それは、突然で、強引だった。
すべてがあまりにリアルすぎて、息もできなかった。
頑なに閉じて拒んだ私の唇にともひろの舌が触れる。
私の唇を優しくなぞるたびに、ざわりと快感が背中を駆け抜けて、震えが止まらない。
キスに、応えてしまいそうになる。
キスの合間の息づかい。微かな煙草の匂い。重なる唇の乾いた感触と、濡れた舌の感触。
私が拗ねたとき、いつもこんなふうに抱きしめて、軽いキスを繰り返して、優しく私の心をほどいた。
どんなキスで誘われたら私が弱いのか、全部、ともひろは知ってる。
口を開けたりなんかしたら、その隙間から簡単に舌が潜り込んでくるのはわかっているから、声も上げられない。
深く探られたりなんかしたら、もう──────。
拒絶の意味で何度も首を振った。
どんなに逃げても逸らしても、追いかけてくる唇にすぐに追いつかれて捕まってしまう。
頑なに唇を固く閉ざすことで、キスを拒み続けて、息もできなかった。
苦しい。めまいがする。
立ってられない。
「…あ、……ッ!!」
崩れる寸前、ともひろの腕に支えられたかと思うと──────視界がくるりと反転した。
そのままソファに押し倒されて、手を顔の横に押さえつけられる。
私の身体の上に被さってきたともひろの顔がどんどん近づいて──────あっという間にまた、キスで塞がれた。
「ん、ぅ……ッ」
ふたりの重みで、古びたソファが壊れそうな音を立てた。
身体よじると衣服の擦れる音がして、古いレザーの独特な香りが鼻腔を掠める。
微かに香っていた煙草の匂いを強烈に感じたのは、ともひろの舌が入り込んできたから。
堰を切ったように私の唇をこじ開けて、激しく中を求めてくる。
「とも、っ……や…っ、ふ」
一瞬、唇が離れたかと思えば、また角度を変えて何度も貪られる。
押し返そうと動いた肩は、あっけなくソファに縫い付けられて、ふたりの重みでまた深く沈んだ。
絡めた指に自由を奪われて、拒絶に唇を開こうとすれば、いっそう深く口づけられる。
怖いぐらいの気持ちが私の中に入ってくる。
────── 酒井さんはまだ、とわさんのことが好きだよ ──────
奏多の言葉が頭の中で、何度もリフレインした。
こんなにも強く求められたことなんてない。
キスで、視線で、心全部でともひろが私を求めていることが伝わってきて、胸が破れそうになる。
なにも考えずに、今ある幸せに手を伸ばして、すがりついてしまいたい。
拒絶するのは言葉ばかりで、心が、体が。
もっともっとと、強く叫ぶ。
離れていかないで。誰かのものになんてならないで。
そんなことを口走りそうになる。
このまま広い背中に腕を回して、溺れてしまうことができたなら、どんなに楽になれるのか。
「ともひろ、いやだ…、いや。も、…やめ、て……っ」
「いやだ。やめない」
「こんなの、ずる、い……っ」
「なにがずるい」
髪に埋もれた指に、力が加わる。苦しいくらい強く。
唇を開けば、ともひろのそれが優しくキスでついばんで、重ねた唇は決して放れることがなかった。
拒絶できない自分が情けなくて、また涙が溢れる。
「……ど、して? どうして……っ、こういうこと、するの…?」
「好きだからに決まってるだろ。他にどんな理由がある。オレがどれだけ、お前に触れたかったか……っ」
拒絶する手に力が入らなかった。
ともひろが私を掻き抱く手も、キスも容赦がない。
私の溢れては止らない涙と、震える指先が、拒絶の言葉を裏切ってるからだ。
「オレにはもう、とわに触れる資格はない?」
「…そんなの、あるわけ……っ」
「だったら言って」
「……え?」
「もう、オレのことが好きじゃないのなら、そう言って。そうしたらキスはやめる。オレはもう、とわには触れない」
顔のすぐ脇に肘を付かれて、閉じ込められた。
すぐ真上からじりと見つめてくる視線。
ぞくりとした。
まるで、肉食獣が弱い獲物を囲って追い詰めてるみたいだ。
思わずその気迫に、息を飲む。
「言って」
伸ばして来た大きな手に、髪を掻き分けられる。
無骨な指が耳元に触れて、ぞくりと身体が震えた。
強く見つめてくる視線が、私を捕らえて離さない。
「とわ」
すぐ耳元で名前を呼ばれた。
「言って」
声だけでさらわれそうになる。
心まで絡め取るような強い視線に耐え切れなくなった私は、顔を背けた。
ぎゅーっと目を瞑る。
「………もう…、ともひろの、ことなんて…」
「ちゃんと顔見て、目を開けて」
いきなり顎に指がかかって、逸らした顔を戻された。
きつく閉じた瞼に唇が触れる。
「……ッ」
間近で目が合って、胸が張り裂けるかと思った。
意識しすぎて、おかしくなる。
きっとみっともないぐらい動揺が顔に出て、情けないぐらい泣き顔。
甘い誘惑を目の前に、私が持てる強がりなんてとっくにオーバーしていた。
それでも言わなきゃ。拒絶しなきゃ。
この人はもう、私のものじゃない。
切なくて、苦しくて、私は唇を強く噛んだ。
「………もう、ともひろの、ことなんて……好きじゃ、ない……」
「もう一度」
「……………好きじゃ、ない。キライ……っ」
そうやって、持てる全部で好きだって伝えてくるともひろが。
気持ちを見透かして、そんなことを言わせるともひろが。
「………わかった」
交錯し続けた視線が、ため息と同時に途切れた。
頬に触れていた手が離れていくのが、スローモーションのように見えた。
その指と眼差しと両方から逃れて、安堵なのか寂しいのか、なんともわからない感覚が私を襲う。
ぎゅーっと、胸が締め付けられた。
と、突然。
腕を取られた。
「……っ!」
驚いて、思わず身を引く。
開放されると思ってた身体が、逆に引き寄せられて──────。
「やぁ……っ!」
突然、与えられた刺激に体がみっともなく跳ねた。
耳朶を柔く噛まれて、舐られる。
濡れた感触にビクンと身体が跳ねて、腰が浮いた。
熱い吐息が鼓膜にリアルに届く。
「や、…っ、ともひろ、っ……なん、で……っ」
髪を掻きわけて、逃げ惑う腕を頭の上へと拘束して、ともひろの唇が耳元に押し当てられた。
そこへ息をふきかけるように、掠れた声で囁く。
「ヘタな嘘だ」
そこでようやく、真の意図を理解した。
私の髪をかきわけて、執拗に耳元にキスをくれるわけが。
「もう一度。同じ台詞、言って」
その言葉に何度も何度も、私は強く首を横に振る。
「………もう、言えない…っ」
「どうして?」
「だって………っ、ッ…あ、」
ともひろの唇が耳朶を含んだ。
ぞくぞくと這い上がるような感覚を堪えきれずに、声がこぼれた。
ともひろが甘い罠をしかけて、逃げ道を断って追い詰める。
もう、無理だ。
うそなんて、つけない。
「言えないのは、嘘がばれるからか? 嘘をつくとき、耳が震えるから。……不憫でかわいい癖だな」
噛み付くようなキスが唇に降りた。
心を見透かされて、暴かれて。
それを受け入れる以外、もうどうすることもできなかった。
意識が遠のいてしまいそうなキスの嵐の中、必死にシャツを握り締めて、降りてくるそれを追いかけた。
温かいものが目尻からこぼれて、静かに筋をかく。
どこまで流されていいの?
どこまで受け入れればいい?
このまま、手を伸ばしてもいいの?
タケルに話をきいてから、ずっと聞きたかった。
今さらな話を持ち出して確認したかったのは、あのときの気持ちじゃない。
今の気持ちだ──────。
「とわ、好きだ。とわ、……ずっとずっと、こんなふうに触れたかった……っ」
魅力的な声で、言葉で、キスで、私を誘う。
キスも、溢れてくる気持ちも、拒絶できない自分の弱さも、全部が辛くて苦しくて、涙が溢れて流れた。
しゃくりあげるたびにこぼれてく涙は、どうしたって止まらなくて、情けなく泣いてしまう。
今の気持ちを知ることができれば十分だった。
なのに、知ってしまえばなおさらこの人を手放せない。
涙が止まらないのは、『今』しか手に入らないから。
とわに未来を歩ける約束は、どうしたってもう──────。
『これから』が欲しいだなんて、私はどこまでおこがましいのだろう。
どれくらいの時間、そうしていたのかはわからない。
ようやくともひろが、唇を放した。
冷えていく体温と離れていく距離が辛くて、ふたたび手を伸ばしそうになる。
「やりなおさないか、とわ」
涙で頬に張り付いた髪をそっと指で払って、その手が優しく髪を梳いた。
ともひろの切れ長の目が真っ直ぐに見下ろしてくる。
「…やり、なおす……? どして……? ともひろには、リオコさんがいるのに…っ」
「婚約は解消した」
「………え?」
「そのことも含めて、とわとちゃんと話がしたかった。だから」
一気に、現実に引き戻された。
タケルと別れた日がフラッシュバックして、あの日泣いた自分と、リオコさんの姿が重なる。
「ちょっと、待って……? 解消って………、どうして…? だって、リオコさん──────」
あんなに幸せそうに笑ってたのに。
──────私が、壊したの?
急に押し寄せた現実が怖くなって、私はともひろを強く押し返した。
望めば壊れるものがあるって奏多が言った言葉の意味を、私、ちっともわかってなかった。
壊れたのはリオコさんとの関係だけじゃない。
私を選ぶことでこの人は、どれだけのものを手放すことになるの?
人の幸せの上に胡坐をかいて、どういう未来を待ってた?
心のどこかですべてを望んでいた自分のあさましさに、吐き気がする。
「ごめん、ともひろ。無理だ。やり直すなんて、今さら。そんなこと、できない……っ」
「どうして」
「だって…っ、リオコさんが……っ! 酒井だって、私がともひろに相応しいとは」
「またそうやってお前は…っ、目に見えるものばかりに囚われて、オレの話を聞かないつもりか!? 頼むから! 話ぐらいはちゃんと聞いてくれ……っ」
押し返した身体はびくともしなくて、引き戻される。
あっさり連れ戻された体は、再び腕の中に閉じ込められた。
ネクタイの結び目が強く頬に当たって、痛かった。
それほどの強引な強さでともひろは、私を抱きしめる。
私はその腕の中で、何度も何度も首を強く横に振った。
「……ほかに、付き合ってる男がいるのか?」
首筋に触れてくる指の動きで、ハッと気づいた。
今朝、つけられた奏多の痕のことを。
「そういう男がいるのか……? 以前、見つけたのと同じ場所だ」
「──────ぁ、ッ」
唐突に首筋に吸い付かれた。
唇が触れた箇所が、熱く燃える。
奏多がつけたのと同じ場所に、ともひろが痕を残す。
まるでそれを塗り替えるみたいな行為に、ゾクリと身体が震えた。
舌が首筋を這って、また耳元に辿りつく。
「付き合ってる男がいるのか? 今、お前は誰が好きなんだ?」
「やだ、ともひろ…っ、や…っ」
「とわ。答えて──────」
「それ。俺だけど」
その声はあまりに突然すぎて、息がとまるかと思った。
「とわさんの首筋に痕つけたの、俺だっつってんの」
「城戸……? なんでお前が──────」
いつからそこにいたのか。
スチールの棚に手をかけて、冷めた目つきで、ソファで折り重なる私たちを奏多が見下ろしていた。
その後ろにいる人物に、私はさらに目を見開く。
「瀬戸、ちゃん……」
「………花井さん、これ、どういうこと──────?」
最悪だ。
お客様とこんなところで、こんな場面。
言い訳の仕様がない。
「酒井さんが来られるのが見えたがら、お茶を運んだら部屋にいなくて。城戸くんに聞いたら、突然走り出すものだから……」
私と、ともひろと。
交互に視線を漂わせた瀬戸ちゃんの目が、もっと驚きに見開いた。
奏多がいきなり、私をともひろから引きはがしたからだ。
今置かれている立場とか状況とか、なりふり構わず私の身体を引き上げて、自分の方へと引き寄せた。
手加減なんてない。
肩を抱く指が肌に食込んで、私は苦痛に顔を歪めた。
「城戸! お前どういうつもりで」
「──────どういうつもり? あんな場所に華を咲かせられる理由なんて決まってんだろ。付き合ってんだよ、とわさんと」
「奏多…っ!? なに言って……!」
「そっちこそ、どういうつもりだよ? 2年もほったらかしておいて、なにもしなかったくせに、今さら? それはあまりにも虫がよすぎる話じゃないのか?」
まるで庇うように私の前に立ちはだかっていた奏多が、私の手を強く掴んだ。
「……とわさんを渡すつもりはないから。酒井さんだけには、絶対……!」
そのまま引きずるように部屋から押し出す。
「奏多…っ、 や、だ…っ」
「──────とわ…っ!」
「酒井さんっ、困ります! 今、ふたりを追いかけたら花井の立場が…っ」
咄嗟に私の身を案じた瀬戸ちゃんの言葉に、ともひろが踏みとどまるのが見えた。
場所が場所なだけに、これ以上大っぴらには出来ないと判断したのだろう。
「城戸くん。花井さんを連れて行って。こっちはこっちで対処するから」
「瀬戸ちゃん…っ!」
「花井さんも。これ以上、表ざたにはしたくないでしょ? いいから。城戸くん、連れて行って」
ともひろを軽く一瞥してから、奏多は無言で私の手を引いた。
「……城戸っ」
扉が閉まる寸前、ともひろの声が奏多を呼び止めた。
「お前が本当に欲しいのは誰だ」
「………」
「過去にオレに聞いた質問をそのままお前に返す。今、ここに傘がひとつしかないのだとしたら、お前はどちらを選んで入れてやるつもりだ」
「………とわさんに、きまってるだろ」
乱暴にドアを閉める音が背後で、ひと際大きく聞えた。
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