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言葉にできない 2
どれくらいの時間、そこにうずくまっていたのだろう。
泣くこともできずに、ただその場に座り込んで、ぼんやりと時間だけをやり過ごした。
手放した過去の恋は、もう振り返ったらダメだ。
今まで通りに「今」を生きればいいだけのことを、なにをバカみたいに考えてるの?
目の前の現実を見据えて、自分が選んだ道を歩かなきゃ。
大丈夫。大丈夫。まだやれる。まだ、忘れられる。
何度も自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返しながら、私は立ち上がった。


「……しっかりしろ、私──────」

もうすぐともひろが来てしまう。
与えられた仕事はきとんとこなさなきゃ。
心の迷いも不安も、全部ため息に混ぜて吐き出して、頬をぱちんと叩いた。
「資料を用意しなきゃ……」
見上げた部屋の壁時計は、16時30分を少し回った時刻だった。
まだ約束の時間までには、余裕がある。



ぎちぎちに詰め込まれた棚を見上げて、私はため息をついた。
あまり広くはない部屋に、所狭しと組み立て式のスチールの棚が並べられていて、そこにもまた所狭しと資料や顧客情報なんかのファイルがぎっちり詰め込まれて並んでいる。
棚に並びきらないものは、空いてるスペースにも突っ込まれたひどい状態だった。
「これ……、取れるのかな。うわ、きっつ……」
目的の資料は、一番奥の大きな棚の中にあった。
かろうじて小指が一本、入るか入らないかの隙間しかないそこから、目的のファイルを抜き出す。
わずかに空いた上の空間にもファイルが山積みにされているものだから、狭さに重さも加わってなかなか取り出すことができない。
高さ的にも背伸びをして軽く指が触れる程度。
ステップを取りに行くのがめんどかった私は、精一杯の背伸びと指先の力で無理矢理それを取り出した。





「──────あっ…!」


声を出したときにはもう遅かった。
私が引き出したそれと一緒に、まるでアコーディオンの蛇ばらのように残りの資料が前へとせり出した。
「きゃっ!」
咄嗟に手を伸ばし、そのいくつかを押さえることで、すべてを落としてしまうことは免れたけれど。
その上に山積みになっていたファイルが雪崩れのように落ちてきて。
バサバサっと不快音を立てて、ファイリングしてあった書類が外れて床に散らばった。
「あ、ちゃー…。やっちゃったよ……」
足元は一面、書類の海。
踏んで破いてしまわないように、慎重に足をずらしながらそれを見下ろして、ため息をついた。
全部ばら撒かなくてよかった。
もしも、ここにあるすべての資料をまた元通りにファイリングしなきゃいけなくなったら……。
考えただけでもぞっとする。



「だ、誰かー……」


残りのファイルを押さえた私は、身動きが取れなくなった。
手をどけてしまえば、蛇ばら状に出かかったファイルの束のすべてが崩れ落ちる。
やだ、どうしよう。




「あのー…っ、誰か、いませんかー…? ……瀬戸ちゃーん? 相原チーフ…!?」



首だけを回して扉の向こうに叫んだけれど、応答はない。
中途半端に落ちかけた不安定なファイルを目の前に、大声を出すこともできない。
どうしてこんなときに限って、誰も来ないのよ。
「…どうしよ……」
全てをばら撒けば、間違いなく残業決定だ。
ただでさえ今日はもう、早く切り上げて帰りたかったのに、余計な仕事を増やして居残りたくはない。


「お願ーい、だれかーーー…っ」

支えるのもすぐに限界がきた。
足場が悪いから余計にバランスが取れなくて、辛い。
普段使わない二の腕の筋肉がブルブルと情けなく震えるのが見えた。
バレーボールをやってた頃は、もっと筋力も忍耐力だってあったはずなのに。
人間、努力しないと堕ちてくだけなのね。
持てる限りの努力とは裏腹に、手の届かない棚の端のほうからファイルが前へとせり出してきた。
あんな向こうまで届くわけがない。
ああ、もう無理。
もう、限界──────。






頭に落ちてくる衝撃を覚悟して、目をつぶったときだった。
ファイルを支えていた重さが手の中からフッと消えて、嘘のように軽くなった。
驚きに目を開けた私の視界の中に、体の横から伸びてきた男の人の手が映り込む。
腕まくりをしたシャツの袖から伸びたゴツゴツと無骨で大きな手が、私のそれと重なった。
背中から全てを包み込むように被さってくる体温と、ふっと香った独特な硝煙の匂いに、一気に鼓動が加速していく。
振り向かなくても、気配でわかる。












──────ともひろだ。





「手、どけて。支えるから」



男らしい低い声色が鼓膜へとダイレクトに響いた。
「ともひろ、どうして……」
「いいから。手、どけろ」
支えていた力がフッと手の中から消えて、重さをまったく感じられなくなった。
私が重くて戻せなかったそれを、大きな手がもとの場所に返してく。
どうやっても届かなかった場所までいとも簡単に。
「何やってんだ、世話の焼ける」
「……ごめん。抜けないものを無理矢理引っ張ったら、こんなことに…」
無事、すべてが納まったことに安堵した私は、思わずその場にへたり込みそうになった。
トン、と背中にともひろの胸が触れて、体を支えられた。
すぐ後ろで、ともひろがため息をついた。


「大丈夫か?」
「…うん。ありがとう……助かった」
「使うものがあれば、今のうちに取ってやるけど」
「大丈夫。目的の資料は床にばら撒いちゃってるみたいだから……」
苦笑しながら足元を見やると、ともひろも同じように視線を向けた。
足の踏み場もないくらい、床一面の書類の海の中、かろうじて空いたスペースにともひろと私は立っていた。

「……これを元に戻す方が、大変そうだな。手伝うよ」
「なに言ってんの。お客様にそんなことさせられない」




すぐ、私の真後ろにともひろがいる。
低い声が鼓膜を揺らすたびに、吐息で私の長い髪が揺れるほどの近い距離に。
ともひろと、スチールの棚に挟まれて、身動きがとれなかった。
だって。
ともひろが、腕をどけてくれない。






「………ともひろ…。もう大丈夫だから、腕、どけてよ……」


「ああ」

返事はするくせに、背中に感じる気配は消えなかった。
ともひろの存在自体が、今の私には、甘い毒だ。
感覚全部でともひろを感じて、意識するから余計に全てがリアルにダイレクトに届く。
気持ちを落ち着かせるために息を吸い込んだら、ともひろの匂いがして、目を閉じれば切なさに、涙が伝いそうになる。
狭い空間に匂いが満ちて、息が、苦しい。







「こんなところ、誰かに見られたりしたら大変だから。それにここ、スタッフ以外、立ち入り禁止よ」



「……わかってる」





「じゃあ……、どいてよ」









「──────いやだ、って言ったら?」



すぐ耳の真横で低く響いてきた声に、ゾクリと震えた。
ともひろが、囲う腕を狭めた。
見かけよりもずっと逞しい胸の厚みが、リアルに背中から伝わってきて、思わず息を飲む。





「……からかわないで。いいから、早くどいて」



「からかってなんかない」

「じゃあ、どういうつもりで──────」


「……このまま後ろから、とわを抱きしめてしまおうかどうか、迷ってる」





低く呟いた声がダイレクトに鼓膜に届いた。
ともひろが耳朶に触れそうな距離で、囁いたからだ。








「………や…ッ」


掠めた吐息にビクンと体が跳ねた。
狭まってくる腕の動きがスローモーションのように見えて、私は急いでそこから逃げた。
だって。
抱きしめられたりなんかしたら、それこそ私は、もう──────。







「あっ、…痛ッ」

後ろ髪が、くんと引きつれた。
距離を置こうとすればするほど、引きつれたような痛みが後頭部に走る。
体が重なったときに、ともひろのシャツのボタンに髪の毛を持ってかれた。






「バカ。動くな。切れる。…なにやってんだ」
「だって…っ、ともひろが冗談みたいなこと言うから……っ」
「冗談なんかじゃない。本気だ。いいからじっとしてろ。外してやるから」



逃げる体を捕まえられて、半ば強引に後ろを向かされた。
躊躇いもなく触れてくる指の感触に、呼吸をするのも忘れて、息を詰めた。
想いのままに長く伸びた髪に指が絡む。
意識した体がビクリと跳ねた。

「……ひどいな、これ。どうやったらこんなに絡むんだ…。お前が無理に離れようとするから──────」


優しく私を叱りながら、ともひろの指が丁寧に、絡まった髪を外してく。
切らないように、傷つけないように、そっとそっと。
わずかしかない空間が辛くて苦しくて、私は切なさに目を瞑った。







冗談じゃないって、なにが?


本気って、どこまで?





──────だって、リオコさんは……?






指が肩に触れて、吐息が首筋を撫でてくたびに、緊張に震える心が泣きそうになる。
背中に重なるような気配が、辛くて苦しくて、必死に目を開けて唇を噛締めた。
瞬きをしたら、目尻に浮かんでしまった涙が、頬を伝ってしまう。
一度流れてしまえば、きっと泣く。
想いが、止らなくなってしまう。






「……いいぞ。取れた」


すぐ後ろで、ともひろが少し笑ったのが、気配で伝わった。
振り返れない。
こんな間近で目を合わせたら、気持ちを抑えられる自信がなかった。







「……部屋、移動しよう。お客様をこんな場所に入れたなんて知れたら、叱られるから」


この場所は嫌だ。
空間が狭すぎて、ともひろをリアルに感じすぎる。
足元に散らばった資料を拾い集めた。
視線を落としたままに、口を開く。




「急ぎの変更があるんでしょう?」



「部屋を移動する必要はない。決めることなんてないから」













「………え?」



ともひろが近くにあったソファにどさりと腰を降ろした。
以前、応接室で使われていた古びたレザーのソファ。
浅く腰掛けて、体の前で静かに手を組み合わせたまま、じっと私を見据えてくる。
どんどん呼吸が苦しくなって、鼓動が加速していくのがわかる。







「急な変更なんてない。立場を利用させてもらっただけだ。お前が、オレの呼び出しに応じるわけないって思ったから」
「……どう、して──────」

「話したいことがある。仕事が終わったら……少し、時間を取ってもらえないか?」



「……話…? 今、ここじゃダメなの?」
「職場なんかじゃなくて、ちゃんとした場所できちんと話がしたい」





声を聞くのも、見つめられるのも苦しいのに、ともひろから目が逸らせなかった。
ゴクリ。
喉が鳴る。
不快な汗が浮かんで流れた。




「……ごめん。無理。しばらくは、その……仕事が忙しくて、時間が取れないから。それにもう、ともひろとは話すことなんて」
「うそつき」
「嘘なんかついて──────ッ!?」

突然、腕を取られた。
引き寄せられて、横髪をかき上げられる。




「や…っ、なに…っ? やだ、ともひろ…ッ!?」

髪が耳に掛けられた。
引き寄せられた身体はともひろの膝の間にすっぽりと納まって、腰の辺りでがっちりと組まれた腕の中に閉じ込められたまま、身動きが取れない。
涼やかな瞳をスッと細めて、私を奥の奥まで凝視するような視線に強く見つめられて、言葉が出なくなった。




「逃げるのは、まだオレを意識してくれるから?
平静でいられないのは、オレのことがまだ好きなんだって、自惚れてもいいのか?」


その言葉に目を開く。
強引なくせに、見つめてくるともひろの目はすごく不安げに私の言葉を待っていた。
胸がきゅうっと絞られる。
そんな切なそうな顔で見つめられたりしたら、抑えていた感情がどうしようもなくなる。
ああ、好きだ。
私、やっぱりこの人のことが好きだ。
好きで、好きで、どうしようもない。
ともひろのことが好きで、好きで──────だけどもうこれ以上、好きにはなりたくなくて。
私は懸命に、首を横に振った。
涙なんか見せたくないのに、強がりとは裏腹に、熱いものが込み上げて静かに頬に筋をかく。





「………そうやって泣くのは、まだオレのことが好きだからって、自惚れてもいいのか?」


優しく涙をぬぐわれた。
それでも零れてしまう涙に、ともひろの唇が触れる。




「ともひろ、いやだ。いや、やめて……」
「いやだ。やめない」
「ど、して……?」


ともひろには、リオコさんがいるのに。





「お願い……、放して。お願いだから、放し…………っ、きゃあ…ッ」








腕を強く引かれた。
逆の引力に捕まってしまった私の体はバランスを崩して、ともひろの上に折り重なる。
急いで体を突き放そうとしたけど、させてはくれなかった。





「放したらまた、逃げるんだろ? あのときみたいに。
お前はそうやって肝心なところで逃げて、また勝手にオレの気持ちまで終わらせる気か? 冗談じゃない」




近く低い声とともに、後頭部を取られて。





「……──────ッ…!?」
 




コトバよりも、キモチ溢れて

なんの躊躇いもなく唇にともひろのそれが、重ねられた。








強烈に胸が疼く。


心臓が、壊れたかと思った。










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とわの彼方に 2 comments(8) -
言葉にできない 1
キモチ、溢レテ



ねえ、ともひろ?
あのとき私があなたのついた嘘に気づいていれば、「今」が少しは変わってた?












「──────さん、花井さんってば…!」
「は、いぃ…っ!?」
突然耳元で私を呼ぶから、手に持っていた小さなトングが音を立てて床に転がった。
その音でハッと我に返った私は、今、自分がなにをしていたかを思い出す。
「あーあ」
ため息混じりに肩をすくめた瀬戸ちゃんが、私の足元にかがんで、落としたそれを拾い上げた。
「お茶をいれに行ったきり戻って来ないと思ったら、なにボーっとしてんのよ?
ていうか、それ。お砂糖。いくつ入れるつもり? 私、この年で糖尿病になんてなりたくないんだけど」
「……あ」
ほんとうに、このカップの中には砂糖の塊がいくつ入っているんだろう。
単純作業を幾度も繰り返して、気がつけばシュガーポットは空っぽだった。


「…ごめん。いれなおす」
上の空も大概に。
休憩中といえども、ここは職場だ。
「…なにかあった?」
そんな私を心配したのか、瀬戸ちゃんの優しい声。
「ここのところずっと、そんな調子だけど…」
「べつになにも…」
いくら瀬戸ちゃんでも、言えるわけがない。


担当してるお客様と、過去に何かありました──────なんて。





────── 聞けよ、とわ。アイツの本心を。おれじゃなくて、ちゃんとともひろ本人の口から。
忘れないよ、おれを殴ったときのともひろの本音は。それをお前はちゃんと聞くべきだ ──────


ねえ、タケル。
結婚を控えてるともひろに、なにを聞けっていうの?
聞いたからって、今ある現実は変えられそうにない。
ましてや、私の行動の取り方ひとつで、店に迷惑をかけることになるかもしれないこと。
従業員が客とトラぶって──────なんて、冗談じゃない。
いろんな問題が頭の中でぐるぐる回って、あれから数日、私は身動きが取れないでいた。
気持ちだけでは突っ走れない。
どうしても、行動したその先のことまで、考えてしまう。




「ね。ね」
コーヒーを淹れなおしていた私の隣で、声を潜めた瀬戸ちゃんが、口元を手で隠しながら顔を寄せてきた。
「あれからどうなってるのよ?」
「……なにが?」
「城戸くん。悩んでんのは、彼とのことじゃないの?」
「あー…」
この前、瀬戸ちゃんには私と奏多の険悪な場面を目撃されちゃってる。
「だから……、城戸くんはそういうのじゃないって、何度も言ってるじゃない」
「じゃあどういうのよ? ただの同僚には見えないけど? 少なくとも、花井さんにその気がなくても、向こうはあるでしょ?
年下だけどさ、悪くないと思うのよ、彼。一生懸命な感じがすごく伝わってくるから、応援したくなる」 


奏多のことも。
あのままにしておくわけにはいかないのは事実。
今の私は、何もかもが中途半端な状態だ。



「──────あ。噂をすればなんとやらよ。来たよ、カレシ」
「だから、そんなのじゃ」
「ということで。邪魔者は席を外すね。ちゃんと話し合いなさいよ」
ビシッと一喝、指をさされて、一瞬怯んだ私に、瀬戸ちゃんがウインクを投げて寄こした。
「ちょ……っ! 瀬戸ちゃん!?」
「バーイ!」
バーイ、じゃない…っ。 
気をきかせて席を外したつもりが、私には逆効果。
今、この状況でふたりきりになんて、してほしくないのに!
かったるそうに鞄を肩に掛けなおしながらタイムカードを押して戻ってきた奏多に、すれ違いざま、瀬戸ちゃんが手にした箱を手渡した。
「これ。あげる」
「え?」
「瀬戸ちゃんってば!」
バタン! と閉まる扉の音が、ひと際大きく聞えて、私は逃げるタイミングを失った。





「……なに慌ててんの?」
「べ、べつに…」
「ふーん」
「……なによ?」
「顔に出てるよ、とわさん。ふたりきりは気まずいって」


すれ違いざま。
フッって耳元に息を吹きかけるみたいにして、そんな台詞を吐くから、意識した体がビクリと震えた。
意識っていっても、恋心が疼くような甘酸っぱいそれじゃない。
警戒だ。



「で。この箱はなんなの?」
「…お客様にもらったんだって。お茶菓子にって、瀬戸ちゃんが冷やしてくれてたんだけど…」
「ふーん」
箱のパッケージを軽く一瞥したあと。
「俺、甘いもの苦手だから。とわさん、全部食っていいよ」
「…いた…っ!」
パカンとお菓子の箱で私の頭を軽く叩いて、それをそのまま頭上に残していった。
「わ…っ、ちょっと…!」
落っことさないように私はそれを慌てて押さえた。
だってこれ、ピエール・エルメのマカロン!
デリケートなお菓子を頭の上なんかに置いていくなっ。


「……ほんとうにこれ、全部もらっちゃっていいの?」
「どうぞ。かわりにこっちのコーヒー貰うから」
私の方へとスッと伸びてきた手に、瀬戸ちゃんのために淹れたホットコーヒーを奪われた。
「せっかくそれ、冷やしてもらってたんだから、座って食ってけば?」


時刻は16時。
この時間の休憩を逃すと、閉店までノンストップだ。
今夜は奏多がピアノに入るから、ラストまで付き合わなければならない。
休めるうちに休んでおかないと、うちのナンバーワンピアニストが入る夜は、普段の倍は忙しい。


「……じゃあ…」

奏多から少し離れたソファに腰を降ろして箱を開けた。
檸檬色をした長方形の箱の中には、色鮮やかなマカロンが6個、規則正しく並んであった。
よく冷えたそれをひとつつまんで口元へと運ぶと、サクッと軽い歯ざわりとともに、口の中で甘い砂糖菓子がほろりと崩れた。
ショコラの香りと風味がいっぱいに広がって、濃厚なクリームが口の中で蕩ける。
う、わー。
マカロンはやっぱり、ここのがぴか一だ。
美味しい。
甘い幸せに浸りながら2個目に手を伸ばして、どのフレーバーにしようかと小箱の上で行き来をしていたら、ふと気づいた。
楽譜に目を通していたはずの奏多が、手元から顔を上げてじっとこっちを見つめていることに。
な、なによ……?


「瀬戸さんってさ、とわさんのこと、よくわかってるよな」
「どして?」
「甘いもので機嫌が直るから、だからオレにそれを渡したんだろ」
「……人を子どもみないに言わないで」
「子どもみたいに目を輝かせながら、次はどれにしようか迷ってたくせに」
ぐっ。
「そんな甘いだけの砂糖の塊、よく食うよ。その小さいのひとつで、軽く100キロカロリー超えてるの知ってた?」
口に頬張ったマカロンが、ぐっと喉に詰まりそうになって、私は思わずむせた。
あわててコーヒーでそれを流し込む。
「女の子は少しぽっちゃりしてるほうがかわいいだなんて話、あくまで、少し、だからな」
「もうっ! 奏多!!」
「ついてるよ」
「え?」
「クリーム。ここ」
どこよ?
自分で確かめるよりも先に、伸びてきた奏多の手に唇を拭われた。
唇についていたであろうそれを親指の腹で拭ったあと、ペロリと舐めた。
その仕草がひどく動物的で男性的に見えて、私は一瞬、息を飲んだ。
この子はときどき、ひどく大人びた顔をする。
4つも年下だということを忘れてしまうほど、実際、落ち着いてるのだけれども。
ふとした瞬間に垣間見える大人びた仕草や表情に、胸がざわめく。
この子は私の前に現れたときから、『男』だった。
だから私は、必要以上に奏多を意識して、彼の存在そのものを警戒してしまう。
置いたはずの距離が、随分と縮まっていることに気づいた私は、じわり腰を浮かせた。
奏多と長くふたりきりは、危険だ。



「花井さん」
絶妙なタイミングで扉が叩かれた。
軽いノックの音とともに、ドアの向こうから相原チーフが顔を覗かせる。
「そろそろ休憩は終わりにして、資料を一部、作ってきてくれないかしら? できれば今日中に」
「あ、はい」
「それと今日ね、17時からの打ち合わせ、聞いてる?」
「打ち合わせですか? いいえ、聞いてませんけど…」
そんなアポ、今日のスケジュールの中にあったっけ?
手持ちのノートを開いてみたけれど、夕方からの予定は空だった。
「麻生さんに伝えるように頼んでたんだけど……行き違いになったのかしら。
少し前に連絡が入ったの。急ぎの変更があって今から伺いますって、酒井さんから」
「…酒井、さん……?」
名前を聞くだけでドクリと胸が高鳴った。
──────ともひろが、来るの?



「Aサロンは別のお客様のご予約が入ってるから、Bを使って。もう1時間もないから、部屋のセッティングを──────」
「俺の補佐はどうすんの? 今日、演奏なんだけど」

チーフの言葉に被せるように、奏多が話に割り込んできた。
今のは明らかにわざとだ。
普段こんな無茶な割り込みをするような子じゃないのに、まるで子どもが拗ねたような話の振り方。
話の最中に故意に割り込まれたことに腹を立てたチーフの顔が、明らかに不機嫌になった。


「……城戸くん。あなた、いつも耳コピと暗譜なのだから、サポートなんていらないでしょう? 花井さんに付いてもらわなくても、できるのじゃないかしら?」
「普段ならね。でも、今日は新しい曲をやるつもりで用意してきてるから、彼女に付いてもらわないと困るんだけど。素人じゃ楽譜を追えないだろ?」
「瀬戸がある程度、楽譜を追うことに慣れてるから彼女を回すわ。城戸くんの演奏時間までに、打ち合わせが終わらないようなら、手配するから。それなら文句ないでしょ? 花井さんがそばについてないと弾けないなんて、子ども染みた我がままを言わないで」
「………」
「今の花井さんは企画なのだから、ブライダルの方を優先してもらうわ。問題ないわね?」
「……はい」
「じゃあそういうことだから。心積もりをしておいて。城戸くんも。来たのならさっさと着替えなさい」
チーフを見送ったあと、立っていられなくなった私は、壁にもたれかかった。
──────ともひろが、来る。
それだけでもう、頭がいっぱいだった。



静寂を破るかのように、バサッと音がした。
奏多が手にした楽譜をテーブルの上に投げたみたいだった。
振り返ると、目があう。
「……結局、引き受けたんだ、とわさん。酒井さんの担当を」
ともひろが来るという話があまりにも突然すぎて、今いる状況もポーカーフェイスも忘れてた。
あ、と思い、表情を引き戻す。
「あんなに嫌がってたのに。どうして引き受けたんだよ?」
私が相原チーフに断ったことと、瀬戸ちゃんが私を無理矢理ともひろの担当につけたことが行き違いになってしまって。
気がつけばいつの間にか、担当という枠に入れられてしまってたのだ。
よほどのことがない限り、もう変更はきかない。
 
「引き受けたってことは、見限る気になったの? それとも……俺を受け入れてくれる気にでもなった?」
「バカなことを言わないで。あくまで仕事。あくまでお客様だから。
ほら。変なこと言ってないで。奏多も、さっさと津田さんのところに行って、着替えてきて。いつもギリギリに入るから時間が押して大変だって、津田さん、すごく困ってたんだから。たまには早く行って、ヘアメイクさんの負担を楽にしてあげ──────」
背中を押して部屋から押し出したつもりが、逆にその手を捕まれた。
あっと息を飲む。




「──────ねえ、とわさん。そろそろ返事、聞かせて欲しいんだけど」
「…返事?」
「そう。この前の」
「この前のって──────私、保留にしたつもりはないけど」

無表情のまま、私は言った。


「でも、少しは揺れたんだろ? 流されてもいいかなって思った。キスだって。はじめは嫌がってたのに、最後のほうはもう抵抗しなかったじゃないか」
「あれは……! あれは、しなかったじゃなくて、できなかっただけじゃない」
奏多がそう仕向けたくせに。
男の力で抑えつけられたら、どうしたって逃げられるわけがない。
いつだって奏多の行動は突然で、私の気持ちなんてお構いなしだ。



「ねえ、とわさん。そろそろ堪忍して、俺のものになってよ」
「……前にも言ったでしょう? 今は誰とも付き合う気がないんだって」
「今は、ってことは、いつかはその可能性があるの? いつかは俺のこと、『男』として見てくれるの?」
「ごめん、奏多。いくら待っても、それは無理だか──────っ、ぁ…!!」


不意に捕まれた腕を奏多の方へと強く引かれて、向かい合わせにさせられた。
ドクリ、心が悲鳴を上げる。
振りほどこうとしても、できなかった。
させてくれない。
じりと詰めてくる距離に思わず息を飲んで、私はあからさまに後ずさった。
背中にひやりと触れた壁の感触で、もうこれ以上逃げ場がないことを悟る。
しまった。
逃げるなら逆の方向だ。
冷めたような目で上から一瞥されて、ゾクリと背筋が凍った。
伸ばしてきた手が私の髪に触れて、猫がじゃれるように髪の毛先を何度かはじいた後、その手に横髪をかき上げられた。
なにかを確かめたみたいだった。



「……俺がつけた痕、まだ薄っすら残ってるね」

ツ、と。
首筋を指でなぞられて、震えが走る。



「これを誰かに見せた?」
「見せてなんか…っ」
「……酒井さんにも?」
「…なんでわざわざ、ともひろなんかに。…っ、ちょっ、奏多!? やだ、やめ……──────っ!」
壁際に追い込まれて、同じ場所にまた、強く吸い付かれた。
職場でトラブルは起こしたくないから、へたに大声も上げられない。




「今は他のことなんて考える余裕のないくらい、酒井さんが来ることで頭がいっぱいなんだろ」
「そんなのじゃ」
「酒井さんと、やり直したい? そうなることを望んでる?」
「ちが…っ」




「あの人はまだ、とわさんのことが好きだよ」



















「………え?」








一瞬、奏多がなにを言っているのかわからなかった。












「……なにを、言ってるの………?」


声に出して問い返しても、やっぱり理解できない。
どうしてともひろの気持ちを奏多がわかるのか。
それが嘘なのか、事実なのかも。





「やり直したいって、望めば叶わない夢じゃないけど、わかってる? それを望めば、壊れるものがあるってことを」


奏多がわからない。
どうしてそんなことを言うのか。どうしてそれを知っているのか。
でも。
一番わからないのは、揺れる自分の気持ちだ。
私はなにをしようとしていたの?
タケルの言葉を聞いて、なにを期待していたの?
あのときの気持ちを確認して、よりをもどしたかった? 
ともひろがリオコさんとこの二年の間に築いてきた関係を、ダメにしたかった?
ともひろの、酒井の後継者としてのこれからを、壊したかったの?
──────私。
ともひろに事実を聞いて、どうしたかった?



私が望んでいることは、昔、タケルの彼女が私にしたことと同じじゃない。
もし、ともひろが私を選んだとしたら、確実にリオコさんを傷つけることになる。
あの日の私みたいに、彼女が泣くの?
私がふたりの未来を壊すの?

そう思ったらもう、なにもできなくなった。




幸せは、人の不幸の上に立つものじゃない。








「花井さーん。城戸くん来てるー? そろそろ準備を始めたいんだけどー、寄こしてくれないかなー?」
遠慮がちにドアが叩かれて、扉の向こうから津田さんに呼ばれた。
奏多がそっと、私から離れる。
「花井さーん? 城戸くん、来てないの?」
ドアが開くよりも早く、奏多の唇が軽く私のそれに触れた。
拒絶もできなかった。



「──────なんだ。いるんじゃない。返事ぐらいしてよ」
「すみません」
「彼、連れて行ってもいいかな? 城戸くんが余裕を持って出勤してくることなんて、めったにないから、いつもと違う感じでいじってみたくて。……花井さん? どうかしたの? なんか様子が変だけど……」
「いえ……」
「そう? じゃあ、借りてくね」



去り際に、そっと奏多が私の肩に触れた。


「……じゃあね、とわさん」



私はもう、なにも言えなかった。









のろのろと部屋を出て、頼まれた資料を準備する為に書庫へ向かった。
打ち合わせの時間まで、まだ少し時間の余裕がある。
しばらくひとりになりたくて、誰も来ない部屋に入って扉を閉めた。
今すぐにでもここから逃げ出したいほど足が震えて、行き場のなくなった心が泣きそうだった。


ここならしばらく、誰も来ない。














ともひろが来るまでに、しっかりしなきゃ。










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とわの彼方に 2 comments(5) -
嘘も愛も真実 11


「──────それから先のことは、リオコもよく知ってる通りだよ」
ようやく全ての話を終えたのは、夜の12時をとっくに過ぎた時間だった。
上品なパールでネイルを施したリオコの指先がグラスの淵を軽くひと撫でしてから、残っていたワインを口へと運んだ。
深いため息が彼女の口からこぼれる。
「……そう。じゃあ私は、その彼女の元恋人に感謝しなきゃいけないのね。だって、あなたが彼女に本気にならざるを得ないきっかけを作ってくれたのだから。
そうでなきゃ、愛のない結婚をしていたでしょ? あなたは、私と」

彼女の言う通り、タケルとのことがなかったらオレは、リオコと結婚していただろう。
酒井のためだけの、愛のない結婚。
父のことは尊敬している。
けれど、父親として夫としての彼のことは、認められず、ひどく嫌悪してきた。
なのにオレは、父親と同じコトを繰り返そうとしていた。
あのまま気づけないでいたら、リオコにも母と同じ思いをさせてしまっていただろう。









覚悟を決めたオレがまずしたことは、リオコに会うことだった。



「──────すまない。オレはあなたとは結婚できない」

非難、罵倒を受けるぐらいの覚悟をしてきたオレに対してのリオコの返事は、ひどくあっさりしたものだった。





「……いいわよ。私も、そのつもり、なかったから。
頑なに会うことを拒み続けてきたのは、この結婚を最初から、受け入れられなかったからでしょう? いつか来ると思ってたわ」



思わず自分の耳を疑うことしかしなかったオレに対して、にこり綺麗な笑顔でリオコが言ったのだ。


「でも。断るからには、理由をお聞かせ願えるかしら?
両家を会さず私に直接会いに来たのは、なにか考えがあってのことでしょう? あなたのその顔──────あわよくば私を騙して、利用してやるぐらいのつもりで会いに来たのじゃないかしら? 」




驚いた。
オレが想像していた『桜庭家のご令嬢』とは、随分違うじゃないか。
桜庭の家名を背負っただけの世間知らずのお嬢さまだと馬鹿にして高をくくって、会えさえすればその先の企みは何とでもなると、それぐらいの安易な気持ちで破談の話を持ちかけた。
なのに。
オレが心に抱えたものを彼女は、一瞬で見抜いてしまったのだ。
正直、『桜庭理央子』という存在に興味はあった。
彼女自身に、じゃない。
オレと同じ、親の敷いたレールの上の人生を走る女がどんなものなのか、と。
想像していた彼女と、目の前の彼女とはあまりにもかけ離れている。
外見とか。雰囲気とか。そんな見てくれの話じゃない。
中身だ。
才色兼備という言葉が相応しい生粋のお嬢さま。
けれど、与えられるだけ与えられて、世間の波にも揉まれず、ぬくぬくと生きてきたそれとは違う。
気高く美しく、自分というものをしっかり見据えて、自立した女。
うやむやにするのが嫌いで、筋の通らないことは絶対受け入れることのない、一本筋の通った気丈な性格。
そんなふうに見て取れた。
なるほどな。
酒井の嫁にと、父や母が躍起になって据えたがるわけだ。




「桜庭の縁談を断るなんて、よほどの決意と覚悟がおありなのでしょう? あなたが抱えてる心の中のたくらみ。ぜひ、私にも聞かせていただきたいわ。嘘や建前なんかじゃなくて、本音をね」


嘘なんて簡単に見抜いてしまうような、強い眼差しだった。
ごくり、思わず喉がなる。
話してみる価値はあるかもしれない。
もしうまくいけば、彼女を騙して利用するのではなく、協力者として手助けが得られるかもしれない。




彼女を信じてオレは、心の内を全部明かした。
心に想う人がいること。
これからオレが2年の間に、やろうとしていること。
それを実現するための間、とわを酒井の目から隠すための協力をリオコに頼みたいこと。
嘘、偽りのない、心の内と計画を全て。




「……じゃあ、結婚をするつもりはないけれど、婚約はまだ、解消しないで欲しい、と。あなたが酒井の後継者として認められるまでは、この話は聞かなかったことにしてほしいのね。どうして?」
「解消したとなると、酒井は──────父は、躍起になってそうなった原因を排除するだろう」
「……そうね。酒井のおじ様のことだから、容赦ないわね。その子、間違いなく潰される」
遊びで付き合うわけじゃない。
それが本気の恋愛だと父が気づいて、酒井にとってマイナスになると判断されたら、間違いなく酒井はとわに手を伸ばす。
二度とオレに、酒井に、近づけないぐらいの手は下すだろう。
まだなんの力もないオレは、それを未然に防いでやることしかできない。
今は、そんな形でしか、とわを守ってやれない。


「だから私に婚約者のまま、ことが順調に進んでるふりをしろ、と。そのときが来るまで、彼女の隠れ蓑になれというのね?」
「虫がいい話だっていうことは、もちろんわかってる。それに協力したところで、あなたにはなんの利点もないことも。けれど、こんなことを頼めるのはあなたしかいない。あなたにしか、できない」
オレは深く頭を下げた。


「……今まで通り、婚約はしたままで、私に会わないことを貫くこともできたのに。そうすれば、そんな回りくどいことをしなくても済んだでしょう? なのに、それをしなかったのはどうして?」
「結婚しないと決めたのなら、それではどちらに対しても不誠実だからだ。彼女に対しても、あなたに対しても。
それに、断ると決めたのなら、少しでも早いほうがいいと思ったから。いつまでもあなたを『オレ』に縛り付けておくわけにはいかない」
「表向きは解消されてないのだから、好きにはできないけれど、ね」
「だけど………。気持ちは自由でしょ?」
「……おかしな人ね。ずるがしこいのか、正直なのか。誠実なのか不誠実なのか、よくわからない。
まあ、いいわ。協力してあげる。だって、おもしろそうだもの。ただし……猶予は2年、ね。それ以上は待てないわ」

薄い笑みを浮かべて、リオコがワイングラスを差し出した。
まるで商談成立とでもいうかのような意味を込めた笑みだ。




「私がこのことを父に話すとは考えなかったの?」
「ああ」
「どうして?」
「あなたは人を欺くようなことをするタイプじゃない」
「……私のこと、よく知りもしないくせに」
「これから知るんだよ」
「私を、じゃなくて、桜庭を、でしょう? 伴侶として桜庭を取り込めないのなら、私からこの2年の間に少しでも吸収しておくつもりなのでしょう? 違うかしら?」
「…………」
「あくまであなたにとって私は、『女』じゃなくて『ビジネス』。
そうやって先に牽制しておけば、裏切ることができないっていうこともわかって言ってる。本当にずるい人」
「……あなたも。本当に賢い人だ」
「でも──────。本当にやれるのかしら。たった2年なんかで。あなたが思ってるほど、甘くないわよ、現実は」
「もちろんわかってる。でももう、やると決めたからには、やるしかないでしょう」
「……だったら。まずは呼び方から、変えてもらおうかしら? 婚約者なのに、あなた、や、桜庭さん、では変でしょう?
リオコ、よ。恋人として呼べないのなら、パートナーという意識で呼んでもらったのでかまわないから。やると決めたからには、中途半端は嫌なの、私。演技でも恋人らしくしてもらいましょう? もちろん、体の関係はなしでね」



それが、オレとリオコの始まりだった。


オレの計画にリオコの存在は必要不可欠だった。
とわの存在を隠すカムフラージュとしても、桜庭を知るビジネス的要素としても。
この2年で桜庭から学ぶことはたくさんあった。












「──────どうしてあのときリオコは、オレに協力してくれようと思った? 見返りも求めず」
「人が困ってるときに手を差し伸べるのは当然のことじゃない。それが大事な人ならなおさらよ。
じゃあ私も逆に聞くけど。
あなたが彼女を支えたときになにか見返りを求めたの? 期待したの? そりゃ、彼女が好きだから欲しいと思うのは別の話として。そばで支えたからといって、それに対しての見返りを求めたわけじゃないでしょう? 私も同じよ」
言葉を失ったオレに、告白前となんの変わりもない笑顔を向けて、リオコは話を続けた。

「頭はいいくせに、人の気持ちには鈍感なのね。ホント、憎らしいぐらいに。敏感なのは彼女限定? 興味のないものには無頓着すぎるわ、あなた」
「……すまない」
「今さら謝らないで。べつにあなたに謝ってほしくて、言ったわけじゃないから。本当の『他人』になる前に、知っててほしかっただけなのよ。
本音を言うとね、私がこの話を引き受けた一番の理由は、2年もあればあなたの気持ちを自分に向けられるぐらいの自信があったからよ。もちろん、あなたが事をやりとげられるかどうか、見届けたかったのもあるけど。
でも、私はあなたの気持ちを自分には、向けられなかった。私が勝手にしかけておいた賭けに、あなたは勝ったのよ」
「………」
「そんな顔しないでよ。あなたらしくない。少しは情がうつった? それとも協力してくれたものに対しての同情かしら? それこそ、本当にあなたらしくないわ。
申し訳ないと思うなら、彼女と幸せになってみせなさいよ。簡単に婚約を解消することを受け入れてしまった私を後悔させるぐらいに」
「……言われなくても、そうするつもりだ」
「そのための2年、だったものね?」
満足そうに笑ったリオコが、新しいワインを口に運んだ。




「──────それにしても。
それだけ彼女のことが好きだったのなら、なおさら納得がいかないわ。いくら私の存在を知って彼女が取り乱したからと言って、あっさり身を引いてしまったあなたの気持ちが。これだけいろいろ裏で策略を張り巡らすことができるあなたが、随分あっさりすぎることないかしら?」
あのとき。
リオコの存在を知ってしまったとわは、オレの何もかもを受け入れられなくなっていた。
取り乱して、感情的になってしまった彼女に、あのときオレがなにを言っても、言い訳にしか聞えなかっただろう。
だから。
「とわが不安に思うこと、全部断ち切ってまっさらになってから、ちゃんと向き合おうって、もういちどゼロからはじめようって思った。婚約者という存在がいるかぎり、よりを戻してもとわはまた、不安に囚われる。その存在がある限り、オレがなにを語っても言い訳にしか聞えない。いろんなことに距離を置く時間が必要だったんだ。だから──────」
「でもせめて、事実と、迎えに行くという約束ぐらい…」
「そんな、いつになるかわからない約束なんかできない。だったらもう、やるしかないじゃないか」
「──────あなたって人は……。変なところで、頑固で堅物ね」
リオコが軽く笑いながら、肩をすくめた。


「まあそれは、今だからこそ言えた言葉だが、あのときはオレも感情的になりすぎて、冷静に対応できなかった」
「彼女を失うことが怖くて火がついた?」
「もちろんそれもある。だけど、怒りの引き金はそっちじゃない」



とわが突然、オレの前から姿を消してしまった事実。
そのことよりも、とわの白い肌のいたるところに、これみよがしに咲かせた紅い華。
城戸の言葉と、あいつから受け取ったとわのペンダント。
オレはあのとき、とわが城戸に抱かれたと勝手に思い込んでいたから、感情的になって、冷静に物事を捉えきれなくなった。
あとになって考えてみれば、とわが寂しさに流されて、簡単に身体を許したりするわけがないのに。
アイツにしてみれば、オレの怒りも別れの引き金になるって、全て計算の上だったんだろう。





オレがとわと別れてしばらくしてから、城戸はあっさり、アルバイトをやめた。
彼女がオレの前から姿を消したのと同じように、アイツも気がつけば姿を消していた。
顔を見なくてすんでせいせいするぐらいに思い、気にも止めなかったが……。








「………」


「どうしたの? 難しい顔して」




「いや。ちょっと……腑に落ちないことがあって……」



もともと城戸は、なんでアルバイトなんかしていた?
小遣いかせぎ?
社長御曹司のくせに、そんな金は持て余すほどあるだろう。
社会勉強?
それならもっとオヤジの仕事を引き継げる、上の役職について回ればいい。
オレの部署に出入りをして、ずっとオレを監視するかのようにつきまとってきたのはなぜだ。
はじめは、慣れない環境で人間関係に不安があるから、名前だけでも知っている年も近いオレのところへ顔を出しているのかと思ってはいたが。
アイツが、そういうタマか?
オレと同じで、人と群れるのが嫌いなタイプだろ。









「ねえ。彼女があなたと別れたあと、その彼と付き合ってる可能性は、ないのかしら?」

「城戸と? まさか」



ハッと鼻で笑ったけれど、その可能性は否定できない。
アイツは今、どこでなにをしてる?





難しい顔をなかなか解くことができないオレに対して、今度はリオコが難しい顔をして問いかけた。














「……ねえ。城戸って──────、城戸コーポレーションの奏多くん……?」











「──────城戸を、知っているのか?」



「そっちこそ。……驚いた。まさかあなたが彼を知ってるだなんて」
「オレは2年前、城戸の父親の下で働いていたから」
「…ああ、そうね。そうだった。あなたが以前、勤めていたのは城戸のおじさまの会社だったわね」



「知り合いなんていえるほど、仲がいいわけじゃない。城戸のオヤジは仕事上よく知ってはいるが、子ども同士の接点なんてほとんどない。アイツをよく知っている理由は、仕事の繋がりなんかじゃなくて、とわとの仲を切り裂く原因を作った張本人だから──────」











まてよ。

なんのために城戸は、オレに近づいた?
ただ単純にとわが欲しいだけなら、わざわざオレに接触してくる必要はないはずだ。


「……リオコ」
「なに?」
「オレと婚約しているということを城戸に話したことがあるか?」
「……あるわ」
「それを破棄しようとしていたことは?」
「それはもちろん話していないけれど……、なんらかのきっかけで知ってしまった可能性はあるかも。あの当時、私は彼とよく会っていたから……。あの子、昔から人の感情の起伏に敏感なのよ……」



あのとき、カッときていて、すっかり頭から抜け落ちていたこと。
最初から、城戸は知ってた。
オレとリオコの関係を。オレがリオコとあのホテルで会ってたことを。
アイツは、それを知ってたからこそ近づいてきた。
なんのために?
アイツがオフィスに出入りを始めた時期が、ちょうどとわと付き合い始めた時期と重なるのは、偶然なんかじゃない。
ポストマンのバイトもすべて、情報収集のためだとしたら?







『──────ねえ、酒井さん。どうせあの人のことも本気じゃないんだろ? だったら譲ってよ、オレに』



あの言葉が、『とわ』に対して向けられたものじゃないとしたら?








 
オレと城戸を結ぶファクターは、『とわ』じゃない。──────『リオコ』だ。


そうだとしたら。

婚約を解消した今、確実にアイツが動く。











「──────リオコ。あなたと城戸の関係を、詳しくオレに話してもらえるか?」




城戸。

お前こそ、傘がひとつしかないのだとしたら、どっちをいれてやるつもりだ。

阿呆が。











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