十嵐の代わりに大北が来てくれるということは、ないということね?」
「……はい」
くやしい。
麻生さんはスケジュールを渡し間違えたのではなく、故意に違うピアニストのものを渡したということだ。
わざわざ同じものをコピーして、私に。
もちろんそれを信じて確認を怠った私のミスではあるけれど……許せない。
その腐った根性が!


「ちょ、花井さん!? どこ行くつもり!?」
「どこって───麻生さんのところに決まってるでしょ」
あわわ、と。
その場で見てるだけだった同僚が私のただならぬ殺気を感じて、腕を取った。
キッと睨みつけた私に一瞬、怯みかけて、それでも腕を離さない。
「行ってどうするのよ?」
「腐った根性、たたき直してやる」
許せない。
私が気に入らないのなら、正々堂々やればいい。
私ひとりの為に、五十嵐さんを巻き込んで、店にも迷惑掛けて。
これだから『恋愛がすべて』の女なんて嫌いだ。
ふざけんな。
「ちょ、たんま! 今、手を上げたりなんかしたら、ますます向こうの思う壺だって。悪い立場にもっと追い込まれちゃうよ?」
「だって……!」
「あの人が何でコンピューターって呼ばれてると思うの? べつに仕事ができるからとか、頭いいからとかじゃない。計算高いからよ。たぶん、花井さんが怒って怒鳴り込んでくることも、全部計算の上のはずだから。今行くのは、絶対まずいって!」
「じゃあ私に、泣き寝入りしろっていうの!?」
勝ち誇った顔で笑う、麻生さんの顔が脳裏に浮かんで消えた。
くやしさで、目尻に涙が溜まる。

「……花井さん。今、あなたが行ったところで、起きてしまったことはどうにもならないわ。麻生さんのことは後で確認を取って、処分はちゃんと下します。だから」
「あの人のことだもの。そんな遠まわしなことしてたら、その間に言い訳を作って逃れるに決まってます。だったら直接、私が───」
「花井さん!」
チーフが声を荒げた。
静かな怒りのこもった声色に、空気が低く震える。
隣で、同僚の瀬戸ちゃんが息を飲んだのがわかった。
「責任の擦り付け合いよりも、今一番、何を優先すべきか考えなさい。まだ、夜のオープンまでに時間はあるから。五十嵐に連絡して、謝罪して、急いで来てもらいなさい」
「でも……っ」
「言い訳は後。たとえ麻生さんが引き金だったとしても、最終的な確認を怠ったのは花井さん、あなただから。責任逃れをする前に、やるべきことを優先しなさい。あなたひとりの為に、店の開店を遅らせるの?」
「……っ」
チーフの言うとおりだ。
内輪で揉めてる場合じゃない。
夜のオープンまで後、二時間半。
それまでに五十嵐さんに来てもらうか、誰か別のピアニストを手配しないと──────。


「もし捕まらなかったときの為に、大北さんとヘルプの三人にも当たってみるから。とりあえず花井さんは、五十嵐さんに連絡つけて」
同僚の瀬戸ちゃんが、ポンと肩を叩いた。
落ち着け。目が語ってる。
「……はい」
「花井さんがお詫びに、食事に付き合うとでも言えば、どんな予定もキャンセルして来てくれるわよ。五十嵐は」
「わ、私に体を張れと……?」
「べつに一夜を共にしろって言ってるわけじゃないんだから。ミスが食事ひとつで償えるのなら、安いものでしょ? あなたのお給料じゃ行けないランクのお店、連れてってもらえばいいのよ」
「あの、でも……」
「お姫様気分でエスコートしてもらって、おいしく食事して、お酒もいただいた後は笑顔でさよならしちゃえばいいの。それぐらいできるでしょ?」
「む、無理です」
できるかできないかじゃなくて、行きたくない。
あんな手の早そうな男と食事になんて行ったら、巧みなトークに騙されて、お酒に飲まれて──────私が食われる。
冗談じゃない。
「ていうか、早くしなさい。市内にいれば、まだ間に合うから」
うーっ……。
仕方ない。
食事のことは頭の隅に避けとこう。
それは最終手段に取っといて、とにかく電話──────。



「……あれ?」
何度コールしても出てくれない。
自宅も携帯も応答がなく、すぐ留守電に捕まる。
なんで……。









「──────あ」






「どうしたの? 捕まった?」









────── 週末は演奏会で、ベルギーに行くんだ ──────  

鼓膜に残こる甘ったるい言葉を思い出した。






「……チーフ。今、五十嵐さん…ベルギーです……」


タクシーすっ飛ばして間に合う、なんていう距離じゃない。





「大北は? 捕まらないの!?」
「……彼も演奏会だそうです。国内みたいですが、ちょうど最中らしくて……来てもらうのは無理です」
「ヘルプの3人はどうなの?」
「川見くんは大学。彩ちゃんは、生徒レッスン。中田くんは…旅行中だそうです。それぞれ外せない予定が入っているみたいで……全滅です」
「なんで、そろいもそろって…」
もしもの時の為に、誰かはキープに入ってるはずが、誰もいない。
頭を抱えた。
「…だから言ったでしょ。コンピューターだって。
五十嵐がベルギーで捕まらない距離にいることも、他が全員捕まらない日だということも、全部計算の上での”今日”なのよ」
麻生さんが勝ち誇ったように笑うのが見えた。
なんで。
いやだ、こんなのは。
くやしい。くやしい。くやしい…っ。
たくさんの言いたいことを喉元まで運びつつ、言葉にできない。
唇を噛締めて、怒りに拳を握り締めて、上の判断を待つことしかできない。
突っ立ってるだけで何も出来ない役立たずの自分に、一番腹が立つ。




「………私、どうすればいいですか」
「もう正直に話して、頭下げるしかないでしょ。オーナーが何て言われるかはわからないけれど…今日はもう、機械的なBGMに頼るしかないわね」
「機械的なBGMって──────。ピアノ演出が店の看板にもなっているのに、そんなことしたら──────!」
「仕方ないでしょ? 専属の五十嵐は捕まらない。大北も、ヘルプの北見くん達も全滅。花井さんが弾いてくれるとでもいうの…!?」


低い怒りの声に、その場がシンと波打つ。
普段もにこやかな人ではないけれど、今日の相原チーフは今まで見た中で、一番怖い。
静かな怒りにその場の空気がピシと凍る。
部下のミスは上のミスだ。
ただ押し黙まって下を向くことしかできない私の背中を相原チーフが優しく撫でた。



「…大丈夫よ、花井さん。頭を下げるのは私だから。あなたは黙って、ついてくれば──────」
「……弾ければ誰でもいいんですか?」
「え?」
「言いましたよね? 私が代わりに弾いてくれるのかって。私は勿論、無理ですけど……ピアノが弾けるのなら、誰もいいってことですよね?」
「誰でも、ってわけにはいかないけど……。素性がはっきりしてて、ある程度技術を持ってる人がいるのなら、この際、プロアマは問わないわ」
「だったら──────。私、知ってます。弾ける人」








それが奏多だった。









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とわの彼方に comments(4) -
悲しみの出口 2

ともひろと関わる全てのものから、私は逃げた。
私から連絡しない限り、奏多は連絡先を知らない。
だけど。
きっかけを作ってしまったのは、自分。

そう。
あれは去年の秋。












新しい就職先は、思ったよりも早くに決まった。
遠縁に当たるおばさんの友達のいとこが経営するレストラン『ジュピター・ガーデン』。
要はコネ、要は他人。
中途半端なコネクションは、変にかしこまらなくてよくて、気が楽だった。
来年度の教職員の採用募集までの腰掛になればいい、そんな軽い気持ちではじめたのが5月。
たかがレストラン。たかがウエイトレス。
甘く見ていた。

『ジュピター・ガーデン』は、閑静な住宅街の中央に位置するフレンチ専門のレストランだった。
タウン誌にもよく取り上げられ、レストランとしてはもちろん、コンサートホールやウエディング。各種パーティに利用する人が多く、土日や週末はほぼ貸切になる。
評価も高く、地元では人気のスポット。
とにかく忙しかった。
仕事を覚えるのにひと月。
状況を把握して、自分らしく動けるようになるまでにそこから更にふた月かかった。
サービスをスムーズに取り行っていく機敏さと正確さ。
わずかな時間で最高の満足を提供する高い技術。
お客様に満足してもらう為には努力を惜しまない、スタッフのサービス精神の高さとプロ姿勢は見事で。
たかがと、馬鹿にしていた自分が恥ずかしかった。


通常勤務はレストラン。
忙しいときは企画やイベントのヘルプに入る。
これでも半年、頑張った。
シフトに入る以外の時間は、資格を取る為に学校にも通って。
やるからには中途半端は嫌な性格から、私は次第に新しい仕事にのめりこんでいった。
新しいことだらけ、覚えることだらけの毎日はめまぐるしく、勤務中は感傷に浸ってる暇がない。
正直、忙しさに助けられたのも事実。











「──────じゃあ、来週は週末の3日間ということで構わないかな?」
「はい。よろしくお願い致します」
私は腰を折って、深々と頭を下げた。
相手はうちの専属ピアニスト、五十嵐さん。
食事をしながら生演奏を楽しめるのもジュピター・ガーデンの人気のひとつで、店では数人、ピアニストを抱えている。
中でも、若手で実力もルックスもナンバーワンの五十嵐さんの人気は高く、彼目当てに店に来る女性客も少なくはない。
少し色素の抜けた長髪に、鼻筋の通った顔立ち。
切れ長で、一般的な日本人よりも彫りが深く黒い瞳。
仕立ての良い高級そうなスーツを嫌味なく着こなす五十嵐さんは、一見、ホストのようなルックスで──────実は私の苦手とする男の部類だった。
彼とは、打ち合わせの場へお茶を運んだのが初対面。
それから顔を合わすたびに声を掛けられるようになって、彼の打ち合わせの日には、なぜか向こうが私を指名してくるようになった。
キャバ嬢じゃあるまいし、指名ってなによ。
立場を利用して、自分が気に入った従業員を指名するその腐った根性が気に入らない。
彼を苦手と位置づける理由のひとつがそれ。
もちろん、まだある。



「明日からしばらく、演奏会でベルギーに行くんだ」
帰り際、紳士的な笑みを浮かべながら、五十嵐さんが私を振り返った。
打ち合わせの後は、担当が玄関先まで見送ることになってる。
「素敵ですね。頑張ってください」
「ああ。ありがとう」
差し出したコートの下で、五十嵐さんの手が私の指とぶつかった。
あ、っと思った時には、長くて細い指が私の指を絡め取って、そのまま手を握られた。
驚いて顔を上げた私に、丹精な顔が微笑して、そのまま耳元で囁いた。



「───お土産買ってくるけど……何がいい?」

男の人なのに、甘ったるくて耳に響く声。
ゾクリとした。
官能的な身の震えじゃない。
拒絶反応。
思わず気持ち悪くなって、口元に手を当てたくなるのをかろうじて堪えた。
見た目、いい男なのは認める(長髪はタイプじゃないけど)。
でも、自覚あるのもどうかと思うよ。
自分にかかれば堕ちない女はいないって、本気で思ってるその態度。
生理的に受け付けない。
嫌い、その二。


「じゃあ───チョコレートを。ベルギーのチョコレートって有名ですよね? 休憩時間に、みんなでお茶菓子にいただきます」
ニコリ笑って、自然な動作で彼から離れた。
手にしたコートを手渡す。
もう、いいからさっさと帰ってよ。
「……交わすのがうまいね、花井さんは」
そういうところがいいんだけど、手が軽く肩に触れて、去り際にまた耳元で囁いた。
嫌い、その三。
軽々しいスキンシップ。
何かにつけてボディタッチをしてくるその馴れ馴れしさ。
「では来週。宜しくお願いいたします」
グーで殴りつけたくなる心を無理矢理押さえつけて、私は笑顔で頭を下げた。
顔で笑って心で打つべし。
引きつった笑顔を深く身を折ることで誤魔化して、彼を見送った。



「───今のは。花井さんだけに特別に、って意味だと思うけど?」
突然、降って沸いた声に視線をさまよわせると、ホールの入り口のところで、相原さんがこちらに腕組した状態で立っていた。
ひっつめて後ろひとつに束ねた黒髪に、眼鏡。
地味な外見の彼女は、私直属の上司。
目が合うと、綺麗に口紅で縁取られた唇の端を持ち上げた。
「高いアクセサリーやブランド物のバッグでも、ねだってやればよかったのに」
「……冗談やめてくださいよ」
下心の込もったプレゼントをホイホイ受け取るほど馬鹿じゃないし、好意を平気で物に変えられるほど小悪魔にもなれない。
「ていうか。いつからいたんですか、チーフ」
あの声が聞えてたんだから、すごい。
どんだけ地獄耳なんだ。
「うん。またあの五十嵐がね、従業員に手を出しやしないかと、見張ってたんだけど……その心配は、なさそうね。
ていうか、どちらかといえば、花井さんが五十嵐に手を上げそうで…」
「どういう意味ですか」
私だって、伊達に社会人として経験を積んでいるわけじゃない。
苦手な人でも、笑顔で話すくらい平気だ。
教職時代も、モンスターペアレントって呼ばれる部類の保護者なんていくらでもいた。
それに比べれば五十嵐さんなんか、はるかにマシだ。

「まあ、花井さんなら、公私混同はしないと見込んで、彼の担当にしたんだけど」
「お陰で風当たり強いですけどね」
うちには専属のピアニストが二人。ヘルプで来てくれるピアニストが三人。
計五人のピアニストを抱えている。
その中でも甘いマスクの五十嵐さんは、従業員の中でもダントツの人気で──────彼の恋人のポジションを狙ってる女子社員は少なくなかった。


「……とくに麻生さんなんて、あからさまですよね」
彼女を思い浮かべるときには、いつも溜息が出てしまう。
入社四年目の麻生さん。
ウエディングプランナーの資格を持つ彼女は、企画部の中でも実力派。
綺麗で仕事も出来て、女らしい色気が匂う人。
私が来るまでは、五十嵐さんと結構いい仲らしかったみたいなんだけど……。
「そりゃ、気に入らないでしょうよ。入社して半年の新人が、いきなり彼の担当に抜擢されて、一番近いポジションにいるんだから」
「そんな他人事みたいに言わないでくださいよ…」
そうなることを分かってて、私を彼の担当にしたのは相原チーフのくせに。
五十嵐さん絡みで、女子社員の一部から、私は目の敵にされている。
嫉妬と羨望の眼差しってやつだ。
女の嫉妬ほど怖いものはない。

「そんなにみんな、五十嵐さんがいいのなら、喜んで担当交代しますけど」
「あら。それは困るわね。担当を替えたことで、また新しい揉め事、増やしたくないし」
「ていうか、変えてください。私、正社員っていってもまだ見習いですし……資格も、まだ取得途中で──────」
「ピアニストのお世話に資格なんていらないのよ、花井さん。そういえばあなた…レストランから企画・イベントの方に、転属願い出してたわよね?」
「はい」
「じゃあ、チャンスじゃない。反対に利用してやるぐらいの気持ちがなくて、どうするのよ」
「それとこれとは、話は別で……」
視線を感じて顔を上げると、相原さんがじっとこっちを見てた。
値踏みでもするかのように、上から下まで視線が撫でてく。
な、なんですか。



「……花井さんって彼氏、いないの?」
「いません」
「募集中?」
「いりません」
「あら、寂しいこと言うわねえ」
「いいんです、しばらく独り身で。そのほうが気が楽だし…」
「だったらべつに、五十嵐の担当でも問題はないじゃない」
「……でも。嫌いなんですよ、ああいう男の人は…」


慣れてる人。軽い人。自分の良さに自信があってそれをひけらかす人。
どうも苦手だ。
人間の中身まで軽く見えちゃう。
本当にイイ男っていうのは、自分からひけらかさなくても自然に向こうから寄ってくるもんじゃないのか。
だいいち、男なんて五十嵐さんだけじゃないじゃん。
みんなもっと、外にアンテナ向けようよ。
視野、狭すぎだって。



「……花井さんって、職場で敵を作っちゃうタイプよね」
「なんですか、それ。ここが特殊なんですよ。前の職場ではみんな仲良くて──────」
「バカねえ。女だけの職場で何を争うのよ?」
「…はい?」
「そういう無自覚なのが、たぶん一番あの子の勘に触るんだわ」
相原さんが困ったみたいな声で笑う。
あの、意味わからないんですけど。




「まあいいわ。彼女──────麻生さん、コンピューターだから」
「コンピューター、ですか?」
なにそれ。
頭脳派? 仕事できるって意味?
「意味はいずれわかると思うけど……まあ、気をつけて」
後から聞いた話だけど。
麻生さんと男絡みでもめて、辞めさせられた女子社員は数え切れないらしい。
いくら仕事ができても、そんな人間的に欠陥のある人、辞めさせちゃえばいいのに。
そんな程度に軽く考えてた自分に、まさか災いが降りかかろうなんて。
このときの私は思いもしなかった。










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とわの彼方に comments(0) -
悲しみの出口 1
涙とキスと。



吹き抜ける風に、流れる髪を押さえた。
春、4月。
車から降りた私は、視界に舞い落ちる淡い色を見つけて、空を仰ぐ。
見上げたのは駅の入り口に立つ、大きな大きなソメイヨシノの木。
いくつもの花を付けた桜が空へと大きく枝を伸ばし、堂々とその存在を主張していた。
咲き誇る淡いピンクの花が、また1年、時が過ぎたことを知らせる。
はらり、舞う桜。
花の隙間から零れる光に目を細めた。




「とーわ!」
ふいに声を掛けられた。
懐かしい声に心を震わせながら、振り返って私は笑う。
「なに見てたの?」
「見て。桜──────」
「……うっ、わ…。すごいね、この木。樹齢何年ぐらいあんの? こんな大きいの初めて見たよ」
少し大きめのトートバッグを肩に掛け直しながら、私の隣で同じように木を見上げた梓が感動の声を上げた。


見惚れるほど美しい桜の木は、今年も満開を迎えた。
ここに立つと思い出す。
もう恋なんて二度とするもんかと強く心に誓ったあの日の決意を。
地元に戻ってきた日。
駅に降り立った私に、突如吹きつけた強い風が、降り積もった花びらを舞い上がらせ、私の心を散らせた。
目を閉じれば、あの日の桜吹雪が、今でも瞼の裏に舞う。





「…なーに、とわ。まだ感傷に浸ってんの?
 あれから、二年経つんだよ? もう……忘れてもいい頃でしょ」


眠れない夜を何度やり過ごしただろう。
枕を何度、涙でぬらしたのかわからない。
失恋ソングばかり集めて、バカみたいに毎日、繰り返し聴いた。
朝が来るとつい隣を確かめてしまう癖が悲しくて、休日の夜は朝まで映画を見て、夜が明けてから眠った。
毎日枯れるほど泣いて、泣いて、私は今、ここにいる。

あれから二年。
悲しい記憶はなかなか消えてはくれないけれど。
それでも時は前へ、前へ。
どんなに悲しくて辛くたって、朝は来るし、明日は待ってくれない。
過去を振り返って後悔したところで、未来は後ろに繋がってないのだ。
そしたらもう、前に進むしかないじゃない。
心の傷はまだ完全には癒えなくても、少しずつ確実に、時間は日常を取り戻してくれる。




「…あれから、連絡はないの?」
私のすぐ隣で、瞳に桜を映したままに、梓が聞いた。
「誰から?」
「酒井さん」
「……あるわけないじゃん。もう、終わったんだから…」


見事なくらいないよ。
やっぱりともひろは潔い。過去なんて振り返らない。
ふたりの関係は、あの日できっぱり終わりを告げた。




「あーあ。とわなら彼を変えられるって思ってたのになー」
「なにを根拠にそんなこと…」
「酒井さんが職場まで押しかけて来た時にさ、とわだけは特別なんだって、運命を感じたのに。つなんなーい。
結局とわもさ、酒井さんの過去の女のひとりになっちゃったわけだ」
「まあ……そういうことだね」
大したことない風を装って、笑いながら言った。
「でも…ホント勿体無い。あんないい男、他じゃなかなか見つからないよ? もう少し、頑張ってみればよかったのに」
「先が見えてることを頑張れない。誰だってサヨナラ前提で、恋なんかしないでしょ? もう夢ばかり見てられる年齢じゃないよ、私らは」
今年で24になる。
来年はアラサー領域だ。
四捨五入すれば30。やだな。

「まだまだ若い!全然行けるよ!って、墨田先生によく言われるけどさ、若さなんて一瞬だよね。のんびりしてたらホント、あっという間に30が来ちゃう」
「墨田先生かー。懐かしい。元気でやってるの? ていうか、まだ独身?」
「独身も何も。彼氏すらいません状態よ。いろいろ、セッティングはしてあげてんだけどねー。あの人、高望みしすぎなのよ。ストライクゾーンはもっと広く持たなきゃ。あの調子じゃあ、いつまでたってもゴールは見えてこないわ」
「あはは。相変わらずなのね。環や……子ども達も、みんな元気にやってる?」
「元気元気。相変わらず環は合コンの斡旋ばかりやってる。
入園当初、親から泣いて離れられなかったあの子らもさ、今では年少さんのお世話とかやってんのよ。すごいでしょ?」
「そっかぁ…。久しぶりにみんなに会いたいな…」
子ども達の笑顔を思い浮かべると、自然に顔がほころぶ。
また、みんなに会いたい。
「会いにくればいいのに」
「うん……。今の仕事が結構、忙しくてさ。またいずれ、ね。───ハイ、荷物」
梓から預かった一泊分の荷物を、車のトランクに入れて、運転席に戻ってエンジンをかけた。
フロントガラスに積もった桜の花びらが、発進と同時に空へ舞い上がる。



「…けどさ」
「ん?」
「なにも仕事まで、辞めちゃうことなかったのに……」
「だって……。住むとこ、なくなっちゃったんだもん」

春からともひろと住むつもりだった。
そのつもりで、住んでいたマンションを三月いっぱいで退去する手続きを済ませ、荷造りもほぼ、完了してたのに。
私が出た後の入居者はすでに決まっていて、取り消しも出来ず。
予定通り、三月にはそこを引き払った。
春の新生活シーズン真っ只中。
場所と環境と、金額と。見合う物件はなかなか見つからず、結局、一人暮らしを諦めて、実家に戻ることにした。
仕事もそのとき、辞めたのだ。




「べつに、ここから通えばよかったじゃん。二時間ぐらい、往復できない距離じゃないでしょ」
「一時間に一本しか電車の来ない田舎からじゃ、通えないって。車じゃ交通費かかりすぎるし…。
そういう梓は、自分だったら通うの?」
「あー…、ナイナイ。大手企業ならともかく、たかが私立幼稚園ぐらいで。二時間もかけて通うなら、近場を探すね」
「でしょ?」
「まあ……その方がとわにはよかったのかもね。少しでも酒井くんと距離、置きたかったんでしょ?」
梓の言葉に、私は困ったように笑った。

別れた年の春先に、街でともひろを見かけた。
もう私のものじゃなくなった彼は、別の女のものになっていた。
婚約者のリオコさん。
隣にいたのは、たぶんその人。
頭では理解してたつもりなのに、気持ちはまだ、それについていけなくて。
傍らに寄り添う彼女の存在に、胸が痛くて辛くて、ビルの陰に隠れて泣いた。
泣くな、泣くな。
強く何度も言い聞かせても、溢れる涙はしばらく止まることがなかった。
もう、離れたかった。
ともひろと過ごした思い出の街を。
もちろん、地元にも数え切れないほどの思い出は散らばっている。
でもその時の思い出に、恋愛感情はなかった。
この街にはともひろはいない。
街でばったり───なんていう偶然は、年に数えるほどしかない。
時期を見極めれば、回避できる。
もうともひろには、会いたくなかった。




「でもさ、痛いよね。恋も仕事も男も住むとこも、ぜーんぶなくなっちゃってさ。あー、かわいそう」
「…うるさい。なによ、梓ー。ダメ出しに来たのなら帰れば?」
「アンタが柄にもなく、感傷に浸ってるからでしょ。からかいたくもなるわよ」

笑いながらも、梓が私を心配してくれてるのは知ってる。
へたな同情は、惨めにさせるだけだということも。
軽口叩いて、痛い思い出を笑い飛ばしてくれる方がよほどマシ。



「梓」
「んー?」
「……ありがとね」

ちゃんと食べてる? 眠れてる? 寂しかったらいつでも会いに行くから。
この二年。梓はいつも励ましてくれた。気にかけてくれた。
泣きたい時には電話をくれて、落ち着くまでずっと、話を聞いてくれた。
長期の休みに入るたびに、こうやって会いに来てくれる。
梓の存在は、いつも私の励みだったよ。




「感謝の気持ちは現金でヨロシク」
「もう…。なにそれ…」
「うそうそ。でも、美味しいお店、連れてってくれるんでしょ?」
「うん。予約入れといた。地元の鯛を食べさせてくれるお店でね、それに合う地酒を出してくれるんだけど…それがすっごく美味しいの! 梓、絶対気に入ると思うんだけど」
「えー、マジで? 嬉しい!」
「とりあえず、うち寄って荷物置いてからね。飲むなら、車じゃダメだし」
「了解。あー、おなかすいた! 今日はとことん飲むから。ちゃんと付き合いなさいよー」



失恋の痛みは何度経験しても、辛い。
この痛みには、慣れっこない。
アドレスも着信もメールも、全てを綺麗に消去しても、気持ちだけはなかなか過去になってはくれなかった。
機器みたいに、気持ちも感情も、簡単にリセットできたらどんなに楽だろう。
何度も思って、何度も泣いた。

だけどべつに、失恋したぐらいで死にゃしないし。
恋人いなくたって、毎日楽しくやってる。
梓が思ってるよりも、ちゃんと元気にやってるから、私。
心配しないで、梓。












一度、実家まで戻って荷物を片付けてから、街へと出かけた。
目的地は、地元食材をふんだんに使った日本料理を食べさせてくれる料亭。
女性をターゲットにしているというだけあって、上品でお洒落な佇まい。
全室個室っていうのも嬉しい。
地酒から口当たりのいいカクテルまで、幅広いアルコールの品揃えも魅力的なお店。
予約しておいたのは、鯛のお鍋がメインの旬の食材を使ったコース料理。
薄くスライスしたお刺身をダシのきいたお湯でしゃぶって、大根おろしと鷹のつめの入ったピリ辛おろしと、自家製のポン酢で食べる鯛のお鍋がもう、絶品で。
梓から出る言葉は、うまい!美味しい!の連続だった。
お料理に合わせて出してくれる地酒が、これまた美味しくて…箸が進む。お酒が進む。話が弾む。
色気よりも食い気。食い気よりもお酒なひと時。
彼氏とじゃあ、そうもいかないでしょ。






「ねえ、梓……。ずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「その指輪、なに?」
左手薬指。
眩しいぐらいに存在を主張するその輝きは、もしかして──────。


「あー、うん。結婚、決まったの」
「うそ。ホントに!? いつ?」
「年内に籍だけいれて、挙式は冬休みに海外で挙げる予定…」
「やーん。おめでとう!! ていうか、何で今まで言ってくれなかったの!?」
「はっきり決まるまでは、って思ってて…。実は今回、報告を兼ねて、ここまで来ました」
ぺろりと舌を出して、梓が申し訳なさそうに肩をすくめた。
まったく、もう。
水臭いんだから。
「ちゃんと話してくれてれば今日、お祝い準備してきたのに…」
「いいよ。お祝いなんて。そうやって喜んでくれるだけで、十分。ていうか、アンタ置いて幸せになる方が申しわけないくらいで……」
「何言ってんのよ。私のことなんて、梓の幸せには関係ないじゃない。じゃあ、ここは私が払う。前祝い! お祝いはまた後でちゃんとするけど、今日はそれくらいさせて?」
「ありがとう。でも、それは遠慮しとくわ」
「なんで?」
「あたし、結構飲んでるし…。それに……高いでしょ、ここ」
こそ、と梓が囁いた。
個室なんだからさ、別に声を潜めなくてもいいのに。
その判断が付かないくらい、今日の梓は出来上がってるらしい。



「これでも私、稼いでるんだよ? 幼稚園の時のお給料よりも貰ってる」
「マジで?」
「マジっす」
「……そっか、すごいね。ていうか、とわはもう、幼稚園に復帰する気はないの?」
「んー。やりがいのある仕事ではあったんだけど……。
新しい仕事にもようやく慣れてきたところだから、今の仕事、もう少し続けてみようと思って」
「お給料がいいんじゃ、辞められないか。教諭職は安月給だもんね。やりがいだけでは生活できないよ。
それに……幼稚園じゃあ、出会いのチャンスもないしね。女の花園だもん。男なんてバスのおっちゃんと、園長だけってどうよ? 父兄と…なんてわけにはいかないし」
「まあ、そこんところは今の私にはありがたいんだけど……」
ちび、とお酒を口に運んだ。
ほんのり桜の味のする地酒がすうと体に吸収されて、ほどよく酔わせてくれる。
気持ちがいい。


「何言ってんのよ、とわ。そんなこと言ってるから、アンタ、いつまでたってもひとりなのよ」
「…へ?」
ずいと顔を近づけてきた梓が、いきなり両手で私の頬を挟んだ。
あっちょんぷりけでもされたように頬が潰れる。
い、いたひ…。
火照った私の頬よりも、頬を包む梓の手の方が熱い。
こりゃ、そうとう酔ってるな。



「ていうか、なに? この艶のない肌は。気合の入ってないメイクは! 
とわは素材がいいからさ、ノーメイクでも全然いけるけど……だからなおさら勿体無いって。酒井さんと付き合ってた頃が、一番綺麗だったよ、あんた。女子力は磨かなきゃ、落ちてくだけなんだからね。しゃんとしろ!」

おもむろにバッグから化粧ポーチを取り出した梓が、私の顔へとファンデーションを乗せてく。
お鍋の湯気とアルコールで崩れてるだけで、一応メイクはしてるんだけど。
個室だし、相手は梓だけだし。
このままメイク直しなしで帰ろうと思ってたのに。




「痛い恋を引きずるな。過去の男を踏み台にして、のし上がるぐらいの意気込みがなくてどうすんの!
見返してやりなさいよ。綺麗になって、酒井さん以上のいい男捕まえて。「あなたじゃない他の男と幸せになりました」って。女磨いて、惜しいことをしたって後悔させてやんなさいよ。女の旬は決まってんのよ? 時期を過ぎたら劣化してくだけなんだから。次行け、次!」
「劣化って……」
物じゃないんだからさ、もうちょっと普通に言おうよ。



「あんたねえ…。なに他人事みたいに笑ってんのよ。ていうか、いつまで酒井さんを引きずるつもり? 前彼の時は、もっと早くに次、行けたじゃない。
過去にしがみついて出会いのチャンスをなくしてたら、それこそ馬鹿みたいじゃん。環の受け売りじゃないけど、恋の痛みは新しい恋でしか癒せないと思うのよ。あたしは」
「で。また私に新しい傷を増やせって?」
「もうっ!」
握り締めたグラスをドンとテーブルに打ち付けた瞬間、中のアルコールがチャプンと跳ねて零れた。
ああ、もう。
この酔っ払いめ。
「ハイハイ。梓の言うことはいつも正論。正しいよ。アドバイス、いつも骨身に染みてます。感謝してる。
でもね。いいのよ、マジで。しばらくは恋はしたくない」
断固拒否した私に向かって、梓があからさまに溜息を零した。


「意外とあんた、引きずるからねえ……」
「……ごめん」

「で、もうひとりは?」
「なに?」
「城戸くん、だっけ? 彼とは会ってないの?」
「……うん。ともひろと別れた後、それっきり…」

「ふーん…」
「な、なによ…。その疑わしい目は」
「ねえ。その子って本当にとわが好きだったのかな?」
「え?」
「だっておかしくない? あれだけ言い寄ってきといて、酒井さんと別れたらそれっきり? フリーになったんだからさ、ここぞとばかりにごり押ししてきてもいいじゃない。私が男だったらそうする。だってチャンスじゃん。それなのに音信不通なんてさ」
「いいじゃん。それで。もう関わりたくないし…」
「んー…」
納得、行かない。そう短く呟いて、お猪口を口に運んだ。





「梓、それ何杯目?」
「さあ…? わかんなーい」

へらへら笑う梓に溜息をつきながら、お酒で火照った耳元を手で隠した。






「なに? どしたの? 耳、痛い?」
「あ、ううん。飲みすぎて耳まで熱いやーと思って。梓も真っ赤だよ?」
「…ホントだ。熱くなってる」


よかった気づかれてない。
お酒を飲んでるからよかった。
素面なら鋭い梓が見逃すはずがない。






嘘をつくと、左の耳がぴくぴくなる変な癖。
彼女は知ってるから。










そう。
私は、梓に嘘をついた。


奏多とは、あれからずっと、会ってる。










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とわの彼方に comments(4) -
始まりはいつも、雨 14


一瞬、ともひろが何を言ってるのか分からなかった。
言葉の意味を考えて、噛み砕いて、それでもわからなくて…頭の中で何度もその言葉をバカみたいに繰り返した私は、ようやくすべての意味を理解する。


だから、なんだ。
ともひろが今まで、割り切った恋愛をしてきたのは。
いずれ酒井に戻ること。決められた相手がいること。
背負わなきゃいけない未来を先に見据えていたから、上辺だけの恋を重ねてきたこと。
本気にならないのは、酒井に戻る時、別れが辛いから。
決められたその人以外、寄り添うことができないことが、はじめからわかっていたから──────。






「……なんだ、そういうこと……。それなら、もっと早く言ってくれればよかったのに…」

笑いが出た。静かで自嘲気味な笑い。
もうそれしか出てこなかった。



「だったら…なおさら駄目じゃない。そういう存在がいるのなら、なおさら……」

分不相応って言葉ぐらい、知ってる。
ともひろにふさわしい人。酒井に必要な人。
私──────じゃない。
恋をして、愛を重ねて、育んで。お互いに運命を感じた相手と、永遠の愛を誓う──────そういう幸せが普通だって思ってたけれど、彼の場合はそうじゃなかった。
由緒正しい家柄のある人。
奏多が言ってた覚悟っていうのは、そういうことだ。
私が、ともひろといられる立場かどうか考えろという、警告──────。



「ともひろにとって、私は……何だったの? 彼女と結婚するまでの繋ぎ……?」
「…違う」
「じゃあ、タケルの彼女だったから? 自分になびかない女が、珍しかった…?」
「違う…っ!! オレは──────」
「もう、いい…っ。聞きたくない! 今、何を言っても、言い訳にしか聞えないよ、ともひろ……。だってそうでしょ? 私と付き合ってる間も、隠れて彼女と会ってたんだから」
「それは…っ」
「断る勇気も、酒井を捨てる度胸も、ないくせに、勝手なことばかり言わないでよ……っ」

どんなに罵声を投げかけても、溢れ出る涙が、まだともひろを好きだと伝えてることが悔しくて、何度も何度も涙をぬぐった。
せめて泣き声ぐらいは漏らさないようにと、強く唇をかみ締める。




「…どうして……? どうしてあのまま、そっとしておいてくれなかったの……? 
タケルとの仲を壊して、もう後戻りが出来ないくらいにのめり込ませておいて……婚約者がいるだなんて、そんなことを今さら言うの? 私にも歴代の彼女達みたいに、割り切った恋愛をして欲しかったの……? ──────私、は……っ、こんな形で裏切られても、ともひろの本質を見抜けなかった自分の方がバカだって思えるくらいに……ともひろが好き……好き、だった! なのに───っ」


胸が詰まる。
言いたいことが、うまく言葉になってくれない。
思考回路はもうぐちゃぐちゃで、自分が何を言ってるのか、何を伝えたいのか。
わけが分からなくなってた。
理性とか理解とか、そういう部分が完全に抜け落ちて、感情だけが言葉を紡ぐ。




「はじめから終わりが見えてたのなら、どうして好きだなんていったのよ…? どうして友達のまま、いさせてくれなかったの? 友達なら、こんなに惨めな思いしなくて済んだ。祝福だって、してあげれたかもしれない。こんな風に、お互いに傷つけ合うこともなかった……っ。 ───どうして? ともひろは、ずるい…っ、ずる……ッ!!」
突然に、抱きすくめられた。
腰に巻きついた力強い腕が私を強く引き寄せて、抱きしめる。
「嫌だ…っ、離し───っ」
頬がともひろの肩に、強く押し付けられた。
立ち込める彼の匂いに胸が詰まる。
心がひきつれる。


「──────確かにとわの言うとおり、オレは卑怯だよ!
親友けしかけて、ふたりの仲を壊して───結果的にとわを苦しめるってわかっていても、それでも止められなかった…っ」
ともひろが苦しそうに声を荒げた。
触れ合う肌から、心が流れてくる。
どうして思い通りにならないのかって、悔しさに震えてる。
「…オレもお前に聞くけど──────オレに許婚がいるって最初から知ってたら、お前の気持ちはオレに向いたのか? 好きになんてならないだろ。それこそ、絶対。
何で今さら? じゃあ、いつならよかったんだよ? 好きだって気づいた時には、もうお前はタケルを見てた。一時は諦めたさ。でも…っ、友達でいられる限界なんて、とっくに過ぎてどうしようもなかった! やっと…!やっと……っ、 気持ちが繋がったって、思ったのに…っ」
ともひろの顔は上気して、眉間に苦しげな皺が寄せられていた。
必死なその表情に、胸が締め付けられる。
低くしゃがれた声に、ともひろもぎりぎりなんだと思った。
目の前にともひろの首筋がある。
熱い息が耳元に掛かって切なくて、苦しくてたまらない。
ぎゅっと抱きしめてくれるともひろの力強い腕。
あったかい体温。
今まで何度も抱きしめてくれた腕も、匂いも、体温も。
何ひとつ変わりはしないのに、ふたりを繋ぐ何かが壊れてしまった。
涙が止まらなかった。
感情が溢れる。
ともひろの心が、私の心が、溢れて溢れて溢れ出して、止められない。










「…痛い。ともひろ……痛いから、もう…離してよ……」


ともひろがハッと我に返ったように力を緩めた。
抱きしめられた体のあちこちが今更のように、ジンじんと熱くうずく。
それぐらい向こうも、必死だった。









「……私たち、もう子どもじゃないんだよ…。好きって感情だけで突っ走れるほど、現実を知らないわけじゃないでしょ? それがわかってるからともひろだって、彼女と別れられなかった。もう、答えでてるじゃない……」




今まで、ともひろと歩んできた道は確かなものではなかった。
危うかった世界が、足元から崩れていく。













「愛人とか、不倫とか。そういう泥沼にはまる気は、ないから」








精一杯の勇気で、体を突き放す。










「……私は……そのうち、いらなくなるんでしょう? だったら捨ててよ。ふってよ、潔く。今まで、ともひろがそうしてきたみたいに。
もう無理だから。これ以上、なんて…もう、望むことは…無理なの……っ」








覚えてはいけない感情だった。
本気になってはいけない人だった。





ふたりの未来は、決して重ならない。












「終わりにしよう、ともひろ。ここが私たちの……限界だよ───」











ともひろは、もう何も言わなかった。
視線を足元に落としたまま、何かをひたすら考えるように押し黙る。
体の横に握られた拳が、悔しさを握り締めているかのように小さく震えていた。







「……もう、行く、から……」


どれくらいの沈黙が続いたのかはわからない。
せめて最後ぐらいはと笑いかけて、私は車を降りた。
雨の音が突然、蘇る。




私を選んで──────って、言えたらどんなに楽になれるだろうって何度も思う。
だけど言えない。
言えるわけないよ。
過去を振り返らず、まっすぐ前を歩いてく。それが彼の生き方だ。
一時の感情にすがって、ともひろの人生を台無しにしてしまいたくはない。


────── とわを苦しめるってわかっていても、止められなかった ──────

溢れる強い気持ちを聞いた。気持ちに嘘はなかった。
それだけでもう、十分。




容赦なく天から降りしきる雨の中、傘に身を隠すように、私は歩いた。
滑走路を照らすライトが、滲んでぼやけた。
その光があまりにも儚げで、切なくて、やるせなかった。
溢れる涙に、何度も何度も足元が見えなくなって、何度も何度も涙をぬぐった。
どこをどうやって、家まで戻ったのかは、よく覚えてない。
家に辿りついて、扉を閉めた途端、声がこぼれた。
もう、誰もいない───そう思った瞬間、何かが壊れた。
孤独と虚しさが押し寄せる。押し潰す。






「……う、あ……ぁ……うっ……うぅ……」


いくらでも涙が出てきた。
涙腺が壊れたように、溢れてこぼれて止まらなかった。
いつかはこの関係に終わりが来るんだって、分かったふりしながら、本当はそんなこと、望んでいなかった。
覚悟してれば、その時に受ける辛さは和らげられる。
やっぱりそうだったでしょ?って、虚勢を張れる口実が欲しかっただなんて。
どれだけプライドが高いのよ、私は。
結局、覚悟をしていても、受けた痛みは容赦なかった。
はじめから駄目になることばかり考えていたから、本当にそうなってしまったのかもしれない。





後はもう、ひたすら駄目だった。
泣き疲れて涙が出なくなるまで、ベッドに突っ伏して、息が出来ないくらいに枕に顔を押し付けて、とにかく泣き続けた。
涙を流すことで、弱い自分を、早く追い出してしまいたかった。














ともひろとの関係に終わりを告げた数ヶ月後。
街で偶然、彼を見かけた。
その傍らには当然のように彼女がいて、容赦ない現実を私に見せ付けた。

過去には戻れない、戻りたくない。
人の心が離れていくあの瞬間が怖くて、それを味わうくらいなら、もう二度と恋なんてしないと心に強く誓った春。
私は未だ、ひとりだった。














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