<Sied* Kanata>
事故から三週間が過ぎた頃、俺は一般病棟に移された。
そのまま特別病棟にいることもできたけど、賑やかな方が気が紛れる。
何より、これ以上父に迷惑をかけて、言いなりになるのは嫌だった。
移った先は小児科病棟だった。
「──────今日は゛カナリア゛のお姉さんが来るんだって!」
嬉しさに頬を染めた子どもたちが、無邪気に走ってく。
「コラ! 病院内は走っちゃダメでしょ!」
そのすぐ後ろを、若手看護師の篠原さんが大股で追いかけて、さらに子ども達の逃げる足を加速させた。
追いかけるから逃げるのに。
小児科病棟の看護師なら、そういう子どもの心理は把握しろ。
賑やかな集団とすれ違いながら、この日常的風景を俺は冷めた目つきで見送った。
子ども達が向かう先には、プレイルームがある。
退屈しないようにと、おもちゃや絵本のコーナーが設けられている部屋だ。
当然のごとく、その部屋は子ども達のお気に入りの場所だった。
「──────あ。奏多くん。自分で歩けるようになったのね」
俺を見つけた篠原さんが、追いかける足を止めた。
「どう? もう痛みはない?」
人懐っこそうな笑顔を浮かべながら、怪我の経過を窺ってくる。
三週間で足の方は随分良くなって、自分で歩けるようになっていた。
痛みもほとんどない。
腕も脚も固定されていた間は歩くこともままならず、移動といえば電動車椅子だった。
寝ている間に筋力が落ちて、歩くことに違和感があった。
それでもリハビリになるからと言われ、廊下をひたすら手すり伝いに歩いていた最中だった。
歩き方はまだ少しぎこちなかったけど、それでも自分の足で歩けるのは嬉しかった。
腕のギプスは相変わらずだったけど。
「看護婦さーん! 早く!!」
「はいはい。今行くから、プレイルームで先に待ってて。ほら、走っちゃだめよ!」
「……賑やかですね」
「そうなのよ。他の患者さんの迷惑になるからって言っても聞いてくれなくて……。まあ、あれぐらいの子ども達に、大人しくしなさいなんて無理な話よね」
プレイルームの中へ吸い込まれるように入っていく子ども達を微笑ましく見つめながら、篠原さんが笑った。
看護師よりも保育士の方が、この人には向いてそうだと。
横顔を見つめながらぼんやりと思う。
「そうそう。今日、これからボランティアの学生さんが来てくれるのよ。よかったら奏多くんもどうかな? 気分転換になると思うけど……」
小児科病棟には週に二回。
教育学部の大学生や近所の中高生がボランティアでやってきて、子ども達に紙芝居や簡単な演劇、楽器演奏などをしてくれる。
今日はその日だった。
「誰が来るんですか?」
「今日はね、確か………白樺女学院の桜庭さんじゃないかしら」
ああ、あの人か。
フランス映画にでも出てきそうなほど線の細い美少女は、病院内でも有名で。
彼女見たさに子どもたちに混じって参加してる医師や看護師もいるほど。
俺も一度だけ、見かけたことがあるけど、確かに噂どおりの美人だった。
彼女は独学で学んだという自慢の喉とピアノで、弾き語りをして子ども達を楽しませてくれる。
その歌声はまるでカナリヤのようだと、誰がそんなことを言い出して。
いつの間にか子ども達の間で『カナリアのお姉さん』と呼ばれるようになっていた。
伸びやかで迫力のある澄んだ声に魅せられて、ファンは絶えない。
「彼女の声はとても素敵なの。奏多くん、一度も顔を出したことがないでしょう? 歌は嫌い?」
「キライじゃないですけど……今日は、来客の予定があるので、遠慮しときます」
「あらそう? じゃあまた、気が向いたら覗きに来てね」
「……はい。また今度」
社交辞令のような言葉を返して、俺は急いでそこから離れた。
部屋に戻って扉も窓も全部閉めて、頭から布団を引っ被って、すべての音を遮断した。
彼女が来るってことは、ピアノの音が聴こえてくる。
怪我をしてからの俺は、音を聞くのも、ピアノを見ることさえ嫌になっていて、ずっとその部屋を避けていた。
なぜならプレイルームにはピアノが置いてあるから。
子どもがお遊びで弾いてる音でさえ、辛くてしょうがなかった。
それから四日後。
同室の子が退院した。
虫垂炎で入院していた4つ年下のそいつは、夜中になると毎日、家に帰りたいとわんわん泣いて、付き添っていた母親を困らせていた。
あのウルサイ夜から開放されるのかと嬉しくなったけれど、実際いなくなってみると寂しいもので。
俺は特にやることもなく、ぼんやりと隣の空いたベッドを見つめた。
ふと、何気なく視線を泳がせると。
枕もとのテーブルの上に一冊の本が置いてあるのに気づいた。
『──────挨拶を済ませてから、プレイルームに返しておきましょうね──────』
母親が子どもにそう言い聞かせていたのを思い出す。
退院の挨拶回りのあとに返却するつもりが、家族が迎えに来たものだから、そのまま忘れて帰ってしまったのだ。
残された絵本は、子ども達の中でとても人気のある絵本だった。
返しに行こうか、本の前で30分も悩んだ。
このままいっそ、見なかったことにして返すのはやめようかと思ったけれど、この絵本が子ども達に人気で、返却を待ってる子がたくさんいるのは知っていた。
返せばいいだけ。
そう自分に言い聞かせて、俺は絵本を手に立ち上がった。
夜のプレールームは、ひっそりと静まりかえっていた。
昼間のあの賑やかな部屋と同じ場所なのかと疑いたくなるほど、別の空間。
絵本を所定の本棚に返した俺は、早急に立ち去った。
……いや、立ち去るつもりだった。
だけど。
ずっと見たくないと思っていたのに、すぐ側にあると意識しただけで、堪らなくなるのはどうしてなのか。
俺の心が、まるで長い間会っていなかった恋人のように、その存在を渇望する。
まるで見えない糸に操られているかのように、ふらふらとピアノの側まで歩み寄った。
震える手を伸ばして、ゆっくりと蓋を開けた。
規則正しく並ぶ白と黒の鍵盤のひとつに指を置いて、ポーンと音を鳴らす。
その音は澄んで、いつまでも俺の鼓膜を響かせた。
毎日毎日、休むことなくピアノと接していた。
それが当たり前だったから、ピアノが弾けないのがこんなに辛いなんて知らなかった。
こんなことになるなら、もっと弾いておけばよかった。
誰が止めても、反対しても、自分の意思を貫き通せばよかった。
まさかこんなふうに、弾けなくなる日がくるなんて、俺は思いもしなかったから──────。
押し寄せる感情は後悔ばかりで。
たった一音、弾いただけなのに、その音さえ苦しくって泣いてしまった。
涙が頬に筋をかく。
もう一生、あんなふうにピアノは弾けないんだって思ったら、止らなくなった。
「う、う……ぅ……ッ」
かみ締めた唇から漏れるうめきは、すぐに泣き声になった。
自分でも、情緒不安定になっているのがわかる。
情けない。
男のくせに、こんなとこで涙を流す自分が。
それでも溢れて出て来るそれを止めることはできなくて、しばらくそこにうずくまるようにしてひたすら泣いた。
「どうして泣いてるの……?」
突然、降って湧いたような声に、俺はビクリと肩を揺らした。
服の袖で急いで涙を拭う。
弱い自分を、誰にも見られたくなかった。
「大丈夫? どこか痛いの? 看護婦さん呼ぼうか?」
振り返って更に驚いた。
俺の後ろに立っていたのは、医師でも看護師でもなく、彼女だったから。
カナリアの人──────桜庭理央子。
「……いい。べつにどこも痛くないから」
泣いてるところなんて見られたくなくて、ぶっきら棒に言葉を吐いて俺は彼女に背を向けた。
「痛くないのなら、どうして泣いてたの? 寂しくなった? お母さんは?」
見なかったふりをして、さっさとどこか行けばいいのに。
彼女は心配するばかりで、そこから立ち去ろうとはしなかった。
投げかけてくる視線が、同情めいて見えて、俺は苛立ちのままに彼女を睨みつけた。
「……俺をその辺のガキと一緒にするな。ていうか、いちいち人の感情に入り込んでくるな。俺が泣こうが叫ぼうが、アンタには関係ないだろ」
「だって。泣いてる理由がわからないと、気になって眠れないもの。
ねえ、どうして泣いてたの? 何か不安なことがあるの? ひとりで泣くほど辛いことは、誰かに話した方が楽になれると思うのよ。眠れないなら私がそばに──────」
「バカじゃないのか、アンタは。お前がそばにいて、なんになるんだよ? 話したところでなにも解決できないくせに。
うぬぼれんのも大概にしろよ。小児科病棟の子どもはみんな、アンタが好きで、アンタの歌声を聴いて癒されてるなんて思うな。迷惑なんだよ!
怪我してるヤツの前で、平気でピアノを弾いて、元気に笑って。ここにいる子ども達にとって、普通に生活できるのがどれだけ羨ましいことなのか、お前ちっともわかってないだろ。……偽善者!
ボランティアなんて、自己満足なだけじゃないか!」
嫉妬だったと思う。
何の障害もなく、好きなことを好きなだけできる彼女に。
嫉妬に加えて、無神経な彼女の言葉に腹が立った俺は、言いたいことをぶつけて吐き出したあと、彼女を感情のまま睨みつけた。
彼女は怯まなかった。
それどころか、強い瞳を真っ直ぐに向けて、俺の心の内を探るように見つめ返してくる。
「あなた、もしかして………ピアノを弾く人なの?」
彼女の視線が俺の右腕を捕らえた。
「………そうだよ。弾く人だったけど、弾けなくなった。事故で利き腕駄目にして。もう一生な…っ!」
だからもう構うな。
ほっといてくれ!
「………そっか。それはお気の毒ね。同情するわ。──────でも。
腕が無くなったわけじゃないでしょ? 明日死にますって、宣告されたわけじゃない。弾けないのは、努力が足りないだけじゃないの?」
彼女の無神経な言葉に、カチンときた。
カーッと、ますます頭に血が昇る。
べつに同情めいた言葉を期待してたわけじゃない。
だけど、何不自由もないお前が弾けなくなった俺に対して、偉そうにいう言葉じゃないだろ。
事故のこと、なにも知らないくせに。
俺のことだって、何もわかってないくせに!
「……アンタ、なにわかったふうなこと言ってんだよ? 諭してんだよ! 努力が足りないだって? できるならとっくにやってる! 弾けないって言ってんだからそういうことだろ? あんた俺より年上のくせに、それぐらい察しろよ。空気読めよ。ほんっと! 無神経な女だな!」
今まで溜め込んできたものが一気に膨らんではじけた。
早口でまくしたてるように罵倒して、本音を吐いた。
自分が何を言ってるのかわからないぐらいに、感情のまま言葉を紡いで吐き出して、彼女にぶつけた。
事故のこと。
ピアノが弾けなくなった理由。
義父にもう二度と、ピアノは弾くなと言われたこと。
見ず知らずの他人になんでこんなこと言ってんのか、自分でもわからないくらい自暴自棄になって叫んでいたけど、止らなかった。
未来に希望なんて持てない。
「……そう。あなたの言いたいこと、よくわかったわ。要は自分が弱虫だってことを言いたいんでしょう?」
俺の話をだまってジッと聞いていた彼女が、静かに口を開いた。
「だってそうじゃない。どうして諦めるの? 諦めなきゃいけないの? やる前から努力もしないで、できないと決め付けて。
……事故のことは私も知ってる。ニュースでやってたから、何度も見たわ。すごく大きな事故で大変だったのも知ってる。
でも、腕がなくなったわけじゃない。歩けなくなったわけじゃない。あなたと同じ事故で、亡くなった人もいるって知ってるの? あなたより小さくて、未だに動けない子も入院してるって知ってる? あの事故で、それぐらいの怪我で済んだんだから、贅沢言わないで。ピアノが弾けないって言うけど、ちゃんと確かめたの? 弾ける確立は、ゼロじゃないでしょ? 泣き叫ぶぐらいピアノが好きなら努力で結果を塗り替えてみなさいよ。男のくせに、やる前からできないなんて言わないで。
あきらめてしまえばそこで全ては終わるけど、あきらめさえしなければ結構なんとかなるものよ?
できるかできないかは、あなた次第だわ」
伸ばして来た手に、くしゃりと髪を撫でられた。
慌てて振り払ったけど、それでも彼女は手を伸ばし俺に笑いかけた。
温かい手のひらが、俺の髪を混ぜてく。
彼女の手は暖かくて気持ちがよかった。
ささくれ立ってた心が次第に和らいでく。
「わかってもらえる努力もしないで、自分ばかりが理解されることに受身にならないで。やりたいことをやればいいじゃない。人生の主役は、自分自身なのよ。親のものじゃない。
あなたは誰の為に弾くの? 人に褒められるから弾いてたの? あなた次第で音がいくらでも変わるように、周りだって努力次第でいくらでも変わるわ。
自分から動かなきゃ、周りは変わってくれないわよ。あなた自身が変わらないと、なにも変わらない。
あなたの足だって、最初は動かなかったんでしょ? でも今、そうやって立ってる。歩けるようになるのよ?
それがたとえ100パーセントじゃなくても生きている限り、できないことなんてないから」
彼女の言葉はスッと俺の心の内側にすんなり入り込んだ。
本当は俺、誰かにそう言ってもらえるのを待ってたのかもしれない。
その晩、俺たちはピアノの片隅で身を寄せ合って眠った。
彼女の歌うような声は心地が良くて、話し込んでいるうちに気持ちが良くなって、そのまま眠ってしまったのだ。
そんな俺の手をずっと握り締めて、彼女は朝までそばにいてくれた。
彼女の声は優しくて、温かくて、その音色に包まれているうちに、俺の涙は止まっていた。
翌日。
俺達を見つけた看護師の篠原さんにこっぴどく叱られた。
部屋にいないことに気づいて、夜中中、ずっと探し回ってたらしい。
「プレイルームも覗いたけど、まさかピアノの下にいるなんて思わないじゃない? びっくりさせないでよ」
「………ごめんなさい」
「理央子ちゃん、あなたもよ。発作で入院してる大事な体なんだから、心配かけないで」
「え? 発作?」
確かにおかしいとは思ったんだ。
ボランティアで来てるはずの彼女が、なんでこんな時間に病院にいるんだろうって。
服だって、いつもの制服と違って部屋着に近いラフな格好だし。
彼女も患者だったなんて。
しかも発作って、なんだよ。
「あら、知らなかったの?」
彼女がいるところで聞くのは何だか気がひけて、病室に戻ってから篠原さんに病気のことを聞いた。
理央子さんは先天性の心疾患で、今までに何度も、発作で入院してるという。
今回もそれで、緊急入院になった。
発作のあった夜はいつも、彼女は眠れなくなるということも、篠原さんはこっそり教えてくれた。
「病院内を徘徊しているうちにピアノの音を見つけて、誘われるように入って行ったんだって理央子ちゃん、言ってたわ。
発作を起こすたびに不安は増徴していくものなのよ。夜中に危篤性のある発作に襲われて、誰にも気づかれず死んでしまったらどうしようって、眠れない日が続くらしいわ。きっと彼女も、ひとりでいるのが怖かったのね。理央子ちゃんも、奏多くんに救われたんだわ……」
篠原さんが笑った。
彼女が俺に言った言葉は、もしかしたら彼女が自分自身に投げかけた言葉なのかもしれない。
俺はそう思う。
それからの俺は、父を説得して音楽の道に進んだ。
もちろん簡単には承諾はしてくれなかったけど、だからといって俺も諦めることはしなかった。
認めてもらえるのに三年かかった。
腕の怪我は蓋を開けてみれば何てことない、ただの骨折だったこともわかった。
長いギプス生活のおかげで、前みたいに弾けるようになるまでかなり辛いリハビリは必要だったけれど、それでもピアノが弾けるのだからと必死で頑張った。
ピアノを弾く為の努力は、なにも辛くはなかった。
相変わらず父は俺がピアノを弾くことを快くは思ってないけど、それでも認めてくれたことに感謝してる。
退院後も週に一度は、病院に通った。
「──────ねえ、奏多くん。また前のように弾けるようになったら、私の歌の伴奏をしてもらえないかしら? 私、歌は得意だけど実はピアノのほうはあまり得意じゃなくて……。私のためにピアノを弾くのは嫌かしら……?」
もちろん喜んでOKした。
ピアノが弾けるのならどこだって構わなかった。
そしてなにより、彼女のそばにいられるのなら──────。
それからしばらく、彼女が大学を卒業するまでの7年間。
俺は彼女のためにピアノを弾いた。
挫折しそうなとき、いつも彼女の歌を聴くと心が落ち着いた。
俺の音は彼女からもらったと思ってる。
彼女からもらった音はいつも澄んで、心の奥深くに響かせる。
理央子さんは、オレの生き方を変えてくれた人だった。
彼女からはいつも、生きる勇気をもらった。
理央子さんは、俺の大事な人だった──────。
*
目を覚ました彼女が、俺を呼んでると聞かされたのは、明け方近くだった。
急いで病室に戻ると付き添っていた家族は席を外していて、ベッドの傾斜を変えて上半身を起こした状態の理央子さんが、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
ガラスの向こうはずっと雨だった。
「……奏多くんが付き添ってくれてたんですってね。ありがとう」
俺が入ってきたことに気づいた彼女が振り返り、綺麗に笑った。
「気分はどう?」
「まだ少し頭がぼんやりするけど、悪くないわ。脈も落ち着いてるし、胸も苦しくない。明日、簡単な検査を受けて異常がなければ、明後日には退院できるそうよ」
理央子さんの顔色は、随分良くなっていた。
落ち着いた声のトーンと穏やかな笑顔に、自然に安堵の息が零れた。
「どうして雨の中、あんな無茶をしたんだよ?」
自分の体のことは、自分が一番よく分かってるくせに。
「……酒井くんが彼女に会いに行ったことは知ってたの。とわちゃんがずっと、彼に想いを残したままなのも気づいてた。なのに、自分の感情を押し殺して、彼女はまた酒井くんを突き放した。目に見える形に囚われて、彼の話を聞こうともしなかった。正直、腹が立ったわ。苛立ちで発作を引き起こしそうなくらいには、もう」
理央子さんが冗談めかして笑う。
「酒井くんはまた出直すからって、何度追い返されたって彼女を諦めるつもりはないからって、笑って言ってたけれど、このままじゃ彼の二年がダメになってしまう気がした。彼の努力がこのままじゃ伝わらない気がして……彼のためにどうしても『今』、何かをしてあげたかったの。
でも……。ダメね。結局は、逆に迷惑をかけることになってしまったのだから……」
話が重くならないようにと、あえて明るく振舞う彼女の姿が、痛々しくて堪らなかった。
「ダメじゃなかったよ、理央子さん。きっと迷惑なんかじゃ、なかった」
意地っ張りな彼女が、素直に向き合うきっかけを作ったのは間違いなく理央子さんだ。
きっとふたりは、今頃──────。
「………奏多くん?」
黙り込んでしまった俺を理央子さんが不思議そうに見上げた。
見上げた拍子に肩から滑り落ちてしまったカーディガンをそっと肩に戻してやりながら、俺は再び笑いかけた。
「さっきまで、ずっと外にいたんだよ。とわさんも、酒井さんも。心配してた。
意識が戻るまで待つって言ってたんだけど、帰らせた。とわさんが熱っぽかったから。また明日、出直すって」
「……そう。彼女にも申し訳ないことをしたわね……」
申し訳なさそうに微笑してから理央子さんが、綺麗な瞳を伏せた。
波打つ髪が頬に掛かる。
「──────なあ、理央子さん。手術、受ける気はないの? 受けたら、こういう突発性の発作や命の危険性からは、開放されるんだろ?」
「……やっぱり怖いのよ。発作から開放される、今は医学も進歩してリスクも少なくて安全だって聞いても、やっぱり心臓だから………。
不安なときに弱音を吐ける、震えるときに強く抱きしめてくれる。大丈夫だよって笑ってくれるだけで勇気をくれる、そんな人が私にもいれば、心強いんだけど……」
「それって酒井さんのこと?」
ベッドから視線を浮かせて、真っ直ぐに俺を捕らえてきた理央子さんの眼差しが一瞬、寂しさを見せて。
でもすぐに、いつもみたいに目を細めて、柔らかく笑った。
「正直、羨ましかったわ。酒井くんと、彼女の絆の深さ。あんなふうに想い想われる関係って、理想よね」
「不安だったら、俺がそばにいます」
「フラレタ者同士、側に寄り添ってなぐさめ合う? それもいいかもね」
おどけたように笑ったあと、理央子さんの顔が真顔になった。
「──────私、知らなかった。あなたが、酒井の恋人に接触してるなんて……。
酒井くんに聞いて驚いたわ。しかもよく聞けば、彼が彼女と別れた引き金はあなただって言うじゃない。
どうして? 婚約の話はしたことあるけど、それ以上のことは知らなかったはずだわ」
「その話を聞いたのはさ、もう、本当に偶然だったんだよ……。
理央子さん、酒井さんと会うとき、うちのホテルを利用してただろ? 俺、あの日、理央子さんが来てるのを偶然見つけて、後をつけたんだ。久しぶりだったから驚かせてやろうと思って。──────でも、できなかった。酒井さんがいたから」
「………」
「聞くつもりはなかったけど、理央子さんの表情がいつもと違って見えて……悪いと思ったけど、盗み聞きさせてもらった。聞かなきゃよかったって、あとで後悔したよ」
「………」
「どうして理央子さんは、会ったこともない男なんか好きになったんだよ」
呻るように口から滑り出た俺の本音に、理央子さんが一瞬、寂しそうな顔を見せた。
俯いた拍子に頬にかかった波打つ髪をそっと耳に掛ける。
「………言葉を交わしたことはなかったけれど、彼のことは知ってたの。社交界の場で何度も顔を合わせてる。向こうは最初から私に全く興味がなかったから、気づきもしなかったけれど。
彼、すごく素敵でしょう? ほとんど一目惚れみたいなものよね。この人と結婚するんだ、幸せな未来を築いていくんだって、恋に恋して、一種の暗示みたいなものにかかってしまって……私は彼と会うたびに、夢の世界に堕ちていった。
なのに彼はなかなか会ってはくれなくて、断られるたびにずっと、想いが募っていった。……ずっと好きだったの。ちゃんと会って、話をしてみたかった。だから酒井くんの方から会いたいって、申し出てくれたときは、本当に嬉しかったわ。ようやく彼と向き合えるんだって。でも─────現実は夢のようにうまくはいかなかった。
まともに話したこともないような人に恋をするなんて馬鹿げてるって、笑ってもいいわ。だけど……会ってもっと好きになったの。
酒井くんの彼女に対する一途さを見せ付けられるたびに切なくて、どうしてその気持ちが私に向かないんだろうって、向いてくれたらいいのにって、ずっと苦しくてたまらなかった……」
静かに涙を流す姿はひどく儚げで、壊れてしまいそうだった。
見てるだけで胸が苦しい。
思わず手を伸ばして、抱き寄せてしまいそうになる。
「………じゃあどうして。あのとき、簡単に承諾なんかしたんだよ? あなたが嫌だと言えば、桜庭の権力でどうにでもすることができたのに」
「簡単なんかじゃなかったわ。でも、彼の強い想いを見せ付けられて、それをその場で覆すことはできないと思ったの。権力を振りかざして手に入れたって、気持ちまではどうにもならない。だったら、そばにいられる2年のうちに、彼の気持ちをこっちに向けてやろうって思ったの。──────でも、できなかった………」
涙で濡れた顔を上げて、理央子さんが苦笑いした。
笑顔の向こうで、どれだけこの人は泣いたんだろう。
ただでさえ脆くて、ガラスでできたような心を更に痛めて、こうやって笑えるようになるまでには、どれだけ………。
「………理央子さんはとわさんとよく似てるよ。
勝気で強がりで、変なところが不器用で。弱いところは決して人には見せようとはしない。甘えベタで意地っ張りで。ホントは寂しがり屋なくせに、それを見せたくないばかりに何でもひとりで頑張ろうとする。
………俺、理央子さんが好きだったんですよ。ずっと。知ってた?」
「……………知ってたわ。
でもそれは、恋愛感情のそれとは違うって、彼女と出合ってから気づいたんでしょう?」
「………」
「『好き』という感情にもいろいろ種類があるのよ。友情だったり、愛情だったり、家族愛だったり。他にもいろいろあるけど……奏多くんの私に対するそれは、家族に対するものとあまり変わらない。彼女と出合ってから、あなたもそのことに気づいたんじゃないのかしら?」
理央子さんの的を得た答えに、俺は苦笑するしかなかった。
「………正直言うとさ、最初から興味はあったんだ。とわさんに」
酒井さんが心底惚れこむ、絶対の存在に。
酒井さんはオレにとって、ずっと憧れだった。
年上だということを除いても、仕事のキャリア、頂点を目指すその姿勢、何よりもとわさんに対する愛情の深さ。
なにひとつ勝てない。
いつも彼は前にいて、追いつくことはおろか、隣に並ぶこともできない。
ずっと酒井さんのようになりたかった。憧れてた。
だからなおさら、裏切られた気がしたんだ。
「とわさんを振り向かせることに、半分、意地みたいになって必死だった。酒井さんに勝ちたいって。
彼女を自分の方に向かせることができれば、オレは酒井さんに勝てる気がしたんだ」
「そうかもしれないわね。でも………残りの半分は?」
「………本気で、惚れてた──────」
初めは意図的にとわさんに近づいたけれど。
気が付けば俺は、当初の目的なんかとっくに忘れて、とわさんを追っていた。
彼女の心が、欲しくて欲しくて仕方なかった。
会うたびに、言葉を交わすたびに、自分でも呆れるくらい、好きになってく。
「一緒にいるうちにどんどん惹かれていって………心の葛藤だったよ」
酒井さんの『絶対的存在』に興味はあったけれど、彼女自身に興味があったわけじゃない。
確かにとわさんは可愛らしくて魅力的だったけれど、所詮人の女。
心が動くほどじゃなかった。
なのに。
「一番のきっかけはやっぱり………俺の音を認めてくれたことかな」
彼女が、俺の音を認めてくれた瞬間から、恋は始まった。
酒井さんと別れて実家に戻ったとわさんは、新しい仕事先でトラぶって、ピアノを弾ける人材を探していた。
助ける義理はなかった。
尻拭いなんて真っ平御免だ。
そう思ってたのに、放っておくことができなかった。
『奏多しか思いつかなかったんだって!』
とわさんはそんなふうに言ったけど、そうじゃないっていうのは、彼女の顔を見ればわかる。
俺の音を耳で拾って、心で奏でて、うっとりと聴き入った優しい表情。
嬉しい音、楽しい音、哀しい音、愛しい音。
全部、彼女に伝わってる。
俺のピアノが心底好きだって、認めてくれてる顔にゾクゾクした。
一度好きだと認めてしまえば、そこからはもう止らなかった。
強くて艶っぽい女の表情で俺を見つめるとわさんが見たかった。
ピアノを奏でるこの指で、彼女も奏でてみたかった。
泣きそうな甘えた声で、俺の名前を呼ばせたかった。
好きだと言わせたかった。
でも、できなかった。
「俺も理央子さんと一緒だよ。この二年に懸けてた。だけど、ほんの少しだって彼女の気持ちを動かすことはできなかった」
どれだけ強く抱きしめても、深く唇を合わせても、切なかった。
嬉しさよりも辛さの方が、何倍も大きかった。
俺は彼女の気持ちを動かせない。
それはたぶん、この先もずっと。
「とわさんは寂しさを埋めてくれる人なら誰でもよかったんじゃない。酒井さんだったから。
彼女をずっと見つめて、愛してきた酒井さんだったから、彼女のプライドも強がりも全部剥いで、強烈に惹かれていった。
………酒井さん、あの人は俺の天敵だよ。どっちの心も掴んで離さないんだから……」
とわさんも理央子さんも。
酒井さんを想っているときが、一番いい顔をする。
それがたとえ泣き顔でも、すごく綺麗だった。
「………もう、いいでしょう?
それぞれがみんな、十分に悩んで苦しんだのだから。それでも断ち切れない絆は、もう黙って祝福するしかないじゃない。もう、彼女を解放してあげて」
ベッドからゆっくりと立ち上がった理央子さんが、淡い光を帯びはじめたカーテンをそっと開けた。
「どんなに悲しい雨だって、いつかは上がるのよ? ずっと降り続く雨なんてないのだから」
東の方から次第に明るくなっていく空は、いつの間にか雨が上がって、すべてを洗い流したかのように澄んで綺麗だった。
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