ねえ、ともひろ?
あのとき私があなたのついた嘘に気づいていれば、「今」が少しは変わってた?
*
「──────さん、花井さんってば…!」
「は、いぃ…っ!?」
突然耳元で私を呼ぶから、手に持っていた小さなトングが音を立てて床に転がった。
その音でハッと我に返った私は、今、自分がなにをしていたかを思い出す。
「あーあ」
ため息混じりに肩をすくめた瀬戸ちゃんが、私の足元にかがんで、落としたそれを拾い上げた。
「お茶をいれに行ったきり戻って来ないと思ったら、なにボーっとしてんのよ?
ていうか、それ。お砂糖。いくつ入れるつもり? 私、この年で糖尿病になんてなりたくないんだけど」
「……あ」
ほんとうに、このカップの中には砂糖の塊がいくつ入っているんだろう。
単純作業を幾度も繰り返して、気がつけばシュガーポットは空っぽだった。
「…ごめん。いれなおす」
上の空も大概に。
休憩中といえども、ここは職場だ。
「…なにかあった?」
そんな私を心配したのか、瀬戸ちゃんの優しい声。
「ここのところずっと、そんな調子だけど…」
「べつになにも…」
いくら瀬戸ちゃんでも、言えるわけがない。
担当してるお客様と、過去に何かありました──────なんて。
────── 聞けよ、とわ。アイツの本心を。おれじゃなくて、ちゃんとともひろ本人の口から。
忘れないよ、おれを殴ったときのともひろの本音は。それをお前はちゃんと聞くべきだ ──────
ねえ、タケル。
結婚を控えてるともひろに、なにを聞けっていうの?
聞いたからって、今ある現実は変えられそうにない。
ましてや、私の行動の取り方ひとつで、店に迷惑をかけることになるかもしれないこと。
従業員が客とトラぶって──────なんて、冗談じゃない。
いろんな問題が頭の中でぐるぐる回って、あれから数日、私は身動きが取れないでいた。
気持ちだけでは突っ走れない。
どうしても、行動したその先のことまで、考えてしまう。
「ね。ね」
コーヒーを淹れなおしていた私の隣で、声を潜めた瀬戸ちゃんが、口元を手で隠しながら顔を寄せてきた。
「あれからどうなってるのよ?」
「……なにが?」
「城戸くん。悩んでんのは、彼とのことじゃないの?」
「あー…」
この前、瀬戸ちゃんには私と奏多の険悪な場面を目撃されちゃってる。
「だから……、城戸くんはそういうのじゃないって、何度も言ってるじゃない」
「じゃあどういうのよ? ただの同僚には見えないけど? 少なくとも、花井さんにその気がなくても、向こうはあるでしょ?
年下だけどさ、悪くないと思うのよ、彼。一生懸命な感じがすごく伝わってくるから、応援したくなる」
奏多のことも。
あのままにしておくわけにはいかないのは事実。
今の私は、何もかもが中途半端な状態だ。
「──────あ。噂をすればなんとやらよ。来たよ、カレシ」
「だから、そんなのじゃ」
「ということで。邪魔者は席を外すね。ちゃんと話し合いなさいよ」
ビシッと一喝、指をさされて、一瞬怯んだ私に、瀬戸ちゃんがウインクを投げて寄こした。
「ちょ……っ! 瀬戸ちゃん!?」
「バーイ!」
バーイ、じゃない…っ。
気をきかせて席を外したつもりが、私には逆効果。
今、この状況でふたりきりになんて、してほしくないのに!
かったるそうに鞄を肩に掛けなおしながらタイムカードを押して戻ってきた奏多に、すれ違いざま、瀬戸ちゃんが手にした箱を手渡した。
「これ。あげる」
「え?」
「瀬戸ちゃんってば!」
バタン! と閉まる扉の音が、ひと際大きく聞えて、私は逃げるタイミングを失った。
「……なに慌ててんの?」
「べ、べつに…」
「ふーん」
「……なによ?」
「顔に出てるよ、とわさん。ふたりきりは気まずいって」
すれ違いざま。
フッって耳元に息を吹きかけるみたいにして、そんな台詞を吐くから、意識した体がビクリと震えた。
意識っていっても、恋心が疼くような甘酸っぱいそれじゃない。
警戒だ。
「で。この箱はなんなの?」
「…お客様にもらったんだって。お茶菓子にって、瀬戸ちゃんが冷やしてくれてたんだけど…」
「ふーん」
箱のパッケージを軽く一瞥したあと。
「俺、甘いもの苦手だから。とわさん、全部食っていいよ」
「…いた…っ!」
パカンとお菓子の箱で私の頭を軽く叩いて、それをそのまま頭上に残していった。
「わ…っ、ちょっと…!」
落っことさないように私はそれを慌てて押さえた。
だってこれ、ピエール・エルメのマカロン!
デリケートなお菓子を頭の上なんかに置いていくなっ。
「……ほんとうにこれ、全部もらっちゃっていいの?」
「どうぞ。かわりにこっちのコーヒー貰うから」
私の方へとスッと伸びてきた手に、瀬戸ちゃんのために淹れたホットコーヒーを奪われた。
「せっかくそれ、冷やしてもらってたんだから、座って食ってけば?」
時刻は16時。
この時間の休憩を逃すと、閉店までノンストップだ。
今夜は奏多がピアノに入るから、ラストまで付き合わなければならない。
休めるうちに休んでおかないと、うちのナンバーワンピアニストが入る夜は、普段の倍は忙しい。
「……じゃあ…」
奏多から少し離れたソファに腰を降ろして箱を開けた。
檸檬色をした長方形の箱の中には、色鮮やかなマカロンが6個、規則正しく並んであった。
よく冷えたそれをひとつつまんで口元へと運ぶと、サクッと軽い歯ざわりとともに、口の中で甘い砂糖菓子がほろりと崩れた。
ショコラの香りと風味がいっぱいに広がって、濃厚なクリームが口の中で蕩ける。
う、わー。
マカロンはやっぱり、ここのがぴか一だ。
美味しい。
甘い幸せに浸りながら2個目に手を伸ばして、どのフレーバーにしようかと小箱の上で行き来をしていたら、ふと気づいた。
楽譜に目を通していたはずの奏多が、手元から顔を上げてじっとこっちを見つめていることに。
な、なによ……?
「瀬戸さんってさ、とわさんのこと、よくわかってるよな」
「どして?」
「甘いもので機嫌が直るから、だからオレにそれを渡したんだろ」
「……人を子どもみないに言わないで」
「子どもみたいに目を輝かせながら、次はどれにしようか迷ってたくせに」
ぐっ。
「そんな甘いだけの砂糖の塊、よく食うよ。その小さいのひとつで、軽く100キロカロリー超えてるの知ってた?」
口に頬張ったマカロンが、ぐっと喉に詰まりそうになって、私は思わずむせた。
あわててコーヒーでそれを流し込む。
「女の子は少しぽっちゃりしてるほうがかわいいだなんて話、あくまで、少し、だからな」
「もうっ! 奏多!!」
「ついてるよ」
「え?」
「クリーム。ここ」
どこよ?
自分で確かめるよりも先に、伸びてきた奏多の手に唇を拭われた。
唇についていたであろうそれを親指の腹で拭ったあと、ペロリと舐めた。
その仕草がひどく動物的で男性的に見えて、私は一瞬、息を飲んだ。
この子はときどき、ひどく大人びた顔をする。
4つも年下だということを忘れてしまうほど、実際、落ち着いてるのだけれども。
ふとした瞬間に垣間見える大人びた仕草や表情に、胸がざわめく。
この子は私の前に現れたときから、『男』だった。
だから私は、必要以上に奏多を意識して、彼の存在そのものを警戒してしまう。
置いたはずの距離が、随分と縮まっていることに気づいた私は、じわり腰を浮かせた。
奏多と長くふたりきりは、危険だ。
「花井さん」
絶妙なタイミングで扉が叩かれた。
軽いノックの音とともに、ドアの向こうから相原チーフが顔を覗かせる。
「そろそろ休憩は終わりにして、資料を一部、作ってきてくれないかしら? できれば今日中に」
「あ、はい」
「それと今日ね、17時からの打ち合わせ、聞いてる?」
「打ち合わせですか? いいえ、聞いてませんけど…」
そんなアポ、今日のスケジュールの中にあったっけ?
手持ちのノートを開いてみたけれど、夕方からの予定は空だった。
「麻生さんに伝えるように頼んでたんだけど……行き違いになったのかしら。
少し前に連絡が入ったの。急ぎの変更があって今から伺いますって、酒井さんから」
「…酒井、さん……?」
名前を聞くだけでドクリと胸が高鳴った。
──────ともひろが、来るの?
「Aサロンは別のお客様のご予約が入ってるから、Bを使って。もう1時間もないから、部屋のセッティングを──────」
「俺の補佐はどうすんの? 今日、演奏なんだけど」
チーフの言葉に被せるように、奏多が話に割り込んできた。
今のは明らかにわざとだ。
普段こんな無茶な割り込みをするような子じゃないのに、まるで子どもが拗ねたような話の振り方。
話の最中に故意に割り込まれたことに腹を立てたチーフの顔が、明らかに不機嫌になった。
「……城戸くん。あなた、いつも耳コピと暗譜なのだから、サポートなんていらないでしょう? 花井さんに付いてもらわなくても、できるのじゃないかしら?」
「普段ならね。でも、今日は新しい曲をやるつもりで用意してきてるから、彼女に付いてもらわないと困るんだけど。素人じゃ楽譜を追えないだろ?」
「瀬戸がある程度、楽譜を追うことに慣れてるから彼女を回すわ。城戸くんの演奏時間までに、打ち合わせが終わらないようなら、手配するから。それなら文句ないでしょ? 花井さんがそばについてないと弾けないなんて、子ども染みた我がままを言わないで」
「………」
「今の花井さんは企画なのだから、ブライダルの方を優先してもらうわ。問題ないわね?」
「……はい」
「じゃあそういうことだから。心積もりをしておいて。城戸くんも。来たのならさっさと着替えなさい」
チーフを見送ったあと、立っていられなくなった私は、壁にもたれかかった。
──────ともひろが、来る。
それだけでもう、頭がいっぱいだった。
静寂を破るかのように、バサッと音がした。
奏多が手にした楽譜をテーブルの上に投げたみたいだった。
振り返ると、目があう。
「……結局、引き受けたんだ、とわさん。酒井さんの担当を」
ともひろが来るという話があまりにも突然すぎて、今いる状況もポーカーフェイスも忘れてた。
あ、と思い、表情を引き戻す。
「あんなに嫌がってたのに。どうして引き受けたんだよ?」
私が相原チーフに断ったことと、瀬戸ちゃんが私を無理矢理ともひろの担当につけたことが行き違いになってしまって。
気がつけばいつの間にか、担当という枠に入れられてしまってたのだ。
よほどのことがない限り、もう変更はきかない。
「引き受けたってことは、見限る気になったの? それとも……俺を受け入れてくれる気にでもなった?」
「バカなことを言わないで。あくまで仕事。あくまでお客様だから。
ほら。変なこと言ってないで。奏多も、さっさと津田さんのところに行って、着替えてきて。いつもギリギリに入るから時間が押して大変だって、津田さん、すごく困ってたんだから。たまには早く行って、ヘアメイクさんの負担を楽にしてあげ──────」
背中を押して部屋から押し出したつもりが、逆にその手を捕まれた。
あっと息を飲む。
「──────ねえ、とわさん。そろそろ返事、聞かせて欲しいんだけど」
「…返事?」
「そう。この前の」
「この前のって──────私、保留にしたつもりはないけど」
無表情のまま、私は言った。
「でも、少しは揺れたんだろ? 流されてもいいかなって思った。キスだって。はじめは嫌がってたのに、最後のほうはもう抵抗しなかったじゃないか」
「あれは……! あれは、しなかったじゃなくて、できなかっただけじゃない」
奏多がそう仕向けたくせに。
男の力で抑えつけられたら、どうしたって逃げられるわけがない。
いつだって奏多の行動は突然で、私の気持ちなんてお構いなしだ。
「ねえ、とわさん。そろそろ堪忍して、俺のものになってよ」
「……前にも言ったでしょう? 今は誰とも付き合う気がないんだって」
「今は、ってことは、いつかはその可能性があるの? いつかは俺のこと、『男』として見てくれるの?」
「ごめん、奏多。いくら待っても、それは無理だか──────っ、ぁ…!!」
不意に捕まれた腕を奏多の方へと強く引かれて、向かい合わせにさせられた。
ドクリ、心が悲鳴を上げる。
振りほどこうとしても、できなかった。
させてくれない。
じりと詰めてくる距離に思わず息を飲んで、私はあからさまに後ずさった。
背中にひやりと触れた壁の感触で、もうこれ以上逃げ場がないことを悟る。
しまった。
逃げるなら逆の方向だ。
冷めたような目で上から一瞥されて、ゾクリと背筋が凍った。
伸ばしてきた手が私の髪に触れて、猫がじゃれるように髪の毛先を何度かはじいた後、その手に横髪をかき上げられた。
なにかを確かめたみたいだった。
「……俺がつけた痕、まだ薄っすら残ってるね」
ツ、と。
首筋を指でなぞられて、震えが走る。
「これを誰かに見せた?」
「見せてなんか…っ」
「……酒井さんにも?」
「…なんでわざわざ、ともひろなんかに。…っ、ちょっ、奏多!? やだ、やめ……──────っ!」
壁際に追い込まれて、同じ場所にまた、強く吸い付かれた。
職場でトラブルは起こしたくないから、へたに大声も上げられない。
「今は他のことなんて考える余裕のないくらい、酒井さんが来ることで頭がいっぱいなんだろ」
「そんなのじゃ」
「酒井さんと、やり直したい? そうなることを望んでる?」
「ちが…っ」
「あの人はまだ、とわさんのことが好きだよ」
「………え?」
一瞬、奏多がなにを言っているのかわからなかった。
「……なにを、言ってるの………?」
声に出して問い返しても、やっぱり理解できない。
どうしてともひろの気持ちを奏多がわかるのか。
それが嘘なのか、事実なのかも。
「やり直したいって、望めば叶わない夢じゃないけど、わかってる? それを望めば、壊れるものがあるってことを」
奏多がわからない。
どうしてそんなことを言うのか。どうしてそれを知っているのか。
でも。
一番わからないのは、揺れる自分の気持ちだ。
私はなにをしようとしていたの?
タケルの言葉を聞いて、なにを期待していたの?
あのときの気持ちを確認して、よりをもどしたかった?
ともひろがリオコさんとこの二年の間に築いてきた関係を、ダメにしたかった?
ともひろの、酒井の後継者としてのこれからを、壊したかったの?
──────私。
ともひろに事実を聞いて、どうしたかった?
私が望んでいることは、昔、タケルの彼女が私にしたことと同じじゃない。
もし、ともひろが私を選んだとしたら、確実にリオコさんを傷つけることになる。
あの日の私みたいに、彼女が泣くの?
私がふたりの未来を壊すの?
そう思ったらもう、なにもできなくなった。
幸せは、人の不幸の上に立つものじゃない。
「花井さーん。城戸くん来てるー? そろそろ準備を始めたいんだけどー、寄こしてくれないかなー?」
遠慮がちにドアが叩かれて、扉の向こうから津田さんに呼ばれた。
奏多がそっと、私から離れる。
「花井さーん? 城戸くん、来てないの?」
ドアが開くよりも早く、奏多の唇が軽く私のそれに触れた。
拒絶もできなかった。
「──────なんだ。いるんじゃない。返事ぐらいしてよ」
「すみません」
「彼、連れて行ってもいいかな? 城戸くんが余裕を持って出勤してくることなんて、めったにないから、いつもと違う感じでいじってみたくて。……花井さん? どうかしたの? なんか様子が変だけど……」
「いえ……」
「そう? じゃあ、借りてくね」
去り際に、そっと奏多が私の肩に触れた。
「……じゃあね、とわさん」
私はもう、なにも言えなかった。
のろのろと部屋を出て、頼まれた資料を準備する為に書庫へ向かった。
打ち合わせの時間まで、まだ少し時間の余裕がある。
しばらくひとりになりたくて、誰も来ない部屋に入って扉を閉めた。
今すぐにでもここから逃げ出したいほど足が震えて、行き場のなくなった心が泣きそうだった。
ここならしばらく、誰も来ない。
ともひろが来るまでに、しっかりしなきゃ。
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